「私の父は医者で、自分の仕事に誇りを持っていました。
ひとり娘の私にも医者になることを望み、教育への熱の入れ方は今考えてもちょっとおかしいくらいでした。
小学校の頃からテレビや漫画の類は制限されたし、友だちと遊ぶことにも口やかましく言われるくらいでした。
テストの成績が下がったらもう大変です、何時間でもお説教が続くので。
父の希望していた私立中学に落ちてからは、こんな成績じゃ医者になれないぞと顔を合わせるたびひどく詰られました。
母はそんな父の教育方針に反対していたようですが、私が何か文句を言うと、お父さんはあなたのためを思って言っているのよ、と父の肩を持つ感じで。
親って、何かにつけて子どものため、を免罪符にしたがりますよね。
父が私を医者にしたいのは、父のためでしかなかったのに。
あの男と付き合ったのは、そんな父に対する反抗の思いもあったと思います」
神妙な調子で語る美佳子に坂口は何度か相槌を打つ。
坂口自身は比較的親から口やかましく干渉されることがないまま育ってしまったので、美佳子のつらさを理解することは難しいが、友だちと遊ぶことまで制限されるのが子どもにとってはものすごいストレスだということは想像できる。
「彼とは中学二年生の春期講習で、塾で知り合ったんです。クラスが一緒で、話すようになりました。
彼も私と少し似た家庭環境でした、父親が東大出身で検事をしていて、そのことにすごくプライドを持っている人だったらしくて。
抑圧された子ども同士、私たちはすごく気が合いました。
親の目を盗んで彼と一緒にいるのは楽しかったです、父を出し抜いている、裏切っているというすごくスカッとした気持ちになりました。
今思えば典型的な反抗期だったのだと思いますが、自分の子どもを殺してしまうのに反抗期は理由になりませんよね」
ずっと封印してきたであろう過去を、美佳子は淡々と話す。
口ぶりがなめらかなのは坂口に心を開いているからではなく、本当は誰かに打ち明けたかったからなのかもしれないと坂口は思った。
「妊娠に気づいたのは三年生の秋でした、毎月規則正しく来ていた生理が急に来なくなったし、つわりも起き始めて。
いくらそういう知識に疎い中学生でも、まずいことになったというのはわかります。
当時の私は優等生で通ってましたから打ち明けられる友だちなんていませんでしたし、親なんて論外でした。それでも彼には話をしました」
「彼は、なんと」
悲しい結果になることをわかっていて、坂口は聞いた。
美佳子の瞳に悔しさか怒りかやるせなさか、そういったものがちらりと光った。
「そんなんまじぜったい無理、なんでこんなことになるんだよって私を責めました。
妊娠したのは私だけのせいじゃないのに……男って、勝手ですよね。
妊娠するようなことを平気でしておいて、いざ困ったことになるとまったく頼りにならない。
それからすぐ、彼とは連絡がつかなくなりました。
受験が終わったら当然ふたりとも塾に通わなくなりますから、それっきりで。
そのうちに私のお腹はどんどん大きくなっていって、臨月を迎えました」
そこで少し間が空いた。美佳子が覚悟するように、小さく唾を飲み込んだ。
「高校に入学してまだ一か月もしなかった時です、朝からお腹が痛くて、ああ、これはついに来た、と。
病院に行くとか救急車を呼ぶとかも考えましたが、私はただ、父が怖かった。
父にすべてが発覚して、怒られ、軽蔑されるのが怖かった。
妊娠したとはいえ、私はまだどうしようもなく子どもだったんです。
半ばパニックになりながらひとりになれる場所を探して、たどり着いたのは地獄館でした。
一度だけ、あの男と行ったことがある場所です。
入ると呪われるという四〇四号室じゃなく、隣の四〇三号室を出産場所に選びました」
