冷静沈着で合理主義、ハイスペックで非の打ち所がないゆえ少し煙たがられる存在でもあるがとてもモテる。けれど浮いた話はひとつもなく、『童貞』と噂が囁かれるほどの堅物同期なはずだった──。

「人の気も知らないで、焚き付けたのは仁村さんですよ」
「え?」
「終わらせましょうか」
「終わらせるって……なにを?」
「この関係をです。それを望んだのは貴女でしょう」
「え……っ!?」


 仁村梢26歳。高卒でこの会社(優良企業)に勤めて早8年。
「仁村さぁん、お昼一緒しませ~ん?」
 げっ、きた! 松本亜莉沙……ってこらこら、後輩に向かってそれはさすがにないでしょ。
「松本さんお疲れ様、もうそんな時間? いいよ~」
「やった♡」
 今日も今日とて惚気が始まる。ただの惚気なら全然いいんだけど如何せん普通ではない。
「彼のSっ気と性欲がやばくって全然寝かせてくれないんですぅ。毎日寝不足~♡」
「ははは、それは大変だ」
「玩具責めの後に5ラウンドとか死ぬくないですかぁ?」
「ま、まぁね」
 5ラウンドかぁ。全然満足できず、満たされない1ラウンドであっさり済まされるより、5ラウンドのほうがいいと思うけどなぁ。
「仁村さん今カレは~?」
「いないよ」
「美人さんなのにもったいなぁい」
「ははっ、ありがとう」
 彼氏を作ろうと思えばたぶん作れると思う。けれど、それをしないのにはちゃんと理由があるの。
「てか元カレとかどぉでしたぁ?」
「うーん」
 淡白でセックス下手、ろくに前戯もしない即ハメ早漏、極めつけは浮気男……どの人も『梢が不感症なだけだろ』って。これがわたしの元カレ(黒歴史)たち。消したい、忘れたい。セックスなんてもう4年ほどしてないよ。
「てかあんな男捨てて正解ですよぉ。仁村さんと全然釣り合ってなかったし~」
 浮気男── 馬場雅彦、部署は違えど同じ会社にいる。そして浮気相手にいたっては、わたしと同じ部署で同期の友人“だった”高橋美弥子。いや、今は馬場美弥子か。
「あれはさすがにないよね」
「キモすぎですよぉ。てかあれから彼氏作ってなくないですかぁ? いいかげん次いきましょうよぉ」
 松本さん、その言い方だとわたしが浮気男のことを永遠と引きずってる女みたいじゃない。あんな人たちのことなんて、もうとっくに吹っ切ってるのよ。
「そんな焦る必要もないかな? って」
「あ、ほらいたぁ♡仁村さんに超おすすの優良物件♡」
 松本さんが指をさすその先にいたのは、堅物同期の澤木晃太。
「澤木さんって全国トップクラスの難関校を卒業して、あの有名な大学も余裕で合格レベルだったのにそれを蹴ってこの会社に就職した高学歴男子じゃないですかぁ」
 澤木くんが大学へ進学せずこの会社に就職したのはおそらく、社長の息子だからだと思う。澤木くんが社長の息子だということは、わたししか知らない。わたしはそれを偶然知ってしまって、「誰にも言わないから! 同期同士の秘密ってことで!」と、ふたりだけの秘めごとに。
「澤木さんってしごできだから出世コースまっしぐらじゃん♡高収入~♡」
 まあ、うん、そもそも社長の息子だからね。
「それに高身長♡」
 たしかに澤木くんは背が高い。
「で、ルックス抜群♡」
 がっしりとした体格で清潔感もあり、とても端正な顔立ちをしている。
「童貞っぽいけどそれが逆に萌える♡」
 萌えないで。
「なんか冷たいし堅物感ハンパないけどぉ、同期の仁村さんにはめっちゃ優しい気がするし、それに仲良いですよねぇ? いいじゃないですかぁ♡」
 澤木くんは仲のいい同期。ルックスも抜群で社長の息子だって知ったのも入社して早々だったけど、とくに恋愛感情を抱くことは一度もなかった。澤木くんとはこのまま、この先もただの同期して関わっていくはずだった。終電を逃したあの日の夜までは──。
 2年前、後輩のミスをわたしのせいだと叱責した部長。その子は部長のお気に入りだから理不尽に咎められたのはわたしで、フォローしてくれたのが澤木くんだった。


