俺が蕎麦職人を目指し始めてから、しばらくが過ぎた。
「あ、ハヤテくん、いいところにきた」
夕方、俺が水汲みから帰ってくると、彩さんが屋台から顔を出した。
「どうしたんです?」
「女の子がね、蕎麦を食べた後も屋台から出て行かないの」
彼女は屋台に目配せをして、俺に耳打ちする。
「迷子ですか?」
「うーん、歳の割には落ち着いているけど、迷子なのかなぁ。可哀想だけど、いつまでもいられると、屋台も畳めないし。ハヤテくんが事情を聞いてみて」
「はいはい、子供の相手は得意ですから」
元々、里でも子供たちの遊び相手になっていたし、奈川城でも子供の様な上司を上手くあしらってきた。
その経験がこの屋台でも活かされ、俺の子供への接し方は、家族連れのお客さんから評判がいい。
もし迷子なら、役所に届けなければならない。侍と関わるのは嫌だが、子供のためだ。そこは大人になろう。
俺は屋台にちょこんと座っている女の子に声をかける。
「お嬢ちゃん、誰か待っているの?」
俺の問いかけに、女の子はクスッと笑った。
どこか悪戯っぽく、邪悪さを含んだ笑い。その笑い方で、俺の全身に緊張が走った。
「君のことを待ってたんだよ」
そう言って振り返ったメジロは、俺の驚いた顔を見て「にっ」と笑った。
***
日が沈みかけ、街が薄暗くなっていく中。
辰起城の大通りは、早くも提灯に火が灯り、昼の様な明るさと賑わいを見せていた。
俺は指定された『扇屋』に来ると、店の周囲を伺い始める。
向こうが指定した場所に、のこのこ現れるほど、俺も不用心ではない。
指定された場所は、ごく普通の大衆食堂。店の中にも外にも、怪しい人影は見当たらない。
そして店の中にはメジロの姿が見える。どうやら一人で俺を待っているようだ。
しかし、相手の意図がまだわからない状態。
俺は丸腰で来たことを、いまさら後悔した。
いざとなれば箸や丼など、武器になるものはあるだろう。
しかし、それでも一対一で戦って、メジロに勝てる自信もない。
「ええい、ままよ」
覚悟を決めて、縄暖簾をくぐる。
「おう、ハヤテ。来たか」
メジロは入ってすぐ正面の卓に陣取り、俺を見るなり人懐っこい笑顔を見せてきた。
緊張する俺とは正反対で、殺気などは微塵も感じさせない。
しかし相手は凄腕の忍。その笑顔に騙されてはいけない。
彼女の卓を見ると、大盛の白米。そしておかずは数切れの沢庵。
武器になりそうなものは、卓上にはない。
「どうした、座らんのか?」
距離を測りながら様子を見ていた俺にメジロが声をかける。
「じゃあ」
ここは素直に相手の言うことを聞くしかない。俺は彼女の正面に腰掛けた。
「ほれ」
座ると、彼女が一枚の紙を渡してきた。
「警戒するな馬鹿。この店の品書きだ」
メジロは呆れたように言う。
「君に危害を加えるつもりなら、先ほどの屋台でやっている。お、この沢庵もなかなか白米に合うな」
「で、今さら俺に何の用です?」
「だから言っただろ、久しぶりに顔を見に来ただけだって」
そう言ってメジロは悪戯っぽく笑った。まるで緊張している俺をからかうように。
「で、何を食う?」
品書きをひらひらさせながら、何か注文する様に促す。
「かけ蕎麦を一つ」
俺はメジロから視線を離さず、店の女将に蕎麦を頼んだ。
「あ、君、ひょっとして疑ってる? 僕のこと」
メジロは口直しの沢庵をかじりながら言う。
奈川城を出て二ヶ月余り、なんの音沙汰もなかった。
そのせいで、すっかり警戒心をなくし、蕎麦屋の店員としての平穏な日々を過ごしていた。
奈川城も忍の里も、俺のことなんか放置していると思い込んでいた。
だが、俺が奈川城を逃げ出したことには変わり無い。
メジロが俺の前に現れた真意を確認するまでは、とても警戒を解くことはできなかった。
「はいっ、蕎麦ね」
愛想のない女中が持ってきた蕎麦を一口啜る。
「ちっ」
「おい、そう怖い顔をするな」
舌打ちし、険しい顔になった俺を見て、メジロが思わず声を出す。
「蕎麦が不味かっただけですよ」
憮然と不機嫌の理由を言う。
蕎麦切りではあるが、麺の硬さと太さは不均等。そのせいで、茹で加減にばらつきがある。
さらに蕎麦粉をケチったのか、技術がないのか、小麦粉が八割の逆二八蕎麦。
蕎麦の風味もなければ、喉越しも悪い。
これならいっそ、蕎麦粉を練って蕎麦がきにして食ったほうがマシ。
さらにツユだ。
味噌が基調なのはうちの店と同じだが、そこには何の工夫もなく、ろくに出汁も取っていない。
まるで濃い味噌汁に蕎麦をぶち込んだだけのもの。
味噌汁に麺をぶち込めば蕎麦になると思っているのか?
