俺が放った火は、十分な陽動効果を発揮した。
 辰起城は戦火にさらされることは、今までなかった。
 そのため、有事の混乱には慣れていないのだろう。
 侍たちは火事を前に、組織だった消火活動ができないでいる。
 丸焼けになるのが可哀想と、脱出用に一頭だけ離れた木に繋ぎ、それ以外の馬を解き放ったのも、混乱に拍車をかけてくれた。
 火に怯え暴れ回る馬たちは、消火活動を妨げ、城内をより混乱させた。
 俺はさらに城内を混乱させるため、馬小屋とは反対にある米倉にも火をつけた。
 食い物を燃やすことには罪悪感があったが、侍も忍者も食糧を焼かれて平穏でいられるのは不可能。
 目論見通り、米倉に火がついたことで、城内の混乱は一層激しくなった。
 こうなっては、侍だけで火事に対処するのは難しく、厨房の料理人や、侍女などの使用人も駆り出され、総出で消火に当たり始めた。
 おかげで天守への警備は手薄になり、厨房から容易に侵入することができた。
 事前に調べた、結婚式を行う部屋と外を結ぶ最短の経路。
 それは厨房と大広間を結ぶ、料理を運ぶための廊下だった。
 俺はその通路を駆け抜け、 大広間の横にある「控の間」に忍び込む。
 この隣にある「千畳敷の間」で、結婚式が行われているはず。
 俺は、音がしないように襖に耳を当て、隣の様子を探った。

 一度しかできない強襲。
 そのための機会を見誤るわけにはいかない。
 しかし、何か妙だ……。
 襖一枚隔てた隣の部屋には、人の気配が全くない。
 本来なら結婚式も進み、参列した侍たちも酒が入いり、宴もたけなわとなっているはず。
 俺はその瞬間を狙い、葵様を強奪するつもりだった。

 情報が間違っていたのか?
 状況が把握できない今、隣の宴席の様子を見たい衝動に駆られる。
 俺の放火が、結婚式を中断させた可能性が脳裏をよぎり、心の中で舌打ちする。
 辰起城の連中は火事のことを知り、天守に火が燃え移る前に避難したのかもしれない。
 俺は葵様の身に危害がないよう、天守に燃え移らない距離の馬小屋と米倉を火計の標的にしたが、大事をとって避難した可能性は捨てきれない。
 しかし……避難をしたにしても、あまりにも動きが早い。
 まるで、最初から誰もいないようだ。
 
 もし結婚式が中断され、隣に葵様がいないとすれば、この広大な城内でどうやって彼女を探す?
 俺は、いてもたってもいられなくなり隣を覗き見ようと、襖に手をかけようとした。
 刹那。
 強い殺気を感じて、俺は大きく飛び退く。
 次の瞬間、俺がいた場所の襖が、袈裟がけに真っ二つにされた。
 警告のような強い殺気、次いで鋭い一撃。
 もし相手の気配に気づくのが少しでも遅れていたら、襖ごと真っ二つになっていただろう。
 十分に気配を消していたはずだが、どうやら俺が忍んでいたことを、気づいた奴がいるようだ。
 俺はゆっくりと呼吸し、心臓の鼓動を抑えようとする。
「出てこい、ネズミ」
 太い声が俺を呼ぶ。
 斬られた襖が倒れ、その向こうには一人の侍が刀を抜いて、立ちはだかっていた。

 こいつは確か……
 目の前にいる侍。こいつとは以前、一度会っている。
 清成が奈川城に来た時の護衛で、名前は右門。
 日焼けした長身は全身が分厚い筋肉に覆われている。着物の襟から除く胸板の厚さ、袖から除く手首の太さ。どれだけの鍛錬を積み、ここまで鍛え上げたのだろうか。
 その場に立っているだけで、敵を威圧する鋼の肉体。
 それが見てくれだけでないことは、知っている。
 この男は、奈川城で物音ひとつ立てずに動き、今も気配を消し去り俺を待ち受けていた。
 街で見てきた脆弱な侍たちとは違う。いくさの世が終わった後、侍が戦う理由を失っても自分を鍛え上げ続けた男。
 まさか、ここでこいつと出くわすとは。
 俺は自分の不運を嘆いた。

「不自然な失火だと思ったが……思った通り、火事場泥棒が紛れ込んでおった」
 その一言で、こいつがここにいた理由が分かった。
 辰起城の三階、ここにあるのは大広間と宝物庫。
 この混乱の中、失火が不自然と見抜き、火付け盗賊を想定してここにいたのだ。
 時間がない……
 俺の計画は早くも崩れたようだ。
 一刻も早く、葵様の居場所を探し出し、彼女を助け出さなければ。
 しかし、どこに……。
 大声で名前を呼びながら、この城を探し回りたい。
 しかし目の前のこの男が、それを許してくれるわけがない。
 ならば今、俺のすべきことは二つ。
 まず、右門から葵様の居場所を探り出すこと。
 そして、こいつを倒し、葵様を連れ出すこと。

