とん。
 二人で月見櫓に上がった瞬間、視界が開けた。
 頭上には美しい満月。しかし、今は二人で月見をしている余裕はない。
 背後では撃鉄を起こす微かな音がする。
 奴はもう俺たちを翻弄し楽しむ余裕もなかった。
 そして自分を刺した葵様への怒りに支配されている。

 だから俺は、奴が引き金を引くよりも早く、切り札を床に叩きつけた。
 ぼんっ。
 パンッ。
 折り畳みの凧が開く音と、鉄砲の音が同時に響く。
 凧は銃弾が届くよりも早く、巨大に広がり、貼られた三鷹和紙が銃弾を受け止た。
 この凧は元は高所からの滑空用の忍具。
 そして幾重にも張り重ねた和紙は、槍や矢を防げずとも、短筒の弾ぐらいなら十分に食い止める盾ともなった。
「さあ、一緒にいきましょう」
 二人で月見櫓の端まで来ると、俺は左手で凧を握り締めた。
「俺を離さないでください」
「二度と、離しません」
 葵はそう言って、俺の首にギュッとしがみついた。
 右腕の力がうまく入らない、そして痛みもある。しかし俺は葵を支えるように右腕を彼女の腰に回す。
 そして俺は葵と欄干に駆け上がった。
 辰起城の四層から下を見ると、地面に吸い込まれる感覚に襲われる。
 俺に回した葵の腕がぎゅっと力を込められ、微かに震えている。
「怖いですか?」
 葵は目を閉じて覚悟を決める。
「ハヤテと一緒なら……大丈夫」
 その言葉を聞くと同時に、俺は欄干を蹴り月見櫓から飛び降りた。
「俺様を……無視……するな」
 背後で微かな清成の声、そして撃鉄を起こす音が聞こえた。
 しかし、清成には俺たちを狙うだけの力が残っていないのか。
 俺たちが城から十分な距離を取った頃、月見櫓の向こうから鉄砲の音が一度だけ聞こえた。

 ***

 凧は俺たち二人を乗せて、辰起城の上空を滑空してゆく。
 強靭な和紙を貼った凧や、特殊な風呂敷包みを使い高所から滑空する忍術は、各流派に存在する逃走法だ。
 大凧は十分に風を受け止め、俺たち二人の体をゆっくりと滑空させてくれた。
「目を開けてみませんか?」
「すごい綺麗っ」
 恐る恐る目を開けた葵は、上空から街を見下ろした光景に感嘆の声をあげる。
 街には明かりが灯り、飛び交う蛍のように光を放っていた。
 山の中で生まれ育った俺たちには、見たこともない光景。
 二人で花火を見ていた時のような、葵の明るい笑顔。
 それは、これからことへの不安を忘れ去らせてくれた。

 そして凧はゆっくりと城下街の外れを目指していく。
「すごい、ハヤテ。私たち空を飛んでるのね」
 空を飛ぶことへの恐怖心も薄れ、余裕が出てきた葵が興奮気味にいう。
 正確には滑空しているだけだが、そんな野暮なこと今は言わない。
「ええ、一緒に、飛んでますよ」
「すごい……私も飛べたんだ」
 俺はその言葉で、むかし葵と見守った雛の巣離れのことを思い出した。
 
 木の上の巣から落ちた鳥の雛が鳴いていた。
 地面で悲しげに鳴く雛を見つけた葵は、巣に戻してあげて欲しいと俺に頼みに来た。
 けど俺はそれを断り、巣離れのことを彼女に説明した。
 あの雛に人が手を貸したなら、あの子は自分で飛べないまま大きくなってしまうことを。
 雛は自分の力で、飛ぶことを身につけなければならない。
 そして親鳥は、どんなに辛くてもそれを黙って見続けるしかない。
 俺の説明を理解してくれた葵は、そのままじっと、雛が飛ぼうと努力しているのを、見守り続けた。
 そして無事に、雛が巣まで羽ばたき戻った時は、自分ことのように喜んだ。
 自分の力で自由に羽ばたきたい。
 そんな願望を、雛に投影していたのだろう。
 だが、あの時の葵が自由に生きるのは、奈川城の姫である限り叶わぬ願い。
 そして、彼女自身も、自由に生きることを諦めていた。

 けど今は違う。
 葵は自分の意思で、俺と飛び立ってくれた。もうあの時の葵ではない。
 改めて、彼女の横顔を見た。
 相変わらず整った目鼻立ち、そしてその表情はどこか自信にみち溢れている。
 その眩い美しさは、俺に心に安堵を与えてくれた。