酒で舌が鈍った客相手なら、この味さでも通じるのかもしれないが……蕎麦もずいぶん舐められたものだ。
「おい、ハヤテ。僕の話を聞いているか?」
一瞬だが、思考の全てが蕎麦の味に支配された。
メジロはその隙を見過ごすことなく、声をかける。
「最初に言っておくけどなぁ、今さら君を連れ戻すつもりもなければ、制裁を加える気もないぞ」
確かに俺をどうこうするつもりなら、いくらでも機会はあった。
「じゃあ、本当に俺に会いに?」
「もちろんだ。いまさら君を連れ戻してどうなる? 奈川城としては、逃げ出した奴をまた雇うことはない。里にしても、抜け忍を地の果てまで追いかける、なんて講談の世界だけだ。今のあの里にはそんな余力もないしな。ざまあない」
メジロは忌々しそうに最後の一言を吐き捨てる。
彼女が言うには、奈川城は俺がいなくなった後、別の使用人を雇っており特に困ったことはないらしい。
そして忍の里の長老たちにしても、里の調和を乱す目障りな存在の俺がいなくなって、むしろ助かっている。
俺がいなくなっても、奈川城も忍の里も困らない。
「もちろん、僕は君がいなくなって寂しいぞ」
とってつけたような言い方だが、これはメジロの本心だろう。
「よかったよ。君が幸せそうで」
メジロの言葉からは嘘は感じられない。
彼女は兄から俺のことを託されて以来、ずっと面倒を見てくれていた。
だから彼女が追手ではないとわかった今、後足で砂をかけるように奈川城を出て行ったことを、申し訳なく思いはじめた。
「すみません、メジロさんには迷惑をかけました」
俺が素直に謝ったので、彼女は「ニッ」と笑うと、白米をおかわりする。
「ようやく、世間話ができる雰囲気になったな」
メジロは白いご飯のお代わりを頬張りながら、話を続けた。
「けど、君も隅に置けないねぇ、あんな美人と一緒にいるなんて」
「そ、そんなんじゃありません。まだ……」
俺が言葉を濁したのを、彼女はニヤついて見ている。
こういった意地の悪さは、久しぶりに会っても変わっていない。
「今日は来て良かった。君が忍を辞め、蕎麦屋として幸せそうに暮らしている。オオワシも天国で喜んでいると思うよ」
メジロの兄への純粋な友情は、俺の警戒心を解きほぐして行った。
同時にメジロへの警戒がなくなるにつれ、俺の心には過去への心残りが首をもたげてくる。
俺の唯一の心残り……。
しかし、メジロはこちらの気持ちを見抜いているのか、あえてその話題を出そうとはしない。
新しい生き方を歩もうとしている俺への、彼女なりの気遣いなのだろうか。
だが身勝手だと分かっているが、今はその彼女の気遣いがまどろっこしかった。
「どうした、蕎麦が伸びるぞ?」
自分の未練に、今ここで向かい合わなければいけない。
さもなければ、二度と自分の心へのけじめをつける機会をなくしてしまう。そんなふうに思えた。
「ま、葵姫はお元気ですか……」
歯切れの悪い口調。
だが、この一言を言うために、ありったけの勇気を振り絞った。
一度逃げ出した人間が、今さら彼女のことを心配することへの罪悪感。
そして、事実を知ったことで自分には、何も出来ないであろう無力感。
しかし葵姫のことを、聞かずにはいられない。
俺の心の重い扉が、ゆっくりと開いたのを確認したメジロは、ふぅ〜と大きなため息をつく。
そして急に真顔になり、静かな口調で話し始める。
「僕が辰起城に仕事に来ていると言っただろ。それは姫様の結婚の準備のため。誰も天下人様の顔を潰す真似なんかできないから、当人同士の意思は無視して、結婚準備はとんとん拍子だ」
「そうですか……」
俺は力なく返事をする。俺が思った通り、天下人がお膳立てした見合いを、誰も断れるわけがない。
だが俺には、結婚の段取りの進み具合など、どうでもよかった。
知りたかったのはただ一つ。
葵姫は幸せなのか?
