俺はなぜ、今もここで寝ているのか……
外で回る水車の音を聞きながら、自問自答していた。
彩さんの家の離れの倉庫の中二階、そこにムシロを敷いて寝る生活。
「今頃は、西の都で商売を始めているはずなのだが」
しかし今の俺は、辰起城の城下町でこうやって一ヶ月を過ごしている。
あの時……水車小屋を出ようとした俺を、彩さんは引き止めた。
「あのね、昼間に絡んできたあの連中、この城下でも札付きの輩なの。お願い! 二、三日でいいから、うちの屋台で用心棒をやって」
「いや、俺は用心棒できるほど、強くないですよ」
「強いだけじゃ駄目。優しい人じゃないと、あたしが安心できないの」
確かにあの屋台に俺の姿があれば、その間、奴らは手を出し辛いだろう。
子供相手に三人がかりで報復したとなれば、侍のメンツが丸潰れだし、何よりも酔っていたとはいえ子供に喧嘩で負けたことが知られてしまう。
「屋台を始めて、ようやくあそこの場所でなじみ客ができ始めたの。ここで他所に逃げたら、今まで頑張って来たことが全て無駄になる……」
彩さんの蕎麦にかける思い、そして困難から逃げない芯の強さ。
この人は俺とは違う人だ。
嫌なことがあれば、逃げることを繰り返して来た俺。
それはそれで一つの生き方だし、自分にはその生き方が合っていると思う。
ただ俺は、自分とは違う生き方をする彩さんに手を貸したくなっていた。
「二、三日なら……」
そんな思いで、俺は彼女の申し出を受け入れた。
その後、三本刀は彩さんの屋台に近づくことはなかった。
一度だけ、三人で酔っ払いながら通りを歩いていたが、屋台からは距離をとり、関わらないように歩いて行った。
ムカつく連中だが、こちらからわざわざ喧嘩を仕掛けることもない。
そして約束の三日が過ぎた時、俺はようやく重い腰を上げ、西の都に旅立とうとした。
念の為、彼女がくれた皮袋の中を確認すると、本物の銭がきちんと入っている。
つい人を疑う悪い癖が出た。
もらった銭は次の街を目指す路銀には十分な額があった。
気立が良いだけでなく、気風もいい彩さんに好感を持ちつつ、礼を述べて旅立とうとした時。
「これからも、うちで働かない?」
彩さんはそう提案してきた。
どうやら、俺の働きぶりが気に入ったらしい。
用心棒と雇われたが、三本刀の報復もなく、何もしないでいると居心地も悪く、結局この三日間、蕎麦屋の手伝いとして走り回っていた。
放任主義のメジロの下では仕事はサボり放題だった。
一方、蕎麦屋の仕事は煩雑で、彩さんから矢継ぎ早に用事が言いつけられサボる暇はない。
だが俺はそれを的確にこなし、この三日間で用心棒ではなく、蕎麦屋の店員として評価されるようになっていた。
「ハヤテくん、よく働いてくれるから。特に、力仕事を任せられるのは助かる」
屋台担ぎ、水汲み、そして問屋からの蕎麦の実の仕入れなど。今まで女手一つでやってきた彩さんにとって、重労働を任せられる俺の存在は重宝するのだろう。
「お願い、もうハヤテくんがいないと、あたし……」
少し困ったような顔で、訴えてくる彩さん。
確かにこの三日間、楽しかった。そして彩さんの作る賄い飯も美味かった。
仕事に打ち込み、仕事ぶりを評価され、そして彼女の蕎麦の味に満足して帰る客の姿を見送る。
奈川城を出て一度は諦めようと思った平穏で温かい日常が、こんなところで再び手に入るとは思っていなかった。
目の前でにこやかに俺の返事を待つ彩さんは、少し前まで荒んでいた心を、お日様のように照らしてくれた。
ここでならお日様の元、のんびり暮らしてけるんじゃないか。そう思った俺の返事は……。
「蕎麦屋も楽しいもんですね」
そう言って、彩さんに微笑み返す。
実際に俺が楽しいのは蕎麦屋の仕事ではなく、彼女と一緒に働くことなのだろう。
つい先日まで持っていた立身出世の野望はどうでも良くなっている。
あれは奈川城を逃げ出した自分への言い訳だったのだろう。
元々、のんびりと働くのが、俺の性に合っているのだ。
無理な生き方をすれば、いずれ足下を掬われる。
だから俺は、ここで自分らしく生きていくために、彩さんの申し出を受け入れた。
