坂口が地獄館の過去についてさらに調べていると、三十年前の事件に行き当たった。
地獄館で殺された二十四歳のホステス、浅村紫帆。
全身を切りつけられて亡くなった彼女の事件は犯人が未だに見つからず、未解決となっている。
凶器は紫帆の腹に刺さったままの包丁で、犯人は手袋をしており指紋が特定されていない。計画的な殺人だったのだろう。
浅村紫帆について調べた坂口は、キャバクラで働いていた彼女の同僚だった深(み)山(やま)智紗子の存在を突き止めた。
深山智紗子は水商売の世界から足を洗い、都内で映像制作会社を営んでいた。
深山智紗子の会社に電話をかけてアポイントを取り、会社のある新宿区に向かう。
地下鉄を乗り継いでたどり着いた街は、新宿中心部の繁華街の賑わいから外れた、小さな商店やオフィスが建ち並ぶどちらかというと下町然とした雰囲気だった。
深山智紗子のオフィスは古びた茶色いビルの三階にあった。
出迎えた智紗子は坂口の親と同じくらいの歳のはずなのに若々しく、昔水商売をしていたというのがうなずける、華やかさがあった。
「坂口さんね。こちらへどうぞ」
「すみません、押しかける形になってしまって」
「いえいえ。つらいことがあったばかりなのに、大変ね」
あらかじめ、智紗子には電話でこれまでのことを軽く話してあった。
地獄館について調べている理由と晴彦の行方不明、その悲しい結果。晴彦がいなくなった今となっても、坂口は晴彦にとり憑いたものがなんなのか、真相を探らずにはいられなかった。
「紫帆のことをこうして人に話すのは何年ぶりかしらねえ」
ふたり分のコーヒーを出しながら智紗子は感慨深そうに言った。
「事件のあとは警察にもいろいろ聞かれたけれど、結局犯人は捕まらないし、私もキャバを辞めてからは日常に追われてて、悲しみも薄らいできちゃって。でもせっかくこの仕事を始めたから、事件を風化させたくなくてね。昔、あの事件を想起させるようなビデオを作ったこともあったのよ。企画書と脚本を作って、AVメーカーに持ち込んだら、斬新で面白いんじゃないかって」
「そう、なんですか」
そんなものがあることは知らなかった。智紗子はこくりとうなずく。
「パッケージを普通のAVとして売り出しちゃったから、大ブーイングでね。結局あんまり売れなかったんだけど。でもその後ホラー系の依頼がぼつぼつ入るようになって、まあこの不景気でもなんとかやっていけてるかな。ああ、そうじゃなくて、紫帆のことよね」
コーヒーにちらっと口をつけた後、智紗子は語り出す。
「紫帆は私のひとつ下で、私があの店に入って半年後くらいに勤めだしたから後輩にあたるんだけど。正直、あんまりいいキャバ嬢じゃなかったわ。
なんていうかその、自分大好きっていうのかな。もちろんそんな子たくさんいるし、特に若いうちはそういうものだとは思うけれど、それでも群を抜いて自己中なのよ。他の女の子の客を奪ったとか、そういうトラブルも絶えなかったし」
「そう、なんですね」
ネットに出回っている紫帆の写真からは、たしかに気の強さが伺えたし、自己中心的な人間にありがちの歪んだ目の光があった。もちろんだからといって、殺されていい理由にはならないのだが。
「でも、私は好きだったわよ。自分大好きっていうのを隠そうともしないその正直さがね。むしろ人間らしいじゃない? 紫帆とは店で会うだけじゃなくて、一緒にご飯を食べたり飲みに行ったりもしてたの。
あの子、他の女の子には嫌われてたから、友だちは私ぐらいだったんじゃないかな。そうそう、紫帆はブランドものが大好きだったけど、キャラクターグッズも好きだったの。小鳥オムレツって知ってる?」
「知らないです。何かのキャラクターですか?」
「若い人は知らないかもね。九十年代の前半、流行ってたのよ。紫帆はその小鳥オムレツが好きで、グッズを集めてた。そう、こういうのとか、こういうのとか」
故人を懐かしむような表情でスマホを見せてくる。お皿にのった小鳥をモチーフにしたキャラクターのようで、腹部がオムレツのようなきれいな黄色をしている。
「つまり、かわいい一面もあったということですね」
「そうなの。私からしたら、かわいい後輩で、友だちだった。だから、殺されたって知った時はショックだったわよ。その反面、いつかはこうなってたのかもな、っていう気持ちもあったけど」
「それはどういうことですか」
ためらうような間の後、智紗子は神妙な調子で語りだした。
「変な客に当たっちゃったのよね、あの子。古(こ)津(つ)賀(か)次郎っていうんだけど。
