月曜の朝。どうしようもなく胸が騒いで、いつもより早く岳の家に向かった。
(ぜんっぜん眠れなかったんですけど!? てか、ほんとに昨日のアレって何!?)
 結局、スマホに岳からの連絡は一度もない。昨日の出来事は俺の夢か幻だったのかもしれない。そうであることを願いながら、持っている合鍵で岳の家の玄関を開けた。
 岳の靴と並んで、おじちゃんの靴もあった。昨日の夜、帰ってきたらしい。
 リビングでコーヒーを飲んでいたおじちゃんに「おはよー」と挨拶し、急いで二階に上がる。
 そのまま部屋の扉を開けようとして、一瞬戸惑った。入る前にドアを二回ノックする。初めてこんなことをしてるなと自分で自分を滑稽に思いながらも、遠慮がちに声をかけた。
「岳……?」
 普段と変わりない「んー」と眠そうな声が返ってきて、ばからしくなり勢いよく扉を開ける。
(何を岳相手に配慮してんだよ、俺は)
 岳は寝ていた。まるで何事もなかったかのように。ほっとしたような、どこか肩すかしを食らったような、そんな気分で岳のベッドに腰を下ろす。
「朝だぞ、岳ー。起きろー」
「……無理。……七時間後に起こして」
「その頃には学校終わってんだよなー。困ったなー、岳」
 何ひとつ変わらない朝のやりとりを繰り返し、ようやく岳は布団から這い出してきた。気だるいその態度に、胸の奥にもやのようなものがかかっていく。
 パジャマのトレーナーを脱いだ岳の体は、相変わらず一切むだな贅肉がない。
「何? やけに静かだな。どうしたんだよ、旭」
 半裸の姿で見つめ返してくる岳に、少しだけ心臓が早鐘を打ち始めた。「どうしたんだよ」と聞きたいのはこっちのほうだ。
(とにかく落ち着け、俺)
 ばかみたいに言葉がうまく出てこない。
 何も言わない俺を不審に思ったのか、岳が先に話を切り出してきた。
「昨日の指の怪我、平気? 見せて」
「え……? たいしたことな――」
 言葉の途中で、手を掴まれる。昨日岳に貼ってもらった絆創膏は、風呂に入った時に剥がれてしまった。剥き出しになった赤い傷口を見て、「まだ貼っといたほうがいいわ」と岳はひとりごとのようにつぶやいた。机の引き出しをがさごそとあさり、絆創膏を探している岳の背中を見つめる。
「あんまりこっちの指使うなよ、旭」
 岳は俺の傷に絆創膏を貼り、入念に確認していた。
「……う、うん」
 そのあと、ようやく朝の支度を済ませて、玄関で靴を履く岳の横顔を、こっそり盗み見る。
 ――今日俺が言ったこと、忘れんなよ。
 そう言ったのは岳本人だけれど、もしかして忘れているんではないだろうか。
(ま、待って、マジで、どういうこと……!?)