 ── 2年前
「おい仁村! この企画書どうなっとるんだ! 先方がカンカンだぞ!」
 周りの反対を押し切ってその仕事を百瀬さんに振ったのは部長でしょ? その企画提案書の最終チェックを任されていたわたし、もしくは澤木くんにその企画提案書が回ってくることはなかった。何度か百瀬さんに確認したけれど「締め切りまで期限あるんで~」としか言わなくて。最終チェックが済んでいない企画提案書を先方に送るなんて本来あってはならないミス。
「百瀬さんからまだ最終チェックを頼まれていませんけど……」
「何を言っとるんだ! 判子が押してあるだろ! 後輩のせいにするな!」
 書類を机に叩きつけ、荒々しく指差した部長。最終チェック欄に『仁村』の二文字。わたしは判子を押していない、絶対に。
「そんなはずはっ」
「言い訳をするな馬鹿者! 男を寝取られてどうせ上の空だったんだろう!」
 は? なによそれ。なんでそんなこと言われなくちゃいけないの? あの人と別れたことも友人と縁を切ったのも、仕事には何ら影響はなかった。入社してからずっと、仕事だけは丁寧にやってきた自負がある。大きなミスだって一度もない。
「そんなことはっ」
「口答えをするな! そんなんだから女を作られて男に逃げられるんだ!」
 周りは部長の失言に言葉を失って唖然状態。わたしは悔しくて涙を堪えるのがやっとだった。部長の前で泣いたら負け。『これだから女は~』と言われるのがオチ、絶対に泣かない── けれど、わたしの意思とは関係なく頬を伝う涙。わたしは、負けてしまった。
「泣くな! みっともない! これだから女は……ったく! 男に捨てられてメソメソするくらいなら休め! 会社に来んな!」
 この場に雅彦と美弥子がいないのがせめてもの救い。ああ、なんだろう、もう疲れちゃったな──。
「どうぞ」
 ふわっと香る上品で穏やかな匂い。隣を見上げると無表情の澤木くんがいた。わたしにハンカチを差し出してくれている。
「目にゴミが入ったのでは?」
 わたしのこの涙は、目にゴミが入ったからなのでは? と気を利かせてくれる澤木くん。
 絶望して、もうこの会社辞めちゃおうかなって一瞬考えちゃったけど、本当に素敵な同期を持った。わたしは恵まれている。辞めるなんてやめた、意地でも辞めてやんない!
「ありがとう、澤木くん。部長が机叩くから埃が舞って目に入ったんだよね」
「何だと!?」
 わたしの一歩前に出た澤木くんの反撃が始まる。
「お言葉ですが部長、先方にこの企画提案書を送る前にチェックをするのが貴方の仕事なのでは?」
「それはその、俺は仁村を信用っ」
「これは信用の問題ではありません。仮にこの企画提案書を仁村さんがチェックしたとして、先方が憤激するほどのミスがあったのなら、ダブルチェックを怠った貴方の責任なのでは? まぁ仁村さんがそのようなミスを犯すとは到底思えませんが。ちなみにその押印、仁村さんのものではありませんよ」
 え……? わたしをじっと押印を見つめた。
「ち、違う、わたしのじゃない……」
「でしょうね」
「何!?」
「仁村さんは判子や大切なものは、しっかり施錠して保管されているので適当に買ってきた判子でも押して提出したのでしょう。百瀬さんが」
 判子などは施錠ができる引き出しにしまって、その鍵は肌身離さず持ち歩くようにしている。澤木くん、そんなことまで知っててくれたんだ。
「彼女に謝罪を」
「な、なんで俺が」
「本来謝罪で許されるはずもないのですが」
 隣に立っている澤木くんから重苦しいプレッシャーをひしひしと感じる。
「ま、まぁ今回のミスは誰にでも起こり得るということでだな、俺にも落ち度はあった……が、この企画提案書を明日の朝までに仕上げて朝イチ先方に送れば先方も許してやっていいとのことだ。仁村頼んだぞ!」
「はあっ!?」
 居心地が悪いのか、ばつの悪そうな顔をして退散した部長。そして、いつの間にかいない百瀬さん。明日の朝までにって……まあ、終わらないこともないだろうけど、帰れないの確定じゃん。
「私も手伝う……いや、この表現は正しくないですね。私にもやらせてください」
「え? いやいや、いいよ。わたしの仕事だし」
「いえ。私がもっと警戒していればこんなことにはならなかったでしょう。これは私の責任です」
 澤木くんは冷淡な人と思われがちだけど、本当はとても優しい人だって同期のわたしは知っている。澤木くんの優しさに甘えちゃってもいいのかな……正直めちゃくちゃ甘えたいけど! だって澤木くんしごできだし! わたしひとりじゃ夜中……朝方までかかるかもしれないけど、澤木くんとだったら終電に間に合うかも!
「本当にいいの?」
「いいも何もこれは私の仕事なので」
「恩に着ます」
「大袈裟な」