***
「これに懲りて、うちの店主に付き纏わないでくださいね」
訳もわからぬまま、地面に転がされた侍相手に、俺はできるだけ穏やかに忠告した。
この一ヶ月で、彩さんの屋台の評判は少しずつ広まっていった。
気立ての良い美人が、美味い蕎麦を出す。最初はその評判を聞きつけ、多くの男たちがやって来た。
その中には、タチの悪い奴もいる。
彩さんを口説く酔客などは、俺が屋台から連れ出して、極々穏やかにお引き取り願った。
そう言った連中の中には、今みたいに侍も何人かいた。
しかし辰起城の侍は思いのほか弱かった。
あの黒兎と名乗った婆さんでも、辰起城なら簡単に忍び込めるんじゃないか。などと思うぐらい、この街の侍は弱く、だらしない。
もっとも侍も、銭を払い客としての礼節を守ってくれれば、大切なお客さんと扱うぐらいには、俺も商売人としての気持ちの使い分けができるようになっていた。
そんな営業を繰り返しているうちに、柄の悪い客は次第に減っていき、代わりに純粋に美味い蕎麦を食いたい客や、家族連れなどが来るようになる。
おかげで客数だけでなく、客層もどんどん良くなっていき、彩さんもこの店の蕎麦を喜んでくるお客さんのために日々、仕事に励んでいた。
「う〜ん、今日もお蕎麦、無事完売」
夕暮れ前に一日分の蕎麦を売り切り、彩さんは背筋を伸ばしながら言う。
「お疲れ様〜」
テキパキと屋台の片付けをこなしながら、彩さんに声をかける。
彼女一人の時は体力の関係で、小さな担ぎ屋台で少量の蕎麦しか提供できなかった。
今は、俺が力仕事を引き受けることで、以前より多くの蕎麦を提供できるようになっている。
それに伴って売り上げも伸び、俺も彩さんも少しずつ屋台が成功していくのを実感していた。
「もうちょっとお金が貯まったら、大八車で引く屋台、買おうかっ」
「そうすれば釜の数も増やせますし、お客さんに提供できる蕎麦の量も、もっと増えますね」
「もっと蕎麦を売って、お金を貯めて……。そしたら屋台じゃなくって、自分のお店、持ちたいなぁ」
「大丈夫ですよ、彩さんの蕎麦、評判いいですもん」
「うん、いつかは……二人で店を持とうね」
ニコッと笑う彼女の笑顔。
なんの目的も持たず生きていた俺には、目を輝かせて目標を語る彩さんの笑顔が眩しく映る。
この街に足を踏み入れた時は漠然と金持ちを目指していた。
だが、こうやって彩さんとの商売を経て、改めて地道に生きる大切さを知った。
彼女の夢を支えてあげたい。
俺はいつの間にか、彼女の側に寄り添うことに生きがいを感じ始めていた。
だけど不思議なことに、俺が彼女と手を取り生きてゆく姿は、今はまだ想像できなかった。
「むむう」
ある朝、眼を覚ますと、彩さんが珍しく眉をしかめていた。
その目の前には、不規則な速度で回る石臼がある。
「どうしたんですか彩さん?」
「見てハヤテ君」
彼女は挽き終わった蕎麦粉を掌に乗せ、俺の目の前に突き出してみせる。いつものに比べて、粒が荒く不揃いな蕎麦粉だった。
「この蕎麦粉、うまく挽けてませんねぇ」
「それがねぇ、朝起きたら水車が壊れていたみたい。これじゃあ、喉越しの良い蕎麦は打てないのよねぇ」
彩さんは、石臼を水車から切り離し、自分の手で臼を回し始めた。
「は〜、あの水車、どこか壊れたのかなぁ。大工に修理を頼んだら、蕎麦何杯分の売り上げが飛ぶやら」
彼女には自分の店を持つという夢がる。
だから、できるだけ出費は抑えたい。
だが、肝心の蕎麦の出来に関わることに、銭をケチるわけにはいかない。
「だったら俺が水車、修理してみましょうか」
そう提案すると、落ち込んでいた彩さんの表情が、きらりと明るくなる。
「え、助かる! さすがハヤテ君、すごーい、なんでもできるのね」
結局、今日は彩さんが手で挽いた分だけ蕎麦を出すことになった。
手挽きではいつもより作れる蕎麦の数は少なめ。
そのため蕎麦は早々に売り切れて、彩さんは昼過ぎには帰ってきた。
「やほ〜ハヤテくん、水車は直った?」
彩さんは屋台を置くなり、迎えに出た俺に尋ねた。
