忍の里から逃げ出し、そして今度は奈川城からも逃げ出した。
逃げ癖も板についてきていると、少しの自己嫌悪を感じつつ、夜の道をゆく。
だけど、あのまま城に残ってどうする。
葵のいなくなったあの城で、仕事をサボりつつ平穏に暮らしていくのか。
俺は彼女がいたから、あの城に留まっていたのだ。
彼女に拒絶された今、あそこにいる理由はない。
必要とされなくなったから、新たな居場所を見つけるために出た。ただそれだけだ。
忍びの里を抜けた時もそうだ。
古い場所を捨て、新たな道を進もうとした。
そう考えると、俺は別に逃げ出したわけではない。新たな生き方のために、一歩を踏み出したのだ。
そう自分自身に言い聞かせながら山を駆け降りていく。
夜の山道は俺の歩みを慎重にさせ、山を降りるのに思いのほか時間がかかった。
木々の中を抜けると、すっかりと日が登っていた。
けど太陽の眩しさは、俺の新しい生き方を祝福してくれているように感じた。
山を降りた先には、今までには見たことがない大きな城下街が見えた。
これからは、勝手気ままに生きる。
俺は空を仰ぎ見た。
「そう、あの雲のように」
真っ青な空に形を変えながら流れてゆく白い雲は、これからの俺の生き方を表しているようだった。
「しかし賑やかなところだなぁ」
初めて訪れた辰起城。
いや、正確にはその城下街なのだが、ずっと山の中で育った俺には、目に映るものが何もかも新鮮だった。
辰起城の正門へと続く大通りの両脇には、様々な店が軒を連ねており、多くの人たちが行き交い、祭りよりも賑わっている。
「ここなら旅支度を揃えるにも、苦労はなさそうだ」
そう考え、持っていた小銭入れを握りしめた。
この先どうするか決まっているわけじゃない。
だけど、このまま辰起城に腰を据えるつもりもない。
何せ、ここは奈川城から近すぎる。
それに辰起城は、あの清成とか言う不愉快な侍が収めている領地だ。
城主と領民の間には、城壁よりも高い壁があり、接点はない。
それでも同じ場所に住んでいると思うだけで、この街からとっとと出て行きたくなる。
「そうだな、西の都を目指すか」
俺は、最後に兄と話した西の都のことを思い出した。
どれくらいの日数がかかるかは分からない。
ただ、生前の兄と約束した旅行を実現したかった。
もし立派な寺があるなら、そこで兄の供養をするのも悪くはない。
いささか無計画な旅になるが、まあ俺一人ならなんとかなるだろう。
「まずは食料だな」
昨晩から何も食べていないので、思いのほか腹が減っている。
手持ちの路銀はそれほど多くないので、ここで簡単なものを腹に入れておきたい。
立ち並ぶ店を見て回っていると、俺の嗅覚を甘い匂いが刺激した。
今まで嗅いだことのない甘い匂いに誘われ、気付くと俺は、その店の前に足を運んでいた。
た、高い!