 ── 定時をとうに過ぎた頃
 静かなオフィスに響くのは、タイピング音とわたしの情けない声。
「終わんないよぉ」
 うなだれながら視線を澤木くんのほうへ向けると、腕を組んで真顔でわたしを見つめている澤木くんと視線が絡む。
「な、なんでしょう?」
「いえ、別に」
「さ、左様でございますか」
『仕事が遅いですね、ポンコツですか?』という無言の圧力でしょうか? すみません、本当にすみません! と心の中で謝り倒して、おもむろに立ち上がった澤木くんに心臓が飛び跳ねる。
 徐々に迫りくる恐怖と比例するように、わたしのタイピング速度が加速していく。
 部長に叱られても傷つくことはない、理不尽で悔しいだけ。けれど、同期である澤木くんに叱られたらわたし……ぜぇったい泣く! うぉりゃぁぁ! タイピング音が激しさを増し、澤木くんがわたしのもとへ辿り着く前に少しでもぉ! というちょっとした悪あがき。
「仁村さん」
「ひっ」
 わたしの真後ろに佇むのは仕事の鬼── 澤木晃太である。
「いいですか」
「え?」
 後ろへ振り向くと、大きな手がわたしに迫っていてた。ふむ、なるほど。『仕事が遅い、殴ってもいいですか』ということですか、なるほどですね。
「あの! わたしのせいだし、澤木くんの好きにしてくれていいんだけど……あまり痛くしないでくれる? その、こういうの慣れてなくて……」
 そもそも殴られたことなんて一度もない。うわぁーん、痛くありませんように! と懇願しながら目をぎゅっと強く瞑った。
 ん? 痛くない、なんの衝撃もない。うっすら目蓋を開けると、無表情すぎる澤木くんと視線が交わる。目をぱちくりさせていると、わたしの分の書類を適当に持って自分のデスクに戻っていく澤木くん。
「私の分は終わりましたので」
「あ、うん、ごめん、ありがとう」
「いえ」
 本っ当にすみませんでしたー! 澤木くんに殴られるかもとか馬鹿げたことをほんの少しでも思ってしまった自分を殴りたい!
 わたしは死に物狂いでパソコンと睨めっこした。

「終わったぁ……」
 背伸びをしながらちらりと時計を見てみると……あ、こっちもオワッタ(終電を逃した)。こんな時間まで残業したのって何気に初めてだ。当然だけどね? うちの会社ブラック企業じゃないし。
「お疲れ様でした」
「本当にありがとう、澤木くん」
「いえ」
「澤木くんって家どの辺だっけ? わたしのせいで終電が……ごめんね」
「ああ、お気になさらず。徒歩圏内なので」
 会社の徒歩圏内ってまじですか。超高額家賃がちらついて眩暈がぁ。せめてタクシー代だけでもって思ったんだけどなぁ。今からお礼も兼ねて食事に誘うのもあり? いや、なしでしょ。澤木くんだもん、健康意識高そうだしこんな時間にあまり食べないよね?
「えっとじゃあ、なにかお礼をさせてくれないかな? こんな時間まで付き合わせちゃったし」
「では、今からお付き合いいただいてもよろしいでしょうか」
「あ、うん! もちろん!」
「行きましょうか」
「うん! ん? 澤木くん」
「なんでしょう」
「なぜバケツ?」
「使われていないようですし、返しておけばいいでしょう」
 いや、わたしが聞きたいのはそういうことじゃなくて、なんでバケツなんて持っているの?


 会社近くのコンビニでハイスペ男子がバケツと鞄を手に、かごも持っているというカオス。けれど、それすらも絵になるのは澤木くんとルックスとビジュアルの良さがあってこそだ。
「仁村さん」
「ん?」
「お酒、飲みませんか?」
「うん、飲んじゃおうかな」
「ビールですか」
 ここで『酎ハイですか』と言わないところがさすが同期。わたしのことを理解してくれている。
「もちろんビールで!」
 缶ビールをたくさんかごに入れ、わたしの好きなおつまみ系を迷わずかごに入れている澤木くん……恐るべし同期。
「ところで澤木くんってお酒好き? 飲み会で飲んでるところ、あまり見かけたことないような気がするけど」
「ええ、程々に。貴女が飲む時は飲まないようにしているだけです」
 はて?
「何かあっては困るので」
「?」
 どういうこと? と思ったけれど深く考えるようなことでもないか、と自己完結させる。これはわたしのクセというか、あまり深入りしない性格。
「他に欲しいものは?」
「いやぁ、とくにないかな」
 もう時間も時間だし、家までのタクシー代を考えると近場のカプセルホテルに泊まるのが無難そう。ブラトップとショーツだけ買いたい……けれど、澤木くんがいると買いづらい。この会計を終わらせて外で少し待っててもらおうかなぁ……ちらりと澤木くんに視線を向けると、澤木くんが手にしていたのは花火だった。
「花火?」
「ええ。もう会計してもよろしいですか?」
「あ、うん」
 割り勘にしようとしたのに、それを頑なに受け入れようとしない澤木くんに押し負けてしまったわたし。そもそもお礼をしなきゃいけない立場なのになんでわたしが澤木くんに奢られているのだろう。
「次はわたしが奢るからね」
「そうですか」
「絶対に!」
「そうですか」
「もうっ! あ、ちょっと外で待っててくれる?」
「買い忘れですか?」
「ま、そんなとこ」
「では私もっ」
「澤木くんはいいから待ってて」
「分かりました、お気をつけて」
「気をつけるも何も」
「貴女は危なっかしいので」
「子供じゃないし!」
 自分でそう言っておきながら頬を膨らませてムッとするのはさすがに子供すぎるのでは? と思いながら澤木くんに背を向け、店内に入った。あまり待たせるのも申し訳ないしサッとブラトップとショーツを手に取り、会計を済ませて鞄の中へ入れてた。
「ごめん、お待たせ」
「いえ、では行きましょうか」
「うん」
 とは返事したものの、お酒と花火を持ってこんな時間にどこへ行くつもりなんだろう?