あの不気味な廃墟の中、ひとりで陣痛に耐え、呻(うめ)く十六歳の美佳子の姿が坂口の脳裏に鮮やかに浮かんだ。
誰を頼ることもできず、危険を承知でひとりで出産しなければならなかった十六歳当時の美佳子の気持ちを想像すると、胸がちぎれそうになる。
「陣痛は朝から始まって、外が暗くなる頃にやっと生まれました。
生まれた時はこれでやっと痛みから解放される、というのと、ああ生まれてしまった、これからどうしようという気持ちがいっぺんにきて……誰にも知られずに出産したとはいえ、育てられるわけもない。
気がついたら私は、細い喉を振り絞って泣くあの子の首に、手をかけていました――一瞬のことでした」
「つらいことを話させてしまってすみません」
たまらず、坂口は謝った。何が手がかりになるかわからないとはいえ、ここまでのことを話してもらおうとは思っていなかった。美佳子は小さく首を振る。
「いえ、すべて私が撒(ま)いた種ですから……終わった後は、これで明日から元どおりの生活ができるという思いの一方で、大変なことをしてしまったという気持ちに囚われて。
結局私は、元どおりに生活することなんてできませんでした。
何をしていても、夢の中までも、生まれたばかりの命が絶える瞬間のあの子の顔が浮かんできてしまって。
そのうち母にも、何があったのか聞かれました。私は、すべてを包み隠さず話すことにしました」
再び、長い沈黙があった。リビングの隅にある鳩時計が顔を出し、ポッポー、と時報を告げる。美佳子は暗い目のまま続きを語りだした。
「母と一緒に地獄館へ行って、そこから警察に通報して……母は一度も私を責めませんでした。
こんなことになってしまってごめんね、お母さんが気づいてあげればよかったね、と。
でも、父の対応は正反対でした。
少年鑑別所で面会した父は、はっきりと私に『もううちの敷居は跨がせない』と言ったんです。
事件のことが知られてしまって、病院でもつらい立場になっている、お前はお父さんのキャリアに傷をつけたんだぞ、と自分のことばっかりで……こんなに自分勝手な人だとは思いませんでした」
ネット記事にあった「Eさん」のインタビューを坂口は思い出していた。
美佳子の父は最後まで美佳子に向き合おうとしなかった。
坂口も美佳子の罪は、美佳子だけのものではないと思う。
「少年院を出てからも、父とは会うことができませんでした。二度と帰ってくるな、の一点張りで。
それでも母とは連絡を取るし、ときどき会うこともできました。
私は小さな会社で事務員の仕事について、二十五歳で今の主人と結婚しました。
主人は事件のことを知りません。
地元の友だちともずっと会ってませんし、坂口さんがこうして来られなかったら、一生ひとに事件のことを話すことはなかったでしょう」
「お子さんが生まれても、お父さまとは会えていないんでしょうか」
そう聞いたのは、どんな頑なな親でも孫の顔見たさで、子どもの不品行を許すもの。
そういった一般論が坂口の頭にあったからだ。途端に美佳子は無表情になった。
「父は、五年前に死にました」
「それは――」
「肝臓を悪くしていたようです。いよいよ危なくなってからも、母は私に病院に来ないでほしいと言いました。
私の顔を見たら、興奮して病気に障りが出るだろうからと……正直、父が死んだ時はすっきりしました。
ああ、これでようやく解放されたんだ、と。
親子の縁を切られて会うことがなくなってからも、私はどこかで父に囚われていたんです。
ひどいですよね、親が死んだのにこんなことを思う子どもなんて。でも」
美佳子の顔は感情が伺えないままだったが、声だけがにわかに強くなった。
「よく、子を持てば親の気持ちがわかる、っていうでしょう?
