今住美佳子――結婚して今は佐藤美佳子になっている――は、横浜の瀬谷区に住んでいた。

 坂口は今日まで横浜に来たことがなく、きらびやかなビルが建ち並び、観覧車がゆっくりと回るみなとみらいのイメージしかなかったので、故郷の地と変わらない、瀬谷区の素朴な街並みに少し驚いた。
美佳子は駅から徒歩十五分の一軒家に住んでいた。
まだ建てられたばかりなのだろう、ほとんどくすんでいない白い壁が小ぎれいな印象を与える家のチャイムを鳴らす時、緊張がぎりっと心臓を縛った。

「はあい」

 まもなくドアが開き、美佳子が現れた。美佳子は坂口の想像どおりの女性だった。
二十年前十六歳だったから、今は三十六歳になっているはずだ。
中途半端な長さの黒い髪をひとつに束ね、顔には生活の疲れがうっすら滲んでいる。
どこにも派手なところがなく、黙っていればかつて凶行に及んだことなど誰も想像しないだろう。

「はじめまして、坂口純といいます」
「はあ」

 美佳子の顔に警戒の色が宿った。あえてアポイントを入れず、突然押しかけてきたのだ。身構えないわけがない。

「二十年前の事件についてお伺いしたいのですが」
「……帰ってください」

 美佳子ははっきりと顔に拒絶の色を浮かべ、ドアを閉めようとした。
やや強引だとは思ったが、坂口はドアの間に足を滑り込ませる。

「マスコミの方か何か知りませんが、お話しすることはありません。今は私は結婚して、穏やかに暮らしているんです。そっとしておいてください」
「あの事件があった地獄館が、心霊スポットになっていることはご存知でしょうか」

 地獄館の名前を出すと、美佳子がさっと顔を上げた。相変わらず警戒の色が張りつめているが、美佳子にしても思わぬ方向からの話題だったようだ。

「僕の親友が地獄館に行った後、行方不明になりました」

 ここで坂口は今までの経緯を語った。美佳子はもう坂口を押しやろうとはせず、玄関先で黙ってその話を聞いていた。
坂口の長い話が終わった時、美佳子の顔は張りつめてはいたが、もう坂口を警戒する色はなかった。

「お話はわかりました。でも私に聞いても、何もお力になれることはないと思いますが。そもそもどうやって、私がここにいることを突き止めたんですか?」
「ネット掲示板に、美佳子さんのことが書いてありました」

 少年院を出て地元に戻ってきた美佳子が、今の夫旦那と結婚したことが書かれていた。
夫の名前も載っていたので検索をかけると、横浜に本社がある食品メーカーのホームページに名前が出てきた。
さらに美佳子の夫は瀬谷区の限られた地域で活動するNPOのホームページにも名前が出ていた。そこから美佳子の住所を特定するには、数日を要したが。

「誰にも事件のことはバレていないと思っていたのに、こうして特定されてしまうこともあるんですね」

 美佳子はあきらめたように呟いた。何度も洗濯したようなくたびれたTシャツからも、水仕事で荒れた手からも、美佳子が派手なことを好まず、真面目に生活している様子が窺える。

「あの事件のことが誰にも知られないよう、目立たないよう。そればかり心掛けて生きてきたつもりだったんですが。わかる人には、わかってしまうものですね」

「僕は美佳子さんを積極的に探していたわけですから、わかってしまっただけです。手がかりになったネットの書き込みも、美佳子さんを追い詰めようとするものではありませんでした」

 あれから二十年も経っているのである。ほとんどの人間は、事件があったこと自体忘れている。
 美佳子は少しためらった後、坂口を中に入れた。

「玄関先ではあれですから、中でゆっくりお話しましょう」

 坂口は礼を言って靴を脱ぎ、出されたスリッパに履き替えた。

 家の中も美佳子と同じく、地味な印象を醸し出していた。
特に高級な家具やインテリアの類はなく、小さい子どもがいるのだろう、遊び道具や絵本がリビングの片隅に鮮やかな色を広げている。

「お子さん、いらっしゃるんですね」

「十歳と六歳です。今はふたりとも遊びに行っています。夏休みって、親にとっては嫌な時期なんですよ。毎日ちゃんとした昼食を用意するだけでも大変で」

 たまたま子どもが留守にしている時間に尋ねることができてよかった、と坂口は思った。

 美佳子が出した麦茶にはお互い口をつけず、しばらく濃い沈黙が漂った。

やがて覚悟を決めたように、美佳子は口火を切った。