 ***
 
 辰起城から十分離れた草むらを見つけると、俺は凧の骨にかけた足を離し、ぶら下がるよう格好になった。
 俺の体が空気の抵抗を生んで、凧はその滑空速度を落としていく。
 ずざっ。
 降ろした足が地面に着いた瞬間、俺たちはつんのめるように地面に転がっていく。
 ごろごろごろ。
 いささか強引な着地方法だが、転がる間ちゃんと葵の頭を左腕で守るのだけは忘れない。
 そして、そのまま俺たち二人は草の上に寝転がった。
 夜空を見上げると、満月と無数の星明かりが目に入ってくる。
「綺麗な景色ですね」
「ハヤテと二人で、またこうやって空を見上げることができるなんて、嘘みたい」
「花火が上がってないのは残念ですが」
「ううん、この星空もとっても綺麗」
 葵は興奮冷めやらない口調で、俺に語りかける。
 俺にとって見慣れた夜空の星々も、横に葵がいると思うだけで、かってないほど素晴らしい光景に見える。
 この月の美しさは、どのような立派な月見櫓、どのような豪華な酒宴の席からも見ることはできない。
 愛するものが横にいる人間だけが、見ることができる光景だ。

 俺は葵の手をたぐり寄せると、右腕でギュッと握った。
 微かに肘に痛みがあったが、そんな痛みは、二人きりでいられる喜びに簡単にかき消される。
 横にいる葵を見ていると、彼女も俺の方を見た。
 彼女の大きな瞳が、月光を反射し輝いて見える。
 そして俺に見つめられたせいか葵は少し照れた表情で、俺の手を強く握り返してくれた。
「さて、これからどうしますか?」
 俺はそれとなく聞いてみる。
 しかし、葵もそれは考えてなかったのか、すこし戸惑った表情を俺に見せた。
 
 その表情は、俺の高揚感を鎮めた。
 そして戦いを終えた俺に、一瞬不安が頭をよぎった。
 二人の未来に対する恍惚と不安。
 俺たちはこれからどこへ向かえばいいのだろう。

 かささ……
 微かな物音が、俺の心の迷いをかき消し、闘争状態へ引き戻した。
「葵、起きないで」
 俺は姫を庇うように上体を起こすと、辰起城の方向に身構えた。
 遠方に微かに見える天守の黒瓦が、月光を反射し微かに光る。
 火事は鎮火し切ったのか、漆喰の外壁は炎の赤みにさらされず、その白さを保っている。
 その方向から聞こえる微かな足音。
 追手か?
 月明かりの元、俺たちに迫る謎の影は、素早く距離を縮めてきた。

 そして影は、俺の側まできた瞬間、急に方向を変え右側に回り込むと、鋭い蹴りを放ってきた。
 右腕の痛みを堪え、俺は蹴りを受けようとする。
 しかし影の放つ蹴りは、途中で軌道を変えた。
 中段から上段へ。
 俺はその変化に対応できず、首に鞭のような一撃が打ち込まれた。
 一瞬、意識がふらっとする。
 この動きは……。
 身に覚えのある攻撃のクセ、そして一撃の鋭さ。
 襲い掛かってきた小さな影は、間髪入れず次の攻撃を仕掛けてくる。
 俺がよろめいた隙をつき、懐に潜りこみ……そして俺の胸に拳を当てた。
 心止め!
 頭巾の隙間から、猫のような大きな目が俺を睨んだ。
 その瞬間、影の正体を確信した。
 俺は技を避けるため、少しでも体を遠のかせようする。
 が、それよりも早く放たれた衝撃が、俺の心臓の動きを止めた。
「葵……」
 薄れゆく意識の中、俺は一番大切な人の名前を呼んでいた。