俺が直し終わっていることを疑わない、期待に満ちた真っ直ぐな目。
「もちろん、ちゃんと修理しておきました」
「さすがっ!」
「まあ、昔から手先は器用な方でしたから」
誇らしげに答える。どこかでもあった、こんなやりとり。
俺の働きを喜んでくれる人がいる。そんな毎日が楽しかった。
「見てください、この石臼の動き」
彩さんが試しに蕎麦の実を石臼に入れると、細かく均等な粉が挽き上がった。
「うん、これこれ」
出来上がった蕎麦粉を見て香りを確認すると、嬉しそうに呟く。
そんな笑顔を見ていると、俺はもっと彼女に褒めてもらいたくなり、彩さんを水車の方へ連れ出した。
「見てください、この板が外れたんですよ」
そう言って接合部が折れて外れていた水板を見せる。
これが外れていたせいで、水車の回転が不規則になっていた訳だ。
「ハヤテくん、本当になんでもできるのね。もともとは大工の見習いだったの?」
彼女の言葉を、俺は軽く笑って受け流す。
その時の彩さんの目が、どこか遠くを見ているように感じたのは、俺の過去を気にしているせいなのか。
そういえば出会って一ヶ月が経つが、彩さんには俺の身の上はほとんど話してはいない。
もちろん忍の出であることも隠している。
さすがに何も話さないのは怪しいので「職人の見習いだったが、親方とそりが合わずに逃げ出した」とだけ言ってはある。
俺の体力と手先が器用さを、それで納得したのか、彼女もそれ以上は過去を詮索しようとはしなかった。
余計な詮索をしないで距離を保つ。そのほうがお互いに傷もつかず、心地よい時間を過ごしていける。
もう、人と近づこうとして傷つくのは、ごめん被りたかった。
「そういえば、この水車を作った大工、大吾って人みたいですね」
水車を直している時に見つけた、外輪に彫られていた名前。
動いている状態では見落としてしまう大きさだが、おそらく、この水車を作った大工の銘であろう。
単なる世間話で、この事を言ったのだが、それを聞いた彩さんは珍しく動揺した。
「どうしたんです? 彩さん」
少しの間を置いて、彩さんはポツりと言う。
「その人……あたしの許嫁」
彼女は水車に近づき、外輪に彫ってある大吾の名前を触った。
触れた彼女の指の間から、水車から溢れた水が流れ、掘られていた名前は水車の動きに従って、スッと彩さんの手を離れていく。
「二人でね、蕎麦屋をやろうって約束してたの。水車小屋を作ったのも、屋台を作ったのも腕の良い大工だった彼」
俺が自分の過去を話さなかったように、俺も彼女の過去を知ろうとはしなかった。
初めて知る彩さんの過去。
それを聞いても、俺は彼女になんと声をかけていいのか分からない。
「あたしが作る蕎麦の味はね、彼の好みの味なんだ。だからあたしは、あの味をずっと守り続けてる」
彩さんが作る味噌風味の蕎麦は、多くの人に人気だ。
けど中には、味が薄いだの、味噌でなく煎り酒を使えだの、中には天ぷらを乗せろだの、要らぬ忠告をしてくる奴らもいた。
けど彼女は頑なに蕎麦の味を変えなかった。
そのこだわりの理由が、今ようやく分かった。
「店を始めるには、銭が必要だ。兵になって大きな合戦で手柄を立てて、たっぷりの報償金をもらってくる。そしたら大通りで一緒に蕎麦屋をやろうって……。馬鹿だよね、ノコギリやカンナは使えても、弓や槍は持ったことないのに……」
彩さんは俺に微笑んで見せた。
それはいつも見せる屈託のない太陽のような笑顔でなく、どこか憂いをひめた笑顔。
彩さんにもこんな一面があったのか……。
彼女の表情に、胸が締め付けられる思いがした。
「もう、待ってるの、疲れたかな……」
いくさが終わって一年。
俺が奈川城で過ごした時間と同じ間、彩さんはずっと許嫁が帰ってくるのを待っていた。
帰ってきたら二人で新たな人生を踏み出すために、彼の好きだった蕎麦の味を守り続けて。
「ごめんね、せっかくハヤテくんが直してくれたのに、湿っぽい話をして」
そう言って、彼女は過去を振り払うよう顔を動かすと、またいつもの笑顔を俺に向けてくれた。
しかし、隠しきれない彼女の憂いが、俺の心に引っかかった。
