グラスが打ち合わさる音が、ひどく遠くに聞こえた。
 酔いの回った笑い声、枝豆の皮が弾く音、ジョッキを置く乾いた衝撃。
 すべてが輪の外で鳴っているようで、望月 遼は、氷の溶けかけたウーロン茶を口に運ぶ。

 居酒屋の壁際、通路寄りの端っこ。サークルの送別会、という名目で集まった飲み会は、朝倉(みお)のために開かれた。
 主役のはずの彼女は、隣にいる誰かと笑いながら、焼き鳥の串を器用に片づけていた。

「もう、飲みすぎでしょそれ〜」

 澪が誰かのジョッキを取り上げて、小さく笑う。
 誰もが彼女に注目していて、彼女もそれを自然に受け止めていた。
 明日には、いないのに。

 (はる)はグラスの水面に視線を落とす。炭酸の泡がもう立っていないのが、自分に似ていた。
 騒がしさの真ん中で、何も言えない自分が、またここにいる。



「望月、飲まねーの?」

 向かいにいた先輩が、唐揚げをくわえながら言った。

「あ、いや……体質、ダメなんです」
「お、下戸かー。澪ちゃんと正反対じゃん」

 不意に名前が出たことで、視線が彼女の方に吸い寄せられる。
 グラス片手に笑ってる。いつもの笑顔。いつもの、だけど。

「澪、飲みすぎてないか?」

「うん、大丈夫ー。ちゃんと電車ある時間には帰るよ」

 言いながら、ちらっと時計を見る。その目が少しだけ曇った気がして、遼は目をそらした。
 この笑顔も、空気も、たぶんもう見れない。そう思ったとき、胸の奥がわずかにざわつく。
 ――明日には、海外か。
 それが現実味を帯びるほど、遼の中で言葉が押し黙っていく。



「そろそろ終電、やばくない?」
 誰かがそう言って、空気がわずかに動いた。グラスが机に戻され、荷物の確認が始まる。
 澪が立ち上がるのが見えた。
 彼女の背中が、飲み屋の灯りに滲んでいく。
 遼は、気づけば席を離れていた。
 吸い寄せられるように、その背を追っていた。



 駅のホームへと続く階段を、遼は駆け上がった。
 彼女の背中が、改札に吸い込まれようとしている。
 そのとき、スピーカーが鳴った。
 
 「まもなく、当駅最終電車が発車いたします――」

 心臓が跳ねる。
 言わなきゃ、届かない。今しか、ない。

 
 「……朝倉さん!」

 自分でも驚くほどの声だった。
 彼女の足が止まる。改札機が一瞬反応し――
 ピッという音とともに、バーが閉まる。

 
 振り返った彼女の顔に、ふっと浮かぶ影。

「……ねえ、それ、どういうつもり?」

 声は冷たくなかった。でも、苦笑混じりの困惑が滲んでいた。

「終電、乗れなくなっちゃったんだけど?」

 遼は言葉を詰まらせる。けれど、目をそらさずに言った。

「どうしても、君と行きたい場所があるんだ。今日じゃないと……もう二度と、行けないから」

彼女は数秒黙っていた。
やがて、小さくため息をついて――目線を遼に向ける。

彼女は数秒黙っていた。
 やがて、小さくため息をついて、少しだけ顔を背けるようにして言った。
「……本当、変なところで強引なんだから」
「で、どこに行くの?」
「ちょっと……変なとこだったら、さすがに怒るからね?」
 その言葉に、遼は静かにリュックのポケットを探った。
 小さな鍵を取り出し、手のひらにそっと乗せたまま、彼女の方を見た。
 ――行くよ、って。そう言っているみたいに。



