奈川城の天守、最上階の四層を目指し、俺は階段を駆け上がる。
思わぬところで、計画に狂いが生じた俺に、残された時間は少ない。
登り切った俺の前に現れた、城主の部屋の襖。
奈川城を去る時、俺は葵様の部屋の障子を開けることができなかった。
その障子に手を伸ばすことは、葵様の心に踏み込むことになる。
あの時の俺には、その勇気がなかった。
今は違う。
俺は躊躇なく目の前の襖を開け放った。
開け放たれた城主の部屋。
そこは辰起城の外見からも想像できる、華美で悪趣味な装飾。
しかし、俺にはそんなものをゆっくり眺めている暇はない。
「姫っ」
今まで押さえてきた感情を、ぶつけるように叫ぶ。
俺の目の前には、花嫁衣装の白無垢を着たままの葵様の姿があった。
ようやく会うことができた。
彼女を見た瞬間、俺の目に涙が溢れそうになる。
「ハヤテ……」
葵様の驚きの表情。
驚くのも無理もない。
一度は彼女の元から逃げて行った男が、今こうやって姿を現したのだ。
最後に会話した時も、こんなもどかしさがあった。
あの時の俺は、自分の感情を抑え込むことに腐心していた。
だが、今は違う。ただ自分の気持ちを彼女に素直に告げればいい。
「葵様、ごめんなさい。あなたの辛さをわかってあげられず、俺の気持ちだけを押し付けようとして」
自分の気持ちから逃げ続けた男が、まず伝えたかったことを彼女に告げる。
そんな俺の言葉を受け、葵様は嬉しそうな表情で首を振ってくれた。
彼女の潤んだ瞳は涙と笑顔が溢れそうになるのを堪えている。
俺は彼女の前に立ち何かを言おうとするが、思うように言葉が出てこない。
身分、家柄、しきたり、そんなものは関係ない。
ただ、彼女への『愛している』という気もちが、俺を突き動かしここに来た。
俺はゆっくり手を差し伸べた。
「一緒にここを出ましょう」
葵様を誘う俺は、もう彼女から目を逸らさない。
そして逃げることはしない。
彼女の目から堪えていた涙が溢れ、頬を伝い始めた。
辛い思いをさせた……
侍というしがらみの中、一番辛い思いをしたのは彼女なのに。
俺はそれを受け止めてあげられなかった。
「ハヤテっ」
葵様は涙を拭うと、俺の方へ駆けて来る。いつものように鈍臭くドタドタと。
「なんで来たの?」
泣きそうになるのを堪えながら、葵様が聞いてきた。
もちろん、その言葉に俺への拒絶はない。
身の危険を顧みず、この場にやってきた俺を心配する優しい気持ちから出た言葉。
変わらない葵の優しさに、俺が引きずっていた、心の空洞が満たされる気がした。
別れた時とは違う、ごく近い距離で見つめる彼女は、化粧はしているが相変わらず素朴で美しい。
そして葵様は、俺の顔を見た瞬間、白無垢の袖で優しく俺の顔を拭った。
白い絹地が、俺の血で赤く汚れる。
興奮していて痛みを忘れていたが、最初に斬られた頬の傷が開いたままだった。
「痛く……ないですか?」
葵様の気遣いの前では、この程度の出血、痛みも気にならないし、怪我のうちには入らない。
怪我した俺の顔を見て、葵様の頬を再び涙が伝い始める。
その涙を、今度は俺が指で拭った。
葵様はそんな俺の仕草に、軽く頬を赤らめた。
彼女の安堵の表情は、今まで俺を待っていてくれたかのようだ。
思わず抱きしめたくなる愛おしさが込み上げる。
だが、今は時間がない。
俺は葵様に左手を差し出した。
早くこの城を出てゆこう、と。
「おい、俺様を無視するな!」
せっかくの再会の喜びに水を差す不快な声。
その方向を見ると、清成が怒りを露わにして俺たちを見ている。
金の力でしか他人に相手にされない男。あれだけの腕を持った配下からも見放されている男。