最初にあの人が来た時、一緒のテーブルについたから覚えてる。
けっこういい会社に勤めてたみたいだけど、いかにも真面目で恋愛経験がなくて、まあキャバ嬢からしたらいいカモよね。
紫帆はあっさり古津賀を自分の客にして、貢がせだした。
毎晩のように通ってきて高いシャンパンをがんがん入れるから、紫帆は一気に羽振りがよくなって。
他の子たちは太客つかまえて羨ましいって言ってたけど、正直、私はその時から悪い予感がしてた」
古津賀次郎、という名前を坂口は手元のメモに書きつけた。真面目で平凡な、もさっとした感じの男が頭に浮かんだ。
「ある日、古津賀は店に来るなり、テーブルの上に婚姻届を広げて、指輪を出してきて紫帆にプロポーズしたの。僕と結婚してくれ、って」
「そういうことはよくあるんでしょうか?」
「キャバ嬢に本気になる男はたまにいるけれど、店内でプロポーズしたやつなんてはじめてよ。私、びっくりしちゃってね。紫帆がどうするのかと思って見てたら、あの子『親が死んで、それで親が生前に作った借金を返すために働いてる』なんて言いだすの。そのお金を返済し終えないと結婚できないって」
「……古津賀さんはどう答えたんですか?」
「そういうことなら、僕が君を支える。ぜったいにこの世界から救い出してあげる、なんて言いだした」
絵に描いたような転落の序章だった。古津賀も古津賀だが、紫帆も紫帆である。坂口が声も出せずにいると、智紗子は馬鹿みたいでしょ、と言い放った。
「馬鹿みたいでしょふたりとも。私ね、紫帆にはっきり言ったのよ。あの男はおかしい、目が完全にイッちゃってて、本気だった。
あんな男を客として引っ張り続けたら、いつかひどい目に遭うよ、って。
だいたいあんたのやってることはキャバ嬢としての仕事を越えて、詐欺罪にあたるよって。
だってそうでしょ、嘘をついてお金を貢がせてるんだもの。嘘がバレて、相手に訴えられたら大変よ」
「それで、紫帆さんは?」
「もちろんあの子のことだもの、私の忠告なんて聞いてくれなかった。
智紗子さん大げさですね、そんなんだから指名取れないんですよなんて言いだす始末。頭きちゃってね。
それで放っておいたら、紫帆はよりいっそう羽振りがよくなった。古津賀からさらに貢いでもらってたみたい。そしたら殺されちゃうんだもの」
「……その状況だと、犯人は古津賀さん以外考えられませんよね」
智紗子が深くうなずいた。怪しい人間はひとりしかいないのに捕まらず、指名手配さえされてないのはどうしてだろう。坂口の疑問を読み取ったように、智紗子は言った。
「でも決定的な証拠がないみたいなのよね。包丁で切りつけられたっていうけれど、手袋をしていたみたいで指紋が採取できないし、怪しいっていう状況証拠ばかりで、決定的に古津賀がやった、っていう証拠がないの。古津賀は事件の後、行方をくらませてるわ」
「そんなの、自分がやったって言ってるようなものじゃないですか」
「そうなのよ。でも警察はまだ古津賀を逮捕できていない。なんでだと思う?」
智紗子が坂口の目を深く覗き込む。わかりません、と言うと智紗子は腹立たしげに言った。
「殺されたのがキャバ嬢だからよ。水商売なんて遊んでお金がもらえるみたいな仕事について、男を騙して殺されるなんて自業自得だって、警察は思ってるのよ。
紫帆のことだけじゃないわ、夜の世界の人間が事件に遭うと、ちゃんと捜査してもらえないことっていっぱいあるのよね。
馬鹿にしてるのよ警察たちは。たしかに紫帆はいい人間じゃなかったかもしれない。
でも、いい人間じゃないからって、殺されていいことにはならないでしょう?」
「僕もそう思います」
そこで智紗子はふっと表情を緩めた。
「あなた、自分のこと僕っていうのね」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。でもね、正直私がキャバを辞めた理由はそれもある。
いつまでも世間から馬鹿にされて、見下される仕事なんてしたくないって。
同僚には結婚して辞めた子もいるけれど、私は結婚に興味を持てなかったし、自分の手でビジネスしたいってずっと思ってたから、興味のあるこの世界に飛び込んだの。
そこまで成功してるわけじゃないけど、今は毎日が充実してるわ。おかげさまで、忙しいしね」
智紗子の佇まいや振る舞いが自信に溢れているのは、ちゃんと自分の足で立って、自分の力で生きているからなのだろう。
