まだ後期の授業が始まっていないので、大学のカフェテリアは閑散としていた。
少し離れたところでサークル活動だろう、女子のグループが何かを話し合っている。
「じゃあ、浅村紫帆を殺したのはまず古津賀次郎で間違いないと」
今日将人と会ったのは、昨日智紗子と会ったことを話すためだ。
坂口の話に真剣に耳を傾けた後、将人は同意を求めるように言った。
「まずそうだと思う。捕まってないのは決定的な証拠がないことと、警察が本気で捜査してないからだって智紗子さんは思ってるみたい」
「それはあるだろうな。海外で、売春婦ばかり狙って次々殺された事件があったけど、警察がなかなか本気で捜査しなくて、被害がひどくなった例もある。日本の警察も、大して変わらないだろ」
そんなものなのか、と苦い思いを呑み込むようにアイスコーヒーを口に運ぶ。
誰かが面白いことを言ったのか、サークル活動中の女子たちが花火が散るようにどっと笑った。
「なあ、もう一度地獄館に行ってみないか?」
「別にいいけど……なんで?」
「現場百回、っていうだろ。まだ俺たちが見過ごしていることがあるかもしれない」
将人が名探偵のような口調で言った。
将人の車で向かった地獄館はこの前よりもいっそうセイタカアワダチソウの背丈が高くなり、あたりはツクツクボウシの声が嵐のように鳴り響いて、相変わらず建物自体は忘れ去られた廃墟の様相を呈していた。
一歩入るとやはり湿ったカビのにおいが鼻をつき、思わず顔をしかめてしまう。
将人が先に行き、坂口が後に続いた。ふたりはまっすぐ、四〇四号室へ向かっていた。内部はこの前とほとんど変わらなかったが、つい先ほどまで誰かが寝ていたように、ベッドがへこんでいる。
「戸倉さんがここで寝てたんだろうね」
「ああ、あいつはここを根城にしてるみたいだからな」
将人が言って、スマホで部屋のなかのあちこちを撮影していく。そこにある手がかりを掬(すく)い取ろうとするように、目が真剣だった。
「浅村紫帆が殺された理由はわかったし、幽霊になっていつまでも成仏できないのもうなずける。でも犯人の古津賀次郎は、どこに行ったんだろう?」
「長く逃げ続けている犯人が捕まらない場合、死んでいることもある。昔、指名手配犯が死んでから見つかって、そいつには一緒に暮らしてる女がいた。顔が変わりすぎていて、その女も一緒にいる男が指名手配犯だって、気づかなかったらしい」
「そんな事件があったんだ」
将人のリサーチ力に驚いた。もちろん今の時代、そんなことはネットを使えばすぐ調べられるんだろうが、地獄館にばかり夢中の坂口は、他の事件にまで目を向けようとも思わなかった。
「人って誰でも歳を取ると見かけが変わるし、痩せたり太ったりしてもけっこう違うもんだよ。ましてや変装していたりしたら、まずわからない。
それでもときどき長年逃げ続けてた犯人が捕まることもあるから、警察の力ってすごいよな。
まあ浅村紫帆の事件の場合は、その警察が本気になってないとしか思えないけど。
客に嘘ついて貢がせてた被害者のほうにも落ち度があるし、殺されても仕方ないって思われたんだろうな」
「そんなこと」
そんなことない、と言えなかった。浅村紫帆の嘘がわかった時、たしかに古津賀は傷ついただろう。
だからって殺してしまうのは思考と行動が飛躍しすぎているが、古津賀はそれだけ純真に、熱心に、浅村紫帆を想っていたのだと坂口は思う。
その気持ちに浅村紫帆がつけ込んだことは事実だ。
「俺だってさ、被害者のほうが悪いなんて言いたくないし、殺した古津賀は馬鹿だと思うよ。でも坂口さ、すべての原因は浅村紫帆にあるって思わないか?」
「どういうこと?」
「一連の事件は、浅村紫帆が殺されたことから起こってるんだよ。関内杏子の自殺も、今住美佳子の事件もその後に起こったこと。浅村紫帆の霊が地獄館に棲みついて、不幸を呼び込んでるとしか俺には思えないけど。もちろん、ハルのことも」
生前の晴彦に最後に会った時のことを思い出し、胸が詰まった。晴彦はもう、大好きなアニメを見て笑うことはできないのだ。
「もとはといえば自分が悪いくせに、ずっとこの世に留まって、次々不幸を呼び込んで、その上生きてる人間にまで怨念をまき散らすなんて、すごい自己中じゃん。死んでから浅村紫帆がやってることは、犯罪者みたいなもんだよ」
「そう……かもしれないけど」
「なんだよ。浅村紫帆と仲がよかった智紗子さんに会ったからって、浅村紫帆に肩入れするのか?」
「そういうわけじゃない、けど」
生前の浅村紫帆がひどいことをしていたのは事実だ。