「お前のようなやつに、葵様はもったいない」
お前は花嫁を盗賊に奪われた失態を、天下人にどう弁明するかを考えていればいい。
こんな奴にこれ以上構っている時間はなかった。
火事の混乱状態がまだ残っているうちに、この城を脱出しなければならない。
さいわい下の階はまだ人の気配はない。
今なら来た道を戻れば、庭に確保しておいた馬に乗って脱出できる。
そう考え、俺が葵様の手を握ろうした瞬間……
パン。
乾いた音と同時に、足元の畳が小さくえぐられた。
「お前ら、これが見えないのか!」
清成は叫びながら鉄の塊を誇示してきた。
奴の手にあるのは、初めて見る形の鉄砲。
南蛮には火縄を使わず連射できる鉄砲があるとは聞いているが、おそらくあれがそうだろう。
足元に視線を移し、畳の弾痕の深さを見るに、十分な殺傷能力はありそうだ。
そして今の一発が威嚇のためにあえて足元を狙ったとすれば、精度も十分にある。
「くそっ」
せっかくここまできて、またしても計算外の事態が起きた。
もし奴が鉄砲さえ持っていなければ、右腕を怪我した状態でも簡単に倒せる自信があった。
いや仮に鉄砲を持っていても、俺一人ならどうとでもなる。
問題は葵様の存在。
もし俺が攻撃するそぶりを見せれば、奴は葵様を狙うかもしれない。
俺たちを睨む奴の冷たく怒りに満ちた目は、その可能性を示唆していた。
そんな危険な賭けに、彼女を巻き込む訳にはいかない。
俺は自分の体を盾にし、葵様を後ろ下がらせた。
俺が葵様を庇って身動きが取れないのを見て、清成はニヤッと笑った。
まるで自分が勝利を確信したような、残酷な笑み。
「どこかで見たツラだと思ったら、あの貧乏城で飼われていた狂犬か……」
どうやら清成も俺の顔を覚えていたらしい。
こんな奴に覚えてもらっても嬉しくないが、それだけあの時のことが屈辱だったのだろう。
「どうした、あの時みたいに、俺様に牙を剥いてもいいんだぞ。今は邪魔するものはいない」
あの時とは違い、今は鉄砲を手にしているためか、強気な態度で俺を挑発してくる。
もちろん、俺が葵様を置いて攻撃することが出来ないことも、分かってのこと。
しかし、躊躇している時間はない。俺は腰にぶらさげた最後の忍具に手をかける。
(一か八か)
手持ちの武器はもう使い果たした。なれば、残る手段はここからの強行突破しかない。
そう思案していると、葵様が俺の手をぎゅっと握ってきた。
俺は後ろを振り向き、彼女の不安を取り除くために、笑顔を見せる。
「大丈夫、絶対二人でここを出ましょう」
もう一人で逃げ出すなんてことはしない……絶対に葵様を置き去りにはしない。
そう決意を固める。
すっ。
不意に銃口が俺の頭から肩口へ移る。それは、ちょうど葵様の頭の高さだった。
「葵殿、その男の後ろに隠れているということは、間男を招き入れ不貞を働いていることになると、気づいているのかな」
清成は、ねちっこい口調で葵様に言った。
この手の男がよくやるやり口だ。
自分を被害者にして、相手を責め始める。
侍のしきたりに従えば、天下人が薦めた結婚を打ち壊した俺は大罪人。
奴はそこを突き、葵様の罪悪感を刺激して行動を操作しようと仕掛けてきた。
「それに、このような事実を知ったら、奈川城で此度の結婚を喜んでいる鶴姫殿がどう思うか」
鶴姫の名前を聞いた瞬間、葵様の表情が曇った。
そして清成はその表情の変化を見逃さなかった。
彼女を操るための要素を見つけ出し、清成は勝ち誇った顔をする。
奴は俺の行動を、奈川城全体の責任にすり替えることで、葵様を操ろうとした。
「この鉄砲、まだ弾は五発残っている」