 風もなく、少し蒸し暑い夏の夜── 街灯の光が夜道を明るく照らし、上を見上げれば澄んだ月が夜空を照らしている。
「真夜中って感じだね」
「そうですね。終電を逃すほどの残業は初めてです」
「なにそれ嫌味~?」
「いえ、そんなつもりは。私は自宅が近いので終電の有無についてはぶっちゃけどうでもいいです。困るのは貴女でしょう」
 ちらりと澤木くんを見上げると、少し目を細めてわたしを見下ろしていた。
「うん、それな」
 わたしが目を細めてそう言うと、フッと穏やかに鼻で笑う澤木くん。わたしもそれにつられてクスッと笑った──。

「ここです」
「公園?」
 会社の近くにある公園。気にも止めず、素通りしちゃうような普通の公園。
「花火しませんか」
「え?」
「この辺り住宅もないですし、手持ち花火であればできるとのことです。利用時間帯も調べましたが問題ありません。どうですか」
 どうって、そのために会社からバケツを持ってきたわけね。澤木くんが公園で花火をするなんて意外というか、想像もつかなくて唖然としてしまう。
「花火はお嫌いですか?」
 そう言ってわたしを見ている澤木くんから、どことなく寂しげな雰囲気を感じる。
「ううん、好きだよ」
 澤木くんの瞳を捉えてまっすぐ見つめると、わたしから視線を逸らして「そうですか」と小さな声で言った澤木くんは、すぐそこにあったベンチに荷物を置いて、バケツの中に水を入れている。

