その晩、いつものように物置の中二階で横になっていた。

 初めて知った彩さんの過去。
 いつも明るく、頑張り屋で、そしてしっかり者……。
 俺は彩さんのそんな一面しか見てきてなかった。
 始めて見せた彼女の切なげな表情が心を締め付ける。
 どこかで見た光景。
 俺は、その切なさを消し去ってあげることが出来るのだろうか。
「彩さんは、多分大丈夫」
 俺の勘がそう告げる。
 ずっと一人で頑張り続けてきた芯の強さ。それは俺がいても、いなくても折れることはない。
 今の俺ができることは、彼女の夢を支えてあげることだ。
「このまま屋台が上手く行けば、きっと夢を叶えられる」
 大通りに蕎麦屋を構えると言う彩さんの夢。
 そこまでたどり着いた時、俺はどうするのか。
 そのまま、彩さんと人生を共にするのか?
 自問してみるが、彩さんの成功の横に、自分の存在を思い浮かべることは出来なかった。

 そんなことを考えていると、入り口を軽く小突く音がした。
 どうやら俺も平和な生活の中、忍の勘は鈍ってしまったようだ。
 彩さんが知らせるまで、彼女が入り口に立っていることに気づけなかった。
「どうしたんです、こんな夜に?」
 彩さんが夜に俺を訪ねるのは、初めてのこと。
 年頃の男女がうまくやっていくためには、この辺りの分別は重要だと、夜はお互い水車小屋と物置で行き来することはなかった。
 中二階から飛び降り、彩さんの前にくると、彼女が不安げな表情をしているのが分かった。
「助けて……」
 その一言で臨戦態勢となる。
 不審者がいたのか? それとも熊や狼の類か?
 壁にかかっている薪割り用のナタに目をやった。いざとなれば、刃物が一本あるとないで、全然戦闘力は違ってくる。
 俺が敵の存在を聞き出そうとする前に、彩さんが口を開いた。
「へ、蛇が……」
「へ?」
「母屋に白い蛇が入り込んだの!」
 顔を青くして訴えてくる彩さんとは対照的に、俺の身体から力が抜けていく。
 そういえば彼女は蛇が苦手だった。
 一度だけ、青大将を見かけた時には、日頃の彼女からは想像できないような悲鳴をあげ、しばらく震えていた。
 毒もない大人しい蛇だから平気だと言っても、苦手なものは苦手と頑なに蛇の顔を見ようとしなかった。
 それを知っているので、彩さんのために、眠い目を擦って水車小屋に行くことにした。

 ***
 
 さて蛇の気配は……。
 夜目を駆使しながら、部屋の中を探すが蛇の気配はない。
 そういえば蛇の種類はわかっていないが、彩さんにそこまで確認させるのは酷なこと。
 もしマムシなら、焼酎漬けにすればいい金額で売れる。もっともこの家にマムシを置いておくのを、彼女が許可してくれるとは思わないが。
 そんなことを考えながら、蛇を探していると、不意に俺の背中に柔らかい感触が当たった。
 そして俺の首元に、蛇のように絡みつく感触が……。
「あ、彩さん……」
 後ろから抱きついてきた彼女に向かって、俺は戸惑いの声をあげる。
「このまま、一緒に布団に行かない?」
 耳元に彼女の熱い息が吹きかかった。
 初めて経験する女性の胸の柔らかさに、俺の心はかき乱されながらも、なんとか平静を保とうとする。
「へ、蛇がまだ見つからなくて」
「そんなのいないよ。あなたに来てもらうための……嘘」
 言い訳のような俺の言葉を遮り、彩さんはささやく。

 それは今まで聞いたことのない、妖艶な声だった。
 彼女は俺を布団の方に押し出そうと、体をさらに密着させてくる。
 俺の心臓の鼓動が早くなった。
 彼女に身を委ねて布団に入ればどうなるかは、俺にも想像ぐらいできる。
 このまま彼女の誘いを受け入れて、ここで生きていくことに、どんな不都合があるのか。
 この一ヶ月で、彼女に心を惹かれていることは自覚していた。
 だからこそ二人の関係が壊れないように、彩さんを支える存在でいようとした。
 近すぎる距離そして強い想いはお互いの関係を壊してしまう。
 彩さんが俺に向けてくれた笑顔は、相棒としてなのか、一人の男としてなのか、経験不足の俺には判断できないでいた。
 だから、俺が彩さんを好きだという気持ちに、素直に向き合ってこなかった……。
 それがまさか、彼女の方から誘ってくるとは、思っても見なかった。

