美味い蕎麦に、心を満たされた。
さて、問題はこれからだ。
もう少し蕎麦の余韻に浸っていたいが、俺も職場から逃げ出した身。
ここに長居はせずに、すぐに西を目指すべきか。
しかし、その考えをすぐに否定する。
考えてみれば、奈川城は使用人が逃げ出したぐらいで、追手を差し向けるだろうか?
俺がいた一年間でも、夜逃げをした使用人は何人かいた。
理由は様々。鶴姫の気難しさもあれば、賃金が安かったせいもある。
そして奈川城では、逃げ出した使用人は放っておいた。
理由は簡単で、追いかける人手の余裕がない。そして、どのみち逃げ出した使用人を連れ戻しても、その後まともに働くわけもない。
唯一、追手が仕向けられたのは、使用人が金を持ち逃げした時だけ。
その時は、メジロがすぐに追いかけ、ボコボコにして身包みを剥いだ上で追放した。
俺の場合はどうか……。
鶴姫にすれば俺の存在など、一介の使用人。
いてもいなくてもどうでもいい。
メジロは、俺のことを気にかけはしてくれるとは思う。
一方で鶴姫に心酔している彼女が、命令もなく連れ戻しに動くとは思えない。
忍の里も、俺が抜け忍となったところで、追手など出す余裕もない。
せいぜい俺が野たれ死ぬことを望むぐらいだろう。
そして葵は……。
今さら俺のことなど気にしていないだろう。
むしろ、結婚のことに横槍を入れた俺がいなくなって、かえって清々としているかもしれない。
ちっ。
俺は心の中で舌打ちする。
せっかく新天地に向かうと言うのに、いまだに奈川城でのことを引きずっている心の弱さをどうにかしなければ。
俺は空になった丼に手を合わせ、美味い蕎麦に感謝する。
こうすることで、自分の心を落ち着けようとした。
「お使いの途中かい? 仕事頑張ってね」
俺が食い終わったのを確認して、店主が気さくに声をかけてきた。
どうやら彼女は俺のことを、道草を食っている丁稚か徒弟だと思っているようだ。
「ありがとう。けど誰も俺のことは、待ってはいなから」
彼女の温かい雰囲気が、警戒心を低くしたのか、つい余計なことを言ってしまった。
追手は来ないと言うのはあくまでも推測。
できるだけ、この街に痕跡は残すべきではない。
俺はそれ以上余計なことは言わずに、代金を払って屋台を後にした。
「蕎麦、美味しかったです」
ただこの一言だけは、店主に言葉に出して伝えておきたかった。
***
俺が出るのと入れ違いに、三人の侍が屋台にやってきた。
真ん中の男は中肉中背で、酔っているのか顔が赤く、足取りもおぼつかない。
そんな男を介助するように左右にいるのは、小柄な侍と、長身で顎がしゃくれた侍。
侍たちの酒臭い息が、せっかくの蕎麦の余韻をぶち壊し、俺は少し気分を損ねた。
(こんな所でも、侍は俺の心を苛立たせるか)
だが酔っ払いどもに関わりたくはない俺は、そのまま足早に屋台から遠ざかろうとした。
「おう、なんだこの屋台は、酒も置いてないのか」
しかし、侍の怒声を聞いた瞬間、嫌な予感がして足を止める。
「いや、うちは蕎麦屋だから……」
聞き耳を立てると、先ほどの三人組が店主に絡んでいるようだ。
「じゃあ、何か飲むものはねぇのか?」
「蕎麦湯なら、いくらでもありますよ」
最初は戸惑っていた店主だが、酔客が言いがかりをつけているとわかった瞬間、毅然とした口調に変わった。
「うちは蕎麦屋だから。女の酌が希望なら、酒屋でも色街でも行っておくれ」
あれだけの美人なら、男に媚びを売れば、この屋台ももっと繁盛するのだろう。けど彼女の蕎麦屋としての誇りが、それを許さないようだ。
俺は店主のその態度に好感を持ったが、侍たちには不遜な態度と映ったようだ。
「おい女、俺を誰だと思っている。城主清成様の側近、三本刀の天馬様だぞ!」
清成っ!
