グラスが打ち合わさる音が、ひどく遠くに聞こえた。
酔いの回った笑い声、枝豆の皮が弾く音、ジョッキを置く乾いた衝撃。
すべてが輪の外で鳴っているようで、望月 遼は、氷の溶けかけたウーロン茶を口に運ぶ。
居酒屋の壁際、通路寄りの端っこ。サークルの送別会、という名目で集まった飲み会は、朝倉澪のために開かれた。
主役のはずの彼女は、隣にいる誰かと笑いながら、焼き鳥の串を器用に片づけていた。
「もう、飲みすぎでしょそれ〜」
澪が誰かのジョッキを取り上げて、小さく笑う。
誰もが彼女に注目していて、彼女もそれを自然に受け止めていた。
明日には、いないのに。
遼はグラスの水面に視線を落とす。炭酸の泡がもう立っていないのが、自分に似ていた。
騒がしさの真ん中で、何も言えない自分が、またここにいる。
◆
「望月、飲まねーの?」
向かいにいた先輩が、唐揚げをくわえながら言った。
「あ、いや……体質、ダメなんです」
「お、下戸かー。澪ちゃんと正反対じゃん」
不意に名前が出たことで、視線が彼女の方に吸い寄せられる。
グラス片手に笑ってる。いつもの笑顔。いつもの、だけど。
「澪、飲みすぎてないか?」
「うん、大丈夫ー。ちゃんと電車ある時間には帰るよ」
言いながら、ちらっと時計を見る。その目が少しだけ曇った気がして、遼は目をそらした。
この笑顔も、空気も、たぶんもう見れない。そう思ったとき、胸の奥がわずかにざわつく。
――明日には、海外か。
それが現実味を帯びるほど、遼の中で言葉が押し黙っていく。
◆
「そろそろ終電、やばくない?」
誰かがそう言って、空気がわずかに動いた。グラスが机に戻され、荷物の確認が始まる。
澪が立ち上がるのが見えた。
彼女の背中が、飲み屋の灯りに滲んでいく。
遼は、気づけば席を離れていた。
吸い寄せられるように、その背を追っていた。
◆
駅のホームへと続く階段を、遼は駆け上がった。
彼女の背中が、改札に吸い込まれようとしている。
そのとき、スピーカーが鳴った。
「まもなく、当駅最終電車が発車いたします――」
心臓が跳ねる。
言わなきゃ、届かない。今しか、ない。
「……朝倉さん!」
自分でも驚くほどの声だった。
彼女の足が止まる。改札機が一瞬反応し――
ピッという音とともに、バーが閉まる。
振り返った彼女の顔に、ふっと浮かぶ影。
「……ねえ、それ、どういうつもり?」
声は冷たくなかった。でも、苦笑混じりの困惑が滲んでいた。
「終電、乗れなくなっちゃったんだけど?」
遼は言葉を詰まらせる。けれど、目をそらさずに言った。
「どうしても、君と行きたい場所があるんだ。今日じゃないと……もう二度と、行けないから」
彼女は数秒黙っていた。
やがて、小さくため息をついて――目線を遼に向ける。
彼女は数秒黙っていた。
やがて、小さくため息をついて、少しだけ顔を背けるようにして言った。
「……本当、変なところで強引なんだから」
「で、どこに行くの?」
「ちょっと……変なとこだったら、さすがに怒るからね?」
その言葉に、遼は静かにリュックのポケットを探った。
小さな鍵を取り出し、手のひらにそっと乗せたまま、彼女の方を見た。
――行くよ、って。そう言っているみたいに。
◆
ペダルをこぎ出したとき、風が冷たく頬をなでた。
澪は遼の背中にそっと手を添えている。
信号の灯りも、人影も少ない深夜の街を、ふたり乗りの自転車が走っていく。
交差点を左に曲がる。居酒屋の灯りが遠くなっていくたびに、現実から離れていく気がした。
「ねえ」
澪の声が、小さく背中越しに聞こえる。
「私、明日、六時起きなんだけど」
「……ごめん」
「あと、スーツケースまだ開けっ放しなんだけど」
「……ほんとにごめん」
「しかも今、ちょっと寒い」
「……本当に、本当にごめんなさい」
それでも、彼女の声には笑いがにじんでいた。
後ろで、ふいに風を吸う音がする。
「でも……夜の街って、こんなに静かなんだね」
遼は頷いた。けれど、そのまま言葉は返さなかった。
口を開けば、気持ちがこぼれてしまいそうだった。
カチカチとチェーンの音だけが響く。
やがて、小さな坂道に差しかかる。
遼は立ち漕ぎになりながら、息を切らして言った。
「もうすぐ。……あとちょっとだけ、我慢して」
「うん」