そう言って鉄砲の撃鉄を起こすと、真ん中の筒がガチャリと動く。
「葵殿、その男の影に隠れてないで、こちらに来なさい。今なら奈川城側の失態を不問にしましょう」
そしてニヤリと笑う。
「そうそう、俺様は度量が広いからな、ついでにその狂犬も命は助けてやる」
清成は葵様に向けて、交渉を持ちかけた。
俺が一か八かの攻撃に転じることを、奴も警戒しているのだろう。
この状況で、自分に従えば、俺の命も助けると提案してきた。
もちろん、奴がそんな約束を守る保証はない。
仮にこの場で俺を見逃しても、すぐに追っ手を差し向けるだろう。
しかし、こんな窮地に立たされれば、誰でも自分に都合の良い言葉を信じたくなる。
葵様の性格だと、自分が犠牲になって俺の命が助かるのなら、清成の交渉に応じかねない。
奴の言葉に心を乱されないよう、俺は葵の手を握ろうとした瞬間……。
彼女は俺からすり抜けるように、自ら前に進み出た。
「ハヤテ……ごめんなさい……」
そう言って、俺の方を振り向くこともなく、謝罪をする。
「葵様、何をっ」
俺の問いを背に受けると、彼女は振り返り笑顔を見せてくれた。
儚げで物事を諦めたような笑顔ではない。
俺にいつも見せてくれる屈託のない笑いでもない。
何かを決意した表情の、穏やかな笑顔だった。
その笑顔の意味を俺はどう解釈すれば良いか分からなかった。
「だめだ、姫……俺と一緒に……」
だが俺は葵様の真意がどうであろうと、その先の行動を認めるわけにはいかない。
俺が彼女を引き止めるために手を伸ばそうとした瞬間。
パン。
清成が天井に向けて、鉄砲を撃った。
「黙れ」
二人の気持ちのすれ違いを楽しむような表情。
「ボロボロになって惚れた女に会いに来たのになぁ。今どんな気持ちだ?」
「くそっ」
俺は奴に、何も言い返せなかった。
「ハヤテ、あなたの命が大切なのです」
そう言うと、葵様は清成の前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「清成様、私は今後ともあなたの妻として、一生尽くし続けます。だから……彼は見逃してあげてください」
「葵様、俺は命など惜しくない!」
「ありがとうハヤテ、あなたの気持ち、一生大切にします。けど、あなたには死んでほしくないのです」
彼女は俺のために、清成のものになろうとしていた。
「そんなこと、俺は望んでない!」
元々、死を覚悟してここに来たのだ。
だが彼女が俺のために不幸になるなら、俺の行動には意味がなくなってしまう。
「あなたは私に、自分で行動する勇気を……そして生きる希望をくれました」
しかし今の状況を、彼女の決意を……俺には変えることができない。
絶望に包まれた俺は今、どんな顔をしているのだろう。
「安心しろ、その男の命は奪わぬ。負け犬として、一生生きていけばいい」
清成は嬉しそうに笑った。
「では葵殿、今ここで、俺様に身を委ねてみろ。そうすれば、そいつも未練を断つことができる」
そう言って、清成は自分の着物をはだけると、両腕を広げた。
「やめろっ!」
俺は叫び、清成に飛びかかろうとした。
しかし俺の動きを制するように、葵様は意を決し清成の胸に勢いよく飛び込んでいった。
その勢いで、葵様の美しく結った黒髪がハラリと解け落ちた。
どん
葵様が身を預けた瞬間、清成が悲鳴をあげた。
まるで締め殺される鶏のような不協和音。
「ぎゃああ」
清成は、そのまま数歩後退りすると、自分の腹に手を当てた。
手の隙間からは、血がどくどくと溢れ出し、足元の布団を赤く染めてゆく。
清成は自分の手が、真っ赤になっているのを見た。