「軽く飲みながら」
「え、それは最高すぎる。ありがとう」
 缶ビールをわたしに差し出す澤木くんからありがたく頂戴して、プシュッと音を立てながら開けると白い泡が控えめに溢れた。
「では」
「かんぱ~い」
 缶を軽く合わせて、わたしたちはビールを口に含んだ。ほろ苦さと刺激が口の中に広がって、冷たいビールが喉に沁みる。
「はあ、おいしい~」
「沁みますね」
 彼氏も友人も同時に失って少し落ち着いてきた矢先、上司に散々な言われようをして無理やり仕事を押しつけられて……あの時ひとりだったら、澤木くんが助けてくれなかったら、わたしは心が折れてしまってたと思う。
 この状況も澤木くんなりにわたしを励まそうとしてくれているんだよね? 終電を逃した真夜中に同期と公園で缶ビールと花火とか控えめに言って最高。
「澤木くんありがとう。澤木くんがいてくれて本当によかった」
 振り返ってみれば、わたしの近くにはいつだって澤木くんがいた。仕事が楽しい時も大変な時も、上手くいってる時もいかない時も、さりげなくフォローして支えてくれていたのは澤木くんだった。
 澤木くんに出会えてよかった。わたしの同期でいてくてありがとう。
「どうしたんですか」
 泣くつもりなんてなかった。けれど、どうしても涙が溢れてしまう。涙腺が緩んでるのかな? こんなの澤木くんを困らせるだけじゃん。
「何ですか、また目にゴミでも入りましたか?」
 知ってる、澤木くんはこういう人。安易にわたしに触れてたりして慰めようとはしない。澤木くんを冷たい人だって言う人もいるけれど、これが澤木くんなりの優しさで誠実さだってことを、わたしはちゃんとわかってるよ。
「ははっ、そうみたい。わたし目大きいから~」
「それ嫌味ですか、困った人ですね」
 そんなことを言いつつ、優しい瞳をしながらわたしにハンカチを差し出す澤木くんと視線が絡んだ。
 とくんっ……と控えめに主張する鼓動。この胸の高鳴りはきっと、澤木くんのせい。
「何か?」
「いや、ごめんごめん。ありがとう」
「そうですか」
 澤木くんも人に深入りしない性格。似た者同士、なんて言ったら澤木くんに失礼か。
「花火をしたことがなくて」
「ん?」
「花火をするのは初めてです」
 そう言いながら淡々と準備する澤木くんに目が点になるわたし。この年齢で手持ち花火をしたことがない人なんているんだ、とかめちゃくちゃ失礼なことが脳裏を過ったけれど、都会出身あるあるのかな? 地方出身のわたしとは環境が全然違うもんね、と自己完結させた。
「初めての相手がわたしでよかったの~? わぁ、懐かしいな~手持ち花火とか高校生ぶりかも!」
 しゃがんで「花火どれにしよ~迷うなぁ」なんて子供のように浮かれているわたしの隣にしゃがみ、ボソッと何かを呟いた澤木くん。
「え? ごめん聞こえなかった。なに?」
「貴女だからです」
「ん? なにが?」
「仁村さんとならこういうのも悪くはないと思えるので」
 もしかして澤木くん、柄でもないし手持ち花火はちょっと恥ずかしいとか思っちゃうのかな? 自分には似合わないから……みたいな。
「そんなことないよ!」
「はい?」
「花火に似合う似合わないとかないし!」
「あの、おそらく話が噛み合っていないかと」
「そう?」
「まぁ少し抜けているところも貴女らしいですけどね」
「なにそれ~、意地悪なこと言わないでよ」
「意地悪ではありません、事実です」
「ひど」
 なんて笑いながら花火を手に取ると、澤木くんがポケットからライターを取り出してわたしの花火に火をつけてくれた。澤木くんは意外にも喫煙者である。
 花火を手に取り、ライターで火をつけようとしていた澤木くんに少し花火を近づけた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 花火を重ねると、シャーッと音を立て吹き出す火花。パチパチと弾けながら綺麗に色づき、色とりどりの火花はわたしたちの空間を淡く優しく彩る。
「綺麗だね」
「ええ、そうですね」

