ここ奈川城は、戦時では重要な軍事拠点だったため、正門は大きく堅牢な作りになっている。
 しかし天下が統一された今では、正門が開かれることはなく、その横の勝手口を使うことで事足りる。
 そんな用済みとなった寂れた山城に、今でも訪ねて来るのは、城主お抱えの呉服商人ぐらい。
 だから門番も、頼りなさそうな爺さんが一人で勤めていた。
「だから、ここに来ても、施しなどできぬ。帰りなさい」
「そこをなんとか、銭は無理でも、せめて食うものだけでも」
 普段は暇そうにしている門番の爺さんが、物乞いに来た老婆を大声で怒鳴り、追い返そうとしていた。

 そして、その二人のやり取りに挟み込まれる小さな声。
「けどお婆さん、困っているみたいですから、少しぐらい食べ物を分けてあげても……」
 耳をすまさなければ聞き取れないぐらいの小さな声だが、俺の耳にははっきりと届く。
 それはこの奈川城の姫、葵様の声だった。

 ***
 
 すたっ。
 二階から華麗に飛び降りた俺は、葵様にはぶつからないよう注意し、音もなく着地する。
「葵様、何かお困りですか?」
 うん。我ながら格好の良い登場の仕方だ。
 だが俺がゆっくりと顔を上げると、空から舞い降りた存在に驚いた三人が、呆然と立ち尽くしていた。
「ハヤテ、お前怪我ないのか?」
 俺の忍だった過去を知らない門番は、今の突拍子もない行動に驚いている。
 しまったな、葵様にかっこいいところを見せたくて、少し派手に登場しすぎたか。
 俺はすぐに葵様の反応が気になり、彼女の顔を見た。
 黒目がちの大きな目、整った顔立ち。
 手入れされた艶のある黒髪は、肩の高さで切り揃えられている。
 華美ではないが清潔な木綿の着物を着ている姿は、例えるなら咲き誇る牡丹ではなく、道端に咲き人の心を癒す野菊のような純朴な美しさ。
 俺の突拍子のなさには慣れているのか、お婆さんを助けたい気持ちが優っているのか。
 葵様は俺の登場に驚いた様子も見せずに、少し困った表情で訴えてきた。
「あ、ハヤテちょうどいいところに。こちらのお婆さんが、旅の途中で食べ物もお金も尽きたらしくて、困っているの」

 優しい……。
 寂れているとはいえ、一応は侍が住む城だ。
 時折、こうやって物乞いがやってくるが、普段は門番の爺さんが追い返し、俺は高みの見物を決め込んでいる。
 だが今回は葵様が、正門の近くを散歩していたのだろう。
 門番の怒鳴り声を耳にし、困っている老婆を見捨てることができず、何か施すものがないか掛け合っていた。
 侍などという連中は、領民の困窮には無関心なのだが、葵様だけは別だ。
 彼女は誰にでも優しく接してくれる。
 できれば、その優しさは、俺にだけ向けてほしい気持ちもあるが……。
 いや、相手の身分関係なく優しくできる葵様だからこそ、俺は忠義を尽くせるのだ。
 その優しさを独占するのは、お日様の恵みを独占するようなもの。
 俺はすぐに自分の心の狭さを反省した。
 
 さてそんな訳で、葵様のためにも、この困っている婆さんをどう助けるか?
 それが俺の、使用人としての力量の見せ所。
 婆さんは杖を左手で持ち、小柄で腰も曲がっている。
 伸びた髪は真っ白でボサボサな状態。
 何か恵んで欲しいのか、日焼けした皺だらけの顔で、俺にも愛想笑いを向けてきた。
「大変だな婆さん。年寄り一人で山越えって」
「そうなんじゃ、山道を旅するのは、膝の悪い年寄りには辛くて。けど、いくさで夫を失い、家も焼かれ、居候先からは邪険にされ。わしが頼れるのは、山を降りた先の辰起城に住む娘しかおらんのです」
 優しく声をかけると、婆さんは俺に身の上話を始めた。
 門番が取り付く島もないので、俺と葵様を味方につけようと一生懸命だ。
 そして痛みを強調するように、婆さんは左膝をさすりながら俺に訴える。
 そんな辛そうな婆さんの演技は、俺ではなく葵様の心を揺さぶった。
「あの、これでよければ……」
 葵様は裾から巾着を出し、何かを取り出そうとした。