 ペダルをこぎ出したとき、風が冷たく頬をなでた。
 澪は遼の背中にそっと手を添えている。
 信号の灯りも、人影も少ない深夜の街を、ふたり乗りの自転車が走っていく。

 交差点を左に曲がる。居酒屋の灯りが遠くなっていくたびに、現実から離れていく気がした。

「ねえ」

 澪の声が、小さく背中越しに聞こえる。

「私、明日、六時起きなんだけど」
「……ごめん」
「あと、スーツケースまだ開けっ放しなんだけど」
「……ほんとにごめん」
「しかも今、ちょっと寒い」
「……本当に、本当にごめんなさい」

 それでも、彼女の声には笑いがにじんでいた。
 後ろで、ふいに風を吸う音がする。

「でも……夜の街って、こんなに静かなんだね」

 遼は頷いた。けれど、そのまま言葉は返さなかった。
 口を開けば、気持ちがこぼれてしまいそうだった。
 カチカチとチェーンの音だけが響く。
 やがて、小さな坂道に差しかかる。
 遼は立ち漕ぎになりながら、息を切らして言った。

「もうすぐ。……あとちょっとだけ、我慢して」
「うん」

 澪の返事は、風に混じって遼の背中に落ちてきた。
 それはどこか、安堵にも似ていた。
 ふたりを乗せた自転車は、街の灯りの向こうへと、静かに進んでいく。



 海に着いた頃には、空の色はすっかり夜に沈んでいた。
 街灯のない海岸線に、波の音だけが絶え間なく響いている。
 遼はブレーキをかけ、足をついた。
 重なった澪の体温がふわりと離れる。

「……真っ暗じゃん」

 澪が呆れたように笑いながら言った。

「ほんとにここが見せたかった景色?」
「う、うん……」

 遼は思わず言葉に詰まる。
 確かに、何も見えなかった。
 昼間なら、沖の向こうに船の光や、反射する水面がきらきらしていただろう。
 でも、今はただ――黒一色の闇があるだけだった。
 澪は一歩、波打ち際に近づく。
 ヒールの先が、砂をかすかに沈める音がした。

「……ほんと、真っ暗だね」
「ご、ごめん。思ってたより暗かった……」

 澪はその言い訳には何も返さず、しばらく波の音を聞いていた。
 その横顔に、街の明かりがぼんやりとかかる。

 
 遼は、何か言わなきゃと思った。
 でも、言葉が出てこなかった。

「ねえ」

 先に口を開いたのは、澪のほうだった。

「なんで今日、呼び止めたの?」

 その問いは、やさしい声をしていたのに、胸の奥にまっすぐ届いた。
 遼は少しだけうつむいて、足元の砂を見つめる。
 ポケットの中で、指先が震えていた。

「……忘れられたくなかった、から」

 それが、本音だった。
 でも、それだけじゃなかった。
 それだけじゃ――。
 何も見えないほど暗い海を前に、遼は立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。

「……うーん。なんか、ちょっと失敗だったな」

潮風が頬を撫でる。さっきまでの居酒屋の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っていた。
隣で澪が小さく肩をすくめる。

「いや、マジで見えないね。海、どこ?」

 冗談めかした声だったけれど、その横顔は少し楽しげにも見えた。

「……ごめん、もっと明るいと思ってた」

 遼は反射的に謝る。けれどすぐに、ため息とともに視線を夜空へと上げた。月明かりは薄く、星もまばらにしか見えない。
 こんな結末を想定していたわけじゃない。ただ、彼女と最後の夜を、何か特別なものにしたかった。

 ポケットの中で手が何かを探る。ふと浮かんだ一つの思いつきに、言葉がこぼれた。

「じゃあ、さ……花火、しようよ」
「は?」

 澪が眉をひそめて、じっと遼を見る。
「ほら、手持ちのやつ。……コンビニで買ってさ。夏にやったみたいな……」

 言葉を選びながら話しているのが、自分でもわかっていた。
 子どもっぽい提案だってことは、きっと彼女にも伝わっている。
 それでも、何かをしなきゃいけないような気がしていた。