一瞬、自分の置かれた状況を理解できなかったのだろう。
葵様の手には、先端が血で赤く染まったかんざしがあった。
それは俺が祭りで贈った物。
彼女は自らの意思で、血路を切り開こうとしてくれた。
その姿に、俺の胸が熱くなる。
この人を好きになって、良かった、と。
「山猿がぁぁぁぁぁぁっ!」
そして清成も、かんざしを見て、激痛の理由を理解したのだろう。
よろめきながらも、銃口を葵に向けた。
「葵っ!」
俺が葵の体を強引に引きずり倒すと、二人の頭上を弾丸が掠める音がした。
清成は、よろよろとした足取りで部屋の入り口の方へ向かい、そのまま入口を塞ぐように、柱に寄り掛かり崩れていった。
ドクン、ドクン。
奴の腹から、血がとめどなく流れている。
「お、お前ら、許さん。せっかくの俺様の寛大な心を、踏みにじりやがってっ」
出血で意識が朦朧としかけている清成の呂律は不確か。だが奴は、最後の気力を振り絞り叫んだ。
「こ、殺してやる。二人とも殺してやる。弾はあと三発あるんだ」
入り口は清成に塞がれている状態。
そちらに向かえば、鉄砲の餌食になる。
俺は後ろに開けっぱなしになった月見櫓を見た。
火事は収まったのか、月見櫓は炎ではなく満月に照らされている。
どうやら逃げ道は、ここしかない。
「ハヤテ一人なら逃れる?」
思案している俺に、葵が小声で聞いてきた。
彼女は俺一人ならあの月見櫓から、逃げられると思ったのだろう。
火事の混乱が収まりつつあるこの城から、鈍臭い自分を連れて逃げるのは難しい。だから俺だけでも逃げて欲しいと考えている。
だからこそ俺は、彼女の言葉をすぐさま否定した。
「逃げる時は二人で……です」
俺の気持ちはもう揺らがない。たとえどんな状況でも、彼女を離すことはしない。
そう、俺にはまだ逃げる手段はある。
俺は左手一本で葵を抱きしめると、月見櫓に向け跳躍した。
思わぬところで、計画に狂いが生じた俺に、残された時間は少ない。
登り切った俺の前に現れた、城主の部屋の襖。
奈川城を去る時、俺は葵様の部屋の障子を開けることができなかった。
その障子に手を伸ばすことは、葵様の心に踏み込むことになる。
あの時の俺には、その勇気がなかった。
今は違う。
俺は躊躇なく目の前の襖を開け放った。
開け放たれた城主の部屋。
そこは辰起城の外見からも想像できる、華美で悪趣味な装飾。
しかし、俺にはそんなものをゆっくり眺めている暇はない。
「姫っ」
今まで押さえてきた感情を、ぶつけるように叫ぶ。
俺の目の前には、花嫁衣装の白無垢を着たままの葵様の姿があった。
ようやく会うことができた。
彼女を見た瞬間、俺の目に涙が溢れそうになる。
「ハヤテ……」
葵様の驚きの表情。
驚くのも無理もない。
一度は彼女の元から逃げて行った男が、今こうやって姿を現したのだ。
最後に会話した時も、こんなもどかしさがあった。
あの時の俺は、自分の感情を抑え込むことに腐心していた。
だが、今は違う。ただ自分の気持ちを彼女に素直に告げればいい。
「葵様、ごめんなさい。あなたの辛さをわかってあげられず、俺の気持ちだけを押し付けようとして」
自分の気持ちから逃げ続けた男が、まず伝えたかったことを彼女に告げる。
そんな俺の言葉を受け、葵様は嬉しそうな表情で首を振ってくれた。
彼女の潤んだ瞳は涙と笑顔が溢れそうになるのを堪えている。
俺は彼女の前に立ち何かを言おうとするが、思うように言葉が出てこない。
身分、家柄、しきたり、そんなものは関係ない。
ただ、彼女への『愛している』という気もちが、俺を突き動かしここに来た。
俺はゆっくり手を差し伸べた。
「一緒にここを出ましょう」
