目の前で仕込み杖を構えるのは、戦災で家族を失った老婆だった。
黒兎の事情を知った以上、本気で戦いづらい。
だが、本気で戦わなければ、彼女を退けることはできないだろう。
そんな俺の迷いを、黒兎は刺青と恫喝に怯んだと勘違いしたんだろう。
さらに啖呵を切り始めた。
「わしが盗むのは侍の屋敷のみ。奴らに、そしていくさに。わしは大切なものを全て持っていかれた。だから仕返しに、侍たちから奪ってやるじゃ。それの何が悪い!」
一瞬「いや、悪くない」と、言葉が出そうになった。
気持ちはわかる。
この婆さんの盗みの根底にあるのは、侍への憎しみ。
それがあるから、痛めつけて警告しても、盗みを諦めてくれるとは思えない。
などと考えている間に、黒兎は仕込み杖を構え直す。
「ガキを殺すほど落ちぶれちゃいない」
「よかった、俺も年寄りを殺したくはない」
どうやら黒兎は、峰打ちで勘弁してくれるようだ。
けど斬られはしないけど、当たればめちゃくちゃ痛い。
普通に骨折もするし、打ちどころが悪ければ死んでしまう。
なので、本気で避けさせてもらおう。
「ガキがっ」
叫ぶと同時に、黒兎は一瞬背中を丸めた後、ウサギのように跳躍した。
確かに、最初の一撃より全然動きが早い。
さっきの不意打ちは、ちゃんと手加減してくれたんだと妙な感心をした。
だからと言って、全力の峰打ちは勘弁してもらいたい。
黒兎が振り下ろした刃を、俺は腕を頭上で交差させ受け止める。
キンッ。
金属音が小屋に響いた。
その一撃は峰打ちとはいえ、普通なら腕の骨が折られていただろう。
だが……折れたのは、黒兎の仕込み杖のほうだった。
「何っ!」
黒兎があげる驚きの声。
俺は鉄板をつけた前腕を交差し、刃を受け止めると同時に、腕を捻り刃をへし折ってみせたのだ。
素手で相手の刀を封じる技「無刀取り」の一つだ。
「仕込み杖を持った相手に、何の準備もせずに来るわけないだろ」
俺は着物の胸元を開き、下に着けている黒塗りの鉄板を黒兎に見せる。
それは忍が危険な任務で着ける装甲服。
侍の鎧と違い鉄板も薄く軽量で、体の要所のみを守るように出来ている。
槍や刀を正面から防ぐのは難しいが、仕込み杖の細い刃ぐらいなら十分に受け止め、へし折ることができる代物だ。
「ぐぬぬ」
仕込み杖が折られ、不利を悟った黒兎は、威嚇するように唸り声を上げた。
俺のことを甘く見ていたようだが、残念ながら実力は俺の方が上だと分かったようだ。
「これに懲りて、奈川城に盗みに入るのは……」
警告し終わる前に、黒兎は俺に飛び掛かってきた。
皺枯れた乳房が、垂れ下がったウサギの耳のように揺れる。
俺は心の中で、小さくため息をつくと、手に握ったモノを黒兎に投げつけた。
「ぐわっ」
その瞬間、黒兎は姿勢を崩し、俺の横を転がっていった。
黒兎は左の太腿を押さえながら、うめき声を上げた
そして俺は、黒兎にゆっくりと近づき、先ほど受け取った布袋を鳴らしてみせた。
「これ、山道での護身用に渡したんだけどなぁ」
先ほど黒兎が投げつけた金属片。
それは贋金ではなく、忍者が使う「投銭」と呼ばれる武器だった。
足の痛みで起き上がれない黒兎は、俺のことを恨めしそうに見上げ、罵倒し始める。
「侍の飼い犬め! 殺せ。ひと思いに殺せっ!」
「殺さねぇよっ!」
思わず怒鳴りつけるような返事をした。
「えっ」
今まで飄々とした俺が、急に感情剥き出して怒鳴ったせいか、黒兎は驚いた表情をした。
「すまんな、婆さん。怒鳴ったりして…‥」
侍の飼い犬呼ばわりされたことへの嫌悪で、つい声を荒らげてしまった。
俺は、少しバツが悪くなり押し黙った。
「殺せ……」
黒兎は、不貞腐れるように、もう一度言う。
侍への盗みは斬首。
そんな法がある世の中で、あえて侍専門に盗みを働いてきた黒兎だ。
すでに覚悟を決めているのだろう。戦いに負けた今でも、命乞いなどはして来ない。
そんな相手には、脅すよりも……。
「どうした小僧、図星をつかれて言葉に詰まったか?」