 落ち着いた雰囲気の中、花火を眺めながらゆったりとお酒も楽しむ。 
「仁村さん」
「ん?」
「貴女のその深入りしない性格、私は嫌いじゃない」
「え、何々。どうしたの~? 急に」
 深入りしない性格になったのにこれといったきっかけはない。けれど、家庭環境なのはたしか。他に男を作って借金を残し、わたしとお父さんを捨てたお母さん。男手ひとつでわたしを大切に育ててくれたお父さん。我儘なんて言えない、深入りすれば欲が出てしまう。だからわたしは、お父さんにすら一定の距離を保ち、必要以上に踏み込んだりはしなかった。恋愛でもそう、どこか距離を置いてしまう。
 不満も言わず、物分かりのいい女を演じる。追求もせず、自己完結させてなかったことにする。結局は、感情的な負担を避けたくて逃げてきただけだ。
「ですが同時に『興味がない』と言われているようで正直傷つきます」
「ごめん、そんなつもりは」
 澤木くんを見ることができなくて、消えた花火をただ見つめることしかできない。
「はっきり言って私はモテます」
「……はい?」
 唐突すぎて思わず澤木くんのほうへ視線を向けると、真剣な表情をしてわたしを見つめていた。
「でもそれは、私の地位や容姿にしか興味のない人ばかりでした。ですが、貴女は違った。私が社長の息子だと知った後も何も変わらず接してくれた。そもそも私が大学へ進学しなかったのは、貴女がいたからなんです」
「え?」
「すみません、気持ち悪いですよね」
「え、いや、え?」
 澤木くんが何を言っているのか、わたしには理解できなくて呆然としてしまう。
「入社前に一度会っているんですよ、私達」
「ん?」
「面接の時、と言えば分かりますか」
「面接の時? 面接の……面接の時のっ!?」
「ええ、そうです。思い出しましたか」
 面接の日、わたしは面接より人助け……と言ったらかなり大袈裟だけど、体調が悪そうだった男の人を放っておけなくて、面接よりその人を優先した。
 でも、あの時のあの人が澤木くんだなんて……いやいや、まったく合致しないんですけど!? だって髪色も派手だったし、ネックレスとか指輪とかピアスとか……わたしはポケットから素早くスマホを取り出してライトを点灯させた。
「ちょっとごめん、失礼します」
 澤木くんの耳をライトで照らし凝視する。うん、開いている。左耳にピアスの穴が2つほど。わたしはライトを消し、そっとスマホをしまった。
「お、お久しぶりです」
「今更ですか」
「だって全然雰囲気が違うんだもん、わかんないよ!」
「イキりたい年頃だったのでしょうね」
 にしても、イメチェンがすぎる。
「正直ちょっとこわかった、あの時の澤木くん」
「ですよね、そんな気がしていました。すみません」
 そう言いながら花火に火をつけ、「どうぞ」と控えめに近づけてくれた澤木くんの花火で、手に持っていた花火に火をつける。
「澤木くんが社長に掛け合ってくれたの?」
 面接に遅刻したうえに理由すら述べなかったわたしが採用されたんだもん、どう考えたっておかしい。採用の連絡が来た時、何かの間違えなんじゃないかってかなり疑った。
「あの時、仁村さんがうちの会社の面接へ行くと聞いて、私のせいで間に合わなかっただろうと思い、父に掛け合おうとしました……が、父は既に貴女を採用する気満々でしたよ」
「え、どうして?」
「見かけたらしいですよ、あの時の私達を。あの日私が体調を崩していたことは父も把握済みでした。なので、貴女が遅刻をした理由を話さずとも父は理解していたというわけです。正直驚きましたよ、最後の最後まで理由を述べなかったと父に聞いて……つくづく馬鹿な人だなと」
「なっ!」
「すみません。冗談ではありません、事実です」
 いや、そこは『冗談です、嘘ですよ』とフォローするところでは?
「ですが、貴女の人柄に惹かれたのもまた事実……いや、正しくは人柄“にも”ですかね」
「あ、ありがとうございます?」
 褒められたって解釈でいいのかな?
「致命的に鈍いですね、貴女って人は」
「え?」
「まぁいいでしょう。そのほうが何かと都合がいい」
 都合がいいって……と思いながら澤木くんに視線を向ける。ビニール袋から缶ビールを2本取り出して、そのうちの1本をわたしに差し出した澤木くんと目が合うことはなかった。
 缶ビールを受け取り、互いにプシュッと音を立て開ける。ごくごく飲むというよりは、口に含んで味わうようにゆっくりと飲む。
「仁村さんありがとうございます、私と出会ってくれて。貴女のおかげで私の人生が大きく変わったと言っても過言ではありません」
 いえ、それはおそらく過言です。わたしなんかにそんな影響力はございません。
「私は敷かれたレールの上を歩く人生だった。それを強要されたことなど一度だってありませんが、まぁだらしない人間でしたしどうでもよかったんですよ、自分が何者で何者になろうが。けれど貴女と出会い、初めて敷かれたレールの上から降りたいと思った。大まかに言えば、大学へ進学せず就職した理由は“貴女がいたから”になるわけです」
 え、ごめんなさい。わたし、御曹司の人生を狂わせた!?
「それと、貴女はまだ知らないだけです」
「え?」
「愛とは何たるかを」
「ん?」
「いずれ理解しますよ、私が分からせるので。深入りしたい、溺れたい……という感情を」
「?」
 なるほど、再教育・再指導というわけですか。わたしを1から構築し直すぞ! みたいな。
「ぜひよろしくお願いします」
「仁村さん、私が言っている意味を理解できていますか」
「もちろん! 再構築でしょ?」
「鈍い通り越して大馬鹿者ですね」
「なっ!? もおこうなったらやけ酒してやる!」
「程々に」

 ── 1時間後
 わたしは酔った勢いで澤木くんの自宅へお邪魔していた。
「酔っぱらい(わたし)とお酒 花火のごみをしっかり持ち帰っていただき本当にありがとうございました」
「いえ。どうですか、調子は」
「限りなく正常に近いです」
「そうですか。大丈夫そうならお風呂へどうぞ」
 入浴を勧められた頃にはかなり酔いも醒めて、お酒で勢いづいて調子に乗ってしまったことを深く反省しながらシャワーを浴びつつ後悔した。この後悔は、澤木くんに軽い女だと思われるのが嫌だな……という、よくわからない感情だった。
「はぁ、やってしまった」
 いや、まだ何もしていない。悪いことは何一つしていない。ちゃんと自分の足で歩いてきたし、大きな声も出していない、ベタベタくっついたりもしていない……はず。これはただ、終電を逃した哀れな女が同期のお家にお邪魔しているだけの構図、それだけだ。 