匂いの元のお菓子を見て、思わず声が出そうになる。
「かすてら」と書かれた菓子には、一切れで米が一斗買える値札が置いてあった。
結局、手持ちの路銀は干し飯と味噌、予備の草鞋を購入して、ほとんど尽きた。
早い所、稼ぎになる仕事がある街を探さなければと、気持ちが焦る。
この街なら、いくらでも日雇い仕事にありつけそうだが、ここからは早いところ出ていきたい。
そして次の街にたどり着くまでは、この少ない路銀をやりくりしていくしかない。
いくら食うに困っても、野盗に身を落とすのは流石にごめんだ。
「とにかく西だ」
俺が西の都へ向け一歩踏み出そうとした時、街並みの切れ目から、ひときわ異彩を放つ建物が見える。
「あれが辰起城か……」
初めて見るその外観。広大な城内の中央にある四階建ての天守。
壁は白い漆喰で塗られ、屋根には瓦が黒々と光る。
戦国の城にあった鉄砲窓や忍び返しなどは見られない。
その代わり、四階に大きな月見櫓が備えられているのが、遠目にもはっきり見える。
一目でわかる、攻めるに易く守るに難い城。
豪華に飾り立てられた城は、まるで領民を見下すように、街の中央にそびえ立っていた。
「ちっ」
そんな辰起城が、あの清成の高慢で不愉快な姿を思い出させた。
平和な今の時代はああ言った見かけだけの存在が、偉そうにしているのだろう。
武力から財力の時代へ。いくさが終わり、銭を持つものが力を持つ時代に変わっていく。
この城下街の活気を見ていると、そんなふうに思えてくる。
いつまでも侍のしきたりに縛られ、時代に取り残されている山の小城。
街の活気を目の当たりにした俺は、そんな場所で一生を終えるつもりはなくなっていた。
「そうだ!」
西の都を目指すなら、俺は銭を稼げる人間になりたい。
銭さえあれば、むかつく連中に頭を下げなくてもいい。
そしてなにより、暮らしのために、自分の命を懸けて戦う必要はなくなる。
「俺は金持ちになってやる」
新たな目標を得た俺は、太陽の位置で方角を確認すると、決意新たに西方を目指した。
「えっと、道に迷ったかな」
そして早速、俺は迷子になった。
間違いなく西に歩いていたのだが、街の中はさまざまな建物が入り組んでおり、いつの間にか、二階建ての屋敷が密集した場所に紛れ込んでしまった。
山道を迷うことなく降りることができても、人混みが多い街の中では方向感覚が狂ってしまうのは田舎者の宿命か。
周囲を見ると、賑わっているが、表通りとは違った雰囲気。
建物は朱に塗られ華やかな色彩である一方、なんとなく空気が澱んでいる気がする。
「昼間から、侍が酒を飲んでるのか?」
横を通り過ぎた二人連れの侍が、俺の顔を訝しげにじろじろと見ていく。
いや、よく見れば侍だけではない。
少し周囲を見回すと、道を歩くのはほとんどが男で、身分や格好関係なく、みな酒に酔い、時には女性と一緒に歩いていた。
「ねえ、坊や、こんなところで何してるの〜」
場違いな居心地の悪さを感じて歩いていると、横から俺を呼び止める女の声がした。
声のした方向を見ると、格子戸の向こうに数人の着飾った女性がいる。
その一人が、俺をからかうように声をかけて来たのだ。
いきなり声をかけられ戸惑う俺を見て、ケラケラと愉快そうに笑う女たち。
「ちょっと〜まだ子供じゃない」
「けど、結構可愛いかも〜」
「はっ、お金を持ってない子供は、眼中になし〜」
女たちは楽しそうに、俺を話のネタにしていた。
着崩した着物に、おしろい化粧。そしてきちんと結いた黒髪。
そんな彼女たちを見れば、ここがどんな場所なのか察しがつく。
俺がここを早く立ち去ろうとした時、格子戸の向こう、部屋の一番奥にいた少女と目が合った。