葵様を誘う俺は、もう彼女から目を逸らさない。
そして逃げることはしない。
彼女の目から堪えていた涙が溢れ、頬を伝い始めた。
辛い思いをさせた……
侍というしがらみの中、一番辛い思いをしたのは彼女なのに。
俺はそれを受け止めてあげられなかった。
「ハヤテっ」
葵様は涙を拭うと、俺の方へ駆けて来る。いつものように鈍臭くドタドタと。
「なんで来たの?」
泣きそうになるのを堪えながら、葵様が聞いてきた。
もちろん、その言葉に俺への拒絶はない。
身の危険を顧みず、この場にやってきた俺を心配する優しい気持ちから出た言葉。
変わらない葵の優しさに、俺が引きずっていた、心の空洞が満たされる気がした。
別れた時とは違う、ごく近い距離で見つめる彼女は、化粧はしているが相変わらず素朴で美しい。
そして葵様は、俺の顔を見た瞬間、白無垢の袖で優しく俺の顔を拭った。
白い絹地が、俺の血で赤く汚れる。
興奮していて痛みを忘れていたが、最初に斬られた頬の傷が開いたままだった。
「痛く……ないですか?」
葵様の気遣いの前では、この程度の出血、痛みも気にならないし、怪我のうちには入らない。
怪我した俺の顔を見て、葵様の頬を再び涙が伝い始める。
その涙を、今度は俺が指で拭った。
葵様はそんな俺の仕草に、軽く頬を赤らめた。
彼女の安堵の表情は、今まで俺を待っていてくれたかのようだ。
思わず抱きしめたくなる愛おしさが込み上げる。
だが、今は時間がない。
俺は葵様に左手を差し出した。
早くこの城を出てゆこう、と。
「おい、俺様を無視するな!」
せっかくの再会の喜びに水を差す不快な声。
その方向を見ると、清成が怒りを露わにして俺たちを見ている。
金の力でしか他人に相手にされない男。あれだけの腕を持った配下からも見放されている男。
「お前のようなやつに、葵様はもったいない」
お前は花嫁を盗賊に奪われた失態を、天下人にどう弁明するかを考えていればいい。
こんな奴にこれ以上構っている時間はなかった。
火事の混乱状態がまだ残っているうちに、この城を脱出しなければならない。
さいわい下の階はまだ人の気配はない。
今なら来た道を戻れば、庭に確保しておいた馬に乗って脱出できる。
そう考え、俺が葵様の手を握ろうした瞬間……
パン。
乾いた音と同時に、足元の畳が小さくえぐられた。
「お前ら、これが見えないのか!」
清成は叫びながら鉄の塊を誇示してきた。
奴の手にあるのは、初めて見る形の鉄砲。
南蛮には火縄を使わず連射できる鉄砲があるとは聞いているが、おそらくあれがそうだろう。
足元に視線を移し、畳の弾痕の深さを見るに、十分な殺傷能力はありそうだ。
そして今の一発が威嚇のためにあえて足元を狙ったとすれば、精度も十分にある。
「くそっ」
せっかくここまできて、またしても計算外の事態が起きた。
もし奴が鉄砲さえ持っていなければ、右腕を怪我した状態でも簡単に倒せる自信があった。
いや仮に鉄砲を持っていても、俺一人ならどうとでもなる。
問題は葵様の存在。
もし俺が攻撃するそぶりを見せれば、奴は葵様を狙うかもしれない。
俺たちを睨む奴の冷たく怒りに満ちた目は、その可能性を示唆していた。
そんな危険な賭けに、彼女を巻き込む訳にはいかない。
俺は自分の体を盾にし、葵様を後ろ下がらせた。
俺が葵様を庇って身動きが取れないのを見て、清成はニヤッと笑った。
まるで自分が勝利を確信したような、残酷な笑み。
「どこかで見たツラだと思ったら、あの貧乏城で飼われていた狂犬か……」
どうやら清成も俺の顔を覚えていたらしい。
こんな奴に覚えてもらっても嬉しくないが、それだけあの時のことが屈辱だったのだろう。