殺された恨みがあるとはいえ、その後ずっと地獄館に留まり続け、次々不幸を呼び込むのは将人の言うとおり、犯罪ものだろう。幽霊に犯罪という概念があるのかはわからないが。
しかし、小鳥オムレツのようなかわいいキャラクターを集めていた浅村紫帆のことを、まったくの悪人だとも坂口には思えないのだった。
ずるっ、ずるっとすり足気味の足音が近づいてきて、ふたりは耳を澄ませた。
正体がわかっているので恐怖はないが、戸倉に会うのがあれ以来だから身構えてしまう。
「なんだあんたたち、また来たのか」
ドアを開けて入ってきた戸倉は、坂口と将人をかわるがわる見て、呆れたような顔をした。
今日もボロ雑巾のようなぼろぼろの服を着て、靴にいたってはつま先が破れている。
この前は気づかなかったが、腰のところに黄色いキーホルダーを提げていた。
「それ、どうしたんですか」
坂口が指摘すると、戸倉は一瞬だけ眉をひそめた後答えた。
「昔の彼女とお揃いで持ってたんだよ」
「……そうですか」
「なんだよ、俺に女がいたことがあったら悪いのか」
「別にそんなことは言ってないです」
戸倉はふん、とつまらなそうな顔をして、ポケットから煙草の吸い殻を出した。
不良たちが捨てていったものを拾ったのだろう。火をくれ、と言いだすので、ふたりとも持ってないと言うと、なんだよと露骨に声を尖らせた。
「戸倉さんは、ずっとここで暮らしてるんですよね?」
「ずっとじゃねえよ、ここ十年くらいだな」
「そんなに長くいたら、この場所で起こった過去の事件も知ってるんじゃないですか。一九九五年に、キャバ嬢が殺された事件とか」
将人が驚いた顔で坂口を見ている。おとなしい坂口がホームレス相手によどみなくしゃべるのが意外だったのだろう。戸倉は不機嫌そうに眉を持ち上げ、言った。
「知ってるよ。それがなんだ」
「怖くないんですか。その後もこの地獄館では事件が起こってますし、よくそんな場所に棲みつく気になれますね」
「幽霊なんて所詮人間の頭のなかにあるだけの幻じゃねえか。そんなもの信じるやつは馬鹿だね」
まさにその幽霊によって晴彦は死んだのだと坂口は思っているが、反論するのも面倒くさく「そうですね」と受け流した。
「近々、また来ます。あなたからはまだ聞けることがありそうなので」
そう言い残して去る坂口に、戸倉が警戒するような視線を当てていた。
少し離れたところでサークル活動だろう、女子のグループが何かを話し合っている。
「じゃあ、浅村紫帆を殺したのはまず古津賀次郎で間違いないと」
今日将人と会ったのは、昨日智紗子と会ったことを話すためだ。
坂口の話に真剣に耳を傾けた後、将人は同意を求めるように言った。
「まずそうだと思う。捕まってないのは決定的な証拠がないことと、警察が本気で捜査してないからだって智紗子さんは思ってるみたい」
「それはあるだろうな。海外で、売春婦ばかり狙って次々殺された事件があったけど、警察がなかなか本気で捜査しなくて、被害がひどくなった例もある。日本の警察も、大して変わらないだろ」
そんなものなのか、と苦い思いを呑み込むようにアイスコーヒーを口に運ぶ。
誰かが面白いことを言ったのか、サークル活動中の女子たちが花火が散るようにどっと笑った。
「なあ、もう一度地獄館に行ってみないか?」
「別にいいけど……なんで?」
「現場百回、っていうだろ。まだ俺たちが見過ごしていることがあるかもしれない」
将人が名探偵のような口調で言った。
将人の車で向かった地獄館はこの前よりもいっそうセイタカアワダチソウの背丈が高くなり、あたりはツクツクボウシの声が嵐のように鳴り響いて、相変わらず建物自体は忘れ去られた廃墟の様相を呈していた。
一歩入るとやはり湿ったカビのにおいが鼻をつき、思わず顔をしかめてしまう。
将人が先に行き、坂口が後に続いた。ふたりはまっすぐ、四〇四号室へ向かっていた。内部はこの前とほとんど変わらなかったが、つい先ほどまで誰かが寝ていたように、ベッドがへこんでいる。
「戸倉さんがここで寝てたんだろうね」
「ああ、あいつはここを根城にしてるみたいだからな」
将人が言って、スマホで部屋のなかのあちこちを撮影していく。そこにある手がかりを掬(すく)い取ろうとするように、目が真剣だった。
「浅村紫帆が殺された理由はわかったし、幽霊になっていつまでも成仏できないのもうなずける。でも犯人の古津賀次郎は、どこに行ったんだろう?」
「長く逃げ続けている犯人が捕まらない場合、死んでいることもある。昔、指名手配犯が死んでから見つかって、そいつには一緒に暮らしてる女がいた。顔が変わりすぎていて、その女も一緒にいる男が指名手配犯だって、気づかなかったらしい」