メジロの説明に納得いかない表情をしていたのだろう。彼女は少し呆れたように鼻で笑う。
「今さら気にしてどうする?」
「………」
俺の気持ちを見透かしたような意地の悪い言い方。
だが、今は彼女の言葉を否定できるだけのものがなかった。
「あの姫様、お前がいなくなってから、笑うことなくなったぞ」
メジロはあえて、核心に切り込んできた。
それは一番知りたいことであり、同時に聞きたくない現実だった。
「まあ、好きでもない男と結婚するんだ、しょうがない。けど侍の家に生まれて、城の姫様として生きるってのは、そう言うことだ。僕やハヤテとは、生まれも背負っているものも違う。気軽に逃げ出すにはわけにはいかないんだ」
そう言ってメジロは俺を見た。罪悪感のせいか、彼女に責められている思いがする。
「僕は君が勝ち目のない現実から逃げることを否定していないし、むしろ新しい生活を始めているのを祝福している」
しかし未練がましく優柔不断な俺は、いまだに現実を受け入れ、新しい未来を見ることが出来ないでいる。
葵姫のあの笑顔。
穏やかで、無邪気で、そしてどこか抜けているところもある。
家族を無くし、故郷を亡くした俺が、心壊さずに過ごせてきたのは、その笑顔に癒されていたからだ。
それが失われたことを聞き、俺の胸に喩えようもない空洞ができる。
やはり彼女の存在は、俺にとっては過去のものではない。
「……」
店内の喧騒の中、二人の間には沈黙が流れた。
「さて、久しぶりに馬鹿な弟子の顔を見たし、親友との約束も果たせたみたいたし、帰るか」
沈黙を打ち破るようにメジロは言うと、彼女は持ってきた大きな葛籠を俺に渡した。
見覚えのあるそれは、奈川城で俺が使っていた物だ。
「この葛籠な、君の忘れ物。もう奈川城には君の居場所はないからね。邪魔だから持って帰るか、捨てておくか……」
俺に黙って考える間をメジロは与えてくれなかった。まるで俺の気持ちを試すように、冷たく言い放つ。
「ちゃんと自分で決めてくれ」
そう、俺は自分でこの先の生き方を決めなければいけない。
葵姫が、この結婚を望んではいないのは明白。
しかし侍の結婚は家同士の結びつきが何よりも重要。
そこに葵姫の意志が、入り込む余地など微塵もない。
葵姫は笑わなくなった……あの小春日の暖かさのような純朴な笑顔を見せることは無くなった……
彼女は、心を閉ざすことで現実を受け入れようとしている。
俺が辛い現実から逃げだした後、新しい暮らしに希望を抱いている間も、彼女は苦しみ続けた。
そんな葵姫を救いたい。
笑顔をなくした彼女に、また笑って欲しい。
逃げ出したことへの贖罪なのだろうか。俺はその想いを抑えることができなくなっていた。
「メジロさん、結婚式の日取りを教えてください」
席を立とうとするメジロを引き留める。
「知って……どうする?」
メジロは、小柄な体で俺を見下ろし言う。
その目は、腐れ縁の忍術の師匠でもなく、兄の親友でもない。凄腕の忍の冷徹な視線に変わっていた。
「言うと、関係のない人間を巻き込むことになります」
メジロも俺がしようとすることに気づいているのだろう。だから、それ以上は聞こうとはしなかった。
「逃げ出した人間が、今さら……」
