シノビノアイ

 奈川城の天守、最上階の四層を目指し、俺は階段を駆け上がる。
 思わぬところで、計画に狂いが生じた俺に、残された時間は少ない。
 登り切った俺の前に現れた、城主の部屋の襖。
 奈川城を去る時、俺は葵様の部屋の障子を開けることができなかった。
 その障子に手を伸ばすことは、葵様の心に踏み込むことになる。
 あの時の俺には、その勇気がなかった。
 今は違う。
 俺は躊躇なく目の前の襖を開け放った。

 開け放たれた城主の部屋。
 そこは辰起城の外見からも想像できる、華美で悪趣味な装飾。
 しかし、俺にはそんなものをゆっくり眺めている暇はない。
「姫っ」
 今まで押さえてきた感情を、ぶつけるように叫ぶ。
 俺の目の前には、花嫁衣装の白無垢を着たままの葵様の姿があった。
 ようやく会うことができた。
 彼女を見た瞬間、俺の目に涙が溢れそうになる。
「ハヤテ……」
 葵様の驚きの表情。
 驚くのも無理もない。
 一度は彼女の元から逃げて行った男が、今こうやって姿を現したのだ。
 最後に会話した時も、こんなもどかしさがあった。
 あの時の俺は、自分の感情を抑え込むことに腐心していた。
 だが、今は違う。ただ自分の気持ちを彼女に素直に告げればいい。
「葵様、ごめんなさい。あなたの辛さをわかってあげられず、俺の気持ちだけを押し付けようとして」
 自分の気持ちから逃げ続けた男が、まず伝えたかったことを彼女に告げる。

 そんな俺の言葉を受け、葵様は嬉しそうな表情で首を振ってくれた。
 彼女の潤んだ瞳は涙と笑顔が溢れそうになるのを堪えている。
 俺は彼女の前に立ち何かを言おうとするが、思うように言葉が出てこない。
 身分、家柄、しきたり、そんなものは関係ない。
 ただ、彼女への『愛している』という気もちが、俺を突き動かしここに来た。
 俺はゆっくり手を差し伸べた。
「一緒にここを出ましょう」
 葵様を誘う俺は、もう彼女から目を逸らさない。
 そして逃げることはしない。
 彼女の目から堪えていた涙が溢れ、頬を伝い始めた。

 辛い思いをさせた……
 侍というしがらみの中、一番辛い思いをしたのは彼女なのに。
 俺はそれを受け止めてあげられなかった。
「ハヤテっ」
 葵様は涙を拭うと、俺の方へ駆けて来る。いつものように鈍臭くドタドタと。
「なんで来たの?」
 泣きそうになるのを堪えながら、葵様が聞いてきた。
 もちろん、その言葉に俺への拒絶はない。
 身の危険を顧みず、この場にやってきた俺を心配する優しい気持ちから出た言葉。
 変わらない葵の優しさに、俺が引きずっていた、心の空洞が満たされる気がした。

 別れた時とは違う、ごく近い距離で見つめる彼女は、化粧はしているが相変わらず素朴で美しい。
 そして葵様は、俺の顔を見た瞬間、白無垢の袖で優しく俺の顔を拭った。
 白い絹地が、俺の血で赤く汚れる。
 興奮していて痛みを忘れていたが、最初に斬られた頬の傷が開いたままだった。
「痛く……ないですか?」
 葵様の気遣いの前では、この程度の出血、痛みも気にならないし、怪我のうちには入らない。
 怪我した俺の顔を見て、葵様の頬を再び涙が伝い始める。
 その涙を、今度は俺が指で拭った。
 葵様はそんな俺の仕草に、軽く頬を赤らめた。
 彼女の安堵の表情は、今まで俺を待っていてくれたかのようだ。
 思わず抱きしめたくなる愛おしさが込み上げる。
 だが、今は時間がない。
 俺は葵様に左手を差し出した。
 早くこの城を出てゆこう、と。

「おい、俺様を無視するな!」
 せっかくの再会の喜びに水を差す不快な声。
 その方向を見ると、清成が怒りを露わにして俺たちを見ている。
 金の力でしか他人に相手にされない男。あれだけの腕を持った配下からも見放されている男。
「お前のようなやつに、葵様はもったいない」
 お前は花嫁を盗賊に奪われた失態を、天下人にどう弁明するかを考えていればいい。