 午前中の授業が終わってからも、昼飯を食べたあとも、岳は何も言ってこなかった。俺だけが昨日に取り残されたように釈然としない気持ちを抱えている。
 苛立ちよりも先に、だんだんと岳のことが心配になってきた。
 岳は人を茶化すような嘘はぜったいに言わない人間だ。だとしたら、昨日のあの言葉はいったいなんだったのか。
 こんなの、ぜったいにおかしい。岳は何かを悩んでいるに違いない。
「悪い、ちょっと、岳借りていい?」
 六時限目、体育の授業が終わってすぐに、思い切ってスガたちと話していた岳の手を引っ張った。「いってらー」とスガとコータが手を振り、岳は無言で俺のされるがままについてくる。
 誰もいない体育館倉庫に辿り着くなり、俺は勢いよく岳を壁際に押し付けた。
「あのさぁ! き、昨日のこと、な、なん、だけどさぁー!」
「なんで壁ドンしてるほうが、そんなぎこちねぇ態度なんだよ」
 呆れたように笑われ、汗が背中を伝う。岳の言うとおり仕掛けた側である俺のほうが、動揺してしまっていた。
「や……だから……」
 どう言葉にすればいいのか、頭が真っ白になってしまった。
「ほ、ほら……き、昨日言ってた……お、お前の好きなタイプって……」
 岳は「ああ、その話か」と小さく唇の端を上げる。
「俺のタイプ、お前」
 一瞬、聞き間違えたのかと思った。岳の真剣な瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
「ま、またまたぁ……ははっ、なんだよ、岳。ビビること言うなよ!」
 無理やり冗談めかして笑う俺に、岳はけろっとした様子で言った。
「昔から旭がタイプだったし」
「む、昔からって……。俺、男だけど……」
「知ってる」
「お、俺、お前の幼なじみ……」
「それも知ってる」
 体育館倉庫の窓から差し込む光の中で、岳の黒い瞳が妙に輝いて見える。
「え、……何? ドッキリ? あいつらもグル!? どっかで俺のこと見てる!?」
「ちげーよ。つうか、俺がこんな冗談を言えるやつかどうか、お前が一番わかってんじゃねぇの?」
 岳の言葉に、「はひっ」と言葉にならない情けない吐息が漏れた。
「そ、それはわかってんだけどさぁ! タ、タイプってどういうこと? 岳なら選び放題なのに……い、意味わかんねーよ。それに俺は岳の幼なじみじゃん!」
 何がどうなってこんなことになっているのか、さっぱりわからない。だけど岳なら、きっとわかってくれる。そう思った。だって俺たちは、お互いのことを誰よりも理解している幼なじみだから。
「じゃあ、俺、もうお前の幼なじみやめるわ」
「はっ!?」
「旭の幼なじみ、やめるから」
 岳はそう言い切ると、どこか吹っ切れたような笑顔を浮かべた。
「そういうことで、よろしく」
「え……、え――――!?」
 ひとり大混乱している俺と、悠々とした態度で笑う岳。
 いやいや、待て待て待て、そこの幼なじみ。
 よろしくなんて言われても、まったく意味がわからないんですが!?



(幼なじみをやめるってどういうこと……!?)
 うちの岳は何を言っているんだか、そんなことできるわけがない。
 現実逃避をしているうちに、教室が賑やかになっていた。気がつけば、黄昏(たそがれ)色の光が窓から差し込み、ひとりまたひとりと「またねー!」と教室から帰っていく。
「ねー、あさひー」
 クラスメイトの美鈴(みすず)の声が、ぼんやりとした思考を引き戻す。
「……ん、どした?」
「美鈴の彼ピの誕プレなんだけどさ、相談に乗ってくんない?」
 上目遣いに俺を見てくる彼女の瞳は、期待するようにキラキラと輝いていた。そんな彼女に頼まれたら断れるわけがない。
「……あー、おっけ、いいよ。美鈴の彼氏って三年の先輩だよな?」
「そうそう、三年。予算五千円でおなしゃす!」
「何がいいかなー。先輩は何部だっけ?」
「軽音部! だから、楽器関係がいいかなーって思ったんだけど」
「待て待て。楽器関係は本人にめっちゃこだわりあると思うから、違う路線でいこ」
 相談に乗りながら、視線は自然と岳を探していた。一番後ろの窓側、いつもの席でスマホを操作している岳の姿を見つけ、ほっと胸を撫で下ろす。
 美鈴と一緒にスマホを見て、いろいろと候補を提案してあげていたら、自分で納得するプレゼントを見つけられたようだ。
「さすが、旭! めっちゃ参考になった! ありがとー!」
「おー、がんばれよー」
 うきうきと帰っていく彼女を見送ったあと、すぐに岳のところに行こうとした。けれど、机に置かれていた岳の鞄も、岳の姿もこつぜんと消えている。
 クラスの男子と談笑しているコータに、俺は急いで声をかけた。
「コ、コータ、あいつは……!? 岳はどこ行った!?」
「え、今日は別々に帰るんだろ? 先に帰るって言ってたけど?」
 コータの何気ない返事が、鋭い刃となって心臓に突き刺さったみたいだった。ふらりとめまいがして、机の上に腰を下ろす。
「……は? え……岳が……俺を置いていったってこと……!?」
 小学校の頃から、雨の日も風の日も雪の日も、なんなら俺に彼女ができた当日でさえ一緒に帰ったのに!?