そういう女性はすごいと、坂口は素直に思う。
地獄館で殺された二十四歳のホステス、浅村紫帆。
全身を切りつけられて亡くなった彼女の事件は犯人が未だに見つからず、未解決となっている。
凶器は紫帆の腹に刺さったままの包丁で、犯人は手袋をしており指紋が特定されていない。計画的な殺人だったのだろう。
浅村紫帆について調べた坂口は、キャバクラで働いていた彼女の同僚だった深(み)山(やま)智紗子の存在を突き止めた。
深山智紗子は水商売の世界から足を洗い、都内で映像制作会社を営んでいた。
深山智紗子の会社に電話をかけてアポイントを取り、会社のある新宿区に向かう。
地下鉄を乗り継いでたどり着いた街は、新宿中心部の繁華街の賑わいから外れた、小さな商店やオフィスが建ち並ぶどちらかというと下町然とした雰囲気だった。
深山智紗子のオフィスは古びた茶色いビルの三階にあった。
出迎えた智紗子は坂口の親と同じくらいの歳のはずなのに若々しく、昔水商売をしていたというのがうなずける、華やかさがあった。
「坂口さんね。こちらへどうぞ」
「すみません、押しかける形になってしまって」
「いえいえ。つらいことがあったばかりなのに、大変ね」
あらかじめ、智紗子には電話でこれまでのことを軽く話してあった。
地獄館について調べている理由と晴彦の行方不明、その悲しい結果。晴彦がいなくなった今となっても、坂口は晴彦にとり憑いたものがなんなのか、真相を探らずにはいられなかった。
「紫帆のことをこうして人に話すのは何年ぶりかしらねえ」
ふたり分のコーヒーを出しながら智紗子は感慨深そうに言った。
「事件のあとは警察にもいろいろ聞かれたけれど、結局犯人は捕まらないし、私もキャバを辞めてからは日常に追われてて、悲しみも薄らいできちゃって。でもせっかくこの仕事を始めたから、事件を風化させたくなくてね。昔、あの事件を想起させるようなビデオを作ったこともあったのよ。企画書と脚本を作って、AVメーカーに持ち込んだら、斬新で面白いんじゃないかって」
「そう、なんですか」
そんなものがあることは知らなかった。智紗子はこくりとうなずく。
「パッケージを普通のAVとして売り出しちゃったから、大ブーイングでね。結局あんまり売れなかったんだけど。でもその後ホラー系の依頼がぼつぼつ入るようになって、まあこの不景気でもなんとかやっていけてるかな。ああ、そうじゃなくて、紫帆のことよね」
コーヒーにちらっと口をつけた後、智紗子は語り出す。
「紫帆は私のひとつ下で、私があの店に入って半年後くらいに勤めだしたから後輩にあたるんだけど。正直、あんまりいいキャバ嬢じゃなかったわ。
なんていうかその、自分大好きっていうのかな。もちろんそんな子たくさんいるし、特に若いうちはそういうものだとは思うけれど、それでも群を抜いて自己中なのよ。他の女の子の客を奪ったとか、そういうトラブルも絶えなかったし」
「そう、なんですね」
ネットに出回っている紫帆の写真からは、たしかに気の強さが伺えたし、自己中心的な人間にありがちの歪んだ目の光があった。もちろんだからといって、殺されていい理由にはならないのだが。
「でも、私は好きだったわよ。自分大好きっていうのを隠そうともしないその正直さがね。むしろ人間らしいじゃない? 紫帆とは店で会うだけじゃなくて、一緒にご飯を食べたり飲みに行ったりもしてたの。
あの子、他の女の子には嫌われてたから、友だちは私ぐらいだったんじゃないかな。そうそう、紫帆はブランドものが大好きだったけど、キャラクターグッズも好きだったの。小鳥オムレツって知ってる?」
「知らないです。何かのキャラクターですか?」
「若い人は知らないかもね。九十年代の前半、流行ってたのよ。紫帆はその小鳥オムレツが好きで、グッズを集めてた。そう、こういうのとか、こういうのとか」
故人を懐かしむような表情でスマホを見せてくる。お皿にのった小鳥をモチーフにしたキャラクターのようで、腹部がオムレツのようなきれいな黄色をしている。
「つまり、かわいい一面もあったということですね」
「そうなの。私からしたら、かわいい後輩で、友だちだった。だから、殺されたって知った時はショックだったわよ。その反面、いつかはこうなってたのかもな、っていう気持ちもあったけど」
「それはどういうことですか」
ためらうような間の後、智紗子は神妙な調子で語りだした。
「変な客に当たっちゃったのよね、あの子。古(こ)津(つ)賀(か)次郎っていうんだけど。