「いけません!!」
 しかし門番が毅然とした態度で、葵様に釘を刺した。
「先ほども申したように、物乞いに来た者に、いちいち施しをしていてはキリがありません」
 そう強い口調で言われると、葵様は何も言い返せなくなる。
 彼女のそんな様子を見ると心が痛む。
 門番の言葉はもっともなのだが、俺だけは葵様の味方でいたい。
 ここは皆が納得のいく解決策を提示しなければ。
「なあ、門番さん。奈川城としては、物乞いに施しはできない、と」
「ああ、そうだ。城主様からの命令だ」
 まあ、あの鬼のような城主に命令されれば、従わざるを得ないか。
「だったら俺が、個人的にこの婆さんに金を貸してやる、ってのなら問題ないか?」
「どう言うことだ、ハヤテ?」
「いや。貸し借りなら、施しとも違うし、貸した金が帰ってこなくても、俺が損するだけでしょ」
 そう提案され、門番も少し考えてから返事をする。
「まあ、お前が勝手にやったことなら、わしも止める立場にはないが」
 仕事上、葵様にも婆さんにも厳しい態度の門番だが、その素顔は優しい好々爺だ。本心では困っている婆さんに同情もしているのだろう。
 だから、俺の提案には素直に応じてくれた。

「だけど、いいのか、ハヤテ?」
「ここの賃金は安いが、俺にも蓄えぐらいはあるさ」
 あえて見栄を張って答えてみせる。
 もしここで俺に手持ちの銭が少ないことを悟られれば、葵様が自腹を切りかねない。
 葵様は婆さんを助けることが出来ると分かって、安心した様子になる。
「ほら、婆さん。少ないが俺からの貸しだ。利息はいらないからね」
 俺は布袋に入った銭を放り投げる。
 ただ投げ方が下手だったせいで、婆さんは慌てふためき、なんとか左手で銭袋を受け止めた。
 袋の中で金属が擦れる音がすると同時に、婆さんの手を離れた杖が倒れ、乾いた音を立てた。
「ごめん、婆さん」
 俺は慌てて駆け寄り、婆さんが倒した杖を拾ってあげた。
「山道は、物騒だからね」
 まだまだ麓へは距離がある。これから山道を下るなら、この杖は大切にしておかないといけない。
 婆さんに優しい言葉を投げかけながら、チラッと横を見ると、葵様は嬉しそうな笑顔で、俺のことを見ていてくれた。
 よしっ!
 婆さんに優しくすることで、葵様からの好感度がまた上がった!
 一方の婆さんは、もらった銭袋の重さに納得したのか。
 何度も俺に礼を言うと、左手で杖をつきながら山道を去っていった。
 本当に頭を下げるべきは、俺ではなく葵様なのだが、人から感謝されるのも悪い気はしない。

「ごめんなさい、お城の規則があるのに、私が無理を言って」
「あ、謝らんでくだされ……」
 婆さんがいなくなった後、葵様は門番に頭を下げた。
 その謝罪に、門番も少し困った表情になる。
 彼としても規則だから施しを止めただけ。
 そのことで葵様に、頭を下げられるとまでは思っていなかったようだ。
「まあ、ハヤテが勝手にやったことだから、わしは何も見てないし、葵姫にもなんの責任もない。そんなわけで葵姫、お城の中にお戻りください。この門は、わしがしっかりと守っておきますので」
「そうそう。今回の件は、全部俺が勝手にやったこと。門番さんは真面目に仕事をしただけ」
「わしはお前と違って、仕事はサボらんからなぁ」
「ひどいなぁ、せっかく助け舟を出したのに」
「ふふふ」
 こんな感じの俺と門番のやり取りを、葵様は嬉しそうに見る。
 その笑顔は優しく穏やかで、綺麗な艶のある黒髪と相まって、まるで人形のように愛くるしい。
「ハヤテ。わしはいつ敵が攻めてきてもいいように正門を離れることはできぬ。お前が本丸まで姫様を送ってやれ」
 俺が葵様の笑顔に見惚れていることに、気づいたのだろうか。
 門番は妙なところで気を利かせてくれた。
 このご時世、城に攻め入る軍勢など、いもしないのに。