 澤木くんが用意してくれた服を着るとぶかぶかで体格差を感じる。
「やっぱ澤木くんって大きいなぁ」
 しかもいい匂いがする。澤木くんに包み込まれているような気がしてちょっと恥ずかしい。
 ってやめやめ! ただの同期だし澤木くんは。とはいえ、大人の男女がふたりきり。なにかあってもおかしくはない── なんて心配は今のところなし。
「そろそろ寝ましょうか」
「うん」
 一緒に寝るのかな? となると、することはひとつ。やっぱりそういう流れになる? まぁお互いフリーだし? えーっと、最後にセックスしたのっていつだろう? 2年前くらい? 雅彦とはセックスレスだったし……ってそれもそうか、美弥子と済ませてたんだし。
「どうかしましたか?」
「え、いや、なにも」
 雅彦と最後にした時、すっごく痛かったんだよね。どうしよう、ちゃんとできるかな? ……って、わたしは一体何を考えているだ。澤木くんに限ってわたしに手を出すなんてないでしょ、ないない。
 いや、でも澤木くんだって男だよ?
「どうぞ。妹が泊まり来た時に使うベッドで申し訳ないですが」
「あ、ありがとう」
「では、おやすみなさい」
「え?」
「はい?」
「いえ、おやすみなさい」
 澤木くんは律儀に会釈をして去っていった。
「心が穢れているのはわたしのほうか……」
 この心がざわざわする感じはなに? とくんとくんと高鳴る鼓動の正体は一体──。
「いやぁハードル高すぎでしょ、澤木くんは」
 わたしの中でひとつだけ明確に変わったことは、澤木くんが──“ただの同期”ではなくなったということだ。


 ── 現在
 澤木くんとは仲のいい同期ってだけの関係で、澤木くんに惹かれているのに一歩踏み出す勇気が出ない。だってわたしは澤木くんが社長の息子だって知っているわけだし、『貴女もそれ目当てですか』ってそう思われるのがこわくて。今の関係が壊れて崩れるくらいなら、このままでいい。自分の本心を言わないのはもう慣れっこでしょ。
「──さん、仁村さん」
「あ、うん」
「飲み会、どうしますか」
「ああ、今日だっけ。行こうかな」
「そうですか、なら私も」
「うん」