 だが今、彼女は俺を受け入れようとしてくれている。
 だったら今ここで、彼女に身を任せれば、自分の心の壁を乗り越えることが出来るのでは。
 俺は感情に流されるまま、彼女の手に触れようとした……。
「クスッ」
 年上の余裕なのか。
 俺の焦りを見透かしたように彩さんは笑い、ぎこちない手の動きを見守ってくれた。
「やり方わからなかったら、教えてあげるから」
 戸惑い硬直した心を解きほぐすように、彼女は優しく言った。
 そんな彼女の口元から、薄荷のような涼しげな香りが漏れた。
 俺の知っている香とは違う匂い……。

 その瞬間、脳裏に別の女性の顔が浮かんだ。
 
 俺は慌てて彩さんの体を離した。
 先ほど密着した時に感じた、彼女の温もり、そして柔らかさが消えてゆく。
「俺にはまだ、彩さんの気持ちを受け入れることはできません」
 彼女の顔を直視できない。かろうじて言葉にできた一言が本心だった。
 俺には、まだ別の女性への想いが残っている……。
 心の中から過去を消し去るには、まだ時間が足りなかった。
 そんな浮ついた状態で、彩さんを受け入れるわけにはいかない。それは彼女の想いを踏みにじることになる。
 さまざまな想いが交錯する中、俺はどうしていいか、わからないまま顔を上げた。
 行燈の薄明かりの中、彩さんは菩薩のような微笑みを向けてくれている。
 彼女は俺の心の迷いを、優しく見つめてくれていた。
 今はその優しさに甘えるしかない。
 俺の中の未練は、いつまで燻っているのだろうか。
 だけど、それも時間が解決してくれる。
 ただ、そう思うことしかできなかった。

「はい、はい。朝だよ、仕込みの時間だよ」
 翌朝、彩さんは昨晩のことは何もなかったように、俺を起こしに来た。
「えっと、彩さん……」
 気まずい表情で起きてき、何か言おうとするが、彩さんはそれとなくそれを制止した。
「言いたいことは色々あるだろうけど、今はまず商売の準備」
 年上の女性ゆえの気遣いなんだろう。
 あえて昨日の事に触れないでいてくれるのは、正直ありがたかった。

 彩さん自身も、過去のことをずっと引きずっていた。
 そして俺もいまだに自分の過去に囚われている。
 けど過去は過去。
 俺が未来に向けて進んでいけば、過去の記憶はいずれ風化して消えていくだろう。
「そうですね、水車も直ったし、頑張って稼ぎましょう」
「そうこなくちゃ!」
 昨日のことを振り切るように、俺たちは明るく声をあげると、
 お互いの目を見つめ合った。そう、今は未来を見て歩いていけばいい。
 そうすれば、少しずつ二人の距離は、適正なものに縮まってゆくだろう。

 ***

 俺と彩さんは変わらず、力を合わせて蕎麦屋を営んでいた。
 ただあの夜の出来事は、それぞれの生き方に少しの変化をもたらすことになった。
「よし! 彩さん、味見をしてください」
 俺の変化、それは自分も蕎麦を打ち始めたことだった。
 今までは、彩さんの下での雑用や力仕事をこなし、あくまでも頑張る彼女を支える立場を崩さなかった。
 けど俺の中に、単なる手伝いに終わりたくない。俺自身も蕎麦を打ち、彼女と切磋琢磨して行きたい。
 そんな想いが芽生え始め始めていた。
「うん、なかなか、いい感じ。ただ、お客さんに出すには、まだまだかな」
 いつもは優しい彩さんだが、蕎麦に関して妥協はなかった。
 彩さんが打つ蕎麦は蕎麦粉のみで作る十割蕎麦。
 これは蕎麦の風味を最大限に活かすことができるが、喉越しのいい麺を打つためには技術が必要だった。
 一方で、俺が打つのは小麦粉のつなぎを使った二八蕎麦。
 香りの強さは劣るが、俺の技術でも喉越しが良く癖のない麺をなんとか打てる。
 が、なかなか彩さんが納得できる出来には程遠い。

「二八は二八で、奥が深いのよ」
 けど俺が凹みながらも努力している姿を、彩さんは満足そうに見守っていてくれた。
「いずれは、彩さんの様に、つなぎを使わず美味い蕎麦を打てるようになりたいです」
「時間はあるからね、頑張って!」
 こんなに精進するのは、久しぶりだった。
 昔は立派な忍になりたくて、懸命に努力した。
 けどそれが無意味と知り、奈川城では、ほどほどの日々を過ごしていた。
 できない壁を乗り越えようとはせず、今ある現状を維持するための鍛錬。

 そこからも逃げ出した俺が、彩さんに出会うことで思い出した、失敗を積み重ねる日々。
 今の俺は蕎麦の道に突き進むことで、過去を振り払おうとしていた。
「あたしも、負けちゃいられないな」
 そう言った彩さんには、あの夜の妖艶さはなく、穏やかで頼もしげな表情をしていた。