葵様の見合い。
それは俺にとっては、晴天の霹靂の出来事だった。
葵様に視線を移すと、彼女も同じように動揺していた。
「お、お義母様、私は見合いのことなど聞いてはおりませぬ……」
その言葉を聞いた鶴姫は小さくため息をつく。
「先日、誕生祝いを贈った時に言ったはずじゃ『これで、お主も大人じゃ』と」
「けど、それが見合いとは」
「十六歳は結婚が許される年齢。そして侍の娘ならば、この城の繁栄のため、良い縁先に嫁ぐのが女としての役目。大人になるということは、その勤めを果たすことじゃ。いつまでも城の中に籠り、稽古事をしているだけではいかぬ。さいわい『天下人』様が紹介してくださった見合い話があってな」
「天下人」は無名の足軽からのし上がり、この国の頂点に立った侍だ。
葵様の見合い話が、天下人の提案というのなら、侍は有無を言わさずに従うかない。
断れば天下人への叛意と取られ、奈川城ごときは簡単に取り潰される。
(くそっ!)
苛立ちを募らせる俺に、メジロは鋭い視線で睨んできた。
彼女は俺の心の乱れに気づいたのか、鶴姫の横から「忍者らしく気配を消していろ」と目配せしている。
「私はまだ結婚などは考えたことも」
一方の葵様も鶴姫に自分の意見を伝えようとした……
が、目があった瞬間、猛獣に睨まれた小動物のように萎縮して、それ以上言葉を続けられなくなった。
「どうした葵。言いたいことがあれば、話してみぃ」
「いえ、ごめんなさい……」
そんな葵様のはっきりとしない態度に、鶴姫は眉間にシワを寄せ、ため息をついた。
「さて城主どの。このわたくしを、いつまで待たせのですか」
気まずい義親子の沈黙を破るように、男が姿を現した。
その男は色白の長身で、体の線は細い。
豪華な錦を着ているせいか、侍と言うより舞台役者のような雰囲気の優男だった。
そしてドタドタと騒々しい歩き方。こいつが先ほどの騒々しい足音の主だろう。
その声からは、神経質そうな苛立ちを感じた。
「始めまして葵殿。辰起城城主、佐久間清成と申します」
(辰起城だと)
辰起城のことは俺も知っている。
奈川城を降りたところにある平城で、戦時は陸路水路の中継地として栄え、天下が統一されてからは、商業都市として発展している城だ。
豊かな財力をなのは、清成の着ている着物の豪華さからも分かる。
(そんな男が、ここに何の用だ?)
嫌な予感がした……。
しゃしゃり出てきた清成を、鶴姫は不機嫌そうな目で一瞥し、葵様に告げる。
「この方が、お前の見合い相手の清成殿じゃ」
俺の嫌な予感は、早くも的中した。
清成は、葵様を品定めするように見た。
奴の目は、蛇のように鋭く冷たかった。
そして清成の視線が、まるで獲物を見つけたように、葵様の手元で止まる。
「これはこれは」
清成は呆れたような声をあげる。
「随分と質素な身なりで。いくさが終わり一年も経つのに、いまだに戦時の貧しさを忘れないためでしょうか。質素倹約、侍の娘としての心意気ですな」
まるで役者のような大袈裟な身振りで話をはじめる。
顔の筋肉は笑顔を作っているが、その目は決して笑っていない。
むしろ葵様のことを見下し嘲笑しているのが俺にも分かる。
(バカが、葵様の美しさをわからぬのか)
葵様の素朴な美しさは、奴らのように着飾ることしか能がない人間にはわからないのだろう。
「なぁ右門。辰起城では、木綿は侍の着るものではなく、使用人のものだよな」
奴は葵様をバカにしたような口調で、後ろに控えていた侍に同意を求めた。
すっ、と右門と呼ばれた侍が、歩み出た。
身長は清成と同じほどの長身だが、体は分厚く、着物の上からも筋肉の塊を容易に想像させる。
日に焼けた顔立ちは眉が太く精悍で、無骨な雰囲気を醸し出していた。
(この侍……できる)
右門は、かなりの武芸の使い手なのだろう。
俺は、こいつの足音に気づくことができなかった。
右門は清成の言葉に、硬い表情のまま一礼だけした。
賛同とも否定とも取れぬ態度。
一方の清成は、右門の態度を全く気に止める様子もない。
相手の返事がどうであれ、自分が言いたいことを言うだけだった。
「このような辺鄙な城なら、わたくしも錦ではなく、木綿を着てくるべきでしたかな」
明らかに奈川城を隠したと、見下した態度。
だがここは堪えるしかない。
相手はただの侍ではない。一城の主だ。