澪の返事は、風に混じって遼の背中に落ちてきた。
それはどこか、安堵にも似ていた。
ふたりを乗せた自転車は、街の灯りの向こうへと、静かに進んでいく。
◆
海に着いた頃には、空の色はすっかり夜に沈んでいた。
街灯のない海岸線に、波の音だけが絶え間なく響いている。
遼はブレーキをかけ、足をついた。
重なった澪の体温がふわりと離れる。
「……真っ暗じゃん」
澪が呆れたように笑いながら言った。
「ほんとにここが見せたかった景色?」
「う、うん……」
遼は思わず言葉に詰まる。
確かに、何も見えなかった。
昼間なら、沖の向こうに船の光や、反射する水面がきらきらしていただろう。
でも、今はただ――黒一色の闇があるだけだった。
澪は一歩、波打ち際に近づく。
ヒールの先が、砂をかすかに沈める音がした。
「……ほんと、真っ暗だね」
「ご、ごめん。思ってたより暗かった……」
澪はその言い訳には何も返さず、しばらく波の音を聞いていた。
その横顔に、街の明かりがぼんやりとかかる。
遼は、何か言わなきゃと思った。
でも、言葉が出てこなかった。
「ねえ」
先に口を開いたのは、澪のほうだった。
「なんで今日、呼び止めたの?」
その問いは、やさしい声をしていたのに、胸の奥にまっすぐ届いた。
遼は少しだけうつむいて、足元の砂を見つめる。
ポケットの中で、指先が震えていた。
「……忘れられたくなかった、から」
それが、本音だった。
でも、それだけじゃなかった。
それだけじゃ――。
何も見えないほど暗い海を前に、遼は立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「……うーん。なんか、ちょっと失敗だったな」
潮風が頬を撫でる。さっきまでの居酒屋の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っていた。
隣で澪が小さく肩をすくめる。
「いや、マジで見えないね。海、どこ?」
冗談めかした声だったけれど、その横顔は少し楽しげにも見えた。
「……ごめん、もっと明るいと思ってた」
遼は反射的に謝る。けれどすぐに、ため息とともに視線を夜空へと上げた。月明かりは薄く、星もまばらにしか見えない。
こんな結末を想定していたわけじゃない。ただ、彼女と最後の夜を、何か特別なものにしたかった。
ポケットの中で手が何かを探る。ふと浮かんだ一つの思いつきに、言葉がこぼれた。
「じゃあ、さ……花火、しようよ」
「は?」
澪が眉をひそめて、じっと遼を見る。
「ほら、手持ちのやつ。……コンビニで買ってさ。夏にやったみたいな……」
言葉を選びながら話しているのが、自分でもわかっていた。
子どもっぽい提案だってことは、きっと彼女にも伝わっている。
それでも、何かをしなきゃいけないような気がしていた。
彼女は少しのあいだ黙っていたが、やがて口を開いた。
「……深夜の海で花火って、なかなかに終わってるね」
遼は肩をすくめるようにして笑った。
「やっぱ、ナシ?」
その弱気な表情に、澪はふっとため息をつく。
「いいよ。でも、怒られたら責任は全部望月くんね」
「え、ちょっとひどくない?」
「……え、なに言ってんの? 提案したの、望月くんの方でしょ?」
「……巻き込まれてる気がするんだけど」
「巻き込んだの、望月くんの方だからね――ほら、行くよ」
彼女はくるりと踵を返して歩き出す。
その背中を、遼は慌てて追いかけた。
夜の海風のなか、彼女の髪が揺れていた。
◆
コンビニの明かりが、周囲の闇を白く照らしていた。
さっきまで静かだった夜が、ほんの少しだけ現実に引き戻される。
遼と澪は並んで店内に入り、冷房の風を受けながら棚を回る。
澪は迷いなく手持ち花火セットを手に取り、かごへ入れる。
その動作は迷いがなくて、まるで昔からこうなることが決まっていたかのようだった。
続いて彼女は缶チューハイを二本、ゆっくりと手に取る。
「ほんとにやるんだ……」
遼がレジ前でぼそりとつぶやく。
澪は振り返りもせず、きっぱりと言った。
「自分で言い出したんでしょう、花火」
「……うん、そうだけど……」
彼女は缶を持ったまま、ちらりと横目で遼を見た。
「ついでに、これも買ってくから」
「えっ……お酒?」
「うん。せっかくなんだし、ちょっとくらい飲まなきゃ損でしょ」