その名前を聞いた瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
がしっ。
怒鳴っている侍、天馬の肩を後ろから掴む。
侍というだけで、不愉快な存在なのだが、こいつらの態度、そしてこいつらの主君の存在が、不快感を増悪させた。
だが同時に、ここは穏便に済ませろと理性が忠告してくる。
確かに下手に暴れて禍根を残せば、店主にも迷惑がかかる。
それに何よりも俺は逃亡の身。目立つ真似はしたくない。
そう考え直し、怒りを抑えながら、できるだけ穏やかに声をかけ直した。
「あの〜」
「なんだ、小僧!」
自分の楽しみを邪魔されたのか、天馬は不機嫌な表情で俺を睨んだ。
他の二人の様子を窺うと、ニヤニヤしながら事の成り行きを見守っている。
どうやら、こいつらは揉め事を止めるつもりはないらしい。
所詮は侍、同じ穴の狢だ。
「いや、店主さんが、嫌がってますよ」
相手を挑発しないよう、物静かにいうと、慌てて店主が割って入る。
「あなたは関係ないから……痛いっ!」
次の瞬間、長身の侍が店主の右腕を掴んだ。
店主はまだ少年の俺を、大人の揉め事に巻き込みたくないと行動してくれた……。
だったら、なおさら彼女のことを放っては置けない。
「手を離せよ。侍のくせに、みっともない。いや、みっともない輩だから、侍として偉そうにしているのか」
つい本音が漏れる。
その一言で、天馬の怒りはさらに激しくなり、残りの二人も不愉快な表情をする。
「おい、なんて言った。表へ出ろ。ガキだからといって、容赦しねぇぞ」
子供相手に力ずくで解決しようというのか、この酔っぱらい達は。
そんな奴ら相手には……手加減はいらないな。
「大丈夫ですよ、すぐにすみますから」
俺は店主に心配かけないように、落ち着いた表情で告げると、屋台を離れた。
「おい天馬、相手は子供だぞ」
「そうそう小僧、怪我したくなけりゃ、とっとと謝っちまいな」
屋台から少し離れた場所。
残りの二人は、この天馬という男よりも、いくらか分別が残っているのだろう。
子供相手に喧嘩をすることの対面を考えてか、天馬を宥めようとしている。
しかし、奴は怒りがおさまらない様子で俺の襟を掴んできた。
その動きは緩慢で足元が隙だらけだった。
酒に酔っているせいだけではない。子供相手に油断しているわけでもない。
この天馬も、連れの二人も隙だらけの身のこなしをしている。
(散々威張りくさって、侍といってもこの程度か)
呆れたような笑いが。思わず漏れる。
それが奴のシャクに触ったのだろう。
「ガキが何がおかしいっ」
怒鳴った次の瞬間、天馬は急に腹を抑えてうずくまった。
「おう、天馬!」
「どうしたんだ」
残りの二人がその様子を見て、慌てて駆けつける。
ゲホッ。
天馬は、腹を抑え苦しみながら胃の中身を吐き出し始めた。
それは俺が放った一撃の効果だった。
襟を掴まれた状態で、天馬の鳩尾に拳を当て、全体重をそこに伝える。
動作はほとんどないために、側からはいきなり倒れて苦しみ始めたようにしか見えない。
忍者の使う格闘術の初歩でしかないが、この程度の連中には十分な威力を持つ。
これで残りの二人が喧嘩をやめて、このバカ侍の介抱をしてくれるとありがたいが……。
「貴様、天馬に何をしたっ!」
だが、ことはそう簡単には終わらなかった。
長身の侍は、仲間の醜態を前に冷静さを失ったのか、腰の刀に手をかけようとしていた。
俺は刀を抜こうとする侍を前にしても、不思議と冷静だった。
こいつらに俺を斬れる実力があるとは思えない。
だが一度刀を抜けば、他の侍もやって来てくる。
さすがに刃傷沙汰はめんどうくさい。
そうなれば屋台の店主にも迷惑をかけるだろう。
そう考えながら向こうの出方を見ていると、幸いなことに小柄な侍が、長身に刀から手を離すように忠告した。
「馬鹿、ガキ相手に刀を抜く気か」
そう指摘され、さすがに長身の方も冷静さを取り戻したのか、柄にやった手を離す。
賢明な判断だ。