最初にあの人が来た時、一緒のテーブルについたから覚えてる。
けっこういい会社に勤めてたみたいだけど、いかにも真面目で恋愛経験がなくて、まあキャバ嬢からしたらいいカモよね。
紫帆はあっさり古津賀を自分の客にして、貢がせだした。
毎晩のように通ってきて高いシャンパンをがんがん入れるから、紫帆は一気に羽振りがよくなって。
他の子たちは太客つかまえて羨ましいって言ってたけど、正直、私はその時から悪い予感がしてた」
古津賀次郎、という名前を坂口は手元のメモに書きつけた。真面目で平凡な、もさっとした感じの男が頭に浮かんだ。
「ある日、古津賀は店に来るなり、テーブルの上に婚姻届を広げて、指輪を出してきて紫帆にプロポーズしたの。僕と結婚してくれ、って」
「そういうことはよくあるんでしょうか?」
「キャバ嬢に本気になる男はたまにいるけれど、店内でプロポーズしたやつなんてはじめてよ。私、びっくりしちゃってね。紫帆がどうするのかと思って見てたら、あの子『親が死んで、それで親が生前に作った借金を返すために働いてる』なんて言いだすの。そのお金を返済し終えないと結婚できないって」
「……古津賀さんはどう答えたんですか?」
「そういうことなら、僕が君を支える。ぜったいにこの世界から救い出してあげる、なんて言いだした」
絵に描いたような転落の序章だった。古津賀も古津賀だが、紫帆も紫帆である。坂口が声も出せずにいると、智紗子は馬鹿みたいでしょ、と言い放った。
「馬鹿みたいでしょふたりとも。私ね、紫帆にはっきり言ったのよ。あの男はおかしい、目が完全にイッちゃってて、本気だった。
あんな男を客として引っ張り続けたら、いつかひどい目に遭うよ、って。
だいたいあんたのやってることはキャバ嬢としての仕事を越えて、詐欺罪にあたるよって。
だってそうでしょ、嘘をついてお金を貢がせてるんだもの。嘘がバレて、相手に訴えられたら大変よ」
「それで、紫帆さんは?」
「もちろんあの子のことだもの、私の忠告なんて聞いてくれなかった。
智紗子さん大げさですね、そんなんだから指名取れないんですよなんて言いだす始末。頭きちゃってね。
それで放っておいたら、紫帆はよりいっそう羽振りがよくなった。古津賀からさらに貢いでもらってたみたい。そしたら殺されちゃうんだもの」
「……その状況だと、犯人は古津賀さん以外考えられませんよね」
智紗子が深くうなずいた。怪しい人間はひとりしかいないのに捕まらず、指名手配さえされてないのはどうしてだろう。坂口の疑問を読み取ったように、智紗子は言った。
「でも決定的な証拠がないみたいなのよね。包丁で切りつけられたっていうけれど、手袋をしていたみたいで指紋が採取できないし、怪しいっていう状況証拠ばかりで、決定的に古津賀がやった、っていう証拠がないの。古津賀は事件の後、行方をくらませてるわ」
「そんなの、自分がやったって言ってるようなものじゃないですか」
「そうなのよ。でも警察はまだ古津賀を逮捕できていない。なんでだと思う?」
智紗子が坂口の目を深く覗き込む。わかりません、と言うと智紗子は腹立たしげに言った。
「殺されたのがキャバ嬢だからよ。水商売なんて遊んでお金がもらえるみたいな仕事について、男を騙して殺されるなんて自業自得だって、警察は思ってるのよ。
紫帆のことだけじゃないわ、夜の世界の人間が事件に遭うと、ちゃんと捜査してもらえないことっていっぱいあるのよね。
馬鹿にしてるのよ警察たちは。たしかに紫帆はいい人間じゃなかったかもしれない。
でも、いい人間じゃないからって、殺されていいことにはならないでしょう?」
「僕もそう思います」
そこで智紗子はふっと表情を緩めた。
「あなた、自分のこと僕っていうのね」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。でもね、正直私がキャバを辞めた理由はそれもある。
いつまでも世間から馬鹿にされて、見下される仕事なんてしたくないって。
同僚には結婚して辞めた子もいるけれど、私は結婚に興味を持てなかったし、自分の手でビジネスしたいってずっと思ってたから、興味のあるこの世界に飛び込んだの。
そこまで成功してるわけじゃないけど、今は毎日が充実してるわ。おかげさまで、忙しいしね」
智紗子の佇まいや振る舞いが自信に溢れているのは、ちゃんと自分の足で立って、自分の力で生きているからなのだろう。
そういう女性はすごいと、坂口は素直に思う。



