辰起城の三階「千畳敷の間」と呼ばれる大広間は、千畳はいささか大袈裟だが、その名に恥じぬ広さを持ち、この城の権威の象徴の一つであった。
 清成は年に数度、この部屋に家臣を集め宴を催していた。
 若い侍を中心とした酒池肉林の宴に、先代からの家臣たちは眉を顰めたが、清成はその振る舞いを止めることはなかった。
 それは彼にとって、城主としての成功の証であり、家臣たちはこの機会に、まだ若い城主に媚びへつらい、自らの印象を良くしようとした。

 右門は、そんな広大な部屋の中で、苦々しい表情をしていた。
 今、千畳敷の間にいるのは二人だけ。
 本来なら、今の時刻はこの場所で、辰起城城主の清成と、奈川城の姫の葵との結婚式が行われるはずだった。
(まさか、こんな事に……)
 右門は上座で一人、身を固くして座っている葵の方をチラリと見た。

 奈川城から輿入れしてきた少女は白無垢を纏ったまま、この部屋に招かれた。
 何者にも汚されてはいない、という証の白無垢。
 絹の光沢は上質で、そこには多くの花の刺繍が、花嫁の美しさを引き立たせるように咲いている。
 身なりや贅沢には興味のない右門にも、この白無垢が相当高価なものなのは分かった。
 奈川城城主とは一度会っただけだが、あの気位の高さから、辰起城に見下されないように無理をしてでも高価な嫁入り衣装を用意したのだろう。
(不憫な)
 右門は心の中で、葵のことを憐れんだ。
 この美しい花嫁の横には、本来いるはずの花婿の姿がなかったのだ。
「清成様は、所用につき、少し遅れております……今しばらくお待ちを」
 誰もいない部屋に通され、上座には冷め切った膳が二つ……。
 葵は最初その光景を見て、虚をつかれた様子だった。
 そんな彼女に、右門は感情を押し殺すように、清成が遅れる旨を伝えた。

(この様な無礼……道理が通らぬ)
 元々、今回の結婚は天下人が押し付けてきた政略結婚。
 清成も貧乏な城の姫との見合いは、最初から乗り気ではなかった。
 以前、事前に使いも出さずに奈川城を訪れたのも、格下の城を冷やかし、自らの自尊心を保とうとしたため。
 だが、そこで迎えた城主鶴姫の態度が不遜であったため、清成はむしろ自尊心を傷つけられ、以降この縁談に対して明らかに不機嫌な態度を取り続けた。
 しかし天下人が勧めた縁談を、断るわけにはいかない。
 そのため清成は気に食わないものから目を背けるように、結婚式の日取りや諸手続きなどは家臣に丸投げした。
 そして彼自身は三本刀と称する取り巻きを連れ、夜な夜な色街へ繰り出していた。
 清成が余計な口出しをしないことが功を奏してか、結婚式の準備は順当に進んでいた。
 もちろん結婚する当人同士の気持ちは、そこには存在しないのは奈川城側も同じ。
 だが侍の結婚というものは、そういうものなのだと右門も疑問は抱かなかった。
 結婚というものは、侍として、家を、城を反映させるための手段。
 そこに疑問を挟むつもりもない。

 しかし清成は結婚式の当日に、とんでもないことを言い出した。
<こんな政略結婚に、金のかかる宴を開くのは勿体無い。俺は今から色町に行く。女は俺が帰るまで、待たせておけ>
 そんな提案を得意げに言ってみせた清成の冷たい目を、右門は忘れることができなかった。
 奈川城のような貧しい城の姫が、自分の妻になるというのは、納得できなかったのだろう。
 さらには、望まぬ結婚を押し付けてきた、天下人への反発もあったのかもしれない。
 それは流石に、右門も看過することはできなかた。
 しかし清成は、彼の生死を聞き入れることもなく、悠然と色街へと繰り出していった。
 その結果、葵は一人、この千畳敷の間で待たされることとなる。

 膳の前で正座している葵は、ずっと沈黙していた。
 彼女の目の前に置かれている膳には、銚子と盃が一つずつ置かれているだけ。
 本来、侍の家同士の結婚式には欠かせない尾頭付きの鯛、子孫繁栄を願う数の子や、長寿祈願の伊勢海老もない。
 それらの高級な食材は、清成が銭の無駄と用意させなかった。
 ただ誓いの盃だけを交わし、それで婚姻をすませたことにする。葵はこの屈辱的な扱いを受け、涙を堪えるので精一杯なのか。表情は固く、時折肩が小刻みに震えている。
 右門は目の前の少女に同情した。
 この結婚には、愛は存在しない。
 いっそうこのまま清成が戻って来ずに、結婚が破談になれば良いのではないか。
 右門がそう思った瞬間、千畳敷の間の入り口が派手に開かれた。
 