いくら侍とはいえ子供相手に刀を抜いたならば、世間体が悪すぎる。
さて。では、どうやってこの場をどう収めようか、などと俺が思案していると……。
「ホゲェ!」
地面に横たわっていた天馬が、大きく痙攣をして奇声をあげた。
どうやら吐瀉物を喉につまらせたみたいだ。
「おい、大丈夫か!」
「ちっ、すぐに医者だ」
それを見た二人は、さすがに俺の相手をしている場合ではなくなり、慌てて奴を医者に連れて行った。
この後、あの天馬とか言う男が助かるかどうか……それは俺の知ったことじゃない。
「ありがとう、助かったよ」
「僕と話してるうちに、気持ち悪くなったみたい。酒の飲み過ぎは良くないですね」
三本刀とか称するバカがいなくなり、店主が俺に声をかけてきた。
あくまでも天馬が倒れたのは、酒を飲み過ぎたせい。それが一番、穏便な納め方。
だから俺はあえて、とぼけた返事をしてみせた。
あんな連中に勝ったところで、何の手柄にもならないし、銭にもならない。
大切なのは、面倒ごとに関わらないことだ。
「ふぅ〜ん」
(俺の言葉、信じてなさそうだな)
「まあ、いいか。あの三本刀とかいう酔っ払い、噂には聞いていたけど、まさか、うちにやって来るとはねぇ。なんせ城主の威光を笠に着て、ゆすりたかり、弱いものいじめ……最悪の連中よ!」
俺に助けられたと思っている店主は、明るい表情になって一気に捲し立てる。
が、残念だけど俺には、そんな世間話にまで付き合っている時間はない。
「そんな訳で、お姉さんが無事でよかったです。じゃあ」
「ちょっと待って!」
人助けをして少し良い気分で立ち去ろうとした俺を、店主が引き止める。
振り向くと彼女は右の手首をおさえ、ことさら痛そうな表情をしていた。
「さっき、あの酔っ払いに捕まれて、手首を痛めちゃってさぁ。今日はもう店じまいだね。それで……お賃金は払うから、屋台を運ぶの手伝ってくれない?」
いきなりのお願い。
確かに蕎麦屋の担ぎ屋台を、手首を痛めた女性一人で運ぶのは大変だろう。
だが俺にはそこまで手伝う義理はない……と言いたいが、彼女はあの男たちから、俺を庇おうとして怪我をしたのだ。
(放っては置けないか……)
西の都に向かうのに期日があるわけじゃない。
それに路銀も心細いし、ここでちょっと手伝うだけで賃金がもらえるなら、それも良いだろう。
「えっと、屋台を運ぶ手伝いぐらいなら」
そう答えた瞬間、俺は左腕をグイッと掴まれた。
「来て。屋台の片付けかたを教えるから」
そう言って店主は俺を引っ張っていく。
右手を怪我して、痛いんじゃ……。
俺の手を握る彼女の右手の力強さに、一瞬そう思った。
「そういやぁ、名前まだ言ってなかったね。あたいは彩。あんたは?」
「ハ、ハヤテです」
彩さんの明るい笑顔で見つめられると、俺は彼女の怪我のことを指摘する事ができず、そのまま引きずられていった。
***
「で、屋台はそっちに置いておいてね」
城下街の西を、郊外に出た山の麓。
そこに建てられた水車小屋が、彩さんの家だった。
結局、俺は彼女の言われるまま、なんやかんやと屋台を担いでここまで来た。
「けど、すごいねぇ、さすが男の子。屋台を担いでもなんともない」
確かに担ぎ屋台は重かったが、忍として鍛えてきた俺にとっては、大した労力ではない。
「いやぁ、思ったより重くて。腰が痛いですよ」
「なに年寄じみたこと、言ってんの」
だがここで自分の力をひけらかせば、さらなる雑用を頼まれかねない。
だから俺は、非力な少年を演じ、わざと疲れて見せた。
彩さんは、そんな大袈裟な仕草を見てクスリと笑う。
「よかったら、お茶でも飲んでって」
世話焼きでよく笑う彩さんは、どこかメジロを思い起こさせた。
もっともメジロのような邪悪さは感じない。
それに見た目も全然違い、すらっとした姿は、いかにも大人の女性といった感じだった。
「よかったらお茶菓子もあるけど、何か食べたいものがある」
いきなりの問いかけに、漏れた一言。
「かすてら……」
つい出てしまった高級菓子へ未練。俺は慌てて彩さんを見る。