遼はしばらく迷うように視線を泳がせた。
「俺、弱いんだけど……」
「知ってる。でも、今日は特別ってことで」
澪はさらりと言って、缶チューハイをかごに放り込む。
その仕草にはどこか、からかうような優しさがあった。
「優しくない……」
「優しくしてるじゃん。ちゃんと一緒に来てるんだから、どっかの誰かさんのせいで、終電――」
言いかけて、澪はふっと笑う。
冗談のようで、本気のような、そんな目だった。
「……わかった、呑むよ。呑むから……!」
遼は小さくうなだれるようにして、静かに覚悟を決めたように答えた。
ふたりは会計を済ませると、再び夜の海へと戻っていった。
手には花火と、少しだけ冷えた缶チューハイ。
ささやかな旅路のように、その足取りは少しだけ軽くなっていた。
◆
夜の海辺に、ぱちぱちと花火の音が響いていた。
空はどこまでも暗く、海と地平の境界線はとうに見えなくなっていた。
線香花火の先にともる火が、小さな命のように揺れている。
遼はしゃがみこみ、その光をじっと見つめていた。
隣では澪も膝を抱えながら、黙って花火を持っていた。
ふたりのあいだに、波の音と、夜風が流れていく。
「ねえ、覚えてる? 去年の夏も、こんなふうに花火したよね」
澪がぽつりとつぶやく。
「……うん。サークルの合宿のとき」
「海、全然見えなかった。……でも花火だけはやたら綺麗だった気がする」
線香花火の火が、ぱち、と音を立てて落ちた。
黒くなった先端を見つめながら、澪はしばらく黙っていた。
「……あのとき、ちょっと泣きそうだったんだ」
その言葉に、遼は思わず顔を上げる。
けれど澪は彼を見ずに、次の線香花火を袋から取り出していた。
「なんでか分かんないけど、悔しくてさ。……自分でも、何がそんなに嫌だったのかはっきりしないのに」
澪の声は、夜の風にかき消されそうなほど静かだった。
「優しくされると、期待しちゃうじゃん。そういうのって、ずるいよ」
その言葉が、心の奥にゆっくりと沈んでいく。
遼はすぐには何も返せなかった。火花を見つめながら、小さく息を吐く。
「……ほんと、そういうとこ、前からずるいと思ってた」
澪はそう言って、持っていた花火を砂に差し込んだ。
火が落ちたあとの余韻が、まだ空気の中に残っていた。
「何も言わないくせに、たまに優しい。……それってずるいよ、ほんとに」
遼は言葉を失ったまま、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと口を開いた。
「……ごめん」
その一言は、あまりにも頼りなかった。
でも、澪はふっと笑って――肩をすくめるように、軽く言った。
「なんで謝るのよ」
「……わかんない。でも、そう思わせてたなら、俺、なんか……ごめん」
沈黙が落ちる。
遼は缶チューハイを手に取った。
澪と一緒に買った、それだけが冷たさを保っていた。
プルタブにそっと指をかける。
そして、澪のほうをちらりと見ながら、ぼそりとつぶやいた。
「……俺も、飲んだらちょっとは機嫌、直してくれる?」
澪はその言葉に、目を丸くする。
けれどすぐに、呆れたように笑って、息を吐いた。
「そういうの、ずるいって言ってるんだけどな」
「……だめ?」
「……だめじゃないけど。……まぁ、反省してる顔してるし、ちょっとだけね」
その言葉に、遼は小さくうなずいた。
そしてプルタブを引く。
シュッという音が、夜の静けさの中に、かすかに広がった。
口をつけた瞬間、冷たい炭酸が喉を刺す。
思ったより強くて、わずかにむせかけた。
けれど、それを見せないように、遼はそっと夜空を見上げた。
◆
波音だけが響いていた。
夜の海は何も言わず、ただ寄せては返す。
花火の残り香が、風にさらわれていく。
遼は、缶チューハイを手にしたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……朝倉さん」
その呼びかけに、澪がゆっくりと顔を上げる。
その目の奥に、不安と、期待と、少しの苛立ちが混ざっていた。
遼は視線を逸らさずに言った。
「澪のことが、好きだよ」
一瞬の静寂。
そして、澪の表情が強張る。
「……っ、なにそれ」
笑っているような、泣きそうなような声だった。
