「さっさと四〇四号室まで見るぞ」

 将人が早口で告げ、ふたりは一階から三階までそうしたように、端から順に扉を開けて室内を確認する。

 四階もこれまでの部屋と同様だった。
若干インテリアの配置や壁紙の柄は異なるものの、ベッドとテーブルとテレビ、最低限の家具だけが配され、錆だらけのバスルームとトイレが隣接した部屋。
坂口はラブホテルに行ったことはないが、おおむねどこのラブホテルもこういうものなのだろう。
四〇一号室から四〇三号室まで確認し、残すは入ると呪われるという問題の四〇四号室を残すのみとなった。

 ふたり、どちらからともなく扉の前で足を止める。

「見た目は他の部屋と同じだな」

 クリーム色の扉はところどころ塗装が剥げ、錆が浮いているところもある。
将人がノブを回すと、ぎいいいい、と耳障りな音が響く。

 将人に続き、意を決して中に入った。

 血のように真っ赤な絨毯が剥がれていた。天井の照明が割れていた。ガラスのない窓が開け放たれ、風雨に晒されたカーテンがびりびりに破けていた。
まさしく廃墟のラブホテルという感じの不気味な部屋だが、これといって変わったところはない。
早く立ち去りたい気持ちを抑えながらバスルームとトイレを確認する。中に晴彦はおらず、誰かが立ち入った痕跡もない。

「坂口、これ」
 将人が手招きをする。将人はスマホのライトを、ベッドの下部にかざしていた。

「これ、血っぽくないか?」

 茶色い染みが点々とシーツに散らばっていて、息を呑んだ。たしかにそれは血痕のように見える。
血が乾いて何十年もの時が経過したら、こんな色になるのかもしれない。
心臓がサイレンのように身体の中央で暴れ回る。坂口はシーツから目を逸らした。

「わからないけど、そうみたいだね」
「あと、この床のへこみ、気にならないか?」

 将人がスマホのライトで床をかざすと、劣化した床に長く置いていたものを動かしたような跡があった。わずかにへこんで、白っぽくなっている。

「ベッドか何か動かしたのかね」
「そんなことをする意味がわからない」
「たしかに。でもとにかく、ここにハルはいなさそう」

 その時、こちらに近づいてくる足音を耳にした。


 ずるっ ずるっ ずるっ ずるっ


 すり足気味の、何かを引きずるような足音だった。Kパパのブログ記事を思い出す。あれとまったく同じ状況に、ふたりは身をこわばらせた。


 ずるっ ずるっ ずるっ ずるっ


 足音は少しずつこちらに近づいてくる。
あまりの動揺に坂口の喉があっという間にひからびていく。これは霊か、それとも人か。
 たとえ人だとしても、こんなところに現れる人間はまともな神経の人間ではないだろう。


 ずるっ ずるっ ずるっ ずるっ


 足音が耳のそばで聞こえているように近くまで来た時、将人がさっと部屋を飛び出した。

「将人!!」

 すり足気味の足音が廊下を遠ざかり、将人がそれを追う。
坂口もたまらず、将人を追った。
非常階段に出ると建物に遮られていた夏の強靭な日差しが一気に照らし、白い光がすり足の持ち主を浮かび上がらせた。

 ちゃんと足があった。

 真夏だというのにぼろぼろの黒いコートを着たその男は、二階の踊り場で派手にすっ転んだ。
すぐに将人が追いつき、息を切らせた坂口も踊り場にたどり着いた。男が腰をさすりながら身を起こす。

「トラップを仕掛けておいたんだ」
 やや得意そうに将人は言った。

「ブログ記事を見て、もしここに誰かが棲みついてるならどうしても話を聞きたくて。ちょっと乱暴な手段を取らせてもらったけど」

 将人の手が踊り場の途中に転がった空き缶を拾い上げる。

 男がこちらを向いた。ところどころ白くなった髭をたっぷりと蓄え、髪の毛にはフケがびっしりとこびりついている。いかにも浮浪者然とした出でたちに、やはりまともな人間ではなかった、と坂口は思う。