 滑りの良い襖が勢いよく動くと、柱が拍子木のような派手な音を立て、清成が現れた。
 酒に酔っているのか、生来色白の顔は赤黒く、目は据わってどこか焦点が定まっていない。
「くそっ、あの商売女ども。俺様を誰だと思っているんだ。生意気な態度をとるから、殴って躾けてやったんだぞ。それを帰れって」
 両脇を三本刀の二人に支えられてはいるが、二人の身長差のせいか、清成の上体は傾き足元がおぼつかない。
「お前たち、清成様に酒を飲ませたのか?」
 主君の醜態を見た右門が、静かな口調で両脇の二人に問いただす。
 怒りを抑えつけるような詰問に、二人は気まずそうな表情を浮かべた。
 実際に清成に喜んで付き合っているのは天馬ぐらいで、この二人は好きで清成に付き合っているのではない。
 ただ、主君の命令に逆らえないだけなのだ。
 右門もそれが分かっているので、二人をそれ以上責めることはなく、そのまま下がるように目配せした。
「おい、お前ら、どこに行く。まだ宴会は終わってねぇぞ」
 ばつが悪そうに退室した二人に置いて行かれた清成は、畳の上に尻餅をつきながら、もう一度大声で叫ぶ。
「俺様を誰だと思ってる!」
 清成が、酒を飲み、暴れ、遊郭を追い出されるのはいつものこと。それをいちいち咎めていては、キリがない。しかし……。
 右門は小さく咳払いする。
「清成様、本日は大切な日でございます」
「大切な日?」
「天下人様の定めた婚姻の日にござります」
「ん? ああ、今日は新しい妾がくる日だったな、そんな大切なことか?」
「清成様、すでに花嫁殿がお待ちです」
 右門は「妾」と言う言葉を「花嫁」に訂正したが、清成はそのような配慮に気づくこともない。

 清成は千鳥足のまま、二つ並べられた膳に向かうと、いきなり銚子の口を咥え中の酒を飲み始めた。
「不味い、なんだこの安物の酒はっ」
 誓いの杯に安酒を用意させたのは清成自身の命令なのだが、そのようなことを全く覚えてはいない。
 清成は声を荒げ、銚子を放り投げると、今度は目の前に座っている葵を目に止め、そのまま屈んでその顔を覗き込んだ。
「ほぉ〜、思い出した。奈川城の山猿か」
 不機嫌だった清成が、葵を間近で見て幾分嬉しそうな表情になった。
 化粧もせず着飾ってもいなかった時の葵は、純ぼくな美しさがあったが、それは清成の好む毳毳しく派手な容貌とは異なっていた。
 だが化粧をして、花嫁衣装を身につけた葵は、清成が見ても十分に美しく……。
 そして十分に彼の欲情をそそった。

「あの時の山猿も化粧次第で……これなら楽しめそうだ」
 清成は酒臭い息を吐きながら舌舐めずりをする。
「来い!」
 そう言うなり、清成は乱暴に葵の手を握り、天守四階の自室へ連れて行こうとした。
 あまりにも無礼な清成の行動を、右門が止めに入ろうとした瞬間。
 パシッ
 葵が清成の手を反射的に跳ね除けた。
「ま、まだ嫁入り前の体です……みだりに殿方に触れさせる訳には……」
 結婚相手とはいえ、誓いの盃も交わしていない状態での狼藉に、葵は精一杯の勇気を振り絞るように言う。
 しかし葵の抵抗は、清成の加虐心に火をつけることになった。
「見た目を繕っても、中身は山猿だなぁ。礼儀を知らぬ」
 そう言って清成は葵の盃に酒を注ぐと、すぐさまそのまま畳にこぼした。
「これで誓いの盃は済んだ」
 
 清成の横暴は、それで終わらなかった。
 彼は懐から鉄の塊を取り出し、誇示すると、葵に突きつける。
「侍の娘なら、これが何かはわかるな? 鉄砲というやつだ。しかも南蛮製の最新型。お前、俺様に触られるのが嫌なら、自分で上の階にいけ。そこで一から躾てやる」
 清成は拳銃を握り締め、怯える葵を見下してニヤリと笑った。
「清成様っ!」
 思わず右門が止めに入った。
 いくら格下の相手とはいえ、鉄砲を女性に向け脅すなど、人の道を踏み外している。
 しかし、楽しみを邪魔された清成は、不貞腐れた表情で右門を睨み返した。
「なんだ、右門。俺様のやることに口出しする気か」
 清成が銃口を葵から右門に向けようとした……。
 その蛇を思わせる三白眼には、右門への本気の憎しみが込められていた。
 