彼女は少しのあいだ黙っていたが、やがて口を開いた。

「……深夜の海で花火って、なかなかに終わってるね」

遼は肩をすくめるようにして笑った。

「やっぱ、ナシ?」

 その弱気な表情に、澪はふっとため息をつく。

「いいよ。でも、怒られたら責任は全部望月くんね」
「え、ちょっとひどくない?」
「……え、なに言ってんの? 提案したの、望月くんの方でしょ?」
「……巻き込まれてる気がするんだけど」
「巻き込んだの、望月くんの方だからね――ほら、行くよ」

 彼女はくるりと踵を返して歩き出す。
 その背中を、遼は慌てて追いかけた。
 夜の海風のなか、彼女の髪が揺れていた。



 コンビニの明かりが、周囲の闇を白く照らしていた。
 さっきまで静かだった夜が、ほんの少しだけ現実に引き戻される。
 遼と澪は並んで店内に入り、冷房の風を受けながら棚を回る。
 澪は迷いなく手持ち花火セットを手に取り、かごへ入れる。
 その動作は迷いがなくて、まるで昔からこうなることが決まっていたかのようだった。
 続いて彼女は缶チューハイを二本、ゆっくりと手に取る。

「ほんとにやるんだ……」

 遼がレジ前でぼそりとつぶやく。
 澪は振り返りもせず、きっぱりと言った。

「自分で言い出したんでしょう、花火」
「……うん、そうだけど……」

 彼女は缶を持ったまま、ちらりと横目で遼を見た。

「ついでに、これも買ってくから」
「えっ……お酒?」
「うん。せっかくなんだし、ちょっとくらい飲まなきゃ損でしょ」

 遼はしばらく迷うように視線を泳がせた。

「俺、弱いんだけど……」
「知ってる。でも、今日は特別ってことで」

 澪はさらりと言って、缶チューハイをかごに放り込む。
 その仕草にはどこか、からかうような優しさがあった。

「優しくない……」
「優しくしてるじゃん。ちゃんと一緒に来てるんだから、どっかの誰かさんのせいで、終電――」

 言いかけて、澪はふっと笑う。
 冗談のようで、本気のような、そんな目だった。

「……わかった、呑むよ。呑むから……!」

 遼は小さくうなだれるようにして、静かに覚悟を決めたように答えた。


 ふたりは会計を済ませると、再び夜の海へと戻っていった。
 手には花火と、少しだけ冷えた缶チューハイ。
 ささやかな旅路のように、その足取りは少しだけ軽くなっていた。



 夜の海辺に、ぱちぱちと花火の音が響いていた。
 空はどこまでも暗く、海と地平の境界線はとうに見えなくなっていた。
 線香花火の先にともる火が、小さな命のように揺れている。
 遼はしゃがみこみ、その光をじっと見つめていた。
 隣では澪も膝を抱えながら、黙って花火を持っていた。
 ふたりのあいだに、波の音と、夜風が流れていく。