 ***

「あのお婆さん、無事に娘さんのところに着ければいいな」
 葵様は本丸にある自室に戻る途中も、婆さんの無事を気にかけていた。
 たまたま出会した物乞いの老婆にも、優しい気持ちを向ける葵様のことを、俺は敬愛していた。
「お金はいつか、私が」
「いやいや、婆さんに渡したものなんか、大した額のモノじゃありませんよ。そもそも、そんな大金、この城はくれないし」
 葵様と二人きりの散歩で、少し浮かれていたのか。
 つい城の安賃金のことが口に出る。
 慌てて葵様の横顔を見ると、俺の愚痴など気にした様子もなく、嬉しそうな表情をしていた。
 婆さんの役に立てたのが嬉しいのだろう。
 ただ、もし……俺と二人きりだから、と言うのも笑顔の理由なら、なお嬉しいのだが。

「あ、そういえば、葵様、正門にはどのような御用で」
 本丸が近づき、ふと気になったことを聞いてみた。
 彼女は習い事の合間に、よく一人で気晴らしの散歩をしていた。とはいえ、本丸から離れた正門まで来るには、何か理由があってのか。
「あ、そう、そう」
 正門に来た理由を急に思い出したように、葵様は巾着から紙包を一つ取り出し、俺にくれた。
「これ。金平糖をいただいたので」
 少し照れながら、綺麗な和紙に包まれたお菓子を差し出す。
 金平糖。
 それは高価な甘味料である砂糖を、職人が時間をかけて結晶化した南蛮由来の菓子。
 もちろん、普通は庶民の口に入るものではない。
 貧乏な山城ではあるが、あの鬼姫、もとい鶴姫は衣服へのこだわりは強く、出入りの呉服職人には気前が良い。
 そいつらは城主のご機嫌を取るために、ときおり珍味や高級菓子を手土産に持ってきた。
 鶴姫は甘いものを好まないらしいから、とりあえず葵様に与えたのだろう。

 しかし出どころはともかく、金平糖は高級品だ。
 そんな品を、葵様は俺に分けてくれようとしている。
「え、良いのですか?」
「ハヤテには、いつも色々と贈り物をもらっているから」
 確かに俺は、玩具とか干し芋など、空いた時間で作ったものを、機会があれば葵様に贈っている。
 もちろん変な下心はない。俺も自分の身分は弁えている。
 ただ葵様の喜ぶ顔が嬉しくて、ついつい、いろんなものを贈ってしまう。
「あのお婆さんにも、少し分けてあげたかったんだけどな」
 どうやら、先ほど葵様が懐から出そうとしたのは、この金平糖らしい。
 その優しさは素晴らしい。
 が、そうすると俺の食う分が減る。
 何より「俺だけ」が葵様からもらった、と言う希少価値が減るので、それはやめてほしい。

 そう思っていると、向こうから葵様を呼ぶ侍女の声が聞こえた。
 どうやら、お茶の稽古が始まるので、葵様のことを探しているみたいだ。
「あ、いけない。そろそろ習い事の時間」
 小さい城とはいえ、葵様は一城の姫。彼女は数多くの習い事を、鶴姫から押し付けられていた。
 健康のために城内散策は黙認されているが、彼女もなかなかに忙しい立場なのだ。
「葵様、それでは自分の見送りは、この辺で」
 葵様が下っ端に使用人と親しくしているのを侍女に見られれば、要らぬ憶測をされかねない。
 そうなれば葵様が、あの鬼姫に責められる。
 なので、俺の出番はここまで。
「ハヤテ、いつもありがとう」
 葵様がくるりと身を翻すと、着物の袖が揺れた。
 香木だろうか。
 袖が起こした微かな風が、俺に葵様の良い香りを運んでくれた。
「さて、俺も残った仕事を片付けるか」

 葵様が無事に戻ったことを確認した俺は、残った仕事を片付けるため、一度部屋に戻ることにした。