毬恵に「地獄姉さん」について電話で報告すると、毬恵はY峠を一度見てみたいと言った。
立秋はもう過ぎているものの八月の午後は暑く、毬恵の黒いブラウスにロングスカート、タイツといういで立ちは見ているだけでどばっと汗が噴き出したが、毬恵は汗ひとつかいていなかった。
展望台の柵の向こう、まだ明るい街の景色が広がっているあたりをゆっくりと眺めた後、毬恵は相変わらず感情のこもらない声で告げた。
「ここにいる霊と、地獄館に現れる霊は同じものですね」
「地獄姉さん、ですか」
櫨中(はぜなか)が言っていたことを思い出す。
ネットで見つけた体験談でも語られていた、ものすごい速さで車と並走し、「地獄に引きずりこむ」と言う女の霊。
彼女はもしかして、関内杏子だったのだろうか。
「ここと地獄館と、両方に現れているってことですか?」
「浮遊霊の状態ですね。死んだ場所と、生前に強い印象を魂に刻みつけた場所を行き来しているようです。
この霊単体は、そこまで危険なものでもないです。
愚かで他責傾向の強い魂ではありますが、他人を陥れるような生き方はしてこなかったでしょう。
ただ、死後に魂が大きく変化しています。同じ場所にいる男の霊の影響が強いようです」
そんなことを言いながら、この前のように毬恵は水晶玉と蝋燭を並べていく。
西日を受けて水晶玉の表面がどこか怪しくきらめいた。
毬恵が呪文を唱えだす。静かだった蝋燭の炎が、風も吹いていないのに強く揺らめきだす。こ
こにいる関内杏子の魂と共鳴し、その苦しみを写し取ったように火が暴れ出した。
毬恵の声が大きくなり、感情のこもらなかった声が怒鳴りつけるような響きになる。
霊を叱(しっ)咤(た)し、ここから去るよう促すように。
火は最初の三倍くらいの大きさになり、激しくのたうち回る。
溶けた蝋がアスファルトにどろりと流れだす。やがて真ん中の水晶玉に黒い影が映った。
それが長い髪の女であることに気づき、坂口は思わず後ろを振り返る。
ここにいるのは坂口と将人と毬恵だけで、長い黒髪を持つ女などいない。
黒い影はうねうねと激しく動き、やがて中央から真っぷたつに割れると、白い煙を派手に立ち上らせて消えた。
毬恵の口調がだんだんとやさしくなり、やがて子守歌を唄うような響きになる。気がついた時には蝋燭の炎が消えていた。
「終わりました」
静かに告げた毬恵の顔にうっすらと疲れが滲んでいる。除霊は体力も気力もものすごく消費するのだろう。
「除霊は成功です。完全に消えたわけではないですが、悪さはもうしないと約束してもらえました。
死後に堕落してはいましたが、根は素直な魂だったようです。抵抗はされたものの、最後は説得に応じてくれました」
「この霊は本当に関内杏子だったのでしょうか」
櫨中から聞いたことを主に坂口が語り、時折将人が説明を補足する。
毬恵はじっと耳を傾けた後、大きくうなずいた。
「まず、彼女に間違いないです。彼女は自分の意思で死んだものの、死んだことを悔いる気持ちが強かったです。
好きな人の心に永久に残りたくて死んだのに、彼はどんどん自分のことを忘れていってしまう。
それが耐えられなくて、いつまでも現世に縛り付けられていたようです」
勝手なものだな、と思う。
愛し返してもらえなかった相手の心にせめて傷跡を残すために命を絶つ、そういう人間がたくさんいることを坂口は知っていたし、まったく理解できないわけでもないのだが、やっぱり自己中だな、と思ってしまう。
関内杏子はその人が好きだったわけではなく、結局自分が好きだったのだろう。
「死ぬことは忘れられることだし、あなたは自殺した罪を償わなければならない。
そう長い時間をかけて説得すると、納得してくれました。
自殺した人間の魂はこの世とあの世の境目にある、谷のような場所に落ちてしまうことが多いのです。