 ***

 どのくらい意識を失っていたのだろう。
 目が覚めると、葵が心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいる。
「良かったハヤテ、目が覚めて」
 心配そうな葵の表情。
 その目は赤く充血し、うっすら涙が滲んでいる。
 俺のことを心配してくれていたのか、それとも俺が目を覚ましたことへの喜びの涙か。
 どっちにしても俺は死んではおらず、まだ葵は目の前にいる。
「僕の言った通り、死んでないでしょ?」
 メジロが気楽な感じで葵に声をかけた。
 確かに死んではいないが、俺の体は「心止め」をまともに食らい、鉛のように重く、体を起こすのも難儀な状態だ。
「メジロ……なぜ?」
 それでもメジロに攻撃の真意を問いただそうとした瞬間、新たな声が遮った。
「この者が目を覚さぬことには、お主は泣きじゃくってワシの話を聞かぬからな」
 凛としたきつい感じの女性の声。
 それを聞いた瞬間、俺の警戒心が最大限まで高まる。
 声の主は奈川城城主の鶴姫。
 葵の義母で、彼女を縛り付け自由を奪い続けた鬼!
 ……どうやら俺は、メジロに裏切られたようだ。


 鶴姫は俺を一瞥すると、そのまま横を通り過ぎ、葵の前に行った。
「お義母様……」
 鶴姫を前にした葵は、怯えたような固い表情に戻っていた。
 長年刷り込まれた苦手意識なのだろうか。葵は義母を前にすると、どうしても萎縮してしまう。
 メジロの、いや鶴姫の目的は明白だった。

 葵を守らなければ!
 そう思い、渾身の力を振り絞り起き上がった俺の前に、メジロが割って入る。
「城主様の親子の関係に関わるな、って僕は言ったよね?」
「裏切ったのか? メジロ」
「悪いな、ハヤテ。もう、お互い進む道は違う。そして僕は奈川城の人間で、城主様の意向に従う。最初からそう言ってただろ? 僕に取って大切なのは白い飯を食える生活だって」
 メジロは邪悪な笑みを浮かべ、俺と葵の間に立ち塞がった。

「随分と汚れた格好じゃのう」
 俺とメジロのやり取りを無視するように、鶴姫は口を開く。
 草むらに転がり汚れた着物の葵を見ての、どこか呆れたような口調。
「それに、ワシが贈った白無垢の袖が血で汚れておる。なかなか高い品じゃったのだが」
 この後に及んで、衣服の値段を恩に着せてくるのか。
「此度の件、大変なことをしでかしたな……」
 そう言って鶴姫は俺の顔を見、眉間の皺を深くした。
 人を品定めするような鋭い視線に、左頬の傷口がひりついた。
 葵は結婚相手から逃げ出してきたのだ。
 それは天下人の命令に背き、その権威に泥を塗ったことになる。
 奈川城にとっては死活問題。下手をすれば取り潰しされてもおかしくない。
 メジロが自分で情報を売ったのか、問いただされて自供したのかは、わからない。
 だが城主が葵を連れ戻しにきた事実には変わりない。
 自分の行動を改めて指摘されると、葵も事の重大さを考え、ぎゅつと身を固くした。

「辰起城へ戻るぞ」
 葵の意思を聞くつもりなど微塵も感じさせない。鶴姫の冷徹な口調。
 この女は、たとえ葵が何かを言っても、無視するつもりだろう。
「あの、その……」
 だが葵は、言葉を詰まらせながらも、懸命に自分の言葉を探し出そうとしていた。
「私は……あのような男とは結婚したくありません!」
 そして葵は初めて城主に向かって、自分の意見をぶつけることができた。
「ほう、そのようなことを言うのか、葵」
 当然だ。俺が変わったように、葵も昔のままではない。
 だが……。
「ごめんなさい、けど、それが私の本心です」
 人はすぐに変わり切れるものではない。いつもの癖で、義母への謝罪が続いた。
 葵の言葉を聞いた、城主の口元が微かに上がった。

 それは俺には不敵な微笑みに見えた。
 鶴姫は葵の決意をどのような形でへし折ろうとするのか、俺は不安になる。
 しかし鶴姫の口から漏れた一言は、俺たちの想像とは違った。
「あのようなクズの元に、嫁がずとも良い」
 俺も葵も一瞬、呆気にとられた。
 与えられた結婚を拒否したことを、責められると思った。
 しかし鶴姫は、辰起城に嫁ぎたくないという葵の気持ちを肯定した。
「けど、私が結婚を拒否したら、奈川城は取り潰されるのでは?」
 妙に物分かりのいい義母に、かえって不安を感じたのか。葵は自分の行動への疑問を口にする。
「我が城のことを気にかけておるのか……」
 葵の問いかけ直接は答えないまま、鶴姫は懐から何かを取り出した。
「南蛮製の連発鉄砲か……あの城には面白いものがあるのう」
 それは清成が持っていたものと同じ鉄砲だった。