「い、いや、気にしないでください。いただけるものなら何でも」
思いもよらない菓子の名前が出て、一瞬戸惑った彼女だが、俺の慌てふためいた様子が面白かったのか、ぷっと吹き出し、カステラの代わりに蕎麦花林糖を出してくれた。
「そういう高級菓子は、仕事を頑張ってお金持ちになってからね」
出された菓子は茶によく合った。
俺はそれをポリポリとつまみながら、水車小屋の中を見回す。
土間には蕎麦粉を挽くための石臼があった。
それは外の水車と連結し、川の流れを利用して蕎麦粉を引く仕組みになっている。
「へぇ、すごいですね」
こういった機械細工が好きな俺は、規則的に動くその石臼に見入ってしまう。
そんな俺に彩さんは、自慢げにこの水車小屋のことを説明してくれた。
「いいでしょ、その石臼。回る速さが速過ぎず遅過ぎず。遅いと細かい蕎麦粉が挽けないし、早すぎると熱くなって蕎麦の風味を飛ばしちゃう」
彼女は、この街外れに住んでいるのは、この水車小屋が美味い蕎麦粉を挽いてくれこと、それと井戸水の質がいいからと説明してくれた。
「美味しい蕎麦を作るためには、こういう一つ一つの過程が大事なのよ」
腕を組んで語る彩さんの表情は、自分の作る蕎麦への自信に満ち、堂々としていた。
自分の生き方に自信を持ち、それに向かい努力を積み重ねる。
思えば、こうやって自分のやりたいことのために、活きいきとしているとしている女性に会うのは、初めてだったかもしれない。
今まで出会った人たちは、多かれ少なかれ、何かに縛られた生き方をしていた。
忍として姫として……もっとも俺も人のことは言えないのだが。
素敵な女性とのひと時の休息は、これから西の都に向かう俺の心に潤いを与えてくれた。
これから先は、おそらく生き馬の眼を抜く生き方になると思う。銭を稼ぐため、非情になる時もあるだろう。
そこには忍者の修行とは違う厳しさがある。
だがそれを乗り越え、成功してみせる。
俺は奈川城を逃げ出したのではない。
新しい人生を自分の手で切り開くために、飛び出たのだから。
そして俺は蕎麦花林糖の礼を述べ、賃金をもらい、席を立った……のだが……。
さて、問題はこれからだ。
もう少し蕎麦の余韻に浸っていたいが、俺も職場から逃げ出した身。
ここに長居はせずに、すぐに西を目指すべきか。
しかし、その考えをすぐに否定する。
考えてみれば、奈川城は使用人が逃げ出したぐらいで、追手を差し向けるだろうか?
俺がいた一年間でも、夜逃げをした使用人は何人かいた。
理由は様々。鶴姫の気難しさもあれば、賃金が安かったせいもある。
そして奈川城では、逃げ出した使用人は放っておいた。
理由は簡単で、追いかける人手の余裕がない。そして、どのみち逃げ出した使用人を連れ戻しても、その後まともに働くわけもない。
唯一、追手が仕向けられたのは、使用人が金を持ち逃げした時だけ。
その時は、メジロがすぐに追いかけ、ボコボコにして身包みを剥いだ上で追放した。
俺の場合はどうか……。
鶴姫にすれば俺の存在など、一介の使用人。
いてもいなくてもどうでもいい。
メジロは、俺のことを気にかけはしてくれるとは思う。
一方で鶴姫に心酔している彼女が、命令もなく連れ戻しに動くとは思えない。
忍の里も、俺が抜け忍となったところで、追手など出す余裕もない。
せいぜい俺が野たれ死ぬことを望むぐらいだろう。
そして葵は……。
今さら俺のことなど気にしていないだろう。
むしろ、結婚のことに横槍を入れた俺がいなくなって、かえって清々としているかもしれない。
ちっ。
俺は心の中で舌打ちする。
せっかく新天地に向かうと言うのに、いまだに奈川城でのことを引きずっている心の弱さをどうにかしなければ。
俺は空になった丼に手を合わせ、美味い蕎麦に感謝する。
こうすることで、自分の心を落ち着けようとした。
「お使いの途中かい? 仕事頑張ってね」
俺が食い終わったのを確認して、店主が気さくに声をかけてきた。
どうやら彼女は俺のことを、道草を食っている丁稚か徒弟だと思っているようだ。
