死地に赴く前に、俺にはやることが一つ残っていた。
 それは彩さんとの別れ。

 彼女と共に過ごした時間の幸せを思えば、迷いが生じはする。
 だが自ら退路を断たねば、俺は戦いに赴くことを躊躇し、またそこから逃げ出しかねない。
 俺は葛籠を水車小屋の前に置き、ゆっくりと扉を開けた。

「おかえり」
 彩さんはいつものように、帰ってきた俺を暖かく迎え入れてくれた。
 逃げだした先で手に入れた温かい時間、そして人。
 そんな大切な存在だからこそ、俺はけじめをつけるため、戻ってきた。
「結局、あの子、何だったの?」
 彩さんは、俺を呼び出しにきたメジロのことを聞いてきた。
「あ、あの子、逃げ出した大工の親方の娘なんです」
「……」
「いや〜普段は腕も良くていい人なんですけど、酒を飲むと手を上げる癖があって。俺も一発ガツンってやられて。それで全部嫌になって、そこから逃げ出して……」
 思いつくままに、嘘で塗り固めた過去を話し始める。
 だが俺が、嫌なことから逃げ出したのは事実。
 適度に事実を混ぜることで、嘘は真実味を増すと俺は考えた。
「まあ、多分、親方も後悔したんでしょう。俺ほど腕のいい弟子はいなかったですから。だから俺のことを聞きつけて、ああやって娘さんを使いに出して、仲直りのきっかけを作ろうとしてるんでしょうね」
 だが、段々と嘘を言い続けるのが苦しくなってゆく。
 彩さんの方を見ると、彼女は優しく微笑みながら俺の言葉を頷き聴いてくれた。
 まるで俺の苦しさを見透かしているような、涼しげな視線。

「まったく、謝るんなら、ちゃんと自分で頭下げにきて欲しいですよ」
 嘘をつき続ける苦しさを断ち切るように話を打ち切ると、彩さんの手を握る。
 彼女の手は、水仕事で少し荒れていて、だけど温かかった。
「彩さん……」
「なに? ハヤテくん」
 俺の気持ちを全て受け止めてくれそうな、年上の包容力を感じる微笑みを向けられた。
「俺、自分の過去にけじめをつけなきゃ」
 遠回しに彼女の元から去ることを伝えた。
「ここを出ていくの?」
 その問いかけに、ゆっくりと頷く。
「そうなの」
 俺の返事に、彩さんは動じた様子も見せずに、厨房に向かった。
 そして何事もないように、いつも通りの手慣れた手つきで、蕎麦を作り始める。
「ここを出ていく前に、これを食べてみて」
 言いながら、彼女は俺に一杯のかけ蕎麦を出してきた。
「一番最初にハヤテ君に、食べてもらいたくて」

 それは初めて見る蕎麦だった。
 麺は変わらず十割。
 だがツユが違う。色は濃い琥珀色、そして匂ってくる香りは、味噌ではない。
 醤油を基本に、ふんだんに鰹の出汁が使われていた。
 俺は勢い良くすすった。
 一口含んだ瞬間、醤油と出汁の風味が口の中に広がる。
 うまい。
 高級品の醤油と鰹節を贅沢に使った蕎麦は、上品でいて、彩さんの十割蕎麦麺に負けないぐらい、味の輪郭ははっきりしている。
「どう?」
 彼女は俺の顔を伺った。もちろん彼女が問うているのは、美味いかどうかなどではない。
 この蕎麦の美味さがわからない人間を、彩さんは相手にしないだろう。

 彼女が聞いているのは、この蕎麦に込めた意味。
 彩さんは何も言わず、俺の気持ちを受け入れてくれ、そして自分の心の在りようを語ってくれた。
 拘っていた蕎麦の味にとらわれず、そこからさらに新しいものを作り上げる。
 それは彩さんが過去を振り切り、新しい未来へ一人で歩いて行けることの証拠であった。
 そして彼女自身が過去を乗り越えたように、俺にも乗り越えるべき過去に向かい合うことを促してくれている。
 一杯のかけ蕎麦を食っただけなのに、涙が溢れ出てくる。
「彩さんには……かなわないな」
 かろうじて、その一言を告げた。
 彼女は何も言わない。
 ただ俺を送り出すように、優しげに微笑んでくれている。

 お互い、それぞれの道を進もうとしていることを確信した。
 いっときは共に進めるかと思ったが、どうやら俺の居場所はここではなかったようだ。
 だけど、彼女との別れを思うと、どうしても感情が溢れてくる。
 俺は涙で目を潤ませながら、彼女の眩しい笑顔から視線を背けるように、深々とお辞儀をし、水車小屋を後にする。

