メジロは、俺がすんなりと意識を失うことを、許してはくれなかった。
現実に無理やり引き戻る、右肩の激しい痛み。
彼女は俺が姿勢を崩したのに合わせ、俺の腕を絡みとり、そのまま地面に引き倒した。
可動域を超えた右肩が、鈍い音を立てて破壊される。
「脇固め」と呼ばれる関節技だ。
そしてメジロは、そのまま俺を組み伏せた。
「すみませんねぇ、部下の躾がなってなくて」
と、俺の関節を決めながら、メジロがにこやかにいう。
かろうじて首だけを動かし前を見ると、そこには無表情で刀に手をかけている右門がいた。
そして清成は、右門の後ろから顔を出し、俺の無様な姿を残酷な笑顔で見下している。
「ハヤテっ」
激痛の中、葵様の声が聞こえた。
彼女は顔を青くして、俺の方に駆け寄ろうとした。
だが、鶴姫はスッと扇子を差し出し、彼女の行く手を遮った。
ただ差し出されただけの、一本の閉じられた扇子。
それは強靭な馬防柵のように、葵様の動きを止める。
「葵、裸足で庭に降りるつもりですか? はしたない」
鶴姫の咎めるような一言。
そう……葵様は……義母には逆らえないのだ……。
一方の清成は、俺が身動きできない状態なのを確認すると、勝ち誇った様子で鶴姫に言った。
「この城は狂犬を飼っているのか?」
俺の行動を責めることで、奴はまた葵様たちを侮辱しようとしている。
そのことに悔しさと、軽率な行動への後悔が募る。
しかし鶴姫は清成に対し悪びれる様子もなく、奴の言葉を受け流した。
「こやつは犬ではない、人じゃ」
その言葉、決して俺を庇ったわけではない。
鶴姫もこいつと同じ、身分の低いもの、貧しいものを見下している侍の仲間だ。
これは清成に調子付かせないための駆け引きだろう。
「それにこの者が犬だと言うなら、主君を侮辱した不貞の輩に吠えかかる忠犬ではないか」
清成は鶴姫が全く動じないのを見て、望んだ反応と違うことに戸惑いを見せている。
「お、俺を不貞の輩だというのか」
「連絡もなく我が城に押しかけ、無体な振る舞い。たとえ天下人様が選んだ見合い相手とはいえ……」
鶴姫は微かに開いた扇子を、パチンと閉じた。
その迫力に清成は顔を引きつらせた。
そして自分の言動を冷淡に指摘され、身の置き所を失っていた。
「くそっ、俺様が、こんな山城に来るために、いちいち許可がいるというのか!」
清成は役者のような白い顔を真っ赤にさせ、馬脚を表す。
「不愉快だ、帰るぞ、右門」
そして清成は足早にこの場を去ろうとするが、最後に一度、鶴姫に悪態をつく。
「先代の城主は、この小さな城を墨守するのが精一杯の器の侍。鶴姫殿も、このような山奥に嫁がされ苦労されているでしょう。娘に同じ苦労をさせぬために、わたくしのような優れた男との好縁を恵んでくださった天下人様に、感謝されるが良いですな」
奴は自尊心を守るためか、最後まで奈川城を見下し、捨て台詞を残し帰っていった。
そして右門は、主君の無礼を詫びるように深々と一礼すると、その後を追った。
***
「いやぁ、ロクでもない奴が来ましたねぇ、鶴姫様」
メジロが関節技を解いて、他人事のようにいう。
もちろん彼女の中には、俺の肩を痛めつけたことへの罪悪感などない。
「ワシを馬鹿にするものは許さぬ」
そして鶴姫は、憎々しげに吐き捨てると、手にした扇子をバッと開き、招かざる客のいた場所を大きく扇いだ。
まるで清成がいた場所の空気が、不浄であるとばかりに。
鶴姫の眉間のシワは、より深くなり、まさに鬼姫と形容するにふさわしい容貌に変わる。
「葵やっ」
「はいっ」
「不快な来客のせいで、琴の稽古の時間が迫っておる。参るぞ」
清成のことなど思い出したくもないように、鶴姫は言う。
そして鬼姫は、葵様に琴の稽古をつけるため、城主の私室に向かおうとした。
「けどハヤテが、怪我を!」
しかし葵様は鶴姫の後をついていくことを躊躇した。
技を解かれたとはいえ、俺の肩は外れたまま。
葵様は、すぐにでも俺の側に駆けよりたい様子だが、鶴姫の許可が出ていない状況で行動を決めかねていた。
その声を受け、鶴姫は俺の方をチラリと見る。