「ねえ、覚えてる? 去年の夏も、こんなふうに花火したよね」

 澪がぽつりとつぶやく。

「……うん。サークルの合宿のとき」

「海、全然見えなかった。……でも花火だけはやたら綺麗だった気がする」

 線香花火の火が、ぱち、と音を立てて落ちた。
 黒くなった先端を見つめながら、澪はしばらく黙っていた。

「……あのとき、ちょっと泣きそうだったんだ」

 その言葉に、遼は思わず顔を上げる。
 けれど澪は彼を見ずに、次の線香花火を袋から取り出していた。

「なんでか分かんないけど、悔しくてさ。……自分でも、何がそんなに嫌だったのかはっきりしないのに」

 澪の声は、夜の風にかき消されそうなほど静かだった。

「優しくされると、期待しちゃうじゃん。そういうのって、ずるいよ」

 その言葉が、心の奥にゆっくりと沈んでいく。
 遼はすぐには何も返せなかった。火花を見つめながら、小さく息を吐く。

「……ほんと、そういうとこ、前からずるいと思ってた」

 澪はそう言って、持っていた花火を砂に差し込んだ。
 火が落ちたあとの余韻が、まだ空気の中に残っていた。

「何も言わないくせに、たまに優しい。……それってずるいよ、ほんとに」

 遼は言葉を失ったまま、しばらく黙っていた。
 そして、ぽつりと口を開いた。

「……ごめん」

 その一言は、あまりにも頼りなかった。
 でも、澪はふっと笑って――肩をすくめるように、軽く言った。

「なんで謝るのよ」
「……わかんない。でも、そう思わせてたなら、俺、なんか……ごめん」

 沈黙が落ちる。
 遼は缶チューハイを手に取った。
 澪と一緒に買った、それだけが冷たさを保っていた。
 プルタブにそっと指をかける。
 そして、澪のほうをちらりと見ながら、ぼそりとつぶやいた。

「……俺も、飲んだらちょっとは機嫌、直してくれる?」

 澪はその言葉に、目を丸くする。
 けれどすぐに、呆れたように笑って、息を吐いた。

「そういうの、ずるいって言ってるんだけどな」
「……だめ?」
「……だめじゃないけど。……まぁ、反省してる顔してるし、ちょっとだけね」

 その言葉に、遼は小さくうなずいた。
 そしてプルタブを引く。
 シュッという音が、夜の静けさの中に、かすかに広がった。
 口をつけた瞬間、冷たい炭酸が喉を刺す。
 思ったより強くて、わずかにむせかけた。
 けれど、それを見せないように、遼はそっと夜空を見上げた。



 波音だけが響いていた。
 夜の海は何も言わず、ただ寄せては返す。
 花火の残り香が、風にさらわれていく。
 遼は、缶チューハイを手にしたまま、ゆっくりと口を開いた。

「……朝倉さん」

 その呼びかけに、澪がゆっくりと顔を上げる。
 その目の奥に、不安と、期待と、少しの苛立ちが混ざっていた。
 遼は視線を逸らさずに言った。

「澪のことが、好きだよ」

 一瞬の静寂。
 そして、澪の表情が強張る。

「……っ、なにそれ」

 笑っているような、泣きそうなような声だった。
 彼女は立ち上がり、遼を見下ろすように言った。

「……彼女、いるくせに。そんなこと言うなんて……ずるいよ!」

 声が震えていた。
 その目には、潤んだ光が浮かんでいた。

「ずっと思ってたよ。どうしてそんなふうに優しくするの? 私が勘違いするって、思わなかった?」
 遼は立ち上がり、彼女の前に立つ。

「いないよ。彼女なんて、いない。……そんなの、最初から」
「じゃあ、なんで今まで……!」
「怖かったからだよ!」

 遼の声が、大きく夜に響いた。

「澪との関係が壊れるのが、怖かった。気持ちを言って、全部が終わるのが――それが、怖くて……!」

 澪が息を呑む。

 その瞬間、遼は彼女の肩を強く掴んだ。
 次の瞬間、砂浜に押し倒すようにして、彼女を抱きしめる。

「……でも、今日だけは言いたかった」

 彼の声はかすかに震えていた。

「君にしか言えない。……こんなこと、君にしか言いたくなかった」

 澪は、しばらく何も言わなかった。
 ただ、ぎゅっと目を閉じていた。
 そして、ぽつりと呟く。

「……ずるい。ほんとに、ずるいよ……」

 遼のシャツの裾を握る手が、微かに震えている。

「……でも、もういい。私も、ずっと言えなかったから」

 顔を少し背けるようにして、彼女は小さく笑った。

「今日だけなら。……恋人でも、いいよ」

 夜の海がふたりを包みこむ。
 寄せる波が、その言葉をそっとさらって、どこか遠くへ運んでいった。



 海を背にして、ふたりは並んで歩き出した。
 砂が混じったスニーカーの裏が、夜の舗道にやさしい音を落としていく。
 空はまだ深く暗いままだったが、風は少しずつ、冷たさの質を変えてきていた。
 澪が隣で、ぽつりと漏らす。