 それは右門が今まで何度も浴びてきた清成からの視線。
 右門は武芸の才能がなかった清成に、幼少の頃から剣の稽古をつけてきた。
 強くなって父のような立派な侍になってほしい。そう思って自分の剣技の全てを清成に伝えようとした。
 そんな想いは清成には重荷でしかなかったのだろう。
 清成は立ち合いで負ける度に、右門を憎々しげに見つめていた。
 そして城主である父が病死し、彼が辰起城を継ぐと、一切の稽古を放棄し放蕩三昧を始めた。
 清成がこのような暗君に育ったのは、自分にも一因があるのではないか。
 そんな思いゆえ、右門は最後の最後で清成の暴走を止めることはできなかった。
「どうした怖いか? さすがにお前も、鉄砲には勝てないよな」
 時代が変わり、鉄砲の数が戦の帰趨を決めるようになった。
 一介の足軽が天下を取れたのは、彼が鉄砲の威力にいち早く気付いたからとも言われる。
 人生をかけ、武の鍛錬に励んだ友が、戦場では鉄砲の弾の前になす術もなく打ち倒されていった。
 鉄砲を手にした彼は、勝ち誇り、右門の侍としての尊厳を踏み躙ろうとしていた。
 右門は押し黙った。
 鉄砲が怖いわけではない。
 この間合い。
 もし清成が指を動かそうとしたら、引き金を引くよりも早く、腕を切り落とす自信はある。
 今がいくさの世なら「仕える価値なし」と、すぐさま刃を振るっただろう。
 だが、今は時代が違う。
 侍が武を拠り所に駆け抜けた戦乱の時代は、すでに昔。
 自分は死に損ったのだ。
 右門は虚無感に打ちひしがれ、葵を見ることができなくなっていた。

 ***

 カンカンカン
 外で半鐘の金が激しく叩かれた。
「何事っ」
 その音が右門を現実に引きずり戻す。
 慌てて窓を開き外の様子を見ると、馬小屋から火が燃え上がっていた。
「どうした、右門!」
「清成様、庭で火の手が上がりました」
「失火か?」
「わかりませぬ、ただ馬の飼葉に火が移った様で、火の勢いは激しく……」
「なんとかしろ、右門!」
 城内で火事が起きたと知り、清成が苛立たしげに叫ぶ。
「はっ、すぐに現場に行き、陣頭指揮を取ります。あの場所ですと、天守まで火が回ることはないと思いますが、念の為に清成様も一度外に避難され……」
「馬鹿野郎! 城主たるものが火事ぐらいで、慌てふためいて逃げる姿を見せられるか。俺は上から見張っているから、ちゃんと消火の指揮を取れ」
 清成は、火の手が今いる天守まで来ないと知り、幾分か落ち着きを取り戻した。

「山猿は一緒に来いっ」
 酒が入って判断能力が低下した清成には、消火の陣頭指揮を取るのは無理だろう。
 だから彼は、自分が一番居心地の良い場所で引きこもることを選んだ。
 おぼつかない足取りで、自室への階段を上がる清成。
 そして葵は悲しげな表情でその後に従う。
 葵は一瞬、右門にみせた助けを求める表情をした。

 しかし右門には、主君に逆らい彼女を救うことはできなかった。
 せめて、この火事のどさくさに紛れて、逃げ出してくれれば。
 一瞬そんなことを思ったが、それは無理な話だ。
 ここを逃げ出してどこに行くというのか。
 右門も葵も、侍の家に生まれたからには、従わねばならないしきたりがある。
 どこかで自分の心を押して忍ばねば、そして諦めることを身につけなければ、侍の世界では生きてはいけない。
 後味の悪さに後ろ髪を引かれつつ、右門は千畳敷の間を後にしようとする。
 今は火を消すことが最優先であった。
 消火の指揮を取るため外に出ようとした右門に、外から微かに聞こえる声があった。
「大変だ、米倉にも火がっ」
 火の手は馬小屋だけでなく、米倉にも燃え移ったのか。
 いや、火の周りは不自然なほど早い。

「どうやら火元は一つではないようだ。となると……」
 呟いた右門は、すぐさま自分の役目を果たすべく、腰の刀を手をやった。
 その口元には微かな笑みが浮かんでいた。