まるで俺を急かすように、黒兎が大口を開けた瞬間……
俺はあるモノを放り込んだ。
次の瞬間、黒兎は毒を飲まされたと思ったんだろう。
反射的に喉に手を当て、口に入ったモノを吐き出そうとする。
「毒じゃない、金・平・糖。高い菓子なんだから、味わって食って」
黒兎は一瞬あっけに取られ、吐こうとするのを止める。
「な、甘いだろ?」
そう聞いてみても、俺の意図が掴みかねるのか、黒兎はこちらを睨みつけたままだ。
ただ、毒ではないと理解はしたようだ。
ゴリッと、金平糖を噛み砕く音がする。
「わ、わしを捕らえるつもりか? 捕らえて酷い目に合わすつもりじゃな」
「しねえよ」
「あんたを傷つけたくないんだ」
今の俺は、黒兎の憎しみに染まった心をなんとかしたかった。
俺の脳裏に兄のことが浮かぶ。
「俺もいくさで家族を亡くした。だからあんたの侍を憎む心はわかる」
もし黒兎の身の上を聞いていなければ……。
俺は奈川城を……葵様を守るため、躊躇せずに黒兎を倒していた。
けど今の俺は同じ境遇にあるものとして、黒兎の根底にある憎しみを、少しでも和らげたかった。
「ムカつくよな、侍って」
思わず漏れたその言葉に偽りはない。
今でも時折思い出す、里に居丈高にやってくる侍の姿を。
奴らは常に、侍以外のものを見下し、道具として利用し、搾取し続けた。
そして俺たち忍びは、そんな侍に媚び諂い、命令された任務に従い続けるしかなかった。
心の中に、いくさや侍、そして忍という身分に対する憎しみが膨れ上がってくる。
なぜ同じ人間なのに、こうも違うものか。
けど俺は、一人の女性を思い出すことで、その気持ちを押さえつけることができた。
「けどな……。侍の中には、いい人もいる。その金平糖だって、さっきの城の姫様が、あんたに分けようとしたんだ」
高級な菓子を、通りすがりの困った老婆に分けてあげたいと思う気持ち。
そこには打算などはない、一人の人間としての葵様の優しさが込められていた。
「ようやく戦乱の世が終わったんだ。あんたには憎しみに囚われ続けるんじゃなく、亡くなった家族の分も幸せに生きてほしい」
黒兎に亡くなった家族への想いがあるなら、それが供養だと俺は思う。
俺もそうだった。
一年前、唯一の肉親を亡くし、真っ暗な人生の中で光明に出会うことができた。
そのおかげで、憎しみや怒りに押しつぶされずに生きてこられた。
そして平穏でささやかな幸せを感じ、再び笑うことができるようになった。
もし、今の黒兎の考えを変えようとするなら、必要なのは力ではなく優しさだと思う。
「世知辛い世の中だからこそ、婆さんにも幸せになってほしい」
ぽろっと漏れた、俺の本音。
そんな俺の気持ちが伝わったのか、彼女の視線からは、少しずつ憎しみは消え去ってゆく。
ただバツが悪いのか、黒兎は少し俯いて、俺から視線を逸らした。
「もう、うちの城に盗みに入ろうとは思わないでね。本当にあの城、貧乏で金目のものないぞ。それに俺より百倍強い忍が警護しているから」
最後に釘を刺し、俺は小屋を出ようとした。
もう黒兎に背を向けても攻撃はしてこない。そんな確信が俺にはあった。
「待てっ」
その声に振り向くと、黒兎がはだけていた胸元を合わせ直し、肩の刺青を隠していた。
そして、その顔は少し赤らんでいる。
「も、もし、わしがもう少し若ければ……」
恥ずかしそうに、小声でつぶやく黒兎。
なるほど、そういうことか……。
もし黒兎がもっと若く、跳躍力も衰えていなかったら。
俺が手甲で受け止めるより早く、仕込み杖で俺の額を割ることができたかもしれない。
だが時間の流れは非情だ。
負けた今となっては、刺青を誇示して啖呵を切ったのが、急に気恥ずかしくなったのだろう。
俺は「怪盗黒兎」にこれ以上恥をかかせないよう、彼女の言葉を肯定してみせた。
「ああ、婆さんがもっと若い時に戦っていたら、俺が負けていたかもな」
「ち、違う、そういうことでは……馬鹿っ……」
と、婆さんの気恥ずかしそうな罵倒を受け流し、俺は奈川城に帰っていった。