しかも天下人が決めた、葵様の見合い相手。
使用人の俺が無礼を働けば、奈川城に迷惑をかけることになる。
俺は湧き上がる感情を懸命に鎮めようとしていた。
そして清成の言葉に、気持ちを逆撫でされたのは俺だけではなかった。
奴の尊大な振る舞いに、鶴姫も眉間のシワを深くし、不愉快な表情をしている。
しかし奴の自己陶酔、自己顕示の言葉は止まらない。
「けど安心してください、わたくしの元に嫁いで来れば、もっと豪華なものを着せてあげましょう。でなければ夫婦として釣り合いが取れませぬ。特に、その手に持った、かんざし……質素を通り越し、みすぼらしい品だ」
獲物を見つけたような、清成の視線。
葵様は奴の視線が不快だったのか、清成から顔を背けた。
「これは、大切な人からの贈り物です……」
そしてそんな状態でも、葵様は自分の気持ちを声に出してくれた。
この無礼な男に、葵様は勇気を奮って、俺の贈り物を大切だと言ってくれた。
その一言によって、俺の心は落ち着きを取り戻す……はずだった。
「なるほど、安物の玩具が大切な品ですか。物持ちの良いのは素晴らしいことですが……」
「あっ」
清成は葵様から、かんざしを取り上げると、とびっきりの下衆な笑顔で言った。
「こんな安物で髪を飾ると、妻としての価値が下がってしまいます。新しいものを用意させましょう。本漆や鼈甲を金剛石や紅玉、翠玉、ゆうれん石で飾った高級なものを」
「やめてっ!」
清成はかんざしを、庭に放り捨てようとする。
葵様が清成の腕にしがみつき、それを食い止めようとしたが、間に合わない。
無造作に放り投げられた贈り物は、サクッと地面に刺さった。
かんざしを見る葵様の目が、涙で潤み始めた。
「貴様っ」
その瞬間、心の鎖が弾ける音が聞こえ、俺は怒りの形相で立ち上がる。
湧き上がる怒りを抑えるのは、今の俺には不可能だった。
奴がどんなに身分が高かろうが、金を持っていようが知ったことではない
大切な人を侮辱されて、これ以上黙っているわけにはいかない。
視界の端に、清成の不愉快な面を捉える。
奴は想像してなかった俺の反抗に、恐怖で引き攣り、右門の後ろに逃げ込もうとしていた。
(バカが。人を侮辱しても、反撃を喰らわないと思っていたのか?)
と、俺が飛びかかろうとした瞬間……
メジロが呆れた表情で、俺の目の前に立ちはだかった。
「まったく君は……」
次の瞬間、彼女の拳が俺の胸に触れた。
清成に気を取られていた俺の反応が、一瞬遅れる。
しまったと思うと同時に、心臓に鈍い衝撃が走り、俺の意識が揺らいだ。
『心止め』
胸部に打撃を打ち込むことで、心臓の動きを一時的に麻痺させる忍術。
打ち込む力や深さが独特で難しく、大半の忍はこの打撃の習得を諦める。
だが、メジロのように小柄で腕力が劣る忍にとっては、体格差関係なく相手を仕留めることができる必殺の技。
俺もメジロから、散々教え込まれた技だ……。
ドクン、ドクン、ド、ド、トクン、ピクッ。
俺の心臓の動きが不規則になり、意識がフワッと宙を浮く。
もしメジロが本気で打ち込んできたなら、俺の心臓は完全に止まっていただろう。
(手加減してくれたんだ……こう言う所は優しいよな……メジロさん)
しかしメジロは決して優しくはなかった。
ゴリッ。
次の瞬間、鈍い音が聞こえ、俺の右肩に激痛が走った。
それは俺にとっては、晴天の霹靂の出来事だった。
葵様に視線を移すと、彼女も同じように動揺していた。
「お、お義母様、私は見合いのことなど聞いてはおりませぬ……」
その言葉を聞いた鶴姫は小さくため息をつく。
「先日、誕生祝いを贈った時に言ったはずじゃ『これで、お主も大人じゃ』と」
「けど、それが見合いとは」
「十六歳は結婚が許される年齢。そして侍の娘ならば、この城の繁栄のため、良い縁先に嫁ぐのが女としての役目。大人になるということは、その勤めを果たすことじゃ。いつまでも城の中に籠り、稽古事をしているだけではいかぬ。さいわい『天下人』様が紹介してくださった見合い話があってな」
「天下人」は無名の足軽からのし上がり、この国の頂点に立った侍だ。
葵様の見合い話が、天下人の提案というのなら、侍は有無を言わさずに従うかない。
断れば天下人への叛意と取られ、奈川城ごときは簡単に取り潰される。
(くそっ!)