彼女は立ち上がり、遼を見下ろすように言った。
「……彼女、いるくせに。そんなこと言うなんて……ずるいよ!」
声が震えていた。
その目には、潤んだ光が浮かんでいた。
「ずっと思ってたよ。どうしてそんなふうに優しくするの? 私が勘違いするって、思わなかった?」
遼は立ち上がり、彼女の前に立つ。
「いないよ。彼女なんて、いない。……そんなの、最初から」
「じゃあ、なんで今まで……!」
「怖かったからだよ!」
遼の声が、大きく夜に響いた。
「澪との関係が壊れるのが、怖かった。気持ちを言って、全部が終わるのが――それが、怖くて……!」
澪が息を呑む。
その瞬間、遼は彼女の肩を強く掴んだ。
次の瞬間、砂浜に押し倒すようにして、彼女を抱きしめる。
「……でも、今日だけは言いたかった」
彼の声はかすかに震えていた。
「君にしか言えない。……こんなこと、君にしか言いたくなかった」
澪は、しばらく何も言わなかった。
ただ、ぎゅっと目を閉じていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……ずるい。ほんとに、ずるいよ……」
遼のシャツの裾を握る手が、微かに震えている。
「……でも、もういい。私も、ずっと言えなかったから」
顔を少し背けるようにして、彼女は小さく笑った。
「今日だけなら。……恋人でも、いいよ」
夜の海がふたりを包みこむ。
寄せる波が、その言葉をそっとさらって、どこか遠くへ運んでいった。
◆
海を背にして、ふたりは並んで歩き出した。
砂が混じったスニーカーの裏が、夜の舗道にやさしい音を落としていく。
空はまだ深く暗いままだったが、風は少しずつ、冷たさの質を変えてきていた。
澪が隣で、ぽつりと漏らす。
「……ほんと、ずるいよね、遼くん」
冗談めいた声。でも、そこには少しだけ、本気の棘が混じっていた。
遼は歩みを止めず、静かに答える。
「……やっぱり、彼女いるって話、気にしてた?」
澪はふっと息をついた。
「……気にしてないって言ったら、嘘になるよ。ずっと、そう思ってたから。だから、距離、置こうって……」
遼は立ち止まり、ゆっくりと彼女のほうを向いた。
灯りの少ない通りで、澪の表情はよく見えなかったが、その声はまっすぐだった。
「……あっえっと噂されてるのあれ、俺の妹」
澪が目を見開く。
「えっ?」
「彼女とかじゃない。俺の妹。……大学近くに住んでて、たまに荷物とか渡したりしてて」
「……ちょっと、待って。それ、ほんと?」
遼は苦笑した。
「ほんと。……なんか、いろいろ言われてるの、知らなかったけど」
澪は数歩、遅れて立ち止まり、俯いたまま言った。
「……もう、やだ。何それ、早く言ってよ」
その声は、笑っているようでもあり、泣き出しそうでもあった。
やがて彼女は顔を上げて、少しだけ睨むように遼を見た。
「……ずっと、バカみたいにモヤモヤしてたのに」
「ごめん……俺、何も知らなくて」
「ほんとだよ……バカ」
でも、澪の頬が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
遼は、そのわずかな変化に気づいて、胸がすうっと軽くなるのを感じた。
ふたりは再び歩き出す。
澪がふと、彼の歩幅に足を合わせてくる。
気づけば、手と手が触れそうな距離になっていた。
遼は、その距離感を――不思議なくらい、心地よく感じていた。
ふたりの影が、街灯の下で並んで揺れる。
「ちょっと、疲れたかも」
澪がぽつりとつぶやいて、道端の小さなベンチに腰を下ろした。
遼も隣に座ると、彼女は少しだけ間を空けて、それでも寄りかかるように背もたれにもたれた。
「今日だけって言ったけどさ……」
ぽつりと、澪が口を開く。
「こうして隣にいると、なんか、ほんとの恋人みたいだね」
遼は笑いそうになったが、喉の奥で止めた。
澪の横顔が、あまりにも綺麗だったから。
「……うん、俺も、そう思ってた」
「ダメだよ、そういうこと言うの」
「え?」
「今日だけって決めたの、私なのに……。そう言われると、ちょっと、ずるくなる」
夜風が、ふたりの髪をさらりと撫でる。
遼はそっと、缶チューハイの残りを持ち上げた。
もうぬるくなっていたけど、それでも、何かを確かめるようにひと口だけ飲んだ。