怪我をして地面に跪いている無様な俺の姿。それを見ても、鶴姫は何の感情も示さなかった。
「好きにしろ。ワシは先に行く」
そんな俺たちを見捨てるように、鶴姫はそう言うと一人で歩き始めた。
「え、あ……」
その鶴姫の様子に、葵様はまるで置いてきぼりになった子犬のような戸惑いを見せた。
「葵様、自分は大丈夫です」
俺のことで、葵様の心に負担をかけさせたくない。
彼女を心配させないよう、俺は平静を装ってみせた。
「ごめんなさい」
俺の言葉を聞き、葵様は鶴姫の背中を追うように駆け出した。
去っていく葵様の横顔に、潤んでいた瞳から一筋の涙が流れているのが、俺には見えた。
***
「大丈夫か〜ハヤテ」
部屋に戻った俺に、メジロが声をかけてきた。
「って言っても、ちゃんと関節を戻してあげたからな。もう痛みは治ってるだろ?」
ニヤニヤしながら俺に聞いている。
口では心配して見せているが、肩を外したぐらいでは、忍である彼女は本気では心配しない。
忍の関節は外れやすく、戻りやすい。
縄で縛られた時や、狭い場所に忍び込むために、そのような体質になるよう訓練を受けている。
もちろん、それ相応に痛みは伴うのだが、身体の痛みは精神力で克服できる。
「ほれ、差し入れだ。湿布薬と燻製。燻製は頭ごと食えよ、骨の回復が早くなるからな」
暗い表情をしている俺に、メジロは手製の痛み止めと岩魚の燻製を差し出した。
「ありがとうございます、メジロさん」
得意料理の燻製を持ってくるとは、メジロなりに俺を励まそうとはしているだろう。
「あそこで僕が君を叱って見せなきゃ、君はあの侍に斬られていたぞ」
「わかってますよ」
「あの侍、おそらく僕よりも強い」
あの侍とは、清成に使えていた右門という男。
思い起こせば、俺が飛びかかろうとした時、清成は右門の後ろに隠れたのではなかった。
右門が、清成の盾になるために前に出たのだ。
そしてその手は刀にかかっていた。
あのまま飛びかかれば、確実に斬り殺されていた。
だからメジロも俺の動きを封じ、これ見よがしに制裁してみせたのだろう。
全ては俺の暴走を止めるため。
彼女の気遣いは分かってはいる。
だから俺も肩を外された事は、全く怒っていない。
「大丈夫か? ハヤテ」
メジロがもう一度俺に聞いてきた。さっきと同じ言葉だが、口調も表情も違う。
彼女が今心配しているのは、俺の体ではなく心……。
「ありがとう、メジロさん」
これ以上、彼女に気を使わせたくない。
俺は礼を言って、さっそく湿布を肩に貼り付けた。
ひんやりとした感覚が、肩の痛みを緩和させる。
しかし俺の心の痛みには、残念ながらなんの効果もなかった。
「あのな、ハヤテ。僕はあんまり、そういうことは分からないから助言できないけど……もともと僕たちと侍は住む世界が違うんだ。侍には侍の生き方や、掟があって、僕たちがどうこうできる問題じゃない」
メジロは言葉を選びながら、俺を励まそうとしてくれる。
それは俺の、葵様への気持ちを汲んでのことだろう。
しかしメジロはそう言った男女の機微には全く興味がない。
だから、励ますよりも現状分析のような形になってしまう。
だがその突きつけられた現実は、乗り越えようのない壁の存在を、改めて認識させることになった。
「確かにあの姫様は、いい子だ。そしてお前の心を救ってくれた恩人だと思っている。けどね、お互いの身分を超えて歩み出した先には、不幸しか待ってないぞ」
「分かってますよ」
分かっているからこそ、今の状態は心が切り刻まれるように辛い。
「じゃあな、ハヤテ。もし肩が痛むようなら、明日の仕事休んでいいぞ」
メジロは、今の俺には何を言っても無駄だと思ったのだろう。
少し歯切れの悪そうに言い残すと、彼女は窓から飛び降りて部屋を出ていった。
一人になった俺は、ムシロの上に横になり、ぼーっと天井を見つめる。
痛みは和らぎ、心を占めるのは葵様のこと。
俺の心を救ってくれた恩人。
先ほどのメジロの言葉が、頭の中で繰り返される。
そう、俺は、この奈川城に来て、葵様に救われた。