年は俺と同じぐらいだろう。暗く陰鬱な目。厚く化粧した顔の下には、全てを諦めたような表情。
その少女を見ていると、この細い格子戸の向こうが、まるで牢獄のように思えた。
望まぬ環境に身を置き、日々を嘆いて生きる人間がもつ澱んだ目が、俺の心に突き刺さった。
俺は彼女を視界から外すと、この場所から逃げ出した。
明るい街だが、どこにでも暗い側面はある。
俺はそういった闇には関わらず、お日様の元を歩いて行きたいと思った。
一度は迷子になった俺だが、建物の隙間から見えた辰起城の天守を目印にし、無事に城下街の西端までやってくることができた。
不愉快な建物だが、遠目にも目印となってくれたのは有難い。
「さて、これからが俺の新しい人生だ」
ここまでくると家屋はまばら。
外堀を兼ねた小さな川を渡れば、そこは城下街の外。
眼前に田園が広がり、奥には丘が見える。
先ほどの薄暗い裏通りを抜け、お日様を浴びながら俺は大きく背伸びをした。
あとは、どうやって生きていくかだが……
「玩具職人なら、食いっぱぐれることはないな」
俺が作った玩具は、里でも城でも評判が良かった。
その腕前があれば、少なくとも食うに困ることはないと思う。
玩具職人は兄が俺に望んだ生き方の一つ。その望みをこういう形で叶えることになるのも悪くはない。
もちろん玩具職人では、俺が望んでいるような巨額な銭は稼げない。
だから俺は職人で終わるつもりはない。
稼いだ銭を元手に、手広く商売をしてみせる。
そしたら……。
一瞬、脳裏に浮かんだ考えを振り払うように首を振る。
いくら銭を稼いでも、手に入らないものもある。
そこを弁えておかなければ、俺は銭に支配されるだろう。
足元を掬われないよう、そこだけは自戒しておかねばならなかった。
新しい目標に向け一歩踏みだそうとした時……俺の嗅覚を蕎麦の香りが刺激した。
「蕎麦湯?」
命をギリギリで救われた過去の記憶が蘇り、足が不意に止まる。
一刻も早く、西の都を目指したい。
そんな決意を、蕎麦の香りが早くも揺るがせる。
辰起城を出れば、しばらくは買い溜めした干し飯が中心の食事になる。
蕎麦の香りが俺の思考を歪める。
「くそっ」
これから続く味気ない食生活を想像すると、俺の気持ちが食欲に引きずられる。
蕎麦なら……今の手持ちの金でもなんとかなるし、時間もかからない。
蕎麦の香りが俺の行動を支配する……
俺もつくづく食いものの誘惑に弱い。
気がつくと俺は屋台の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐると、店主が威勢よく声をかけてきた。
店主は澄んだ声の二〇代半ばの女性だった。
少し日焼けした肌。髪は短く、こざっぱりした感じの背の高い美人。
彼女はにっこりと笑うと、俺に座るように促した。
「何食べます?」
「あ、じゃあ蕎麦を一つ」
「はいよ、すぐに茹で上がるからね」
そう言って店主は麺を窯に放り投げ、こなれた手つきで蕎麦を湯の中で泳がせる。
周囲を見ると、客は自分一人。
すでに昼時が過ぎたせいか、それとも街のはずれで場所が悪いためか。
屋台から香るいい匂いとは裏腹に、中は閑散としていた。
「誰とも会わずに腹ごしらえが出来るのはありがたい」
そんなことを呟きながら、出された蕎麦に口をつけた……。
蕎麦は思った以上に美味かった。
麺もいいが、味噌風味のツユもそれに負けないぐらい、しっかりと自己主張している。
おそらく、ちゃんと出汁をとっているのだろう。味噌の塩気がいい感じに、まろやかになっている。
ずずずずっ。