「どうした、あの時みたいに、俺様に牙を剥いてもいいんだぞ。今は邪魔するものはいない」
あの時とは違い、今は鉄砲を手にしているためか、強気な態度で俺を挑発してくる。
もちろん、俺が葵様を置いて攻撃することが出来ないことも、分かってのこと。
しかし、躊躇している時間はない。俺は腰にぶらさげた最後の忍具に手をかける。
(一か八か)
手持ちの武器はもう使い果たした。なれば、残る手段はここからの強行突破しかない。
そう思案していると、葵様が俺の手をぎゅっと握ってきた。
俺は後ろを振り向き、彼女の不安を取り除くために、笑顔を見せる。
「大丈夫、絶対二人でここを出ましょう」
もう一人で逃げ出すなんてことはしない……絶対に葵様を置き去りにはしない。
そう決意を固める。
すっ。
不意に銃口が俺の頭から肩口へ移る。それは、ちょうど葵様の頭の高さだった。
「葵殿、その男の後ろに隠れているということは、間男を招き入れ不貞を働いていることになると、気づいているのかな」
清成は、ねちっこい口調で葵様に言った。
この手の男がよくやるやり口だ。
自分を被害者にして、相手を責め始める。
侍のしきたりに従えば、天下人が薦めた結婚を打ち壊した俺は大罪人。
奴はそこを突き、葵様の罪悪感を刺激して行動を操作しようと仕掛けてきた。
「それに、このような事実を知ったら、奈川城で此度の結婚を喜んでいる鶴姫殿がどう思うか」
鶴姫の名前を聞いた瞬間、葵様の表情が曇った。
そして清成はその表情の変化を見逃さなかった。
彼女を操るための要素を見つけ出し、清成は勝ち誇った顔をする。
奴は俺の行動を、奈川城全体の責任にすり替えることで、葵様を操ろうとした。
「この鉄砲、まだ弾は五発残っている」
そう言って鉄砲の撃鉄を起こすと、真ん中の筒がガチャリと動く。
「葵殿、その男の影に隠れてないで、こちらに来なさい。今なら奈川城側の失態を不問にしましょう」
そしてニヤリと笑う。
「そうそう、俺様は度量が広いからな、ついでにその狂犬も命は助けてやる」
清成は葵様に向けて、交渉を持ちかけた。
俺が一か八かの攻撃に転じることを、奴も警戒しているのだろう。
この状況で、自分に従えば、俺の命も助けると提案してきた。
もちろん、奴がそんな約束を守る保証はない。
仮にこの場で俺を見逃しても、すぐに追っ手を差し向けるだろう。
しかし、こんな窮地に立たされれば、誰でも自分に都合の良い言葉を信じたくなる。
葵様の性格だと、自分が犠牲になって俺の命が助かるのなら、清成の交渉に応じかねない。
奴の言葉に心を乱されないよう、俺は葵の手を握ろうとした瞬間……。
彼女は俺からすり抜けるように、自ら前に進み出た。
「ハヤテ……ごめんなさい……」
そう言って、俺の方を振り向くこともなく、謝罪をする。
「葵様、何をっ」
俺の問いを背に受けると、彼女は振り返り笑顔を見せてくれた。
儚げで物事を諦めたような笑顔ではない。
俺にいつも見せてくれる屈託のない笑いでもない。
何かを決意した表情の、穏やかな笑顔だった。
その笑顔の意味を俺はどう解釈すれば良いか分からなかった。
「だめだ、姫……俺と一緒に……」
だが俺は葵様の真意がどうであろうと、その先の行動を認めるわけにはいかない。
俺が彼女を引き止めるために手を伸ばそうとした瞬間。
パン。
清成が天井に向けて、鉄砲を撃った。
「黙れ」
二人の気持ちのすれ違いを楽しむような表情。
「ボロボロになって惚れた女に会いに来たのになぁ。今どんな気持ちだ?」
「くそっ」
俺は奴に、何も言い返せなかった。
「ハヤテ、あなたの命が大切なのです」