「……ほんと、ずるいよね、遼くん」

 冗談めいた声。でも、そこには少しだけ、本気の棘が混じっていた。

 遼は歩みを止めず、静かに答える。

「……やっぱり、彼女いるって話、気にしてた?」

 澪はふっと息をついた。

「……気にしてないって言ったら、嘘になるよ。ずっと、そう思ってたから。だから、距離、置こうって……」

 遼は立ち止まり、ゆっくりと彼女のほうを向いた。
 灯りの少ない通りで、澪の表情はよく見えなかったが、その声はまっすぐだった。

「……あっえっと噂されてるのあれ、俺の妹」

 澪が目を見開く。

「えっ?」
「彼女とかじゃない。俺の妹。……大学近くに住んでて、たまに荷物とか渡したりしてて」

「……ちょっと、待って。それ、ほんと?」

 遼は苦笑した。

「ほんと。……なんか、いろいろ言われてるの、知らなかったけど」

 澪は数歩、遅れて立ち止まり、俯いたまま言った。

「……もう、やだ。何それ、早く言ってよ」

 その声は、笑っているようでもあり、泣き出しそうでもあった。
 やがて彼女は顔を上げて、少しだけ睨むように遼を見た。

「……ずっと、バカみたいにモヤモヤしてたのに」
「ごめん……俺、何も知らなくて」
「ほんとだよ……バカ」
 
でも、澪の頬が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
 遼は、そのわずかな変化に気づいて、胸がすうっと軽くなるのを感じた。
 ふたりは再び歩き出す。
 澪がふと、彼の歩幅に足を合わせてくる。
 気づけば、手と手が触れそうな距離になっていた。
 遼は、その距離感を――不思議なくらい、心地よく感じていた。
ふたりの影が、街灯の下で並んで揺れる。

「ちょっと、疲れたかも」

 澪がぽつりとつぶやいて、道端の小さなベンチに腰を下ろした。

 遼も隣に座ると、彼女は少しだけ間を空けて、それでも寄りかかるように背もたれにもたれた。

「今日だけって言ったけどさ……」

 ぽつりと、澪が口を開く。

「こうして隣にいると、なんか、ほんとの恋人みたいだね」

 遼は笑いそうになったが、喉の奥で止めた。
 澪の横顔が、あまりにも綺麗だったから。

「……うん、俺も、そう思ってた」

「ダメだよ、そういうこと言うの」
「え?」
「今日だけって決めたの、私なのに……。そう言われると、ちょっと、ずるくなる」

 夜風が、ふたりの髪をさらりと撫でる。

 遼はそっと、缶チューハイの残りを持ち上げた。
 もうぬるくなっていたけど、それでも、何かを確かめるようにひと口だけ飲んだ。

「……お酒って、ほんとに効くんだな」
「え、いまさら?」
「いや……なんか、今なら、なんでも言えそうな気がしてさ」

 澪が笑う。

「ふーん。じゃあ、聞いてあげようか? なんでも」
「なんでもって言った?」
「うん。今日だけの、特別サービス」

 しばらくの沈黙があった。
 でもそれは、気まずさではなく、どこか穏やかなものだった。

「……ありがとう」
「なにが?」
「こんな時間、くれて」

 澪は答えなかった。
 ただそっと、手を伸ばして、遼の袖を少しだけ引っ張った。
 手と手は触れなかったけど、
 心の距離だけが、確かに近づいていた。



 砂の感触が、少しだけ冷たくなってきた。
 けれど、ふたりの間には、まだぬくもりが残っていた。
 話したことは、数えきれないほど。
 好きな映画や音楽の話。最近ハマっているお菓子のこと。
 昔、サークルであったどうでもいい笑い話や、お互いのバイトの愚痴。
 そのどれもが、どうでもいいことのようでいて、
 だからこそ、何よりも愛おしかった。