 走り去る俺の背後からは、ゆっくりと回り続ける水車の音だけが聞こえた。

 ***

 三日後の夕刻。
 空には夕月が丸い姿を見せている。
 雲ひとつない空。
 これから闇が訪れ、夕月は満月となり、街を照らしていく。

 俺は辰起城の正門の近くで、日が暮れるのを待っていた。
 葵姫の結婚を、侍の世界の出来事と、目を背け耳を塞ぎ通りすぎる。
 そして時間が過ぎていくのに身を任せれば、いずれは過去の思い出になるだろう。
 けど、俺にはそれができなかった。
 ここで行動しなければ、葵姫のことを生涯引きずって生きるだろう。
 だから彼女に会いたい。
 会って、今度こそ本当の気持ちを伝えたい。
 その想いを内に秘めながら、葵姫の輿入を待ち続けた。

「奈川城が姫、深志葵様が清成様の元に嫁ぎに来た」
 薄暗くなりゆく中、篝火が正門を照らす頃、聞き覚えのある声が聞こえた。
 正門の前に、小柄な付き人を伴って、豪華な籠が現れた。
 深志家の家紋が描かれた籠は、大人が一人で乗るのに十分な大きさで、それを屈強な駕籠かきが四人がかりで担いでいる。
 よく通る女性の声の後、しばらくして辰起城正門がゆっくりと開かれる。
 その巨大な扉が開かれると、中から数人の使用人が現れ、籠を受け取った。
 そして付き人の女性と、辰起城の侍が二言三言交わすと、籠は城内に運び込まれていった。

 正門が再び閉ざされると、付き人は駕籠かきに駄賃を渡し解散させ、猫のように背伸びをする。まるで自分の仕事が終わったように。
 葵姫を辰起城に無事届けるまでが、奈川城の責任。
 そして一度花嫁が入城したとなれば、ここから先、起きたことは辰起城の責任。
 天下人の縁談がぶち壊されても、責めを受けるのはあの男だ。
 だから俺には何一つ躊躇する必要はない。

 俺は今回の計画を脳内で反芻し始めた。
 この三日、入念に今回の計画を練っていた。
 メジロがくれた結婚式の日程や、辰起城の内部地図はきちんと頭に叩き込んである。
 地図は大雑把で所々抜けてはいたが、必要なのは結婚式の場所と、そこへの最短の進入経路。その点はもらった地図で十分に把握できた。
 何の下準備もせずに城に乗り込んでも、無意味な討死をするだけ。
 だが日程を把握し、地図を元に最短経路で襲撃することができれば、俺の計画が成功する可能性は十分にある。
 大切なのはどの頃合いで強襲し、そして迅速に撤収するか。
「葵姫を、助け出す」
 鼓舞する様に呟き、装備の確認を始める。

 メジロが返してくれた葛籠の中身は、俺が奈川城で作った忍具だ。
 それは全て、街中を持ち歩いても不信がられないように、玩具に模してある。
 けん玉、竹馬、お手玉、カルタに凧。
 数は多くはないが、一度に持ち運べる重さを考えれば、強襲用の装備としてはこれが上限。
 何も辰起城の侍たちと正面切って戦う訳じゃない。
 必要以上に忍具を持ち込んで、迅速さを失うなど本末転倒だ。
 俺は選んだ忍具を体の各部に仕込むと、続いて服の下の装甲服を確認する。 
 今回の計画は、敵陣を強引に突破する必要がある。
 そのためには装甲服は必須の装備。腕の甲には、黒兎に付けられた傷が残ったままだが、戦いに支障はないだろう。
 俺は道具と情報を提供したてくれたメジロに感謝した。
「結婚式が始まるまで、もう少し」
 結婚式が終わるまでに作戦を遂行しなければ、葵姫の身に危険が及ぶ。
 俺は月の位置に目をやり、突入する時を窺っていた。

 空が暗くなるにつれ、輝きを増していく満月。
 思えば、これが忍としての初めての実戦になる。
 忍びの里では、年が足りず忍者として働くことができなかった。
 一度は捨てた、忍の道に戻ることに後悔は……ない。
 兄が俺のために戦ってくれた様に、俺も大切な人のために戦う。
 それは誰に強いられたものでもない。
 今は、なぜ兄が過酷な任務を戦い続けたか、わかる気がする。
「俺も兄さんのように生きたい」

 大切なものを守るため、戦う覚悟を決めた俺は、顔を頭巾で覆った。