 近くに来たスガが、怪訝そうに覗き込んでくる。
「え、どした? お前ら、ケンカでもしたの?」
「ケンカなんてしてねぇし……! ま、待てよ、あれがケンカってこと? マジでわかんねぇ!」
 ここ数日、岳の行動の意味がわからなくて、頭を思い切り抱えた。スガがきょとんと目を瞬かせている。
 今までだって散々くだらないケンカはしてきた。だけど、数時間もすれば、どちらからともなく謝って、また普通に冗談を言い合える関係だった。
 ――じゃあ、俺、もうお前の幼なじみやめるわ。
 岳の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。
「やばい、うちの岳が反抗期かも……」
 真剣な思いでそうつぶやいたのに、クラスの連中はなぜか俺を見てゲラゲラと笑い出した。



 次の日、火曜日の朝。
(岳が言っていた幼なじみやめるってやつ、もしかして、ガチ……!?)
 昨日は家に行っても留守だったし、電話をしても、ラインをしても岳からの返事はなかった。
 いつもなら必ず返してくれるのに。ていうか、ラインの返事など確認する必要もないくらいに、俺たちは常に一緒に行動していたのだと改めて気づかされた。
 岳の家に向かう足取りが少しだけ重く感じる。けれど、和室でおばちゃんに向き合っている背中を見つけて、条件反射で笑顔になってしまった。
「やば、どうしたんだよ、岳! ひとりで起きられて、えらいじゃん!」
「はよ、旭」
「おはよー。おばちゃんもおはよう」
 おばちゃんの写真の前に座って挨拶をしていると、岳が俺の手を取った。
「怪我したとこは?」
「もう大丈夫だって。ほとんど傷ふさがった」
 いつもどおりの声色でそう返した俺に、岳が「よかった」とほっとしたようにつぶやく。
「つ、つーかさ、なんで昨日は俺を置いて帰ったんだよ! めちゃくちゃさびしかったじゃん! あと寒いしさー! お前がいなきゃ、冬越せねぇって!」
「ああ、悪い」
 もしかしたら、この流れですべてが元どおりになるかもしれない――そう考えた矢先。
「だと思って、これ用意しといたから。はい、旭」
 岳が何やら四角い物体を三つ、次々と差し出してきた。
「カイロじゃん! めっちゃ嬉しー!」
 どうやら岳が温めてくれていたらしい。手に伝わる温かさに思わず顔が綻んでしまう。
「ありがとな、岳。やっぱ、お前優しいわ」
「それで寒くねぇよな? じゃあ、幼なじみやめたし、俺は先に行くから」
「は……?」
 言い終わるか終わらないかのうちに、岳はさっさと部屋を出ていってしまった。
「ちょっ、えっ……岳、待てって!」
 慌ただしい足音が玄関をすぎ、あっという間に聞こえなくなる。
「え、……どういうこと? えー……?」
 和室に俺の言葉だけがむなしく響いていた。あまりに理解が追いつかなくて立ち尽くしていると、おじちゃんがコーヒーを片手に「あれ、旭? 岳と一緒に行かなかったのか?」とのんきに聞いてきた。
 黒縁の眼鏡をかけた岳のお父さんは、いつもどおりの穏やかな表情で俺を見下ろしていた。その優しい物腰とすらりとした長身は、岳にも遺伝している。
「……なんか、今日は機嫌悪いみたい。……別々に行きたいって」
「ほんとか……!? 旭が風呂の時も、ご飯の時も、なんならトイレの時までぴったりくっついてるあの岳が!?」
「おじちゃん……さすがにトイレは別」
「あ、ああ、そうか……まぁ、めずらしいこともあるもんだなぁ……。とにかく、旭も気をつけてな。行ってらっしゃい」