「……なんか、いっぱい喋ったね」

 澪が、少し笑ってつぶやく。

「うん。まだ話したりないけど」

 遼の声もまた、どこか名残惜しさを滲ませていた。
 ふたりとも、話すことが尽きたわけじゃなかった。
 むしろ、今まで言葉にできなかった気持ちが、ようやく言えるようになったばかりだった。

「ねえ、今日さ……一番楽しかったのって、いつ?」
「え?」
「わたしね、あのコンビニの前。ちょっとバカみたいな会話してたとき。……なんか、すごく好きだった」
「……俺も。あそこ」
「うそ。合わせたでしょ」
「ほんとだよ」

 また、ふたりで笑う。
 それだけで、波の音も、空の白さも、少しだけ遠ざかる気がした。
 でも、時間は止まらない。
 空はゆっくりと白みはじめ、星は完全に姿を消していた。

「……もうすぐだね」
「うん」

 そのひとことが、ふたりの間にぽつりと落ちる。

「今日だけの……恋人関係も」

 澪がそう言って、すこしだけ目を伏せた。
 遼は返事ができなかった。
 だって、本当は“今日だけ”じゃ終わらせたくなかったから。
 でもそれを言うことが、いまはまだできなかった。
 静かに、波が寄せては返す。
 夜が、終わりの足音を連れてきていた。



 自転車を押しながら、ふたりは駅へ向かって歩いていた。
 もう会話はなかったけれど、それが気まずさからではないことを、遼は感じていた。
 澪の歩幅が、ずっと自分に合わせられていることに気づいていた。

 夜が明ける気配が、街全体に広がっていた。
 ビルの影がぼんやりと伸びて、信号機がやけに主張する音を鳴らしている。
 駅舎が見えてきた。
 澪の手がスーツケースの取っ手を握り直すのが、横目に映る。
 もう、終わりの時間だ。

「……ねえ」

 遼が、立ち止まる。
 澪が振り返る。
 言わなきゃ、絶対に後悔する。
 それだけは、確かだった。

「俺、やっぱり今日だけじゃ嫌だ。……澪がいない明日なんて、もう考えられない」

 言葉が震える。息が詰まる。

「――好きだよ。ずっと。……今日だけじゃなくて、これからも」

 そのときだった。
 ホームに、始発電車の入線を知らせるアナウンスが流れる。
 澪がはっとして、構内に駆け出す。
 遼も自転車を置いて、あとを追う。
 がらんとした改札。通り過ぎる人影。
 あと数秒――そう思ったその瞬間。
 ドアが閉まり、汽笛が鳴った。

 電車は、澪を乗せていないまま、静かに走り出した。

「……え?」

 振り返った澪の表情に、呆然とした色と――どこか、笑いを堪えたような温かさが混じっていた。

 遼も、思わず苦笑する。

「ご、ごめん……」
「ほんと、最後までそういうとこ、変わんないよね」

 そう言って、澪はすっと彼の手を取った。
 そして、駅のベンチに腰かけながら、彼の肩に少しもたれかかる。
 そして、ぽつりと言った。

「じゃあ……次の電車が来るまで、付き合ってよ。彼氏くん」

 遼は、心臓が跳ねる音を聞いた。

「……それって……」
「うん、そういう意味」

 視線は合わせない。でも、手のひらの温度が答えていた。
 澪の指先が、ぎゅっと彼の手を握る。
 もう言葉はいらなかった。
 空はもうすぐ朝を迎えるけれど、ふたりの心は、ようやく隣に辿りついたばかりだった。

 たとえ、遠く離れていても。
 心だけは、これまででいちばん、近くにある気がしていた――。