「ありがとう。けど誰も俺のことは、待ってはいなから」
彼女の温かい雰囲気が、警戒心を低くしたのか、つい余計なことを言ってしまった。
追手は来ないと言うのはあくまでも推測。
できるだけ、この街に痕跡は残すべきではない。
俺はそれ以上余計なことは言わずに、代金を払って屋台を後にした。
「蕎麦、美味しかったです」
ただこの一言だけは、店主に言葉に出して伝えておきたかった。
***
俺が出るのと入れ違いに、三人の侍が屋台にやってきた。
真ん中の男は中肉中背で、酔っているのか顔が赤く、足取りもおぼつかない。
そんな男を介助するように左右にいるのは、小柄な侍と、長身で顎がしゃくれた侍。
侍たちの酒臭い息が、せっかくの蕎麦の余韻をぶち壊し、俺は少し気分を損ねた。
(こんな所でも、侍は俺の心を苛立たせるか)
だが酔っ払いどもに関わりたくはない俺は、そのまま足早に屋台から遠ざかろうとした。
「おう、なんだこの屋台は、酒も置いてないのか」
しかし、侍の怒声を聞いた瞬間、嫌な予感がして足を止める。
「いや、うちは蕎麦屋だから……」
聞き耳を立てると、先ほどの三人組が店主に絡んでいるようだ。
「じゃあ、何か飲むものはねぇのか?」
「蕎麦湯なら、いくらでもありますよ」
最初は戸惑っていた店主だが、酔客が言いがかりをつけているとわかった瞬間、毅然とした口調に変わった。
「うちは蕎麦屋だから。女の酌が希望なら、酒屋でも色街でも行っておくれ」
あれだけの美人なら、男に媚びを売れば、この屋台ももっと繁盛するのだろう。けど彼女の蕎麦屋としての誇りが、それを許さないようだ。
俺は店主のその態度に好感を持ったが、侍たちには不遜な態度と映ったようだ。
「おい女、俺を誰だと思っている。城主清成様の側近、三本刀の天馬様だぞ!」
清成っ!
その名前を聞いた瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
がしっ。
怒鳴っている侍、天馬の肩を後ろから掴む。
侍というだけで、不愉快な存在なのだが、こいつらの態度、そしてこいつらの主君の存在が、不快感を増悪させた。
だが同時に、ここは穏便に済ませろと理性が忠告してくる。
確かに下手に暴れて禍根を残せば、店主にも迷惑がかかる。
それに何よりも俺は逃亡の身。目立つ真似はしたくない。
そう考え直し、怒りを抑えながら、できるだけ穏やかに声をかけ直した。
「あの〜」
「なんだ、小僧!」
自分の楽しみを邪魔されたのか、天馬は不機嫌な表情で俺を睨んだ。
他の二人の様子を窺うと、ニヤニヤしながら事の成り行きを見守っている。
どうやら、こいつらは揉め事を止めるつもりはないらしい。
所詮は侍、同じ穴の狢だ。
「いや、店主さんが、嫌がってますよ」
相手を挑発しないよう、物静かにいうと、慌てて店主が割って入る。
「あなたは関係ないから……痛いっ!」
次の瞬間、長身の侍が店主の右腕を掴んだ。
店主はまだ少年の俺を、大人の揉め事に巻き込みたくないと行動してくれた……。
だったら、なおさら彼女のことを放っては置けない。
「手を離せよ。侍のくせに、みっともない。いや、みっともない輩だから、侍として偉そうにしているのか」
つい本音が漏れる。
その一言で、天馬の怒りはさらに激しくなり、残りの二人も不愉快な表情をする。
「おい、なんて言った。表へ出ろ。ガキだからといって、容赦しねぇぞ」
子供相手に力ずくで解決しようというのか、この酔っぱらい達は。
そんな奴ら相手には……手加減はいらないな。
「大丈夫ですよ、すぐにすみますから」
俺は店主に心配かけないように、落ち着いた表情で告げると、屋台を離れた。
「おい天馬、相手は子供だぞ」
「そうそう小僧、怪我したくなけりゃ、とっとと謝っちまいな」
屋台から少し離れた場所。
残りの二人は、この天馬という男よりも、いくらか分別が残っているのだろう。
子供相手に喧嘩をすることの対面を考えてか、天馬を宥めようとしている。