「うん、行ってきまーす……」
 首を傾げながらリビングに戻っていくおじちゃんの姿を、黙って見守る。
 ――幼なじみやめたし、俺は先に行くから。
 さっきの言葉が、まるで呪いのように頭の中で繰り返される。途方にくれる思いで、笑顔のおばちゃんに悪態をついた。
「あんなこと言ってましたけど、なんなんですかお宅の息子さん!?」
 写真の中のおばちゃんは、今日も岳に似たきれいな瞳で俺を見ている。
「なんか、岳のやつがさぁ……いきなり俺がタイプだとか言い始めたと思ったら、今度は俺の幼なじみやめるって……。わけわかんねぇよ。おばちゃん、意味わかる? もしかしてマジで反抗期……!?」
 もちろん、返事がこないのはわかっていた。カイロをスラックスの両ポケットにねじ込み、もうひとつはコートのポケットに突っ込んだ。
「はぁ……また報告するわ」
 部屋を出ようとしたところで、もう一度振り返り、ぽつりとつぶやく。
「……大丈夫だからね。心配しないでね」
 おばちゃんはやっぱり、いつものように笑っている。

 岳の言葉と行動に納得できないまま、学校までの道のりを歩く。
 いくらカイロを忍ばせていても、マフラーや手袋をつけていても、いつも以上に風が冷たく頬を刺す。
 隣に岳がいないと、地球の温度も体感三度ぐらいは下がっているのではないだろうか。そう思いながら歩く通学路は、妙に長く感じられた。
 寒さに震えながら、ようやく学校に着くと、教室に岳の姿はなかった。鞄はあるのに、姿は見えない。
 きょろきょろとあたりを見回していると、同じクラスの美鈴に声をかけられた。
「旭ー、昨日はありがとね。無事に彼ピのプレゼント買えたよー!」
 美鈴が嬉しそうに言い、俺は「よかったじゃん!」と笑顔を返した。
「それで別の相談なんだけど……体育祭のTシャツの色、何にしたらいいと思う?」
 我が校の名物である体育祭は、あと数週間後に迫っている。
「そうだなー、黒とかいいんじゃね? 汚れ目立たないし」
 それに黒だったら、岳によく似合いそうだ。
「いいね、黒にしよ!」
「てかさぁ、岳、探してんだけど、どこいるか知らねぇ?」
 美鈴もちょうど岳を探していたところだと言う。
「岳くんに今度の体育祭で着るTシャツのサイズ、聞きたかったんだよね。あと、旭のも教えてー」
「ああ、それならXLでいいよ。俺も岳も」
「さすが幼なじみーズ! 本人に聞かなくてもわかるんだ! かわいい~!」
 美鈴はけらけらと笑うと、持っていたバインダーにサイズを記入した。かわいいという言葉も気になったけれど、それよりもっと気になったのは――。
「もしかして俺ら、幼なじみーズって呼ばれてんの?」
「え、知らなかったの!? イケメン幼なじみーズっていったら、全学年が知ってるよ~!」
「マジかよ……」
 苦笑していると彼女はちらりとこちらを見つめ、「えーとですね、実はですね」となんとも含みのある言い方をする。
「わたくしのお友達に、クラスのイケメンツートップでありますおふたり、旭と岳くんにお近づきになりたいというお嬢様が多数いらっしゃいまして」
「おー……ガチ?」
「ガチ。けっこういる。ふたりともほんとモテるね」
 美鈴がにやにやしながら言う。
「その子らが、ふたりのタイプを知りたいってさ」
 てっきり連絡先を聞かれると思って身構えていたが、意外と謙虚な質問で面食らってしまった。それでも、なんと返そうか数秒迷って、素直に伝えることを選んだ。
「ごめん、タイプはあんまないかも……今そういうの考えてないし。岳のタイプは……」