俺は勢いよく、蕎麦をすする。このすする時の勢いが、蕎麦を食う時の醍醐味だ。
ふと俺を見る視線に気がつき顔を上げると、店主が切長の目を細め、俺の顔を見ていた。
慣れない女性からの視線に気づいて、少し照れくさくなった。
腹が減っていたせいで、少しがっつきすぎたかもしれない。
「いい食いっぷりだね、坊や」
店主は嬉しそうに声をかけてくれた。
「腹が減ってて」
つい正直な感想が口に出る。
そしてすぐに蕎麦の味を褒めなかったことを後悔したが、俺の満足そうな表情を見て、味にも満足していると察してくれたのだろう。店主は何も言わずに微笑んでくれる。
この蕎麦が不味ければ、腹が減っていても、こんなふうに夢中に食ったりはしない。
「あ、もちろん、それだけじゃなくて……」
「これ、おまけ」
慌てて弁明しようとした俺を遮るように、店主はスッと竹輪を乗っけてくれた。
逃げ癖も板についてきていると、少しの自己嫌悪を感じつつ、夜の道をゆく。
だけど、あのまま城に残ってどうする。
葵のいなくなったあの城で、仕事をサボりつつ平穏に暮らしていくのか。
俺は彼女がいたから、あの城に留まっていたのだ。
彼女に拒絶された今、あそこにいる理由はない。
必要とされなくなったから、新たな居場所を見つけるために出た。ただそれだけだ。
忍びの里を抜けた時もそうだ。
古い場所を捨て、新たな道を進もうとした。
そう考えると、俺は別に逃げ出したわけではない。新たな生き方のために、一歩を踏み出したのだ。
そう自分自身に言い聞かせながら山を駆け降りていく。
夜の山道は俺の歩みを慎重にさせ、山を降りるのに思いのほか時間がかかった。
木々の中を抜けると、すっかりと日が登っていた。
けど太陽の眩しさは、俺の新しい生き方を祝福してくれているように感じた。
山を降りた先には、今までには見たことがない大きな城下街が見えた。
これからは、勝手気ままに生きる。
俺は空を仰ぎ見た。
「そう、あの雲のように」
真っ青な空に形を変えながら流れてゆく白い雲は、これからの俺の生き方を表しているようだった。
「しかし賑やかなところだなぁ」
初めて訪れた辰起城。
いや、正確にはその城下街なのだが、ずっと山の中で育った俺には、目に映るものが何もかも新鮮だった。
辰起城の正門へと続く大通りの両脇には、様々な店が軒を連ねており、多くの人たちが行き交い、祭りよりも賑わっている。
「ここなら旅支度を揃えるにも、苦労はなさそうだ」
そう考え、持っていた小銭入れを握りしめた。
この先どうするか決まっているわけじゃない。
だけど、このまま辰起城に腰を据えるつもりもない。
何せ、ここは奈川城から近すぎる。
それに辰起城は、あの清成とか言う不愉快な侍が収めている領地だ。
城主と領民の間には、城壁よりも高い壁があり、接点はない。
それでも同じ場所に住んでいると思うだけで、この街からとっとと出て行きたくなる。
「そうだな、西の都を目指すか」
俺は、最後に兄と話した西の都のことを思い出した。
どれくらいの日数がかかるかは分からない。
ただ、生前の兄と約束した旅行を実現したかった。
もし立派な寺があるなら、そこで兄の供養をするのも悪くはない。
いささか無計画な旅になるが、まあ俺一人ならなんとかなるだろう。
「まずは食料だな」
昨晩から何も食べていないので、思いのほか腹が減っている。
手持ちの路銀はそれほど多くないので、ここで簡単なものを腹に入れておきたい。
立ち並ぶ店を見て回っていると、俺の嗅覚を甘い匂いが刺激した。
今まで嗅いだことのない甘い匂いに誘われ、気付くと俺は、その店の前に足を運んでいた。
た、高い!