少し呆れた口調で言うメジロに、今は反論できない。だが、あの時逃げた人間だからこそ、ここでけじめをつけたい。俺自身は今、メジロのことを一人の優秀な忍者として見ている。だから彼女から必要な情報を聞き出そうとしていた。
「君には平和に暮らして欲しかったって気持ちに、嘘はなかったんだけどなぁ」
彼女は深くため息をつくと、数枚の紙を俺に差し出した。
「あげないぞ、ここで見て、記憶しろ」
そこには結婚式の日取り、そして辰起城内の地図などが書かれていた。
その内容を頭に叩き込んだ俺は、不敵な笑いを浮かべた。
「さすがは一流の忍ですね」
「変な勘ぐりはよせ。僕は仕事の資料を持っていただけだ」
メジロなりに、葵姫の境遇には思うところはあったのかもしれない。
そして何より、俺の中の心の迷いを見抜いていた。
だからこそ、鶴姫を裏切る真似をしてまで、馬鹿な弟子のために動いてくれたのか。
「それと君も忍の端くれなら、わかっているよね? どんな拷問にあっても、僕が君に情報を提供したことは、絶対に言うなよ。僕もせっかく手に入れた、白米を腹一杯食える生活を手放したくないんだからな」
「ありがとうございます、メジロさん」
「オオワシは大切なものを守るために戦い続け、そして死んでしまった。だから僕の口からは『戦え』なんて言えない」
メジロは最後に一枚だけ残してあった沢庵をバリバリとかじる。
「だからハヤテ……やばくなったら無理せずに逃げろよ」
最後の最後にメジロは、またいつものいたずらっぽく、そして優しい表情で俺に一言告げると、軽い身のこなしで店を後にした。
後に残った俺は、メジロの残した葛籠を見る。
その中身は見なくても分かる。
葛籠を受け取ったことで、俺と奈川城の縁は切れた。
ここから先は俺一人の戦い。
そして、その戦いに勝つためには、この葛籠の中身が必要だった。
「あ、ハヤテくん、いいところにきた」
夕方、俺が水汲みから帰ってくると、彩さんが屋台から顔を出した。
「どうしたんです?」
「女の子がね、蕎麦を食べた後も屋台から出て行かないの」
彼女は屋台に目配せをして、俺に耳打ちする。
「迷子ですか?」
「うーん、歳の割には落ち着いているけど、迷子なのかなぁ。可哀想だけど、いつまでもいられると、屋台も畳めないし。ハヤテくんが事情を聞いてみて」
「はいはい、子供の相手は得意ですから」
元々、里でも子供たちの遊び相手になっていたし、奈川城でも子供の様な上司を上手くあしらってきた。
その経験がこの屋台でも活かされ、俺の子供への接し方は、家族連れのお客さんから評判がいい。
もし迷子なら、役所に届けなければならない。侍と関わるのは嫌だが、子供のためだ。そこは大人になろう。
俺は屋台にちょこんと座っている女の子に声をかける。
「お嬢ちゃん、誰か待っているの?」
俺の問いかけに、女の子はクスッと笑った。
どこか悪戯っぽく、邪悪さを含んだ笑い。その笑い方で、俺の全身に緊張が走った。
「君のことを待ってたんだよ」
そう言って振り返ったメジロは、俺の驚いた顔を見て「にっ」と笑った。
***
日が沈みかけ、街が薄暗くなっていく中。