わからないんですよ、ちっとも。
自分のプライドのために私を縛り続け、過ちを犯しても向き合わない。
あの時の私、まだ十六だったんですよ。
大人で同じことをしたならともかく、その年齢の子どもだったらぜったいに親の支えが必要なのに、自分の保身ばかりで向き合おうともしない。
そんな人間の気持ちなんて、わかるわけがない。
でも、こんな人間でも親になれるものなんですね。
父からただひとつ教えてもらったことがあるとすれば、子どもには子どもの人生がある、ということです。
子どもたちと接していれば口やかましく言いたくなることもあるし、もちろん悪いことをしたら叱りますけど、
勉強をもっとがんばってほしいとかあの友だちと一緒にいるのはやめてこの友だちといてほしいとか、
そういうことは意識して言わないようにしています。
あなたの人生でしょ、というドライな気持ちも、子育てには必要なのかもしれません」
美佳子と別れて駅に向かって歩きながら、坂口は先ほどの話を何度も頭の中で反(はん)芻(すう)していた。
父親に抑圧され、妊娠しても誰にも打ち明けることができず、ひとりで子どもを産んでその子を手にかけた美佳子。
普段は事件のことを忘れているようでいても、今なお彼女が苦しんでいることはあきらかだった。
気になるのは、美佳子が出産場所に選んだのが四〇三号室ということだ。
四〇四号室に入ると、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるという噂を聞いたことがある。
小さな魂は未だ浄化されず、四〇三号室に留まっているというのか。
しかしいずれにしても、四〇四号室の血痕の謎は解決していない。
営業中のラブホテルなら、シーツに血がつくこともあるだろう。
でもその場合は、従業員がすみやかにシーツを取り換えるはずだ。
血痕が何年も放置されているということは、地獄館が廃業し、放置された後にあの部屋で、何かがあったという可能性が高い。
その謎を解き明かすことで、あの部屋に巣食う霊の真相にもたどり着くのではないか。
毬恵が言っていた、怨霊化しかけているという男の霊。
今のところ、坂口が調べたなかで、地獄館で男が殺されるといった事件は起きていない。
より、地獄館の過去について探ってみる必要がありそうだ。
真相にたどり着いたところで晴彦が見つかる確証はないが、今坂口にできることはこれぐらいしかない。
駅が見えてきたところで、カバンのなかでスマホが震えた。画面に将人の名前が表示されている。
「もしもし」
『もしもし、今どこ?』
「……横浜」
電波の向こう側で、将人が横浜?と声を裏返した。
『なんか用事があったのか?』
「うん、ちょっと買い物に」
美佳子に会いに行ったことは、将人には秘密にしておきたかった。
『まあいいや、こっち帰ったら、Y峠行ってみないか?』
「ああ……僕もネットで見たよ。あそこも怪異が出現してるんだよね」
『地獄姉さん、って言われてるらしい』
地獄に引きずりこむ、が決め台詞のようになっている地獄姉さん。
地獄というワードも共通しているし、地獄館とも近い。
もしかしたら、地獄館にいる霊となんらかの関連性があるのかもしれない。
『夕方にはこっち帰れるだろ? そしたら行こう、俺の車で』
有無を言わせない口調で将人は言い、坂口が了承すると、電話は切れてしまった。
将人の強引なところのある性格は今に始まったことではないのであった。
ひとり娘の私にも医者になることを望み、教育への熱の入れ方は今考えてもちょっとおかしいくらいでした。
小学校の頃からテレビや漫画の類は制限されたし、友だちと遊ぶことにも口やかましく言われるくらいでした。
テストの成績が下がったらもう大変です、何時間でもお説教が続くので。
父の希望していた私立中学に落ちてからは、こんな成績じゃ医者になれないぞと顔を合わせるたびひどく詰られました。
母はそんな父の教育方針に反対していたようですが、私が何か文句を言うと、お父さんはあなたのためを思って言っているのよ、と父の肩を持つ感じで。
親って、何かにつけて子どものため、を免罪符にしたがりますよね。
父が私を医者にしたいのは、父のためでしかなかったのに。
あの男と付き合ったのは、そんな父に対する反抗の思いもあったと思います」
神妙な調子で語る美佳子に坂口は何度か相槌を打つ。
坂口自身は比較的親から口やかましく干渉されることがないまま育ってしまったので、美佳子のつらさを理解することは難しいが、友だちと遊ぶことまで制限されるのが子どもにとってはものすごいストレスだということは想像できる。
「彼とは中学二年生の春期講習で、塾で知り合ったんです。クラスが一緒で、話すようになりました。
彼も私と少し似た家庭環境でした、父親が東大出身で検事をしていて、そのことにすごくプライドを持っている人だったらしくて。
抑圧された子ども同士、私たちはすごく気が合いました。
親の目を盗んで彼と一緒にいるのは楽しかったです、父を出し抜いている、裏切っているというすごくスカッとした気持ちになりました。
今思えば典型的な反抗期だったのだと思いますが、自分の子どもを殺してしまうのに反抗期は理由になりませんよね」
ずっと封印してきたであろう過去を、美佳子は淡々と話す。
口ぶりがなめらかなのは坂口に心を開いているからではなく、本当は誰かに打ち明けたかったからなのかもしれないと坂口は思った。