しかし、奴は怒りがおさまらない様子で俺の襟を掴んできた。
その動きは緩慢で足元が隙だらけだった。
酒に酔っているせいだけではない。子供相手に油断しているわけでもない。
この天馬も、連れの二人も隙だらけの身のこなしをしている。
(散々威張りくさって、侍といってもこの程度か)
呆れたような笑いが。思わず漏れる。
それが奴のシャクに触ったのだろう。
「ガキが何がおかしいっ」
怒鳴った次の瞬間、天馬は急に腹を抑えてうずくまった。
「おう、天馬!」
「どうしたんだ」
残りの二人がその様子を見て、慌てて駆けつける。
ゲホッ。
天馬は、腹を抑え苦しみながら胃の中身を吐き出し始めた。
それは俺が放った一撃の効果だった。
襟を掴まれた状態で、天馬の鳩尾に拳を当て、全体重をそこに伝える。
動作はほとんどないために、側からはいきなり倒れて苦しみ始めたようにしか見えない。
忍者の使う格闘術の初歩でしかないが、この程度の連中には十分な威力を持つ。
これで残りの二人が喧嘩をやめて、このバカ侍の介抱をしてくれるとありがたいが……。
「貴様、天馬に何をしたっ!」
だが、ことはそう簡単には終わらなかった。
長身の侍は、仲間の醜態を前に冷静さを失ったのか、腰の刀に手をかけようとしていた。
俺は刀を抜こうとする侍を前にしても、不思議と冷静だった。
こいつらに俺を斬れる実力があるとは思えない。
だが一度刀を抜けば、他の侍もやって来てくる。
さすがに刃傷沙汰はめんどうくさい。
そうなれば屋台の店主にも迷惑をかけるだろう。
そう考えながら向こうの出方を見ていると、幸いなことに小柄な侍が、長身に刀から手を離すように忠告した。
「馬鹿、ガキ相手に刀を抜く気か」
そう指摘され、さすがに長身の方も冷静さを取り戻したのか、柄にやった手を離す。
賢明な判断だ。
いくら侍とはいえ子供相手に刀を抜いたならば、世間体が悪すぎる。
さて。では、どうやってこの場をどう収めようか、などと俺が思案していると……。
「ホゲェ!」
地面に横たわっていた天馬が、大きく痙攣をして奇声をあげた。
どうやら吐瀉物を喉につまらせたみたいだ。
「おい、大丈夫か!」
「ちっ、すぐに医者だ」
それを見た二人は、さすがに俺の相手をしている場合ではなくなり、慌てて奴を医者に連れて行った。
この後、あの天馬とか言う男が助かるかどうか……それは俺の知ったことじゃない。
「ありがとう、助かったよ」
「僕と話してるうちに、気持ち悪くなったみたい。酒の飲み過ぎは良くないですね」
三本刀とか称するバカがいなくなり、店主が俺に声をかけてきた。
あくまでも天馬が倒れたのは、酒を飲み過ぎたせい。それが一番、穏便な納め方。
だから俺はあえて、とぼけた返事をしてみせた。
あんな連中に勝ったところで、何の手柄にもならないし、銭にもならない。
大切なのは、面倒ごとに関わらないことだ。
「ふぅ〜ん」
(俺の言葉、信じてなさそうだな)
「まあ、いいか。あの三本刀とかいう酔っ払い、噂には聞いていたけど、まさか、うちにやって来るとはねぇ。なんせ城主の威光を笠に着て、ゆすりたかり、弱いものいじめ……最悪の連中よ!」
俺に助けられたと思っている店主は、明るい表情になって一気に捲し立てる。
が、残念だけど俺には、そんな世間話にまで付き合っている時間はない。
「そんな訳で、お姉さんが無事でよかったです。じゃあ」
「ちょっと待って!」
人助けをして少し良い気分で立ち去ろうとした俺を、店主が引き止める。
振り向くと彼女は右の手首をおさえ、ことさら痛そうな表情をしていた。
「さっき、あの酔っ払いに捕まれて、手首を痛めちゃってさぁ。今日はもう店じまいだね。それで……お賃金は払うから、屋台を運ぶの手伝ってくれない?」
いきなりのお願い。
確かに蕎麦屋の担ぎ屋台を、手首を痛めた女性一人で運ぶのは大変だろう。
だが俺にはそこまで手伝う義理はない……と言いたいが、彼女はあの男たちから、俺を庇おうとして怪我をしたのだ。
(放っては置けないか……)