その想いは、俺にこの城で働き始めた日のことを、思い出させた。
現実に無理やり引き戻る、右肩の激しい痛み。
彼女は俺が姿勢を崩したのに合わせ、俺の腕を絡みとり、そのまま地面に引き倒した。
可動域を超えた右肩が、鈍い音を立てて破壊される。
「脇固め」と呼ばれる関節技だ。
そしてメジロは、そのまま俺を組み伏せた。
「すみませんねぇ、部下の躾がなってなくて」
と、俺の関節を決めながら、メジロがにこやかにいう。
かろうじて首だけを動かし前を見ると、そこには無表情で刀に手をかけている右門がいた。
そして清成は、右門の後ろから顔を出し、俺の無様な姿を残酷な笑顔で見下している。
「ハヤテっ」
激痛の中、葵様の声が聞こえた。
彼女は顔を青くして、俺の方に駆け寄ろうとした。
だが、鶴姫はスッと扇子を差し出し、彼女の行く手を遮った。
ただ差し出されただけの、一本の閉じられた扇子。
それは強靭な馬防柵のように、葵様の動きを止める。
「葵、裸足で庭に降りるつもりですか? はしたない」
鶴姫の咎めるような一言。
そう……葵様は……義母には逆らえないのだ……。
一方の清成は、俺が身動きできない状態なのを確認すると、勝ち誇った様子で鶴姫に言った。
「この城は狂犬を飼っているのか?」
俺の行動を責めることで、奴はまた葵様たちを侮辱しようとしている。
そのことに悔しさと、軽率な行動への後悔が募る。
しかし鶴姫は清成に対し悪びれる様子もなく、奴の言葉を受け流した。
「こやつは犬ではない、人じゃ」
その言葉、決して俺を庇ったわけではない。
鶴姫もこいつと同じ、身分の低いもの、貧しいものを見下している侍の仲間だ。
これは清成に調子付かせないための駆け引きだろう。
「それにこの者が犬だと言うなら、主君を侮辱した不貞の輩に吠えかかる忠犬ではないか」
清成は鶴姫が全く動じないのを見て、望んだ反応と違うことに戸惑いを見せている。
「お、俺を不貞の輩だというのか」
「連絡もなく我が城に押しかけ、無体な振る舞い。たとえ天下人様が選んだ見合い相手とはいえ……」
鶴姫は微かに開いた扇子を、パチンと閉じた。
その迫力に清成は顔を引きつらせた。
そして自分の言動を冷淡に指摘され、身の置き所を失っていた。
「くそっ、俺様が、こんな山城に来るために、いちいち許可がいるというのか!」
清成は役者のような白い顔を真っ赤にさせ、馬脚を表す。
「不愉快だ、帰るぞ、右門」
そして清成は足早にこの場を去ろうとするが、最後に一度、鶴姫に悪態をつく。
「先代の城主は、この小さな城を墨守するのが精一杯の器の侍。鶴姫殿も、このような山奥に嫁がされ苦労されているでしょう。娘に同じ苦労をさせぬために、わたくしのような優れた男との好縁を恵んでくださった天下人様に、感謝されるが良いですな」
奴は自尊心を守るためか、最後まで奈川城を見下し、捨て台詞を残し帰っていった。
そして右門は、主君の無礼を詫びるように深々と一礼すると、その後を追った。
***
「いやぁ、ロクでもない奴が来ましたねぇ、鶴姫様」
メジロが関節技を解いて、他人事のようにいう。
もちろん彼女の中には、俺の肩を痛めつけたことへの罪悪感などない。
「ワシを馬鹿にするものは許さぬ」
そして鶴姫は、憎々しげに吐き捨てると、手にした扇子をバッと開き、招かざる客のいた場所を大きく扇いだ。
まるで清成がいた場所の空気が、不浄であるとばかりに。
鶴姫の眉間のシワは、より深くなり、まさに鬼姫と形容するにふさわしい容貌に変わる。
「葵やっ」
「はいっ」
「不快な来客のせいで、琴の稽古の時間が迫っておる。参るぞ」
清成のことなど思い出したくもないように、鶴姫は言う。
そして鬼姫は、葵様に琴の稽古をつけるため、城主の私室に向かおうとした。
「けどハヤテが、怪我を!」
しかし葵様は鶴姫の後をついていくことを躊躇した。
技を解かれたとはいえ、俺の肩は外れたまま。
葵様は、すぐにでも俺の側に駆けよりたい様子だが、鶴姫の許可が出ていない状況で行動を決めかねていた。
その声を受け、鶴姫は俺の方をチラリと見る。