 そのどちらも容易ではないことは、十分に分かっている。
 さいわい頭巾のおかげで、俺の正体はバレてはいない。
 右門は俺のことを、単なる盗賊だと思っている。
 その勘違いを利用して、こいつから葵様の情報を引き出してみせる。
「警備の侍は、お前だけか?」
「コソ泥ごとき、拙者一人で十分。で、お前の仲間は何人いる。正直に答えれば、命だけは助けてやる」
 嬉しいことに、右門は俺の話に乗ってきた。
 どうやら奴は、この放火を俺一人の仕業とは思っていない。そのために、いろいろ情報を聞き出そうとしている。
 確かに右門がその気になれば、先ほどの一撃で俺を斬り殺すことができただろう。
 情報を聞き出すために、奴はあえて俺を生かした。だったら、その勘違いを利用しない手はない。
「単なるコソ泥が、こんな大掛かりな放火をすると思うか?」
 その言葉を聞いて、右門の太い眉が動いた。
 もちろんコソ泥は俺一人。仲間などはいない。
 だが仲間の存在を匂わせれば、この男は情報を引き出すまで、俺を殺さないだろう。
「誰の命令で、ここに忍び込んだ?」
「おいおい、盗賊にも掟ってのがあるんだ。簡単に仲間を売るわけねぇだろ」
 正体がバレていないのをいいことに、嘘の情報を小出しにする。
「辰起城の城主を、いちばん恨んでいるのは誰か、胸に手を当てて考えてみな」
 あえて挑発するような言い草に、右門はその太い眉を動かした。
 清成の評判を聞く限り、奴に恨みを持つ人間は沢山いるだろう。
 向こうが勝手にあれこれと考えてくれれば、思考を撹乱し付け入る隙ができる。
「コソ泥が義賊を気取るか」
 いいぞ!
 右門は俺のことを勘違いしている。あいにくだが、俺の狙いはこの城の金銀財宝なんかじゃない。

 撹乱のために、さらに言葉を続けようとした瞬間、右門が一歩踏み込んだ。
 ざっ。
 全く気配を感知させない横殴りの一閃は、俺の顔をとらえる。
 はらり、はらり。
 右門の刀は、頭巾の口元を斬り裂き、布がゆっくりと床に落ちた。
「仲間のことを吐かせるまで、殺しはせぬ。だが、腕の一本ぐらいは覚悟しろ」
(こいつ、化け物か)
 背筋に冷たいものが走った。
 と同時に、左の頬から緩くドロっとした感触が伝わる。
 そしてヒリヒリとした微かな痛みが脳を刺激する。
 頭巾を切り裂く際に、頬も切れたようだ。
 だが奴の目的は、俺の顔を切り裂くことじゃない。
 自分の圧倒的な強さを見せつけ、そして頭巾の下の素顔を見ることだった。

「ほう、貴様どこかで見たことがあるな」
 しまったな、どこにでもいる顔だ。思い出すな。
「そうか、奈川城で清成様に狼藉を働いた……」
 そんな細かいことを、覚えてなくてもいいのに……。
「ああ、その時の狂犬だ」
 慌てて右門の言葉を遮るように開き直る。
 メジロとの約束もある。素性がバレた以上、最初に奈川城との関わりは否定しておかねばならない。
「あんたのバカ殿に粗相をしたんで、奈川城をクビになり、流れ流れて今は盗人の手下」
 最初に俺のことを盗賊と勘違いしたなら、その誤解は否定せず利用しておきたい。
 俺は物語の泥棒になりきり、あえて芝居じみた口調で言ってみせる。
「今では狂犬が野良犬になっちまった……。そんなわけでお前の主君への恨みを晴らすため、ついでに苦しめられている領民のため、この城のお宝、頂戴していく!」
「コソ泥が、義賊を気取るか」
 目的を隠し通せたとはいえ、問題は葵様の居場所をどうやって聞き出すか。
 できれば、こんな化け物のように強い侍との戦いは避けておきたい。
 見たところ、この大広間で結婚式が行われた様子はない。宴会料理もなく、あるのは二つの膳と、転がっている銚子だけ。
 いくらなんでも、避難する際に、料理をこうも綺麗に片付ける訳がない。

 だが葵様がこの城の中にいるのは確か。とにかく今は、彼女の居場所を探り出さないと。
「あんたも、あんなバカ殿の下で働いていて、気苦労が絶えないなあ」
 そのために、この男の心を少しでも、かき乱してやる。
「家臣たちは火事を消すために奔走して、あんたはこうやって火事場泥棒からお宝を守っている。で、お前の主君のバカ殿は?」
 火事の混乱ぶりを見る限り、清成が消火の陣頭に立っているとは思えない。
 だとしたら、奴は外に逃げたのか、それとも自室に引きこもって震えているか。
 どちらにしても、城主として誉められたもんじゃない。
 そんな図星をつかれてか、右門の口元が微かに歪んだ。どうやらこの男なりに、あのバカ殿の下で苦労しているらしい。
 悪いが、そこをもう少しつかせてもらおう。
「ひょっとしてバカ殿は、上の部屋でお姫様と火事に怯えてるのかい?」
 地図には最上階の四階は、城主の私室と書いてあった。
 だから確認したかったのは、葵様が四階にいるのかどうか。
 そこにいないとなれば、下層階の客間に俺は向かうことになる……。

 俺の目的がこの城の宝だと右門が思っている以上、葵様のことなどはどうでもいい情報のはず。
 そこに付け入る隙がある。
「この非常時に女と自室に籠るとは……」
 右門が苦々しく呟いた。
 初めて口にした、主君への不満。
 奴の気苦労がわかるせいか、俺はこの男の馬鹿正直なところに妙な好感を抱いた。
「あんたも気苦労が絶えないなぁ」
 このひとことは、嘘ではなく心からの同情。
 そして貴重な情報を提供してくれたことへの感謝の気持ち。

 さて右門のおかげで、葵様は四階にいるのが分かった。
 あとは一刻も早く助け出すだけ。
 しかし問題は、この右門。
 事情を話せば、素直に四階に通してくれる……訳はない。
 俺は気持ちを切り替え、目の前の強敵を倒すことに全ての神経を集中する。
 そう。
 俺は忍として、この男を倒す!