辰起城の大通りは、早くも提灯に火が灯り、昼の様な明るさと賑わいを見せていた。
俺は指定された『扇屋』に来ると、店の周囲を伺い始める。
向こうが指定した場所に、のこのこ現れるほど、俺も不用心ではない。
指定された場所は、ごく普通の大衆食堂。店の中にも外にも、怪しい人影は見当たらない。
そして店の中にはメジロの姿が見える。どうやら一人で俺を待っているようだ。
しかし、相手の意図がまだわからない状態。
俺は丸腰で来たことを、いまさら後悔した。
いざとなれば箸や丼など、武器になるものはあるだろう。
しかし、それでも一対一で戦って、メジロに勝てる自信もない。
「ええい、ままよ」
覚悟を決めて、縄暖簾をくぐる。
「おう、ハヤテ。来たか」
メジロは入ってすぐ正面の卓に陣取り、俺を見るなり人懐っこい笑顔を見せてきた。
緊張する俺とは正反対で、殺気などは微塵も感じさせない。
しかし相手は凄腕の忍。その笑顔に騙されてはいけない。
彼女の卓を見ると、大盛の白米。そしておかずは数切れの沢庵。
武器になりそうなものは、卓上にはない。
「どうした、座らんのか?」
距離を測りながら様子を見ていた俺にメジロが声をかける。
「じゃあ」
ここは素直に相手の言うことを聞くしかない。俺は彼女の正面に腰掛けた。
「ほれ」
座ると、彼女が一枚の紙を渡してきた。
「警戒するな馬鹿。この店の品書きだ」
メジロは呆れたように言う。
「君に危害を加えるつもりなら、先ほどの屋台でやっている。お、この沢庵もなかなか白米に合うな」
「で、今さら俺に何の用です?」
「だから言っただろ、久しぶりに顔を見に来ただけだって」
そう言ってメジロは悪戯っぽく笑った。まるで緊張している俺をからかうように。
「で、何を食う?」
品書きをひらひらさせながら、何か注文する様に促す。
「かけ蕎麦を一つ」
俺はメジロから視線を離さず、店の女将に蕎麦を頼んだ。
「あ、君、ひょっとして疑ってる? 僕のこと」
メジロは口直しの沢庵をかじりながら言う。
奈川城を出て二ヶ月余り、なんの音沙汰もなかった。
そのせいで、すっかり警戒心をなくし、蕎麦屋の店員としての平穏な日々を過ごしていた。
奈川城も忍の里も、俺のことなんか放置していると思い込んでいた。
だが、俺が奈川城を逃げ出したことには変わり無い。
メジロが俺の前に現れた真意を確認するまでは、とても警戒を解くことはできなかった。
「はいっ、蕎麦ね」
愛想のない女中が持ってきた蕎麦を一口啜る。
「ちっ」
「おい、そう怖い顔をするな」
舌打ちし、険しい顔になった俺を見て、メジロが思わず声を出す。
「蕎麦が不味かっただけですよ」
憮然と不機嫌の理由を言う。
蕎麦切りではあるが、麺の硬さと太さは不均等。そのせいで、茹で加減にばらつきがある。
さらに蕎麦粉をケチったのか、技術がないのか、小麦粉が八割の逆二八蕎麦。
蕎麦の風味もなければ、喉越しも悪い。
これならいっそ、蕎麦粉を練って蕎麦がきにして食ったほうがマシ。
さらにツユだ。
味噌が基調なのはうちの店と同じだが、そこには何の工夫もなく、ろくに出汁も取っていない。
まるで濃い味噌汁に蕎麦をぶち込んだだけのもの。
味噌汁に麺をぶち込めば蕎麦になると思っているのか?