西の都に向かうのに期日があるわけじゃない。
それに路銀も心細いし、ここでちょっと手伝うだけで賃金がもらえるなら、それも良いだろう。
「えっと、屋台を運ぶ手伝いぐらいなら」
そう答えた瞬間、俺は左腕をグイッと掴まれた。
「来て。屋台の片付けかたを教えるから」
そう言って店主は俺を引っ張っていく。
右手を怪我して、痛いんじゃ……。
俺の手を握る彼女の右手の力強さに、一瞬そう思った。
「そういやぁ、名前まだ言ってなかったね。あたいは彩。あんたは?」
「ハ、ハヤテです」
彩さんの明るい笑顔で見つめられると、俺は彼女の怪我のことを指摘する事ができず、そのまま引きずられていった。
***
「で、屋台はそっちに置いておいてね」
城下街の西を、郊外に出た山の麓。
そこに建てられた水車小屋が、彩さんの家だった。
結局、俺は彼女の言われるまま、なんやかんやと屋台を担いでここまで来た。
「けど、すごいねぇ、さすが男の子。屋台を担いでもなんともない」
確かに担ぎ屋台は重かったが、忍として鍛えてきた俺にとっては、大した労力ではない。
「いやぁ、思ったより重くて。腰が痛いですよ」
「なに年寄じみたこと、言ってんの」
だがここで自分の力をひけらかせば、さらなる雑用を頼まれかねない。
だから俺は、非力な少年を演じ、わざと疲れて見せた。
彩さんは、そんな大袈裟な仕草を見てクスリと笑う。
「よかったら、お茶でも飲んでって」
世話焼きでよく笑う彩さんは、どこかメジロを思い起こさせた。
もっともメジロのような邪悪さは感じない。
それに見た目も全然違い、すらっとした姿は、いかにも大人の女性といった感じだった。
「よかったらお茶菓子もあるけど、何か食べたいものがある」
いきなりの問いかけに、漏れた一言。
「かすてら……」
つい出てしまった高級菓子へ未練。俺は慌てて彩さんを見る。
「い、いや、気にしないでください。いただけるものなら何でも」
思いもよらない菓子の名前が出て、一瞬戸惑った彼女だが、俺の慌てふためいた様子が面白かったのか、ぷっと吹き出し、カステラの代わりに蕎麦花林糖を出してくれた。
「そういう高級菓子は、仕事を頑張ってお金持ちになってからね」
出された菓子は茶によく合った。
俺はそれをポリポリとつまみながら、水車小屋の中を見回す。
土間には蕎麦粉を挽くための石臼があった。
それは外の水車と連結し、川の流れを利用して蕎麦粉を引く仕組みになっている。
「へぇ、すごいですね」
こういった機械細工が好きな俺は、規則的に動くその石臼に見入ってしまう。
そんな俺に彩さんは、自慢げにこの水車小屋のことを説明してくれた。
「いいでしょ、その石臼。回る速さが速過ぎず遅過ぎず。遅いと細かい蕎麦粉が挽けないし、早すぎると熱くなって蕎麦の風味を飛ばしちゃう」
彼女は、この街外れに住んでいるのは、この水車小屋が美味い蕎麦粉を挽いてくれこと、それと井戸水の質がいいからと説明してくれた。
「美味しい蕎麦を作るためには、こういう一つ一つの過程が大事なのよ」
腕を組んで語る彩さんの表情は、自分の作る蕎麦への自信に満ち、堂々としていた。
自分の生き方に自信を持ち、それに向かい努力を積み重ねる。
思えば、こうやって自分のやりたいことのために、活きいきとしているとしている女性に会うのは、初めてだったかもしれない。
今まで出会った人たちは、多かれ少なかれ、何かに縛られた生き方をしていた。
忍として姫として……もっとも俺も人のことは言えないのだが。
素敵な女性とのひと時の休息は、これから西の都に向かう俺の心に潤いを与えてくれた。
これから先は、おそらく生き馬の眼を抜く生き方になると思う。銭を稼ぐため、非情になる時もあるだろう。
そこには忍者の修行とは違う厳しさがある。
だがそれを乗り越え、成功してみせる。
俺は奈川城を逃げ出したのではない。
新しい人生を自分の手で切り開くために、飛び出たのだから。
そして俺は蕎麦花林糖の礼を述べ、賃金をもらい、席を立った……のだが……。