 こんな奴にこれ以上構っている時間はなかった。
 火事の混乱状態がまだ残っているうちに、この城を脱出しなければならない。
 さいわい下の階はまだ人の気配はない。
 今なら来た道を戻れば、庭に確保しておいた馬に乗って脱出できる。
 そう考え、俺が葵様の手を握ろうした瞬間……
 パン。
 乾いた音と同時に、足元の畳が小さくえぐられた。
「お前ら、これが見えないのか!」
 清成は叫びながら鉄の塊を誇示してきた。 
 奴の手にあるのは、初めて見る形の鉄砲。
 南蛮には火縄を使わず連射できる鉄砲があるとは聞いているが、おそらくあれがそうだろう。
 足元に視線を移し、畳の弾痕の深さを見るに、十分な殺傷能力はありそうだ。
 そして今の一発が威嚇のためにあえて足元を狙ったとすれば、精度も十分にある。 

「くそっ」
 せっかくここまできて、またしても計算外の事態が起きた。
 もし奴が鉄砲さえ持っていなければ、右腕を怪我した状態でも簡単に倒せる自信があった。
 いや仮に鉄砲を持っていても、俺一人ならどうとでもなる。
 問題は葵様の存在。
 もし俺が攻撃するそぶりを見せれば、奴は葵様を狙うかもしれない。
 俺たちを睨む奴の冷たく怒りに満ちた目は、その可能性を示唆していた。
 そんな危険な賭けに、彼女を巻き込む訳にはいかない。
 俺は自分の体を盾にし、葵様を後ろ下がらせた。

 俺が葵様を庇って身動きが取れないのを見て、清成はニヤッと笑った。
 まるで自分が勝利を確信したような、残酷な笑み。
「どこかで見たツラだと思ったら、あの貧乏城で飼われていた狂犬か……」
 どうやら清成も俺の顔を覚えていたらしい。
 こんな奴に覚えてもらっても嬉しくないが、それだけあの時のことが屈辱だったのだろう。
「どうした、あの時みたいに、俺様に牙を剥いてもいいんだぞ。今は邪魔するものはいない」
 あの時とは違い、今は鉄砲を手にしているためか、強気な態度で俺を挑発してくる。
 もちろん、俺が葵様を置いて攻撃することが出来ないことも、分かってのこと。
 しかし、躊躇している時間はない。俺は腰にぶらさげた最後の忍具に手をかける。
(一か八か)
 手持ちの武器はもう使い果たした。なれば、残る手段はここからの強行突破しかない。
 そう思案していると、葵様が俺の手をぎゅっと握ってきた。
 俺は後ろを振り向き、彼女の不安を取り除くために、笑顔を見せる。
「大丈夫、絶対二人でここを出ましょう」
 もう一人で逃げ出すなんてことはしない……絶対に葵様を置き去りにはしない。
 そう決意を固める。

 すっ。
 不意に銃口が俺の頭から肩口へ移る。それは、ちょうど葵様の頭の高さだった。
「葵殿、その男の後ろに隠れているということは、間男を招き入れ不貞を働いていることになると、気づいているのかな」
 清成は、ねちっこい口調で葵様に言った。
 この手の男がよくやるやり口だ。
 自分を被害者にして、相手を責め始める。
 侍のしきたりに従えば、天下人が薦めた結婚を打ち壊した俺は大罪人。
 奴はそこを突き、葵様の罪悪感を刺激して行動を操作しようと仕掛けてきた。
「それに、このような事実を知ったら、奈川城で此度の結婚を喜んでいる鶴姫殿がどう思うか」
 鶴姫の名前を聞いた瞬間、葵様の表情が曇った。
 そして清成はその表情の変化を見逃さなかった。
 彼女を操るための要素を見つけ出し、清成は勝ち誇った顔をする。
 奴は俺の行動を、奈川城全体の責任にすり替えることで、葵様を操ろうとした。

「この鉄砲、まだ弾は五発残っている」
 そう言って鉄砲の撃鉄を起こすと、真ん中の筒がガチャリと動く。
「葵殿、その男の影に隠れてないで、こちらに来なさい。今なら奈川城側の失態を不問にしましょう」
 そしてニヤリと笑う。
「そうそう、俺様は度量が広いからな、ついでにその狂犬も命は助けてやる」
 清成は葵様に向けて、交渉を持ちかけた。
 俺が一か八かの攻撃に転じることを、奴も警戒しているのだろう。
 この状況で、自分に従えば、俺の命も助けると提案してきた。
 もちろん、奴がそんな約束を守る保証はない。
 仮にこの場で俺を見逃しても、すぐに追っ手を差し向けるだろう。
 しかし、こんな窮地に立たされれば、誰でも自分に都合の良い言葉を信じたくなる。
 葵様の性格だと、自分が犠牲になって俺の命が助かるのなら、清成の交渉に応じかねない。
 奴の言葉に心を乱されないよう、俺は葵の手を握ろうとした瞬間……。
 彼女は俺からすり抜けるように、自ら前に進み出た。