酒で舌が鈍った客相手なら、この味さでも通じるのかもしれないが……蕎麦もずいぶん舐められたものだ。
「おい、ハヤテ。僕の話を聞いているか?」
一瞬だが、思考の全てが蕎麦の味に支配された。
メジロはその隙を見過ごすことなく、声をかける。
「最初に言っておくけどなぁ、今さら君を連れ戻すつもりもなければ、制裁を加える気もないぞ」
確かに俺をどうこうするつもりなら、いくらでも機会はあった。
「じゃあ、本当に俺に会いに?」
「もちろんだ。いまさら君を連れ戻してどうなる? 奈川城としては、逃げ出した奴をまた雇うことはない。里にしても、抜け忍を地の果てまで追いかける、なんて講談の世界だけだ。今のあの里にはそんな余力もないしな。ざまあない」
メジロは忌々しそうに最後の一言を吐き捨てる。
彼女が言うには、奈川城は俺がいなくなった後、別の使用人を雇っており特に困ったことはないらしい。
そして忍の里の長老たちにしても、里の調和を乱す目障りな存在の俺がいなくなって、むしろ助かっている。
俺がいなくなっても、奈川城も忍の里も困らない。
「もちろん、僕は君がいなくなって寂しいぞ」
とってつけたような言い方だが、これはメジロの本心だろう。
「よかったよ。君が幸せそうで」
メジロの言葉からは嘘は感じられない。
彼女は兄から俺のことを託されて以来、ずっと面倒を見てくれていた。
だから彼女が追手ではないとわかった今、後足で砂をかけるように奈川城を出て行ったことを、申し訳なく思いはじめた。
「すみません、メジロさんには迷惑をかけました」
俺が素直に謝ったので、彼女は「ニッ」と笑うと、白米をおかわりする。
「ようやく、世間話ができる雰囲気になったな」
メジロは白いご飯のお代わりを頬張りながら、話を続けた。
「けど、君も隅に置けないねぇ、あんな美人と一緒にいるなんて」
「そ、そんなんじゃありません。まだ……」
俺が言葉を濁したのを、彼女はニヤついて見ている。
こういった意地の悪さは、久しぶりに会っても変わっていない。
「今日は来て良かった。君が忍を辞め、蕎麦屋として幸せそうに暮らしている。オオワシも天国で喜んでいると思うよ」
メジロの兄への純粋な友情は、俺の警戒心を解きほぐして行った。
同時にメジロへの警戒がなくなるにつれ、俺の心には過去への心残りが首をもたげてくる。
俺の唯一の心残り……。
しかし、メジロはこちらの気持ちを見抜いているのか、あえてその話題を出そうとはしない。
新しい生き方を歩もうとしている俺への、彼女なりの気遣いなのだろうか。
だが身勝手だと分かっているが、今はその彼女の気遣いがまどろっこしかった。
「どうした、蕎麦が伸びるぞ?」
自分の未練に、今ここで向かい合わなければいけない。
さもなければ、二度と自分の心へのけじめをつける機会をなくしてしまう。そんなふうに思えた。
「ま、葵姫はお元気ですか……」
歯切れの悪い口調。
だが、この一言を言うために、ありったけの勇気を振り絞った。
一度逃げ出した人間が、今さら彼女のことを心配することへの罪悪感。
そして、事実を知ったことで自分には、何も出来ないであろう無力感。
しかし葵姫のことを、聞かずにはいられない。
俺の心の重い扉が、ゆっくりと開いたのを確認したメジロは、ふぅ〜と大きなため息をつく。
そして急に真顔になり、静かな口調で話し始める。
「僕が辰起城に仕事に来ていると言っただろ。それは姫様の結婚の準備のため。誰も天下人様の顔を潰す真似なんかできないから、当人同士の意思は無視して、結婚準備はとんとん拍子だ」
「そうですか……」
俺は力なく返事をする。俺が思った通り、天下人がお膳立てした見合いを、誰も断れるわけがない。
だが俺には、結婚の段取りの進み具合など、どうでもよかった。
知りたかったのはただ一つ。
葵姫は幸せなのか?