外で回る水車の音を聞きながら、自問自答していた。
彩さんの家の離れの倉庫の中二階、そこにムシロを敷いて寝る生活。
「今頃は、西の都で商売を始めているはずなのだが」
しかし今の俺は、辰起城の城下町でこうやって一ヶ月を過ごしている。
あの時……水車小屋を出ようとした俺を、彩さんは引き止めた。
「あのね、昼間に絡んできたあの連中、この城下でも札付きの輩なの。お願い! 二、三日でいいから、うちの屋台で用心棒をやって」
「いや、俺は用心棒できるほど、強くないですよ」
「強いだけじゃ駄目。優しい人じゃないと、あたしが安心できないの」
確かにあの屋台に俺の姿があれば、その間、奴らは手を出し辛いだろう。
子供相手に三人がかりで報復したとなれば、侍のメンツが丸潰れだし、何よりも酔っていたとはいえ子供に喧嘩で負けたことが知られてしまう。
「屋台を始めて、ようやくあそこの場所でなじみ客ができ始めたの。ここで他所に逃げたら、今まで頑張って来たことが全て無駄になる……」
彩さんの蕎麦にかける思い、そして困難から逃げない芯の強さ。
この人は俺とは違う人だ。
嫌なことがあれば、逃げることを繰り返して来た俺。
それはそれで一つの生き方だし、自分にはその生き方が合っていると思う。
ただ俺は、自分とは違う生き方をする彩さんに手を貸したくなっていた。
「二、三日なら……」
そんな思いで、俺は彼女の申し出を受け入れた。
その後、三本刀は彩さんの屋台に近づくことはなかった。
一度だけ、三人で酔っ払いながら通りを歩いていたが、屋台からは距離をとり、関わらないように歩いて行った。
ムカつく連中だが、こちらからわざわざ喧嘩を仕掛けることもない。
そして約束の三日が過ぎた時、俺はようやく重い腰を上げ、西の都に旅立とうとした。
念の為、彼女がくれた皮袋の中を確認すると、本物の銭がきちんと入っている。
つい人を疑う悪い癖が出た。
もらった銭は次の街を目指す路銀には十分な額があった。
気立が良いだけでなく、気風もいい彩さんに好感を持ちつつ、礼を述べて旅立とうとした時。
「これからも、うちで働かない?」
彩さんはそう提案してきた。
どうやら、俺の働きぶりが気に入ったらしい。
用心棒と雇われたが、三本刀の報復もなく、何もしないでいると居心地も悪く、結局この三日間、蕎麦屋の手伝いとして走り回っていた。
放任主義のメジロの下では仕事はサボり放題だった。
一方、蕎麦屋の仕事は煩雑で、彩さんから矢継ぎ早に用事が言いつけられサボる暇はない。
だが俺はそれを的確にこなし、この三日間で用心棒ではなく、蕎麦屋の店員として評価されるようになっていた。
「ハヤテくん、よく働いてくれるから。特に、力仕事を任せられるのは助かる」
屋台担ぎ、水汲み、そして問屋からの蕎麦の実の仕入れなど。今まで女手一つでやってきた彩さんにとって、重労働を任せられる俺の存在は重宝するのだろう。
「お願い、もうハヤテくんがいないと、あたし……」
少し困ったような顔で、訴えてくる彩さん。
確かにこの三日間、楽しかった。そして彩さんの作る賄い飯も美味かった。
仕事に打ち込み、仕事ぶりを評価され、そして彼女の蕎麦の味に満足して帰る客の姿を見送る。
奈川城を出て一度は諦めようと思った平穏で温かい日常が、こんなところで再び手に入るとは思っていなかった。
目の前でにこやかに俺の返事を待つ彩さんは、少し前まで荒んでいた心を、お日様のように照らしてくれた。
ここでならお日様の元、のんびり暮らしてけるんじゃないか。そう思った俺の返事は……。
「蕎麦屋も楽しいもんですね」
そう言って、彩さんに微笑み返す。
実際に俺が楽しいのは蕎麦屋の仕事ではなく、彼女と一緒に働くことなのだろう。
つい先日まで持っていた立身出世の野望はどうでも良くなっている。
あれは奈川城を逃げ出した自分への言い訳だったのだろう。
元々、のんびりと働くのが、俺の性に合っているのだ。
無理な生き方をすれば、いずれ足下を掬われる。
だから俺は、ここで自分らしく生きていくために、彩さんの申し出を受け入れた。