苛立ちを募らせる俺に、メジロは鋭い視線で睨んできた。
彼女は俺の心の乱れに気づいたのか、鶴姫の横から「忍者らしく気配を消していろ」と目配せしている。
「私はまだ結婚などは考えたことも」
一方の葵様も鶴姫に自分の意見を伝えようとした……
が、目があった瞬間、猛獣に睨まれた小動物のように萎縮して、それ以上言葉を続けられなくなった。
「どうした葵。言いたいことがあれば、話してみぃ」
「いえ、ごめんなさい……」
そんな葵様のはっきりとしない態度に、鶴姫は眉間にシワを寄せ、ため息をついた。
「さて城主どの。このわたくしを、いつまで待たせのですか」
気まずい義親子の沈黙を破るように、男が姿を現した。
その男は色白の長身で、体の線は細い。
豪華な錦を着ているせいか、侍と言うより舞台役者のような雰囲気の優男だった。
そしてドタドタと騒々しい歩き方。こいつが先ほどの騒々しい足音の主だろう。
その声からは、神経質そうな苛立ちを感じた。
「始めまして葵殿。辰起城城主、佐久間清成と申します」
(辰起城だと)
辰起城のことは俺も知っている。
奈川城を降りたところにある平城で、戦時は陸路水路の中継地として栄え、天下が統一されてからは、商業都市として発展している城だ。
豊かな財力をなのは、清成の着ている着物の豪華さからも分かる。
(そんな男が、ここに何の用だ?)
嫌な予感がした……。
しゃしゃり出てきた清成を、鶴姫は不機嫌そうな目で一瞥し、葵様に告げる。
「この方が、お前の見合い相手の清成殿じゃ」
俺の嫌な予感は、早くも的中した。
清成は、葵様を品定めするように見た。
奴の目は、蛇のように鋭く冷たかった。
そして清成の視線が、まるで獲物を見つけたように、葵様の手元で止まる。
「これはこれは」
清成は呆れたような声をあげる。
「随分と質素な身なりで。いくさが終わり一年も経つのに、いまだに戦時の貧しさを忘れないためでしょうか。質素倹約、侍の娘としての心意気ですな」
まるで役者のような大袈裟な身振りで話をはじめる。
顔の筋肉は笑顔を作っているが、その目は決して笑っていない。
むしろ葵様のことを見下し嘲笑しているのが俺にも分かる。
(バカが、葵様の美しさをわからぬのか)
葵様の素朴な美しさは、奴らのように着飾ることしか能がない人間にはわからないのだろう。
「なぁ右門。辰起城では、木綿は侍の着るものではなく、使用人のものだよな」
奴は葵様をバカにしたような口調で、後ろに控えていた侍に同意を求めた。
すっ、と右門と呼ばれた侍が、歩み出た。
身長は清成と同じほどの長身だが、体は分厚く、着物の上からも筋肉の塊を容易に想像させる。
日に焼けた顔立ちは眉が太く精悍で、無骨な雰囲気を醸し出していた。
(この侍……できる)
右門は、かなりの武芸の使い手なのだろう。
俺は、こいつの足音に気づくことができなかった。
右門は清成の言葉に、硬い表情のまま一礼だけした。
賛同とも否定とも取れぬ態度。
一方の清成は、右門の態度を全く気に止める様子もない。
相手の返事がどうであれ、自分が言いたいことを言うだけだった。
「このような辺鄙な城なら、わたくしも錦ではなく、木綿を着てくるべきでしたかな」
明らかに奈川城を隠したと、見下した態度。
だがここは堪えるしかない。
相手はただの侍ではない。一城の主だ。