怪我をして地面に跪いている無様な俺の姿。それを見ても、鶴姫は何の感情も示さなかった。
「好きにしろ。ワシは先に行く」
そんな俺たちを見捨てるように、鶴姫はそう言うと一人で歩き始めた。
「え、あ……」
その鶴姫の様子に、葵様はまるで置いてきぼりになった子犬のような戸惑いを見せた。
「葵様、自分は大丈夫です」
俺のことで、葵様の心に負担をかけさせたくない。
彼女を心配させないよう、俺は平静を装ってみせた。
「ごめんなさい」
俺の言葉を聞き、葵様は鶴姫の背中を追うように駆け出した。
去っていく葵様の横顔に、潤んでいた瞳から一筋の涙が流れているのが、俺には見えた。
***
「大丈夫か〜ハヤテ」
部屋に戻った俺に、メジロが声をかけてきた。
「って言っても、ちゃんと関節を戻してあげたからな。もう痛みは治ってるだろ?」
ニヤニヤしながら俺に聞いている。
口では心配して見せているが、肩を外したぐらいでは、忍である彼女は本気では心配しない。
忍の関節は外れやすく、戻りやすい。
縄で縛られた時や、狭い場所に忍び込むために、そのような体質になるよう訓練を受けている。
もちろん、それ相応に痛みは伴うのだが、身体の痛みは精神力で克服できる。
「ほれ、差し入れだ。湿布薬と燻製。燻製は頭ごと食えよ、骨の回復が早くなるからな」
暗い表情をしている俺に、メジロは手製の痛み止めと岩魚の燻製を差し出した。
「ありがとうございます、メジロさん」
得意料理の燻製を持ってくるとは、メジロなりに俺を励まそうとはしているだろう。
「あそこで僕が君を叱って見せなきゃ、君はあの侍に斬られていたぞ」
「わかってますよ」
「あの侍、おそらく僕よりも強い」
あの侍とは、清成に使えていた右門という男。
思い起こせば、俺が飛びかかろうとした時、清成は右門の後ろに隠れたのではなかった。
右門が、清成の盾になるために前に出たのだ。
そしてその手は刀にかかっていた。
あのまま飛びかかれば、確実に斬り殺されていた。
だからメジロも俺の動きを封じ、これ見よがしに制裁してみせたのだろう。
全ては俺の暴走を止めるため。
彼女の気遣いは分かってはいる。
だから俺も肩を外された事は、全く怒っていない。
「大丈夫か? ハヤテ」
メジロがもう一度俺に聞いてきた。さっきと同じ言葉だが、口調も表情も違う。
彼女が今心配しているのは、俺の体ではなく心……。
「ありがとう、メジロさん」
これ以上、彼女に気を使わせたくない。
俺は礼を言って、さっそく湿布を肩に貼り付けた。
ひんやりとした感覚が、肩の痛みを緩和させる。
しかし俺の心の痛みには、残念ながらなんの効果もなかった。
「あのな、ハヤテ。僕はあんまり、そういうことは分からないから助言できないけど……もともと僕たちと侍は住む世界が違うんだ。侍には侍の生き方や、掟があって、僕たちがどうこうできる問題じゃない」
メジロは言葉を選びながら、俺を励まそうとしてくれる。
それは俺の、葵様への気持ちを汲んでのことだろう。
しかしメジロはそう言った男女の機微には全く興味がない。
だから、励ますよりも現状分析のような形になってしまう。
だがその突きつけられた現実は、乗り越えようのない壁の存在を、改めて認識させることになった。
「確かにあの姫様は、いい子だ。そしてお前の心を救ってくれた恩人だと思っている。けどね、お互いの身分を超えて歩み出した先には、不幸しか待ってないぞ」
「分かってますよ」
分かっているからこそ、今の状態は心が切り刻まれるように辛い。
「じゃあな、ハヤテ。もし肩が痛むようなら、明日の仕事休んでいいぞ」
メジロは、今の俺には何を言っても無駄だと思ったのだろう。
少し歯切れの悪そうに言い残すと、彼女は窓から飛び降りて部屋を出ていった。
一人になった俺は、ムシロの上に横になり、ぼーっと天井を見つめる。
痛みは和らぎ、心を占めるのは葵様のこと。
俺の心を救ってくれた恩人。
先ほどのメジロの言葉が、頭の中で繰り返される。
そう、俺は、この奈川城に来て、葵様に救われた。
その想いは、俺にこの城で働き始めた日のことを、思い出させた。