今日の残業は、これで無事に終わった。
黒兎の事情を知った以上、本気で戦いづらい。
だが、本気で戦わなければ、彼女を退けることはできないだろう。
そんな俺の迷いを、黒兎は刺青と恫喝に怯んだと勘違いしたんだろう。
さらに啖呵を切り始めた。
「わしが盗むのは侍の屋敷のみ。奴らに、そしていくさに。わしは大切なものを全て持っていかれた。だから仕返しに、侍たちから奪ってやるじゃ。それの何が悪い!」
一瞬「いや、悪くない」と、言葉が出そうになった。
気持ちはわかる。
この婆さんの盗みの根底にあるのは、侍への憎しみ。
それがあるから、痛めつけて警告しても、盗みを諦めてくれるとは思えない。
などと考えている間に、黒兎は仕込み杖を構え直す。
「ガキを殺すほど落ちぶれちゃいない」
「よかった、俺も年寄りを殺したくはない」
どうやら黒兎は、峰打ちで勘弁してくれるようだ。
けど斬られはしないけど、当たればめちゃくちゃ痛い。
普通に骨折もするし、打ちどころが悪ければ死んでしまう。
なので、本気で避けさせてもらおう。
「ガキがっ」
叫ぶと同時に、黒兎は一瞬背中を丸めた後、ウサギのように跳躍した。
確かに、最初の一撃より全然動きが早い。
さっきの不意打ちは、ちゃんと手加減してくれたんだと妙な感心をした。
だからと言って、全力の峰打ちは勘弁してもらいたい。
黒兎が振り下ろした刃を、俺は腕を頭上で交差させ受け止める。
キンッ。
金属音が小屋に響いた。
その一撃は峰打ちとはいえ、普通なら腕の骨が折られていただろう。
だが……折れたのは、黒兎の仕込み杖のほうだった。
「何っ!」
黒兎があげる驚きの声。
俺は鉄板をつけた前腕を交差し、刃を受け止めると同時に、腕を捻り刃をへし折ってみせたのだ。
素手で相手の刀を封じる技「無刀取り」の一つだ。
「仕込み杖を持った相手に、何の準備もせずに来るわけないだろ」
俺は着物の胸元を開き、下に着けている黒塗りの鉄板を黒兎に見せる。
それは忍が危険な任務で着ける装甲服。
侍の鎧と違い鉄板も薄く軽量で、体の要所のみを守るように出来ている。
槍や刀を正面から防ぐのは難しいが、仕込み杖の細い刃ぐらいなら十分に受け止め、へし折ることができる代物だ。
「ぐぬぬ」
仕込み杖が折られ、不利を悟った黒兎は、威嚇するように唸り声を上げた。
俺のことを甘く見ていたようだが、残念ながら実力は俺の方が上だと分かったようだ。
「これに懲りて、奈川城に盗みに入るのは……」
警告し終わる前に、黒兎は俺に飛び掛かってきた。
皺枯れた乳房が、垂れ下がったウサギの耳のように揺れる。
俺は心の中で、小さくため息をつくと、手に握ったモノを黒兎に投げつけた。
「ぐわっ」
その瞬間、黒兎は姿勢を崩し、俺の横を転がっていった。
黒兎は左の太腿を押さえながら、うめき声を上げた
そして俺は、黒兎にゆっくりと近づき、先ほど受け取った布袋を鳴らしてみせた。
「これ、山道での護身用に渡したんだけどなぁ」
先ほど黒兎が投げつけた金属片。
それは贋金ではなく、忍者が使う「投銭」と呼ばれる武器だった。
足の痛みで起き上がれない黒兎は、俺のことを恨めしそうに見上げ、罵倒し始める。
「侍の飼い犬め! 殺せ。ひと思いに殺せっ!」
「殺さねぇよっ!」
思わず怒鳴りつけるような返事をした。
「えっ」
今まで飄々とした俺が、急に感情剥き出して怒鳴ったせいか、黒兎は驚いた表情をした。
「すまんな、婆さん。怒鳴ったりして…‥」
侍の飼い犬呼ばわりされたことへの嫌悪で、つい声を荒らげてしまった。
俺は、少しバツが悪くなり押し黙った。
「殺せ……」
黒兎は、不貞腐れるように、もう一度言う。
侍への盗みは斬首。
そんな法がある世の中で、あえて侍専門に盗みを働いてきた黒兎だ。
すでに覚悟を決めているのだろう。戦いに負けた今でも、命乞いなどはして来ない。
そんな相手には、脅すよりも……。
「どうした小僧、図星をつかれて言葉に詰まったか?」
まるで俺を急かすように、黒兎が大口を開けた瞬間……