 ――俺のタイプ、お前。
 鮮明に頭の中に再生される岳の声をどう処理していいかわからず、髪をかき上げながら「えっと」と苦笑いをこぼす。
「明るい髪色のショートで、笑った顔がかわいくて、怒った顔もかっこよくて、お人好しで、話が合って~とかなんとか言ってた……気がする」
 長い長いあいつのタイプを省略して伝えると、美鈴はおかしそうに声を上げて笑った。
「怒った顔がかっこいいって何それ! タイプフルオーダーじゃん!」
「だよな。俺もそう思う。……つうか、ほら、あいつってけっこうこだわり強いタイプだからさ。シャンプーとか香水とかピアスとか、一度気に入ったものはぜったいほかのに変えねぇし、学食だっていつも『肉うどん』だし……」
「ははっ、そうなの? 旭はやっぱよくわかってんねー」
 屈託なく笑う彼女の言葉に、少しだけ自信を取り戻す。
「……俺、わかってるかな、岳のこと」
「当たり前じゃん! 岳くんと一番仲いいの、ぜったい旭だもん!」
(そうだよな……。あいつのことわかってやれるのは、やっぱ俺なんだよな!)
 美鈴と話していたら、急に元気になってきた。美鈴に礼を言い、俺は急いで教室から飛び出したのだった。



 見つかるまでとことん探すつもりで、学校中をくまなく捜索した。そして、誰もいない非常階段の踊り場に座って、スマホを操作している岳の姿を見つける。
 窓から降り注ぐ朝日に包まれる岳の姿が、あまりに絵になっていて笑ってしまった。埃っぽい空気の中に浮かぶ光の粒子が、岳の周りだけ特別な空間を作っている。
「おい、岳! 何たそがれてんだよ!」
 俺に気づいた岳が、にこりと微笑む。思ったより機嫌は悪くなさそうだ。
「たそがれてねぇから。写真見てただけ」
「え、なんの? 俺も見たい!」
 立ち上がった岳が俺に見せてきたスマホ画面には、なぜかピースをして笑っている俺が映し出されていた。
 この前のお泊まり会の時、その場のノリで撮っただけの平凡でなんの変哲もない写真。
「……お、俺? なんでこんなの見てんの?」
「なんでって、旭のこと見てんの好きだし、趣味だから」
 当たり前のことのように言う岳に首を傾げ、しばし考えた。そんな趣味は初めて聞いた。
 やはり、岳は何かを思い悩んでいるのではないだろうか……。
「あのさ、岳、もしかしてお前なんか悩んでる? もし俺でよかったら、話聞くから――」
 言葉の途中で、世界が傾いた。岳に手首を引かれ、突然壁に押し付けられる。
 岳の長い腕が俺の両脇で視界を遮り、俺は逃げ場をなくしてしまった。
 目の前には岳の顔がある。息が止まりそうなほど、近い距離。
「が、岳くん? 君は、何をしてるのかな?」
「いわゆる壁ドン?」
「いやいや、おかしいおかしい」
 どう考えてもタイミングは今じゃない。
「俺の元幼なじみの旭君も、この前俺にしてたけど」
「あの時は俺も必死で……。つーか、『元』ってつけんのやめろて……!」
 岳がふうっと息を吐き出す。さっきより呼吸が荒くなったのは、自分だけではなさそうだった。
「だって幼なじみやめねぇと、いつまでたっても俺は旭の友達枠だろ? お前が俺をそういう目で見てくれるんだったら、何だってするよ」
(そ、そういう目っていうのは、どういう……?)



 状況に追いつけなくて、ぎゅっと眉間に皺を寄せると、岳は小さく口角を上げて続けた。
「そんなわけで、はじめまして。俺は冬坂岳です」
「……は? ……はい?」
(はじめまして、とは……?)