「ハヤテ……ごめんなさい……」
そう言って、俺の方を振り向くこともなく、謝罪をする。
「葵様、何をっ」
 俺の問いを背に受けると、彼女は振り返り笑顔を見せてくれた。
 儚げで物事を諦めたような笑顔ではない。
 俺にいつも見せてくれる屈託のない笑いでもない。
 何かを決意した表情の、穏やかな笑顔だった。
 その笑顔の意味を俺はどう解釈すれば良いか分からなかった。
「だめだ、姫……俺と一緒に……」
 だが俺は葵様の真意がどうであろうと、その先の行動を認めるわけにはいかない。
 俺が彼女を引き止めるために手を伸ばそうとした瞬間。
 パン。
 清成が天井に向けて、鉄砲を撃った。
「黙れ」
 二人の気持ちのすれ違いを楽しむような表情。
「ボロボロになって惚れた女に会いに来たのになぁ。今どんな気持ちだ?」
「くそっ」
 俺は奴に、何も言い返せなかった。

「ハヤテ、あなたの命が大切なのです」
 そう言うと、葵様は清成の前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「清成様、私は今後ともあなたの妻として、一生尽くし続けます。だから……彼は見逃してあげてください」
「葵様、俺は命など惜しくない!」
「ありがとうハヤテ、あなたの気持ち、一生大切にします。けど、あなたには死んでほしくないのです」
 彼女は俺のために、清成のものになろうとしていた。
「そんなこと、俺は望んでない!」
 元々、死を覚悟してここに来たのだ。
 だが彼女が俺のために不幸になるなら、俺の行動には意味がなくなってしまう。
「あなたは私に、自分で行動する勇気を……そして生きる希望をくれました」
 しかし今の状況を、彼女の決意を……俺には変えることができない。
 絶望に包まれた俺は今、どんな顔をしているのだろう。
「安心しろ、その男の命は奪わぬ。負け犬として、一生生きていけばいい」
 清成は嬉しそうに笑った。
「では葵殿、今ここで、俺様に身を委ねてみろ。そうすれば、そいつも未練を断つことができる」
 そう言って、清成は自分の着物をはだけると、両腕を広げた。
「やめろっ!」
 俺は叫び、清成に飛びかかろうとした。
 しかし俺の動きを制するように、葵様は意を決し清成の胸に勢いよく飛び込んでいった。

 その勢いで、葵様の美しく結った黒髪がハラリと解け落ちた。

 どん
 葵様が身を預けた瞬間、清成が悲鳴をあげた。
 まるで締め殺される鶏のような不協和音。
「ぎゃああ」
 清成は、そのまま数歩後退りすると、自分の腹に手を当てた。
 手の隙間からは、血がどくどくと溢れ出し、足元の布団を赤く染めてゆく。
 清成は自分の手が、真っ赤になっているのを見た。
 一瞬、自分の置かれた状況を理解できなかったのだろう。
 葵様の手には、先端が血で赤く染まったかんざしがあった。
 それは俺が祭りで贈った物。
 彼女は自らの意思で、血路を切り開こうとしてくれた。
 その姿に、俺の胸が熱くなる。
 この人を好きになって、良かった、と。

「山猿がぁぁぁぁぁぁっ!」
 そして清成も、かんざしを見て、激痛の理由を理解したのだろう。
 よろめきながらも、銃口を葵に向けた。
「葵っ!」
 俺が葵の体を強引に引きずり倒すと、二人の頭上を弾丸が掠める音がした。
清成は、よろよろとした足取りで部屋の入り口の方へ向かい、そのまま入口を塞ぐように、柱に寄り掛かり崩れていった。
 ドクン、ドクン。
 奴の腹から、血がとめどなく流れている。
「お、お前ら、許さん。せっかくの俺様の寛大な心を、踏みにじりやがってっ」
 出血で意識が朦朧としかけている清成の呂律は不確か。だが奴は、最後の気力を振り絞り叫んだ。
「こ、殺してやる。二人とも殺してやる。弾はあと三発あるんだ」

 入り口は清成に塞がれている状態。
 そちらに向かえば、鉄砲の餌食になる。
 俺は後ろに開けっぱなしになった月見櫓を見た。
 火事は収まったのか、月見櫓は炎ではなく満月に照らされている。
 どうやら逃げ道は、ここしかない。
「ハヤテ一人なら逃れる?」
 思案している俺に、葵が小声で聞いてきた。
 彼女は俺一人ならあの月見櫓から、逃げられると思ったのだろう。
 火事の混乱が収まりつつあるこの城から、鈍臭い自分を連れて逃げるのは難しい。だから俺だけでも逃げて欲しいと考えている。
 だからこそ俺は、彼女の言葉をすぐさま否定した。
「逃げる時は二人で……です」
 俺の気持ちはもう揺らがない。たとえどんな状況でも、彼女を離すことはしない。
 そう、俺にはまだ逃げる手段はある。
 俺は左手一本で葵を抱きしめると、月見櫓に向け跳躍した。