しかも天下人が決めた、葵様の見合い相手。
使用人の俺が無礼を働けば、奈川城に迷惑をかけることになる。
俺は湧き上がる感情を懸命に鎮めようとしていた。
そして清成の言葉に、気持ちを逆撫でされたのは俺だけではなかった。
奴の尊大な振る舞いに、鶴姫も眉間のシワを深くし、不愉快な表情をしている。
しかし奴の自己陶酔、自己顕示の言葉は止まらない。
「けど安心してください、わたくしの元に嫁いで来れば、もっと豪華なものを着せてあげましょう。でなければ夫婦として釣り合いが取れませぬ。特に、その手に持った、かんざし……質素を通り越し、みすぼらしい品だ」
獲物を見つけたような、清成の視線。
葵様は奴の視線が不快だったのか、清成から顔を背けた。
「これは、大切な人からの贈り物です……」
そしてそんな状態でも、葵様は自分の気持ちを声に出してくれた。
この無礼な男に、葵様は勇気を奮って、俺の贈り物を大切だと言ってくれた。
その一言によって、俺の心は落ち着きを取り戻す……はずだった。
「なるほど、安物の玩具が大切な品ですか。物持ちの良いのは素晴らしいことですが……」
「あっ」
清成は葵様から、かんざしを取り上げると、とびっきりの下衆な笑顔で言った。
「こんな安物で髪を飾ると、妻としての価値が下がってしまいます。新しいものを用意させましょう。本漆や鼈甲を金剛石や紅玉、翠玉、ゆうれん石で飾った高級なものを」
「やめてっ!」
清成はかんざしを、庭に放り捨てようとする。
葵様が清成の腕にしがみつき、それを食い止めようとしたが、間に合わない。
無造作に放り投げられた贈り物は、サクッと地面に刺さった。
かんざしを見る葵様の目が、涙で潤み始めた。
「貴様っ」
その瞬間、心の鎖が弾ける音が聞こえ、俺は怒りの形相で立ち上がる。
湧き上がる怒りを抑えるのは、今の俺には不可能だった。
奴がどんなに身分が高かろうが、金を持っていようが知ったことではない
大切な人を侮辱されて、これ以上黙っているわけにはいかない。
視界の端に、清成の不愉快な面を捉える。
奴は想像してなかった俺の反抗に、恐怖で引き攣り、右門の後ろに逃げ込もうとしていた。
(バカが。人を侮辱しても、反撃を喰らわないと思っていたのか?)
と、俺が飛びかかろうとした瞬間……
メジロが呆れた表情で、俺の目の前に立ちはだかった。
「まったく君は……」
次の瞬間、彼女の拳が俺の胸に触れた。
清成に気を取られていた俺の反応が、一瞬遅れる。
しまったと思うと同時に、心臓に鈍い衝撃が走り、俺の意識が揺らいだ。
『心止め』
胸部に打撃を打ち込むことで、心臓の動きを一時的に麻痺させる忍術。
打ち込む力や深さが独特で難しく、大半の忍はこの打撃の習得を諦める。
だが、メジロのように小柄で腕力が劣る忍にとっては、体格差関係なく相手を仕留めることができる必殺の技。
俺もメジロから、散々教え込まれた技だ……。
ドクン、ドクン、ド、ド、トクン、ピクッ。
俺の心臓の動きが不規則になり、意識がフワッと宙を浮く。
もしメジロが本気で打ち込んできたなら、俺の心臓は完全に止まっていただろう。
(手加減してくれたんだ……こう言う所は優しいよな……メジロさん)
しかしメジロは決して優しくはなかった。
ゴリッ。
次の瞬間、鈍い音が聞こえ、俺の右肩に激痛が走った。