 そしてわたしはこの日の飲み会で、とある理由があり── 泥酔した。

「ん……」
「おはようございます」
「ん~、おはよう」
 ん? 隣に体温を感じる、人のぬくもり……え? えっ!? わたしはゆっく~り隣に顔を向けた。うん、やっぱりいるよね、澤木くん。
「あ、あのぉ、わたしは一体何をしでかしたのでしょうか」
「散々でしたよ」
「はは、ですよね」
 真顔で見つめ合うわたしたち。至近距離で見る澤木くんのご尊顔は神々しく、お酒がまだ抜けきっていないわたしには眩しすぎた。
「冗談ですよ。私達はまだ何もしていません」
「そ、そっかよかったぁ、記憶が曖昧すぎちゃって……ん?」
「どうかしましたか?」
 “まだ”とは?
「いえ、なにも」
「そうですか。ところで身体の調子はどうですか? 無理に抱く趣味はないので」
「身体は全然平気だけど……って……ん?」
 今なんと?
「無理に抱く趣味はありません」
「……はい?」
「人の気も知らないで、焚き付けたのは仁村さんですよ」
「え?」
「終わらせましょうか」
 終わらせるって、なにを? わたし、澤木くんに嫌われるようなことしちゃった? 謝るから、なんでもするから、だからせめて仲のいい同期のままでいて、いさせてよ。
「終わらせるって……なにを?」
「この関係をです。それを望んだのは貴女でしょう」
「え……っ!?」
 なんでこうなった──?
 わたしの頬に大きな手をそっと優しく添え、おもむろに近づいてきた澤木くん。そして、わたしたちの唇は軽く触れ合った。
「どうして……」
「何も覚えていないなんて酷い人ですね」
「そ、それは本当にごめん」
「謝罪は結構です」
「んっ!?」
 澤木くんの舌がわたしの唇を割って入ってきた。わたしが逃げないよう後頭部に手を回し、しっかり押さえている。容赦なく降り注ぐ濃厚なキスがわたしを酔わせ、判断力を鈍らせる。もう、なにも考えられない。
 優しく丁寧に舌を絡めてくる澤木くんに応えるわたし。ただひたすらに、甘く深い口づけを交わしつづけた。
「んっ、澤木くんっ、もうむり」
 澤木くんが全然逃がしてくれない。まだまだ足りないとむさぼってくる。
「はぁっ、仁村さんはひどく甘いですね」
「そ、そんなこと……ちょ、澤木くんってば!」
「すみません仁村さん、もっと貴女が欲しい」
 わたしたちが唇を重ねて、舌を絡め合う音と吐息が澤木くんの寝室に響く。
 激しく貪り尽くすようなキスなのに、丁寧で優しさが溢れる澤木くんの口づけは、とても心地良い。そんなひどく甘い、蕩けそうなキスに溺れる。
「澤木くんっ、ストップ」
「もうギブですか?」
「……だめ、力入んない」
「すみません、仁村さんのせいで止められそうにありません。恨むならご自身の愛らしさを恨んでください」
「んっ!?」
 澤木くんは何度もわたしの唇を奪った。何回唇を重ねてもすごく丁寧で優しくて、わたしを大切に扱ってくれているのがとても伝わってくる。こんなの勘違いしちゃうよ、わたしに好意があるんじゃないかって。
 そもそもキスってこんな感じだった? こんなにも気持ちいいものなの? 口づけが幸せだなんて気持ち、わたしは今まで知らなかった。
 心も体も澤木くんで満たされていく── 全身が甘く絆されて、蕩けそうなキスにただただ溺れる。わたしの口の中を甘く犯していく澤木くんに胸が高鳴って苦しい。
「んっ」
 唇がゆっくり離れて、至近距離で見つめ合うわたしたち。
「仁村さん、私と結婚を前提にお付き合いしていただけませんか」
「結……婚……?」
「貴女と出会って、私がもたついている間にかなりの年月が過ぎてしまった。あの時、終電を逃したあの日の夜までは、貴女が幸せならそれでいい、貴女を幸せにするのは私じゃなくても貴女が笑っていられるのならそれでいいと、そう言い聞かせていました」
「澤木くん……」
 どういうこと、どういう状況? わたしはいま、澤木くんから告白されてる……?
「仁村さんのことが欲しくて欲しくてたまらない。貴女とこれからの人生を共に歩んでいきたい。貴女を幸せにするのは、私でありたい」
 嬉しいという感情より、驚きのあまり言葉を失って何も言えなくて、驚きすぎて涙が出てきちゃう。
「っ、ごめんっ、びっくりしちゃって」
「すみません、性急すぎました。ゆっくり考えてみてください」
 わたしの涙をそっと優しく拭ってくれている澤木くんの瞳がとても優しくて、愛おしいものを見つめる瞳そのものだった。
 過去を振り返ってみれば、ろくな恋愛をしてきていない。すべて相手が原因で別れてはいるけれど、きっとわたしにも落ち度はあった。深入りしないこの性格がいけなかったかもって自覚はある。
 澤木くんと付き合って、もしも別れることになったらわたし、もう二度と立ち直れないような気がする。澤木くんだけは失いたくなの。だって澤木くんは、わたしの特別だから。
「仁村さん。貴女が私のものになってもならなくても、私が貴女を大切にすることも想いつづけることも、何ら変わりはありません。私が興味あるのは、後にも先にも仁村さん、貴女しかいませんので」
「……わたし本当はすごく我儘かもよ」
「構いません」
「嫉妬して束縛とかして、めちゃくちゃ干渉するかもしれないよ」
「ええ、何も問題ありません」
「かまってちゃんでかなり面倒かもよ」
「愛らしいだけです」
 わたしは、澤木くんが好き──。
「わたし、澤木くんが何者で何者になろうが正直どうでもいいの。澤木くんが社長の息子だからとか、そういうことじゃなくて……」
「仁村さんがそういう人だってことは、随分と前から把握済みです。もしかして、そんなことを気にしてっ」
「そんなことじゃないし! 結構なことじゃない!? だって澤木くんの周りには地位とか容姿とか目当ての人たちが多かったって言ってたから、わたしもそう思われるんじゃないかって不安だったし、普通心配になるじゃん!」
「私はお伝えしたはずですが、“貴女は違った”“貴女に惹かれた”と」
「そんなことっ……そんなこと……」
 たしかに言われたな、言われてたな。
 そういう意味だったの?
「私が貴女のことを鈍いと言っている意味がこれでようやく理解できましたか?」
 思い返してみれば、とくにここ2年ほど澤木くんからアプローチがあったような? 鈍感にもほどがある。
「探さないでください」
 穴があったら入りたいわたしは、布団の中へ潜った。それを覗き込んでくる澤木くん。
「あまり可愛いことをしないでください。襲いますよ」
「だめ、心の準備が必要です」
「そんなこと言ってられなくなるほど貴女を愛す自信しかありませんけど。私以外のことなんて何も考えられなくなるほど、どろどろに愛したい。私の愛は重いですよ、覚悟しておいてくださいね」
 澤木くんの瞳が飢えた野獣のようにギラギラしていて、さっきのキスを思い出す。その先は……なんて想像したら頬がほんのり染まった。
「そんな物欲しそうな顔、私以外に見せないでくださいね」
 誰よ、澤木くんを童貞だなんて言った人は。
「仁村さん、愛しています」
 偽りのない、まっすぐな瞳。

 堅物同期は、わたしを甘く絆す──。