 爽やかな笑みと、場違いな岳の言葉に、一瞬本気でパラレルワールドに来てしまったのかと思った。これまで幼なじみだった岳が、まるで初対面のような態度で俺を見つめている。
「俺のことは岳って呼んで」
「ま、前からそう呼んでますけれど……?」
 思わず敬語が出てしまった。なんとか腑に落ちない現状から脱出しようとする抵抗ですら、岳の真剣なまなざしの前では簡単にかき消されそうになる。
「知っててくれたんだ、嬉しいわ。で、そっちの名前は?」
「……ほ、ほんと何言ってんの、お前?」
「だから、名前。教えて」
 顔を覗き込まれて、心臓が跳ね上がる。近すぎる。でも、逃げられない。壁と岳の腕の間で、世界が狭まっていく。
「な、何? ナンパの練習とか……?」
「練習じゃねぇって。むしろ、現在進行形でナンパしてる」
 状況を把握できずに、まばたきを繰り返す。
「名前、教えてくんねぇの?」
 言わなければ会話が先に進まないようだ。俺は若干口角を引きつらせながらつぶやいた。
「……あ、旭ですけど、ご存じのとおり。春野さんちの旭くんですけれども」
「旭か、すげぇいい名前」
「おー、あんがと。亡くなったばあちゃんが付けてくれた名前なんだよねー」
 ――って、ご機嫌に返事をしてから、はっとして正気を取り戻した。こんな春野家あるあるなんて、岳はすでに知っている。
「そっか。旭のおばあちゃん、趣味いいじゃん」
 まるで初めて知ったみたいに岳は笑った。
 いつも岳が見せるような素の笑顔を、ここ数日でやっと見られた気がした。安堵が胸を掠めたけれど、次の瞬間、胸の奥がむずがゆくなるような思いが心を締め付ける。
「かわいいな、旭は。そういうとこもマジでタイプ」
「か、かわいい……!?」
 耳元でささやかれた言葉に、絶句してしまった。そんな俺を見て、岳は意地悪な顔で微笑んだ。
「ほんとに旭がすげぇかわいくて、……正直困ってる」
 朝の光の中で、いつもの岳が、まったく知らない岳に変わっていく。
「……な、なんなの、お前! かっ、かわいいなんて今まで俺に、一度だって言ったことねぇじゃん!」
 赤くなっているであろう顔で岳にパンチを繰り出すと、岳は困ったように俺の手を受け止めた。
「お前の元幼なじみは、ずっとそう思ってたよ。言ったら止まんなくなるから言わなかっただけで」
「ず、ずっとって……! はぁ~~!?」
 あまりに信じられなくて、声が裏返る。甘ったるい言葉の数々に、胸が騒ぎまくっていた。
 いつも岳を褒める立場だった俺が、今はなぜか言われる側になっている。世界が逆さまになったような感覚。
 まるで、神様が突然岳の中身を別人に入れ替えてしまったみたいに。
 掴まれた手が灼けるように熱い。岳は動揺する俺の顔をじっと覗き込んできた。
「なぁ、旭。明日から一緒に登校しねぇ? よければ、帰りも一緒に帰りたい」
 それは願ったり叶ったりだけれども、なんだかOKしてはいけないと本能が叫んでいるような気がする。
「なぁ、いいだろ、旭」
「……い」
(いいんだけど……! なんか微妙にニュアンスが違くないか……!?)
「俺がいるとあったかいよ。いつでも、旭のことあっためられるし」
 寒がりの俺を落とすには、最高の一言だった。
「……う、うん。わかった、いいよ」
「やった。じゃあ、またあとでな」
「ど、どこ行くんだよ、岳!」
「トイレ。旭も一緒に行ってくれんの?」
「……行かない」
 岳は満足げにポケットに手を入れると、階段を颯爽と下りていった。朝の日差しに照らされた背中を呆然として見送る。
(が、岳のやつ……いったい何考えてんの……!?)
 非常階段に取り残された俺の心臓は、まだ不規則な鼓動を刻み続けていた。