「妊娠に気づいたのは三年生の秋でした、毎月規則正しく来ていた生理が急に来なくなったし、つわりも起き始めて。
いくらそういう知識に疎い中学生でも、まずいことになったというのはわかります。
当時の私は優等生で通ってましたから打ち明けられる友だちなんていませんでしたし、親なんて論外でした。それでも彼には話をしました」
「彼は、なんと」
悲しい結果になることをわかっていて、坂口は聞いた。
美佳子の瞳に悔しさか怒りかやるせなさか、そういったものがちらりと光った。
「そんなんまじぜったい無理、なんでこんなことになるんだよって私を責めました。
妊娠したのは私だけのせいじゃないのに……男って、勝手ですよね。
妊娠するようなことを平気でしておいて、いざ困ったことになるとまったく頼りにならない。
それからすぐ、彼とは連絡がつかなくなりました。
受験が終わったら当然ふたりとも塾に通わなくなりますから、それっきりで。
そのうちに私のお腹はどんどん大きくなっていって、臨月を迎えました」
そこで少し間が空いた。美佳子が覚悟するように、小さく唾を飲み込んだ。
「高校に入学してまだ一か月もしなかった時です、朝からお腹が痛くて、ああ、これはついに来た、と。
病院に行くとか救急車を呼ぶとかも考えましたが、私はただ、父が怖かった。
父にすべてが発覚して、怒られ、軽蔑されるのが怖かった。
妊娠したとはいえ、私はまだどうしようもなく子どもだったんです。
半ばパニックになりながらひとりになれる場所を探して、たどり着いたのは地獄館でした。
一度だけ、あの男と行ったことがある場所です。
入ると呪われるという四〇四号室じゃなく、隣の四〇三号室を出産場所に選びました」
あの不気味な廃墟の中、ひとりで陣痛に耐え、呻(うめ)く十六歳の美佳子の姿が坂口の脳裏に鮮やかに浮かんだ。
誰を頼ることもできず、危険を承知でひとりで出産しなければならなかった十六歳当時の美佳子の気持ちを想像すると、胸がちぎれそうになる。
「陣痛は朝から始まって、外が暗くなる頃にやっと生まれました。
生まれた時はこれでやっと痛みから解放される、というのと、ああ生まれてしまった、これからどうしようという気持ちがいっぺんにきて……誰にも知られずに出産したとはいえ、育てられるわけもない。
気がついたら私は、細い喉を振り絞って泣くあの子の首に、手をかけていました――一瞬のことでした」
「つらいことを話させてしまってすみません」
たまらず、坂口は謝った。何が手がかりになるかわからないとはいえ、ここまでのことを話してもらおうとは思っていなかった。美佳子は小さく首を振る。
「いえ、すべて私が撒(ま)いた種ですから……終わった後は、これで明日から元どおりの生活ができるという思いの一方で、大変なことをしてしまったという気持ちに囚われて。
結局私は、元どおりに生活することなんてできませんでした。
何をしていても、夢の中までも、生まれたばかりの命が絶える瞬間のあの子の顔が浮かんできてしまって。
そのうち母にも、何があったのか聞かれました。私は、すべてを包み隠さず話すことにしました」
再び、長い沈黙があった。リビングの隅にある鳩時計が顔を出し、ポッポー、と時報を告げる。美佳子は暗い目のまま続きを語りだした。
「母と一緒に地獄館へ行って、そこから警察に通報して……母は一度も私を責めませんでした。
こんなことになってしまってごめんね、お母さんが気づいてあげればよかったね、と。
でも、父の対応は正反対でした。
少年鑑別所で面会した父は、はっきりと私に『もううちの敷居は跨がせない』と言ったんです。
事件のことが知られてしまって、病院でもつらい立場になっている、お前はお父さんのキャリアに傷をつけたんだぞ、と自分のことばっかりで……こんなに自分勝手な人だとは思いませんでした」
ネット記事にあった「Eさん」のインタビューを坂口は思い出していた。
美佳子の父は最後まで美佳子に向き合おうとしなかった。
坂口も美佳子の罪は、美佳子だけのものではないと思う。
「少年院を出てからも、父とは会うことができませんでした。二度と帰ってくるな、の一点張りで。
それでも母とは連絡を取るし、ときどき会うこともできました。
私は小さな会社で事務員の仕事について、二十五歳で今の主人と結婚しました。
主人は事件のことを知りません。
地元の友だちともずっと会ってませんし、坂口さんがこうして来られなかったら、一生ひとに事件のことを話すことはなかったでしょう」
「お子さんが生まれても、お父さまとは会えていないんでしょうか」
そう聞いたのは、どんな頑なな親でも孫の顔見たさで、子どもの不品行を許すもの。
そういった一般論が坂口の頭にあったからだ。途端に美佳子は無表情になった。
「父は、五年前に死にました」
「それは――」
「肝臓を悪くしていたようです。いよいよ危なくなってからも、母は私に病院に来ないでほしいと言いました。
私の顔を見たら、興奮して病気に障りが出るだろうからと……正直、父が死んだ時はすっきりしました。
ああ、これでようやく解放されたんだ、と。
親子の縁を切られて会うことがなくなってからも、私はどこかで父に囚われていたんです。
ひどいですよね、親が死んだのにこんなことを思う子どもなんて。でも」
美佳子の顔は感情が伺えないままだったが、声だけがにわかに強くなった。
「よく、子を持てば親の気持ちがわかる、っていうでしょう?