***
「これに懲りて、うちの店主に付き纏わないでくださいね」
訳もわからぬまま、地面に転がされた侍相手に、俺はできるだけ穏やかに忠告した。
この一ヶ月で、彩さんの屋台の評判は少しずつ広まっていった。
気立ての良い美人が、美味い蕎麦を出す。最初はその評判を聞きつけ、多くの男たちがやって来た。
その中には、タチの悪い奴もいる。
彩さんを口説く酔客などは、俺が屋台から連れ出して、極々穏やかにお引き取り願った。
そう言った連中の中には、今みたいに侍も何人かいた。
しかし辰起城の侍は思いのほか弱かった。
あの黒兎と名乗った婆さんでも、辰起城なら簡単に忍び込めるんじゃないか。などと思うぐらい、この街の侍は弱く、だらしない。
もっとも侍も、銭を払い客としての礼節を守ってくれれば、大切なお客さんと扱うぐらいには、俺も商売人としての気持ちの使い分けができるようになっていた。
そんな営業を繰り返しているうちに、柄の悪い客は次第に減っていき、代わりに純粋に美味い蕎麦を食いたい客や、家族連れなどが来るようになる。
おかげで客数だけでなく、客層もどんどん良くなっていき、彩さんもこの店の蕎麦を喜んでくるお客さんのために日々、仕事に励んでいた。
「う〜ん、今日もお蕎麦、無事完売」
夕暮れ前に一日分の蕎麦を売り切り、彩さんは背筋を伸ばしながら言う。
「お疲れ様〜」
テキパキと屋台の片付けをこなしながら、彩さんに声をかける。
彼女一人の時は体力の関係で、小さな担ぎ屋台で少量の蕎麦しか提供できなかった。
今は、俺が力仕事を引き受けることで、以前より多くの蕎麦を提供できるようになっている。
それに伴って売り上げも伸び、俺も彩さんも少しずつ屋台が成功していくのを実感していた。
「もうちょっとお金が貯まったら、大八車で引く屋台、買おうかっ」
「そうすれば釜の数も増やせますし、お客さんに提供できる蕎麦の量も、もっと増えますね」
「もっと蕎麦を売って、お金を貯めて……。そしたら屋台じゃなくって、自分のお店、持ちたいなぁ」
「大丈夫ですよ、彩さんの蕎麦、評判いいですもん」
「うん、いつかは……二人で店を持とうね」
ニコッと笑う彼女の笑顔。
なんの目的も持たず生きていた俺には、目を輝かせて目標を語る彩さんの笑顔が眩しく映る。
この街に足を踏み入れた時は漠然と金持ちを目指していた。
だが、こうやって彩さんとの商売を経て、改めて地道に生きる大切さを知った。
彼女の夢を支えてあげたい。
俺はいつの間にか、彼女の側に寄り添うことに生きがいを感じ始めていた。
だけど不思議なことに、俺が彼女と手を取り生きてゆく姿は、今はまだ想像できなかった。
「むむう」
ある朝、眼を覚ますと、彩さんが珍しく眉をしかめていた。
その目の前には、不規則な速度で回る石臼がある。
「どうしたんですか彩さん?」
「見てハヤテ君」
彼女は挽き終わった蕎麦粉を掌に乗せ、俺の目の前に突き出してみせる。いつものに比べて、粒が荒く不揃いな蕎麦粉だった。
「この蕎麦粉、うまく挽けてませんねぇ」
「それがねぇ、朝起きたら水車が壊れていたみたい。これじゃあ、喉越しの良い蕎麦は打てないのよねぇ」
彩さんは、石臼を水車から切り離し、自分の手で臼を回し始めた。
「は〜、あの水車、どこか壊れたのかなぁ。大工に修理を頼んだら、蕎麦何杯分の売り上げが飛ぶやら」
彼女には自分の店を持つという夢がる。
だから、できるだけ出費は抑えたい。
だが、肝心の蕎麦の出来に関わることに、銭をケチるわけにはいかない。
「だったら俺が水車、修理してみましょうか」
そう提案すると、落ち込んでいた彩さんの表情が、きらりと明るくなる。
「え、助かる! さすがハヤテ君、すごーい、なんでもできるのね」
結局、今日は彩さんが手で挽いた分だけ蕎麦を出すことになった。
手挽きではいつもより作れる蕎麦の数は少なめ。
そのため蕎麦は早々に売り切れて、彩さんは昼過ぎには帰ってきた。
「やほ〜ハヤテくん、水車は直った?」
彩さんは屋台を置くなり、迎えに出た俺に尋ねた。