まずその谷から引き上げて、ちゃんと罪を償う場所に行かせないと、永遠に成仏はできません。
彼女のほうもずっとここにいることは本意ではないので、最後は罪を償うことを受け入れてくれました」
「あの、そもそも、自殺はなんで罪なんでしょうか」
将人が言った。
「よく、残された人が悲しむから、っていうけれど、それじゃ残された人が誰もいない、ひとりで生きている人は死んでもいいってことになっちゃうじゃないですか。
そういうことじゃなくて、もっと本質的な答えが知りたくて」
「人間の身体は、借り物だからです」
毬恵の口調が少し重々しくなった。
「よく親からもらった身体、と言いますが、正確に言うと少し違います。
私たちはみな定められた運命によって天から身体を借りて、数十年この世に生きる義務があります。
たとえば一千万円のレンタカーを借りて、壊してしまったら賠償責任が発生しますよね。
自殺するということは、自らの意思で借り物を修復不可能な状態にまで壊してしまうことです」
命は、身体は、借り物であって決して自分のものではない。
毬恵の言いたいことはそういうことなのだろう。
神とか大いなる意思とか、そういうものを信じたことがなかった坂口にも、納得のいく理由であった。
「とはいえ、です。正論ばかり振りかざしていてもしょうがありません、彼女の魂に寄り添うことも必要です。
彼女がどういう人生を送ってきて、どうして自殺したのか。そのことを知ってみるのは、悪いことではないでしょう」
毬恵は別れ際、そう言った。
帰りの車の中、運転する将人の隣で、坂口は関内杏子の事件について調べていた。
今住美佳子の時と同じでネット掲示板の書き込みだったが、関内杏子と生前関係していたというホストの情報を得ることができた。
村島達也。彼がバーテンダーをしている店が、ここからほど近いA市の歓楽街にあった。
立秋はもう過ぎているものの八月の午後は暑く、毬恵の黒いブラウスにロングスカート、タイツといういで立ちは見ているだけでどばっと汗が噴き出したが、毬恵は汗ひとつかいていなかった。
展望台の柵の向こう、まだ明るい街の景色が広がっているあたりをゆっくりと眺めた後、毬恵は相変わらず感情のこもらない声で告げた。
「ここにいる霊と、地獄館に現れる霊は同じものですね」
「地獄姉さん、ですか」
櫨中(はぜなか)が言っていたことを思い出す。
ネットで見つけた体験談でも語られていた、ものすごい速さで車と並走し、「地獄に引きずりこむ」と言う女の霊。
彼女はもしかして、関内杏子だったのだろうか。
「ここと地獄館と、両方に現れているってことですか?」
「浮遊霊の状態ですね。死んだ場所と、生前に強い印象を魂に刻みつけた場所を行き来しているようです。
この霊単体は、そこまで危険なものでもないです。
愚かで他責傾向の強い魂ではありますが、他人を陥れるような生き方はしてこなかったでしょう。
ただ、死後に魂が大きく変化しています。同じ場所にいる男の霊の影響が強いようです」
そんなことを言いながら、この前のように毬恵は水晶玉と蝋燭を並べていく。
西日を受けて水晶玉の表面がどこか怪しくきらめいた。
毬恵が呪文を唱えだす。静かだった蝋燭の炎が、風も吹いていないのに強く揺らめきだす。こ
こにいる関内杏子の魂と共鳴し、その苦しみを写し取ったように火が暴れ出した。
毬恵の声が大きくなり、感情のこもらなかった声が怒鳴りつけるような響きになる。
霊を叱(しっ)咤(た)し、ここから去るよう促すように。
火は最初の三倍くらいの大きさになり、激しくのたうち回る。
溶けた蝋がアスファルトにどろりと流れだす。やがて真ん中の水晶玉に黒い影が映った。