わからないんですよ、ちっとも。
自分のプライドのために私を縛り続け、過ちを犯しても向き合わない。
あの時の私、まだ十六だったんですよ。
大人で同じことをしたならともかく、その年齢の子どもだったらぜったいに親の支えが必要なのに、自分の保身ばかりで向き合おうともしない。
そんな人間の気持ちなんて、わかるわけがない。
でも、こんな人間でも親になれるものなんですね。
父からただひとつ教えてもらったことがあるとすれば、子どもには子どもの人生がある、ということです。
子どもたちと接していれば口やかましく言いたくなることもあるし、もちろん悪いことをしたら叱りますけど、
勉強をもっとがんばってほしいとかあの友だちと一緒にいるのはやめてこの友だちといてほしいとか、
そういうことは意識して言わないようにしています。
あなたの人生でしょ、というドライな気持ちも、子育てには必要なのかもしれません」
美佳子と別れて駅に向かって歩きながら、坂口は先ほどの話を何度も頭の中で反(はん)芻(すう)していた。
父親に抑圧され、妊娠しても誰にも打ち明けることができず、ひとりで子どもを産んでその子を手にかけた美佳子。
普段は事件のことを忘れているようでいても、今なお彼女が苦しんでいることはあきらかだった。
気になるのは、美佳子が出産場所に選んだのが四〇三号室ということだ。
四〇四号室に入ると、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるという噂を聞いたことがある。
小さな魂は未だ浄化されず、四〇三号室に留まっているというのか。
しかしいずれにしても、四〇四号室の血痕の謎は解決していない。
営業中のラブホテルなら、シーツに血がつくこともあるだろう。
でもその場合は、従業員がすみやかにシーツを取り換えるはずだ。
血痕が何年も放置されているということは、地獄館が廃業し、放置された後にあの部屋で、何かがあったという可能性が高い。
その謎を解き明かすことで、あの部屋に巣食う霊の真相にもたどり着くのではないか。
毬恵が言っていた、怨霊化しかけているという男の霊。
今のところ、坂口が調べたなかで、地獄館で男が殺されるといった事件は起きていない。
より、地獄館の過去について探ってみる必要がありそうだ。
真相にたどり着いたところで晴彦が見つかる確証はないが、今坂口にできることはこれぐらいしかない。
駅が見えてきたところで、カバンのなかでスマホが震えた。画面に将人の名前が表示されている。
「もしもし」
『もしもし、今どこ?』
「……横浜」
電波の向こう側で、将人が横浜?と声を裏返した。
『なんか用事があったのか?』
「うん、ちょっと買い物に」
美佳子に会いに行ったことは、将人には秘密にしておきたかった。
『まあいいや、こっち帰ったら、Y峠行ってみないか?』
「ああ……僕もネットで見たよ。あそこも怪異が出現してるんだよね」
『地獄姉さん、って言われてるらしい』
地獄に引きずりこむ、が決め台詞のようになっている地獄姉さん。
地獄というワードも共通しているし、地獄館とも近い。
もしかしたら、地獄館にいる霊となんらかの関連性があるのかもしれない。
『夕方にはこっち帰れるだろ? そしたら行こう、俺の車で』
有無を言わせない口調で将人は言い、坂口が了承すると、電話は切れてしまった。
将人の強引なところのある性格は今に始まったことではないのであった。