俺が直し終わっていることを疑わない、期待に満ちた真っ直ぐな目。
「もちろん、ちゃんと修理しておきました」
「さすがっ!」
「まあ、昔から手先は器用な方でしたから」
誇らしげに答える。どこかでもあった、こんなやりとり。
俺の働きを喜んでくれる人がいる。そんな毎日が楽しかった。
「見てください、この石臼の動き」
彩さんが試しに蕎麦の実を石臼に入れると、細かく均等な粉が挽き上がった。
「うん、これこれ」
出来上がった蕎麦粉を見て香りを確認すると、嬉しそうに呟く。
そんな笑顔を見ていると、俺はもっと彼女に褒めてもらいたくなり、彩さんを水車の方へ連れ出した。
「見てください、この板が外れたんですよ」
そう言って接合部が折れて外れていた水板を見せる。
これが外れていたせいで、水車の回転が不規則になっていた訳だ。
「ハヤテくん、本当になんでもできるのね。もともとは大工の見習いだったの?」
彼女の言葉を、俺は軽く笑って受け流す。
その時の彩さんの目が、どこか遠くを見ているように感じたのは、俺の過去を気にしているせいなのか。
そういえば出会って一ヶ月が経つが、彩さんには俺の身の上はほとんど話してはいない。
もちろん忍の出であることも隠している。
さすがに何も話さないのは怪しいので「職人の見習いだったが、親方とそりが合わずに逃げ出した」とだけ言ってはある。
俺の体力と手先が器用さを、それで納得したのか、彼女もそれ以上は過去を詮索しようとはしなかった。
余計な詮索をしないで距離を保つ。そのほうがお互いに傷もつかず、心地よい時間を過ごしていける。
もう、人と近づこうとして傷つくのは、ごめん被りたかった。
「そういえば、この水車を作った大工、大吾って人みたいですね」
水車を直している時に見つけた、外輪に彫られていた名前。
動いている状態では見落としてしまう大きさだが、おそらく、この水車を作った大工の銘であろう。
単なる世間話で、この事を言ったのだが、それを聞いた彩さんは珍しく動揺した。
「どうしたんです? 彩さん」
少しの間を置いて、彩さんはポツりと言う。
「その人……あたしの許嫁」
彼女は水車に近づき、外輪に彫ってある大吾の名前を触った。
触れた彼女の指の間から、水車から溢れた水が流れ、掘られていた名前は水車の動きに従って、スッと彩さんの手を離れていく。
「二人でね、蕎麦屋をやろうって約束してたの。水車小屋を作ったのも、屋台を作ったのも腕の良い大工だった彼」
俺が自分の過去を話さなかったように、俺も彼女の過去を知ろうとはしなかった。
初めて知る彩さんの過去。
それを聞いても、俺は彼女になんと声をかけていいのか分からない。
「あたしが作る蕎麦の味はね、彼の好みの味なんだ。だからあたしは、あの味をずっと守り続けてる」
彩さんが作る味噌風味の蕎麦は、多くの人に人気だ。
けど中には、味が薄いだの、味噌でなく煎り酒を使えだの、中には天ぷらを乗せろだの、要らぬ忠告をしてくる奴らもいた。
けど彼女は頑なに蕎麦の味を変えなかった。
そのこだわりの理由が、今ようやく分かった。
「店を始めるには、銭が必要だ。兵になって大きな合戦で手柄を立てて、たっぷりの報償金をもらってくる。そしたら大通りで一緒に蕎麦屋をやろうって……。馬鹿だよね、ノコギリやカンナは使えても、弓や槍は持ったことないのに……」
彩さんは俺に微笑んで見せた。
それはいつも見せる屈託のない太陽のような笑顔でなく、どこか憂いをひめた笑顔。
彩さんにもこんな一面があったのか……。
彼女の表情に、胸が締め付けられる思いがした。
「もう、待ってるの、疲れたかな……」
いくさが終わって一年。
俺が奈川城で過ごした時間と同じ間、彩さんはずっと許嫁が帰ってくるのを待っていた。
帰ってきたら二人で新たな人生を踏み出すために、彼の好きだった蕎麦の味を守り続けて。
「ごめんね、せっかくハヤテくんが直してくれたのに、湿っぽい話をして」
そう言って、彼女は過去を振り払うよう顔を動かすと、またいつもの笑顔を俺に向けてくれた。
しかし、隠しきれない彼女の憂いが、俺の心に引っかかった。