「……お酒って、ほんとに効くんだな」
「え、いまさら?」
「いや……なんか、今なら、なんでも言えそうな気がしてさ」
澪が笑う。
「ふーん。じゃあ、聞いてあげようか? なんでも」
「なんでもって言った?」
「うん。今日だけの、特別サービス」
しばらくの沈黙があった。
でもそれは、気まずさではなく、どこか穏やかなものだった。
「……ありがとう」
「なにが?」
「こんな時間、くれて」
澪は答えなかった。
ただそっと、手を伸ばして、遼の袖を少しだけ引っ張った。
手と手は触れなかったけど、
心の距離だけが、確かに近づいていた。
◆
砂の感触が、少しだけ冷たくなってきた。
けれど、ふたりの間には、まだぬくもりが残っていた。
話したことは、数えきれないほど。
好きな映画や音楽の話。最近ハマっているお菓子のこと。
昔、サークルであったどうでもいい笑い話や、お互いのバイトの愚痴。
そのどれもが、どうでもいいことのようでいて、
だからこそ、何よりも愛おしかった。
「……なんか、いっぱい喋ったね」
澪が、少し笑ってつぶやく。
「うん。まだ話したりないけど」
遼の声もまた、どこか名残惜しさを滲ませていた。
ふたりとも、話すことが尽きたわけじゃなかった。
むしろ、今まで言葉にできなかった気持ちが、ようやく言えるようになったばかりだった。
「ねえ、今日さ……一番楽しかったのって、いつ?」
「え?」
「わたしね、あのコンビニの前。ちょっとバカみたいな会話してたとき。……なんか、すごく好きだった」
「……俺も。あそこ」
「うそ。合わせたでしょ」
「ほんとだよ」
また、ふたりで笑う。
それだけで、波の音も、空の白さも、少しだけ遠ざかる気がした。
でも、時間は止まらない。
空はゆっくりと白みはじめ、星は完全に姿を消していた。
「……もうすぐだね」
「うん」
そのひとことが、ふたりの間にぽつりと落ちる。
「今日だけの……恋人関係も」
澪がそう言って、すこしだけ目を伏せた。
遼は返事ができなかった。
だって、本当は“今日だけ”じゃ終わらせたくなかったから。
でもそれを言うことが、いまはまだできなかった。
静かに、波が寄せては返す。
夜が、終わりの足音を連れてきていた。
◆
自転車を押しながら、ふたりは駅へ向かって歩いていた。
もう会話はなかったけれど、それが気まずさからではないことを、遼は感じていた。
澪の歩幅が、ずっと自分に合わせられていることに気づいていた。
夜が明ける気配が、街全体に広がっていた。
ビルの影がぼんやりと伸びて、信号機がやけに主張する音を鳴らしている。
駅舎が見えてきた。
澪の手がスーツケースの取っ手を握り直すのが、横目に映る。
もう、終わりの時間だ。
「……ねえ」
遼が、立ち止まる。
澪が振り返る。
言わなきゃ、絶対に後悔する。
それだけは、確かだった。
「俺、やっぱり今日だけじゃ嫌だ。……澪がいない明日なんて、もう考えられない」
言葉が震える。息が詰まる。
「――好きだよ。ずっと。……今日だけじゃなくて、これからも」
そのときだった。
ホームに、始発電車の入線を知らせるアナウンスが流れる。
澪がはっとして、構内に駆け出す。
遼も自転車を置いて、あとを追う。
がらんとした改札。通り過ぎる人影。
あと数秒――そう思ったその瞬間。
ドアが閉まり、汽笛が鳴った。
電車は、澪を乗せていないまま、静かに走り出した。
「……え?」
振り返った澪の表情に、呆然とした色と――どこか、笑いを堪えたような温かさが混じっていた。
遼も、思わず苦笑する。
「ご、ごめん……」
「ほんと、最後までそういうとこ、変わんないよね」
そう言って、澪はすっと彼の手を取った。
そして、駅のベンチに腰かけながら、彼の肩に少しもたれかかる。
そして、ぽつりと言った。
「じゃあ……次の電車が来るまで、付き合ってよ。彼氏くん」
遼は、心臓が跳ねる音を聞いた。
「……それって……」
「うん、そういう意味」
視線は合わせない。でも、手のひらの温度が答えていた。
澪の指先が、ぎゅっと彼の手を握る。
もう言葉はいらなかった。
空はもうすぐ朝を迎えるけれど、ふたりの心は、ようやく隣に辿りついたばかりだった。
たとえ、遠く離れていても。
心だけは、これまででいちばん、近くにある気がしていた――。