そう言うと、葵様は清成の前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「清成様、私は今後ともあなたの妻として、一生尽くし続けます。だから……彼は見逃してあげてください」
「葵様、俺は命など惜しくない!」
「ありがとうハヤテ、あなたの気持ち、一生大切にします。けど、あなたには死んでほしくないのです」
彼女は俺のために、清成のものになろうとしていた。
「そんなこと、俺は望んでない!」
元々、死を覚悟してここに来たのだ。
だが彼女が俺のために不幸になるなら、俺の行動には意味がなくなってしまう。
「あなたは私に、自分で行動する勇気を……そして生きる希望をくれました」
しかし今の状況を、彼女の決意を……俺には変えることができない。
絶望に包まれた俺は今、どんな顔をしているのだろう。
「安心しろ、その男の命は奪わぬ。負け犬として、一生生きていけばいい」
清成は嬉しそうに笑った。
「では葵殿、今ここで、俺様に身を委ねてみろ。そうすれば、そいつも未練を断つことができる」
そう言って、清成は自分の着物をはだけると、両腕を広げた。
「やめろっ!」
俺は叫び、清成に飛びかかろうとした。
しかし俺の動きを制するように、葵様は意を決し清成の胸に勢いよく飛び込んでいった。
その勢いで、葵様の美しく結った黒髪がハラリと解け落ちた。
どん
葵様が身を預けた瞬間、清成が悲鳴をあげた。
まるで締め殺される鶏のような不協和音。
「ぎゃああ」
清成は、そのまま数歩後退りすると、自分の腹に手を当てた。
手の隙間からは、血がどくどくと溢れ出し、足元の布団を赤く染めてゆく。
清成は自分の手が、真っ赤になっているのを見た。
一瞬、自分の置かれた状況を理解できなかったのだろう。
葵様の手には、先端が血で赤く染まったかんざしがあった。
それは俺が祭りで贈った物。
彼女は自らの意思で、血路を切り開こうとしてくれた。
その姿に、俺の胸が熱くなる。
この人を好きになって、良かった、と。
「山猿がぁぁぁぁぁぁっ!」
そして清成も、かんざしを見て、激痛の理由を理解したのだろう。
よろめきながらも、銃口を葵に向けた。
「葵っ!」
俺が葵の体を強引に引きずり倒すと、二人の頭上を弾丸が掠める音がした。
清成は、よろよろとした足取りで部屋の入り口の方へ向かい、そのまま入口を塞ぐように、柱に寄り掛かり崩れていった。
ドクン、ドクン。
奴の腹から、血がとめどなく流れている。
「お、お前ら、許さん。せっかくの俺様の寛大な心を、踏みにじりやがってっ」
出血で意識が朦朧としかけている清成の呂律は不確か。だが奴は、最後の気力を振り絞り叫んだ。
「こ、殺してやる。二人とも殺してやる。弾はあと三発あるんだ」
入り口は清成に塞がれている状態。
そちらに向かえば、鉄砲の餌食になる。
俺は後ろに開けっぱなしになった月見櫓を見た。
火事は収まったのか、月見櫓は炎ではなく満月に照らされている。
どうやら逃げ道は、ここしかない。
「ハヤテ一人なら逃れる?」
思案している俺に、葵が小声で聞いてきた。
彼女は俺一人ならあの月見櫓から、逃げられると思ったのだろう。
火事の混乱が収まりつつあるこの城から、鈍臭い自分を連れて逃げるのは難しい。だから俺だけでも逃げて欲しいと考えている。
だからこそ俺は、彼女の言葉をすぐさま否定した。
「逃げる時は二人で……です」
俺の気持ちはもう揺らがない。たとえどんな状況でも、彼女を離すことはしない。
そう、俺にはまだ逃げる手段はある。
俺は左手一本で葵を抱きしめると、月見櫓に向け跳躍した。


