清成の自室は、辰起城の天守、最上階の四階にあった。
襖を開け放ちっていた月見櫓から、燃え上がる炎の赤みが室内まで入ってきていた。
しかしその明かりも少しずつ暗くなってきている。
どうやら火の勢いは弱まっているようだ。
だが櫓の向こうから聞こえてくる騒々しさが、外の混乱がまだ治まってはいないことを、葵に伝えていた。
「あの様子なら、天守に燃え移ることはあるまい」
月見櫓から、火事の様子を見ていた清成が戻って来た。
清成は、自室に葵を連れ込んだものの、火の手が収まらないうちは、彼女に構っている余裕はなかった。
彼は自分ではどうすることもできない状況に置かれ、苛立ちを抑えることができずに、外の様子をしきりに気にするだけだった。
この天守は清成が城主となってから築き上げたもので、彼にとっての大切な存在証明。
それが一部でも燃えることは、耐えられなかったのだろう。
火事が収まったことで心からの安堵の表情を浮かべる清成を見ながら、葵はそんなことを思った。
「全く、どいつもこいつも役立たずが」
清成は消火に励んだ部下を褒めることはせず、むしろ鎮火に手間取り自分を苛立たせた無能として罵倒している。
そんな様子を横目に、葵は部屋の隅で一人じっと黙っていた。
自分を路傍の石のように目立たなくすることで、清成の激情に触れないようにする。それが自分の身を守る最上の手段だと思った。
この火事騒ぎに紛れて、ここから逃げ出すことも考えたが、自分の鈍足では逃げきれるわけがない。
そして義母が進めたこの結婚を、自分自身の手で壊すことは出来ない。
それにここを逃げ出せたところで、自分にはもう戻る場所などないのだ。
二ヶ月前のあの時……最後にハヤテが会いに来てくれた時、心の内を正直に伝えるべきだった。
葵の中に後悔が募る。
自分が好きなのはハヤテである。
こんな結婚はしたくない。
この城を出て、一緒について行きたい。
だが、その想いを伝えることはできなかった。
自分を強引に連れ去ってくれなかったハヤテに、歯痒さを感じたのも、今から思えば自分のわがまま、甘えである。
もしあの時、ハヤテが誘ってくれたとしても、悲しいが自分は逃げなかっただろう。
義母の期待に応えられないことへの罪悪感。
未知のことへ、一歩踏み出す不安。
ずっと義母の顔色を伺い、言われるままに良き姫、良き娘であろうとした自分には、何かを選び、その結果の責任を負うことが怖かった。
今更どうしようもない。
自分はこうやって、いつも「何もしなかったこと」を後悔して生きていくのだろうか。
そして、そんな生き方しかできなかった自分は、このまま清成と結婚し、地獄のような日々を過ごすことになるだろう。
私にできることがあるなら……この先に待っている地獄から逃げる手段があるとすれば、それは自分の命を断つことぐらい。
葵はそう思い、髪に挿してある、かんざしに手を伸ばした。
「ごめんなさい……」
そのかんざしはハヤテからの贈り物。
だから大切に持ち続け、今日この場で髪を結うために、このかんざしを選んだ。
それは自分が手に入れられたかもしれない未来への、未練かもしれない。
そのかんざしを抜き、鉄の先端で喉をつけば自害できる。
が、葵の手は震えるばかりで、かんざしを髪から抜くことすらできない。
怖い……
この後に及んで、自分で死ぬことも決断できない。
自分は、これからも何かを決めることをできず、ただ流されて生きていくしかできない。
葵はそんな自分を心底嫌いだし、人に嫌われてもしょうがないとも思った。
そんな葵の悔しさを微塵も気づくことなく、清成がゆっくりと近づいてきた。
「どうした、怖くて震えているのか?」
微かに震える葵の体を見下し、問いかける。
「安心しろ、初めては優しくしてやる、床に行け」
そう言いながら、葵を見下し好色そうな笑みを浮かべた。
清成の視線の先、衝立の向こうには布団が敷いてあるのが見える。
だが、その言いつけに素直に従うことができない葵は、思わず後退りした。
「花嫁としての勤めをも果たせないのか」
そんな葵の態度に不満げな清成は、高圧的なものの言い方で命令する。
こんな男に触られたくない。
そう思い、葵は反射的に逃げ出そうとした。
だが開け放たれた月見櫓まで逃げたところで、葵はそれ以上逃げ場がないことに、はたと気づいた。
天守の四階はあまりにも高く、そこから飛び降りるなど鳥でもなければ不可能だった。
振り返ると、ゆっくりと清成が近付いてくる。
袋小路に逃げたネズミを狩ろうとする、蛇のような目で、葵を睨みつけた。
ドタドタ。
葵は意を決し、清成の横を駆け抜ける。鈍重な葵なりの精一杯の抵抗。
清成は横を通り過ぎる葵を、あえて捕まえることはしなかった。
葵はそのまま、連れてこられた入り口を目指す。
そして襖に手をかけようとした瞬間、背後で清成が、ゆっくりと諭すように言った。
「ここから逃げ出すことの意味を、理解してるのか?」
その一言で葵の手が止まった。
手を伸ばせば、開けられる襖。
しかし、それを自分の手で開けるということは、天下人に、そして義母に逆らうことになる。
清成は、葵のそんな性格を見抜き、その事実を突きつけてきた。
「助けて……」
思わず口から漏れた、か細い声。
自分ではどうしようもない現実を前に、ただ何かに助けを求めるしかできない……。
葵が絶望の淵に立たされた時、彼女は心の内で、ただ一人愛した男の名を叫んだ。
(助けて……ハヤテ……)