メジロの説明に納得いかない表情をしていたのだろう。彼女は少し呆れたように鼻で笑う。
「今さら気にしてどうする?」
「………」
俺の気持ちを見透かしたような意地の悪い言い方。
だが、今は彼女の言葉を否定できるだけのものがなかった。
「あの姫様、お前がいなくなってから、笑うことなくなったぞ」
メジロはあえて、核心に切り込んできた。
それは一番知りたいことであり、同時に聞きたくない現実だった。
「まあ、好きでもない男と結婚するんだ、しょうがない。けど侍の家に生まれて、城の姫様として生きるってのは、そう言うことだ。僕やハヤテとは、生まれも背負っているものも違う。気軽に逃げ出すにはわけにはいかないんだ」
そう言ってメジロは俺を見た。罪悪感のせいか、彼女に責められている思いがする。
「僕は君が勝ち目のない現実から逃げることを否定していないし、むしろ新しい生活を始めているのを祝福している」
しかし未練がましく優柔不断な俺は、いまだに現実を受け入れ、新しい未来を見ることが出来ないでいる。
葵姫のあの笑顔。
穏やかで、無邪気で、そしてどこか抜けているところもある。
家族を無くし、故郷を亡くした俺が、心壊さずに過ごせてきたのは、その笑顔に癒されていたからだ。
それが失われたことを聞き、俺の胸に喩えようもない空洞ができる。
やはり彼女の存在は、俺にとっては過去のものではない。
「……」
店内の喧騒の中、二人の間には沈黙が流れた。
「さて、久しぶりに馬鹿な弟子の顔を見たし、親友との約束も果たせたみたいたし、帰るか」
沈黙を打ち破るようにメジロは言うと、彼女は持ってきた大きな葛籠を俺に渡した。
見覚えのあるそれは、奈川城で俺が使っていた物だ。
「この葛籠な、君の忘れ物。もう奈川城には君の居場所はないからね。邪魔だから持って帰るか、捨てておくか……」
俺に黙って考える間をメジロは与えてくれなかった。まるで俺の気持ちを試すように、冷たく言い放つ。
「ちゃんと自分で決めてくれ」
そう、俺は自分でこの先の生き方を決めなければいけない。
葵姫が、この結婚を望んではいないのは明白。
しかし侍の結婚は家同士の結びつきが何よりも重要。
そこに葵姫の意志が、入り込む余地など微塵もない。
葵姫は笑わなくなった……あの小春日の暖かさのような純朴な笑顔を見せることは無くなった……
彼女は、心を閉ざすことで現実を受け入れようとしている。
俺が辛い現実から逃げだした後、新しい暮らしに希望を抱いている間も、彼女は苦しみ続けた。
そんな葵姫を救いたい。
笑顔をなくした彼女に、また笑って欲しい。
逃げ出したことへの贖罪なのだろうか。俺はその想いを抑えることができなくなっていた。
「メジロさん、結婚式の日取りを教えてください」
席を立とうとするメジロを引き留める。
「知って……どうする?」
メジロは、小柄な体で俺を見下ろし言う。
その目は、腐れ縁の忍術の師匠でもなく、兄の親友でもない。凄腕の忍の冷徹な視線に変わっていた。
「言うと、関係のない人間を巻き込むことになります」
メジロも俺がしようとすることに気づいているのだろう。だから、それ以上は聞こうとはしなかった。
「逃げ出した人間が、今さら……」
少し呆れた口調で言うメジロに、今は反論できない。だが、あの時逃げた人間だからこそ、ここでけじめをつけたい。俺自身は今、メジロのことを一人の優秀な忍者として見ている。だから彼女から必要な情報を聞き出そうとしていた。
「君には平和に暮らして欲しかったって気持ちに、嘘はなかったんだけどなぁ」
彼女は深くため息をつくと、数枚の紙を俺に差し出した。
「あげないぞ、ここで見て、記憶しろ」
そこには結婚式の日取り、そして辰起城内の地図などが書かれていた。
その内容を頭に叩き込んだ俺は、不敵な笑いを浮かべた。
「さすがは一流の忍ですね」
「変な勘ぐりはよせ。僕は仕事の資料を持っていただけだ」
メジロなりに、葵姫の境遇には思うところはあったのかもしれない。
そして何より、俺の中の心の迷いを見抜いていた。
だからこそ、鶴姫を裏切る真似をしてまで、馬鹿な弟子のために動いてくれたのか。
「それと君も忍の端くれなら、わかっているよね? どんな拷問にあっても、僕が君に情報を提供したことは、絶対に言うなよ。僕もせっかく手に入れた、白米を腹一杯食える生活を手放したくないんだからな」
「ありがとうございます、メジロさん」
「オオワシは大切なものを守るために戦い続け、そして死んでしまった。だから僕の口からは『戦え』なんて言えない」
メジロは最後に一枚だけ残してあった沢庵をバリバリとかじる。
「だからハヤテ……やばくなったら無理せずに逃げろよ」
最後の最後にメジロは、またいつものいたずらっぽく、そして優しい表情で俺に一言告げると、軽い身のこなしで店を後にした。
後に残った俺は、メジロの残した葛籠を見る。
その中身は見なくても分かる。
葛籠を受け取ったことで、俺と奈川城の縁は切れた。
ここから先は俺一人の戦い。
そして、その戦いに勝つためには、この葛籠の中身が必要だった。