「ちょっと脅かそうとしただけじゃねえか、こんな年寄りを転ばすなんてあんた、鬼だな」

 声とその容貌からして、男は六十を超えているだろう。ようやく立ち上がり、ぱんぱんと転んだ時コートについた泥を手で払う。

「お前、名前は」
 将人が低い声を出し、男が眉を持ち上げる。

「なんだよ、警察の尋問みてえだな」
「いいから答えろ」
「……戸(と)倉(くら)」
「下の名前は?」
「戸倉浩(こう)司(じ)、だよ」

 偽名のようには思えないが、この様子だと身分証は持っていないだろう。
 戸倉はやれやれと肩をすくめ、将人と坂口を交互に見比べてから言う。

「兄ちゃんたちもどうせ肝試しに来たんだろ? ここ、心霊スポットだからな。やってくる若い連中を怖がらせるのが趣味なんだ、他に楽しいことがねえんだからしょうがねえだろ。別に危害は加えてないしな」

「ここに住んでるんですか」

 坂口の純粋な疑問に、そうだよ、と戸倉は面倒くさそうに返事をする。

「駅とか公園とかにいると、何日かすれば必ず通報されて追い出されるからな。ここはいいぞ、まず警察も来ねえからな」
「この人に見覚えはないですか」

 坂口がスマホの画面に晴彦の写真を表示させ、押しやる。戸倉は知らねえ、と首を振る。

「ここに来てしばらくして、行方がわからなくなったんです。この場所に何かがあると思って調べに来ました。知っていること、なんでも教えてください」

「知ってること、って言われてもなあ。俺が知ってるのはここが廃墟だってことと、昔事件が起こったことくらいだよ。女子高生が産みたての赤ん坊を殺した事件。たしかあの赤ん坊が死んでたのは、四〇三号室だったんじゃねえかな」

 四〇三号室というと、四〇四号室の隣だ。坂口が見たところ、あの部屋には別段変わったことはなかった。むしろ赤ん坊が死んでいたのが四〇三号室だとしたら、四〇四号室のベッドにあった血痕は、いつ誰がつけたものなのだろう。

「何かわかったことがあったらここに連絡してください」
 手帳のページを破り、スマホの番号を書き込んで渡すと、戸倉は苦い笑みを浮かべた。

「連絡つっても俺、携帯持ってねえんだけどな。まあ今度来る時は、酒でも持ってきてくれよ」
 戸倉に軽く挨拶をして別れる。帰りの車の中、ハンドルを握る将人に坂口は言う。

「ブログにあった足音の主も、あそこで誰かの気配がするっていう噂も、正体は戸倉だと思う」
「俺もそう思う」

 だが、しかし。
 それだけで地獄館にまつわるすべての怪異に説明がつくわけではない。
 赤ん坊の声も、見えたという首を吊った女も、Kパパのブログの妙なコメントやこちらを睨みつける男の写真も。何より戸倉に訪れた人間を次から次へと行方不明にさせる力はないだろう。

「あんまりこういうことは信じねえけど」
 そう前置きした後、将人は言った。

「やっぱりあの地獄館はおかしいよ。何か、変なものがまとわりついてるとしか思えない。ハルは連れていかれた、そう解釈するのが自然だと思う」
「そんな。ハルを取り戻す方法はないの」
「いろいろ考えたけど、ひとつしかない」

 坂口のまっすぐな視線を将人はしっかりと受け止めていた。

「プロの手を借りるんだ」





 霊媒師についてネット検索をかけると、いくつかの情報がヒットした。
どれも怪しげなサイトで料金についてもはっきりしないものが多かったが、近辺で活動している霊媒師は何人かいるらしい。
お祓い一件十万円と出てきて坂口と将人は眉をひそめた。

 次に会う時までに信用できる霊媒師をお互い調べておく、と約束してふたりは別れた。
将人の車でアパートの前まで送ってもらい、部屋に入る。密閉された部屋にはむわっとした熱気が漂っていて反射的にエアコンをつけた。冷房が効いてくると、ゆだっていた頭が少しずつ冷やされていく。

 将人が言うように、坂口も地獄館はおかしい場所だと思っている。
晴彦の他にも何人もの人間があそこを訪れた後行方不明になっているのは、単なる偶然とは片付けにくい。
幽霊や呪いの類は信じない坂口だが、あそこに何かがあるのは間違いないと確信していた。
四〇四号室に立ち入った時に感じた、あのなんとも形容しがたい不快感。
信じる信じないとは別に、本能が何かを警告していた。

 スマホでブラウザを立ち上げ、地獄館で検索をかける。
既に何度も試した行為だが、画面をスクロールさせていくといくつか目新しい情報があった。
地獄館を訪れた後正体不明の女が現れるようになったとか、なぜか怪我や不幸が続くとか、真偽不明の情報が溢れている。
そのうちのいくつかは噂を面白がる人間のでっちあげなのだなと思いつつも、気になる書き込みを見つけた。

それは「地獄姉さん」について書かれているものだった。