次の瞬間、葵の目の前の襖が、勢いよく開かれた。
襖を開け放ちっていた月見櫓から、燃え上がる炎の赤みが室内まで入ってきていた。
しかしその明かりも少しずつ暗くなってきている。
どうやら火の勢いは弱まっているようだ。
だが櫓の向こうから聞こえてくる騒々しさが、外の混乱がまだ治まってはいないことを、葵に伝えていた。
「あの様子なら、天守に燃え移ることはあるまい」
月見櫓から、火事の様子を見ていた清成が戻って来た。
清成は、自室に葵を連れ込んだものの、火の手が収まらないうちは、彼女に構っている余裕はなかった。
彼は自分ではどうすることもできない状況に置かれ、苛立ちを抑えることができずに、外の様子をしきりに気にするだけだった。
この天守は清成が城主となってから築き上げたもので、彼にとっての大切な存在証明。
それが一部でも燃えることは、耐えられなかったのだろう。
火事が収まったことで心からの安堵の表情を浮かべる清成を見ながら、葵はそんなことを思った。
「全く、どいつもこいつも役立たずが」
清成は消火に励んだ部下を褒めることはせず、むしろ鎮火に手間取り自分を苛立たせた無能として罵倒している。
そんな様子を横目に、葵は部屋の隅で一人じっと黙っていた。
自分を路傍の石のように目立たなくすることで、清成の激情に触れないようにする。それが自分の身を守る最上の手段だと思った。
この火事騒ぎに紛れて、ここから逃げ出すことも考えたが、自分の鈍足では逃げきれるわけがない。
そして義母が進めたこの結婚を、自分自身の手で壊すことは出来ない。
それにここを逃げ出せたところで、自分にはもう戻る場所などないのだ。
二ヶ月前のあの時……最後にハヤテが会いに来てくれた時、心の内を正直に伝えるべきだった。
葵の中に後悔が募る。
自分が好きなのはハヤテである。
こんな結婚はしたくない。
この城を出て、一緒について行きたい。
だが、その想いを伝えることはできなかった。
自分を強引に連れ去ってくれなかったハヤテに、歯痒さを感じたのも、今から思えば自分のわがまま、甘えである。
もしあの時、ハヤテが誘ってくれたとしても、悲しいが自分は逃げなかっただろう。
義母の期待に応えられないことへの罪悪感。
未知のことへ、一歩踏み出す不安。
ずっと義母の顔色を伺い、言われるままに良き姫、良き娘であろうとした自分には、何かを選び、その結果の責任を負うことが怖かった。
今更どうしようもない。
自分はこうやって、いつも「何もしなかったこと」を後悔して生きていくのだろうか。
そして、そんな生き方しかできなかった自分は、このまま清成と結婚し、地獄のような日々を過ごすことになるだろう。
私にできることがあるなら……この先に待っている地獄から逃げる手段があるとすれば、それは自分の命を断つことぐらい。
葵はそう思い、髪に挿してある、かんざしに手を伸ばした。
「ごめんなさい……」
そのかんざしはハヤテからの贈り物。
だから大切に持ち続け、今日この場で髪を結うために、このかんざしを選んだ。
それは自分が手に入れられたかもしれない未来への、未練かもしれない。
そのかんざしを抜き、鉄の先端で喉をつけば自害できる。
が、葵の手は震えるばかりで、かんざしを髪から抜くことすらできない。
怖い……
この後に及んで、自分で死ぬことも決断できない。
自分は、これからも何かを決めることをできず、ただ流されて生きていくしかできない。
葵はそんな自分を心底嫌いだし、人に嫌われてもしょうがないとも思った。
そんな葵の悔しさを微塵も気づくことなく、清成がゆっくりと近づいてきた。
「どうした、怖くて震えているのか?」
微かに震える葵の体を見下し、問いかける。
「安心しろ、初めては優しくしてやる、床に行け」
そう言いながら、葵を見下し好色そうな笑みを浮かべた。
清成の視線の先、衝立の向こうには布団が敷いてあるのが見える。
だが、その言いつけに素直に従うことができない葵は、思わず後退りした。
「花嫁としての勤めをも果たせないのか」
そんな葵の態度に不満げな清成は、高圧的なものの言い方で命令する。
こんな男に触られたくない。
そう思い、葵は反射的に逃げ出そうとした。
だが開け放たれた月見櫓まで逃げたところで、葵はそれ以上逃げ場がないことに、はたと気づいた。
天守の四階はあまりにも高く、そこから飛び降りるなど鳥でもなければ不可能だった。
振り返ると、ゆっくりと清成が近付いてくる。
袋小路に逃げたネズミを狩ろうとする、蛇のような目で、葵を睨みつけた。
ドタドタ。
葵は意を決し、清成の横を駆け抜ける。鈍重な葵なりの精一杯の抵抗。
清成は横を通り過ぎる葵を、あえて捕まえることはしなかった。
葵はそのまま、連れてこられた入り口を目指す。
そして襖に手をかけようとした瞬間、背後で清成が、ゆっくりと諭すように言った。
「ここから逃げ出すことの意味を、理解してるのか?」
その一言で葵の手が止まった。
手を伸ばせば、開けられる襖。
しかし、それを自分の手で開けるということは、天下人に、そして義母に逆らうことになる。
清成は、葵のそんな性格を見抜き、その事実を突きつけてきた。
「助けて……」
思わず口から漏れた、か細い声。
自分ではどうしようもない現実を前に、ただ何かに助けを求めるしかできない……。
葵が絶望の淵に立たされた時、彼女は心の内で、ただ一人愛した男の名を叫んだ。
(助けて……ハヤテ……)
次の瞬間、葵の目の前の襖が、勢いよく開かれた。