俺はあるモノを放り込んだ。
次の瞬間、黒兎は毒を飲まされたと思ったんだろう。
反射的に喉に手を当て、口に入ったモノを吐き出そうとする。
「毒じゃない、金・平・糖。高い菓子なんだから、味わって食って」
黒兎は一瞬あっけに取られ、吐こうとするのを止める。
「な、甘いだろ?」
そう聞いてみても、俺の意図が掴みかねるのか、黒兎はこちらを睨みつけたままだ。
ただ、毒ではないと理解はしたようだ。
ゴリッと、金平糖を噛み砕く音がする。
「わ、わしを捕らえるつもりか? 捕らえて酷い目に合わすつもりじゃな」
「しねえよ」
「あんたを傷つけたくないんだ」
今の俺は、黒兎の憎しみに染まった心をなんとかしたかった。
俺の脳裏に兄のことが浮かぶ。
「俺もいくさで家族を亡くした。だからあんたの侍を憎む心はわかる」
もし黒兎の身の上を聞いていなければ……。
俺は奈川城を……葵様を守るため、躊躇せずに黒兎を倒していた。
けど今の俺は同じ境遇にあるものとして、黒兎の根底にある憎しみを、少しでも和らげたかった。
「ムカつくよな、侍って」
思わず漏れたその言葉に偽りはない。
今でも時折思い出す、里に居丈高にやってくる侍の姿を。
奴らは常に、侍以外のものを見下し、道具として利用し、搾取し続けた。
そして俺たち忍びは、そんな侍に媚び諂い、命令された任務に従い続けるしかなかった。
心の中に、いくさや侍、そして忍という身分に対する憎しみが膨れ上がってくる。
なぜ同じ人間なのに、こうも違うものか。
けど俺は、一人の女性を思い出すことで、その気持ちを押さえつけることができた。
「けどな……。侍の中には、いい人もいる。その金平糖だって、さっきの城の姫様が、あんたに分けようとしたんだ」
高級な菓子を、通りすがりの困った老婆に分けてあげたいと思う気持ち。
そこには打算などはない、一人の人間としての葵様の優しさが込められていた。
「ようやく戦乱の世が終わったんだ。あんたには憎しみに囚われ続けるんじゃなく、亡くなった家族の分も幸せに生きてほしい」
黒兎に亡くなった家族への想いがあるなら、それが供養だと俺は思う。
俺もそうだった。
一年前、唯一の肉親を亡くし、真っ暗な人生の中で光明に出会うことができた。
そのおかげで、憎しみや怒りに押しつぶされずに生きてこられた。
そして平穏でささやかな幸せを感じ、再び笑うことができるようになった。
もし、今の黒兎の考えを変えようとするなら、必要なのは力ではなく優しさだと思う。
「世知辛い世の中だからこそ、婆さんにも幸せになってほしい」
ぽろっと漏れた、俺の本音。
そんな俺の気持ちが伝わったのか、彼女の視線からは、少しずつ憎しみは消え去ってゆく。
ただバツが悪いのか、黒兎は少し俯いて、俺から視線を逸らした。
「もう、うちの城に盗みに入ろうとは思わないでね。本当にあの城、貧乏で金目のものないぞ。それに俺より百倍強い忍が警護しているから」
最後に釘を刺し、俺は小屋を出ようとした。
もう黒兎に背を向けても攻撃はしてこない。そんな確信が俺にはあった。
「待てっ」
その声に振り向くと、黒兎がはだけていた胸元を合わせ直し、肩の刺青を隠していた。
そして、その顔は少し赤らんでいる。
「も、もし、わしがもう少し若ければ……」
恥ずかしそうに、小声でつぶやく黒兎。
なるほど、そういうことか……。
もし黒兎がもっと若く、跳躍力も衰えていなかったら。
俺が手甲で受け止めるより早く、仕込み杖で俺の額を割ることができたかもしれない。
だが時間の流れは非情だ。
負けた今となっては、刺青を誇示して啖呵を切ったのが、急に気恥ずかしくなったのだろう。
俺は「怪盗黒兎」にこれ以上恥をかかせないよう、彼女の言葉を肯定してみせた。
「ああ、婆さんがもっと若い時に戦っていたら、俺が負けていたかもな」
「ち、違う、そういうことでは……馬鹿っ……」
と、婆さんの気恥ずかしそうな罵倒を受け流し、俺は奈川城に帰っていった。
今日の残業は、これで無事に終わった。