「そんな事件があったんだ」
将人のリサーチ力に驚いた。もちろん今の時代、そんなことはネットを使えばすぐ調べられるんだろうが、地獄館にばかり夢中の坂口は、他の事件にまで目を向けようとも思わなかった。
「人って誰でも歳を取ると見かけが変わるし、痩せたり太ったりしてもけっこう違うもんだよ。ましてや変装していたりしたら、まずわからない。
それでもときどき長年逃げ続けてた犯人が捕まることもあるから、警察の力ってすごいよな。
まあ浅村紫帆の事件の場合は、その警察が本気になってないとしか思えないけど。
客に嘘ついて貢がせてた被害者のほうにも落ち度があるし、殺されても仕方ないって思われたんだろうな」
「そんなこと」
そんなことない、と言えなかった。浅村紫帆の嘘がわかった時、たしかに古津賀は傷ついただろう。
だからって殺してしまうのは思考と行動が飛躍しすぎているが、古津賀はそれだけ純真に、熱心に、浅村紫帆を想っていたのだと坂口は思う。
その気持ちに浅村紫帆がつけ込んだことは事実だ。
「俺だってさ、被害者のほうが悪いなんて言いたくないし、殺した古津賀は馬鹿だと思うよ。でも坂口さ、すべての原因は浅村紫帆にあるって思わないか?」
「どういうこと?」
「一連の事件は、浅村紫帆が殺されたことから起こってるんだよ。関内杏子の自殺も、今住美佳子の事件もその後に起こったこと。浅村紫帆の霊が地獄館に棲みついて、不幸を呼び込んでるとしか俺には思えないけど。もちろん、ハルのことも」
生前の晴彦に最後に会った時のことを思い出し、胸が詰まった。晴彦はもう、大好きなアニメを見て笑うことはできないのだ。
「もとはといえば自分が悪いくせに、ずっとこの世に留まって、次々不幸を呼び込んで、その上生きてる人間にまで怨念をまき散らすなんて、すごい自己中じゃん。死んでから浅村紫帆がやってることは、犯罪者みたいなもんだよ」
「そう……かもしれないけど」
「なんだよ。浅村紫帆と仲がよかった智紗子さんに会ったからって、浅村紫帆に肩入れするのか?」
「そういうわけじゃない、けど」
生前の浅村紫帆がひどいことをしていたのは事実だ。
殺された恨みがあるとはいえ、その後ずっと地獄館に留まり続け、次々不幸を呼び込むのは将人の言うとおり、犯罪ものだろう。幽霊に犯罪という概念があるのかはわからないが。
しかし、小鳥オムレツのようなかわいいキャラクターを集めていた浅村紫帆のことを、まったくの悪人だとも坂口には思えないのだった。
ずるっ、ずるっとすり足気味の足音が近づいてきて、ふたりは耳を澄ませた。
正体がわかっているので恐怖はないが、戸倉に会うのがあれ以来だから身構えてしまう。
「なんだあんたたち、また来たのか」
ドアを開けて入ってきた戸倉は、坂口と将人をかわるがわる見て、呆れたような顔をした。
今日もボロ雑巾のようなぼろぼろの服を着て、靴にいたってはつま先が破れている。
この前は気づかなかったが、腰のところに黄色いキーホルダーを提げていた。
「それ、どうしたんですか」
坂口が指摘すると、戸倉は一瞬だけ眉をひそめた後答えた。
「昔の彼女とお揃いで持ってたんだよ」
「……そうですか」
「なんだよ、俺に女がいたことがあったら悪いのか」
「別にそんなことは言ってないです」
戸倉はふん、とつまらなそうな顔をして、ポケットから煙草の吸い殻を出した。
不良たちが捨てていったものを拾ったのだろう。火をくれ、と言いだすので、ふたりとも持ってないと言うと、なんだよと露骨に声を尖らせた。
「戸倉さんは、ずっとここで暮らしてるんですよね?」
「ずっとじゃねえよ、ここ十年くらいだな」
「そんなに長くいたら、この場所で起こった過去の事件も知ってるんじゃないですか。一九九五年に、キャバ嬢が殺された事件とか」
将人が驚いた顔で坂口を見ている。おとなしい坂口がホームレス相手によどみなくしゃべるのが意外だったのだろう。戸倉は不機嫌そうに眉を持ち上げ、言った。
「知ってるよ。それがなんだ」
「怖くないんですか。その後もこの地獄館では事件が起こってますし、よくそんな場所に棲みつく気になれますね」
「幽霊なんて所詮人間の頭のなかにあるだけの幻じゃねえか。そんなもの信じるやつは馬鹿だね」
まさにその幽霊によって晴彦は死んだのだと坂口は思っているが、反論するのも面倒くさく「そうですね」と受け流した。
「近々、また来ます。あなたからはまだ聞けることがありそうなので」
そう言い残して去る坂口に、戸倉が警戒するような視線を当てていた。