それが長い髪の女であることに気づき、坂口は思わず後ろを振り返る。
ここにいるのは坂口と将人と毬恵だけで、長い黒髪を持つ女などいない。
黒い影はうねうねと激しく動き、やがて中央から真っぷたつに割れると、白い煙を派手に立ち上らせて消えた。
毬恵の口調がだんだんとやさしくなり、やがて子守歌を唄うような響きになる。気がついた時には蝋燭の炎が消えていた。
「終わりました」
静かに告げた毬恵の顔にうっすらと疲れが滲んでいる。除霊は体力も気力もものすごく消費するのだろう。
「除霊は成功です。完全に消えたわけではないですが、悪さはもうしないと約束してもらえました。
死後に堕落してはいましたが、根は素直な魂だったようです。抵抗はされたものの、最後は説得に応じてくれました」
「この霊は本当に関内杏子だったのでしょうか」
櫨中から聞いたことを主に坂口が語り、時折将人が説明を補足する。
毬恵はじっと耳を傾けた後、大きくうなずいた。
「まず、彼女に間違いないです。彼女は自分の意思で死んだものの、死んだことを悔いる気持ちが強かったです。
好きな人の心に永久に残りたくて死んだのに、彼はどんどん自分のことを忘れていってしまう。
それが耐えられなくて、いつまでも現世に縛り付けられていたようです」
勝手なものだな、と思う。
愛し返してもらえなかった相手の心にせめて傷跡を残すために命を絶つ、そういう人間がたくさんいることを坂口は知っていたし、まったく理解できないわけでもないのだが、やっぱり自己中だな、と思ってしまう。
関内杏子はその人が好きだったわけではなく、結局自分が好きだったのだろう。
「死ぬことは忘れられることだし、あなたは自殺した罪を償わなければならない。
そう長い時間をかけて説得すると、納得してくれました。
自殺した人間の魂はこの世とあの世の境目にある、谷のような場所に落ちてしまうことが多いのです。
まずその谷から引き上げて、ちゃんと罪を償う場所に行かせないと、永遠に成仏はできません。
彼女のほうもずっとここにいることは本意ではないので、最後は罪を償うことを受け入れてくれました」
「あの、そもそも、自殺はなんで罪なんでしょうか」
将人が言った。
「よく、残された人が悲しむから、っていうけれど、それじゃ残された人が誰もいない、ひとりで生きている人は死んでもいいってことになっちゃうじゃないですか。
そういうことじゃなくて、もっと本質的な答えが知りたくて」
「人間の身体は、借り物だからです」
毬恵の口調が少し重々しくなった。
「よく親からもらった身体、と言いますが、正確に言うと少し違います。
私たちはみな定められた運命によって天から身体を借りて、数十年この世に生きる義務があります。
たとえば一千万円のレンタカーを借りて、壊してしまったら賠償責任が発生しますよね。
自殺するということは、自らの意思で借り物を修復不可能な状態にまで壊してしまうことです」
命は、身体は、借り物であって決して自分のものではない。
毬恵の言いたいことはそういうことなのだろう。
神とか大いなる意思とか、そういうものを信じたことがなかった坂口にも、納得のいく理由であった。
「とはいえ、です。正論ばかり振りかざしていてもしょうがありません、彼女の魂に寄り添うことも必要です。
彼女がどういう人生を送ってきて、どうして自殺したのか。そのことを知ってみるのは、悪いことではないでしょう」
毬恵は別れ際、そう言った。
帰りの車の中、運転する将人の隣で、坂口は関内杏子の事件について調べていた。
今住美佳子の時と同じでネット掲示板の書き込みだったが、関内杏子と生前関係していたというホストの情報を得ることができた。
村島達也。彼がバーテンダーをしている店が、ここからほど近いA市の歓楽街にあった。