匂いの元のお菓子を見て、思わず声が出そうになる。
「かすてら」と書かれた菓子には、一切れで米が一斗買える値札が置いてあった。
結局、手持ちの路銀は干し飯と味噌、予備の草鞋を購入して、ほとんど尽きた。
早い所、稼ぎになる仕事がある街を探さなければと、気持ちが焦る。
この街なら、いくらでも日雇い仕事にありつけそうだが、ここからは早いところ出ていきたい。
そして次の街にたどり着くまでは、この少ない路銀をやりくりしていくしかない。
いくら食うに困っても、野盗に身を落とすのは流石にごめんだ。
「とにかく西だ」
俺が西の都へ向け一歩踏み出そうとした時、街並みの切れ目から、ひときわ異彩を放つ建物が見える。
「あれが辰起城か……」
初めて見るその外観。広大な城内の中央にある四階建ての天守。
壁は白い漆喰で塗られ、屋根には瓦が黒々と光る。
戦国の城にあった鉄砲窓や忍び返しなどは見られない。
その代わり、四階に大きな月見櫓が備えられているのが、遠目にもはっきり見える。
一目でわかる、攻めるに易く守るに難い城。
豪華に飾り立てられた城は、まるで領民を見下すように、街の中央にそびえ立っていた。
「ちっ」
そんな辰起城が、あの清成の高慢で不愉快な姿を思い出させた。
平和な今の時代はああ言った見かけだけの存在が、偉そうにしているのだろう。
武力から財力の時代へ。いくさが終わり、銭を持つものが力を持つ時代に変わっていく。
この城下街の活気を見ていると、そんなふうに思えてくる。
いつまでも侍のしきたりに縛られ、時代に取り残されている山の小城。
街の活気を目の当たりにした俺は、そんな場所で一生を終えるつもりはなくなっていた。
「そうだ!」
西の都を目指すなら、俺は銭を稼げる人間になりたい。
銭さえあれば、むかつく連中に頭を下げなくてもいい。
そしてなにより、暮らしのために、自分の命を懸けて戦う必要はなくなる。
「俺は金持ちになってやる」
新たな目標を得た俺は、太陽の位置で方角を確認すると、決意新たに西方を目指した。
「えっと、道に迷ったかな」
そして早速、俺は迷子になった。
間違いなく西に歩いていたのだが、街の中はさまざまな建物が入り組んでおり、いつの間にか、二階建ての屋敷が密集した場所に紛れ込んでしまった。
山道を迷うことなく降りることができても、人混みが多い街の中では方向感覚が狂ってしまうのは田舎者の宿命か。
周囲を見ると、賑わっているが、表通りとは違った雰囲気。
建物は朱に塗られ華やかな色彩である一方、なんとなく空気が澱んでいる気がする。
「昼間から、侍が酒を飲んでるのか?」
横を通り過ぎた二人連れの侍が、俺の顔を訝しげにじろじろと見ていく。
いや、よく見れば侍だけではない。
少し周囲を見回すと、道を歩くのはほとんどが男で、身分や格好関係なく、みな酒に酔い、時には女性と一緒に歩いていた。
「ねえ、坊や、こんなところで何してるの〜」
場違いな居心地の悪さを感じて歩いていると、横から俺を呼び止める女の声がした。
声のした方向を見ると、格子戸の向こうに数人の着飾った女性がいる。
その一人が、俺をからかうように声をかけて来たのだ。
いきなり声をかけられ戸惑う俺を見て、ケラケラと愉快そうに笑う女たち。
「ちょっと〜まだ子供じゃない」
「けど、結構可愛いかも〜」
「はっ、お金を持ってない子供は、眼中になし〜」
女たちは楽しそうに、俺を話のネタにしていた。
着崩した着物に、おしろい化粧。そしてきちんと結いた黒髪。
そんな彼女たちを見れば、ここがどんな場所なのか察しがつく。
俺がここを早く立ち去ろうとした時、格子戸の向こう、部屋の一番奥にいた少女と目が合った。
年は俺と同じぐらいだろう。暗く陰鬱な目。厚く化粧した顔の下には、全てを諦めたような表情。
その少女を見ていると、この細い格子戸の向こうが、まるで牢獄のように思えた。
望まぬ環境に身を置き、日々を嘆いて生きる人間がもつ澱んだ目が、俺の心に突き刺さった。
俺は彼女を視界から外すと、この場所から逃げ出した。
明るい街だが、どこにでも暗い側面はある。
俺はそういった闇には関わらず、お日様の元を歩いて行きたいと思った。
一度は迷子になった俺だが、建物の隙間から見えた辰起城の天守を目印にし、無事に城下街の西端までやってくることができた。
不愉快な建物だが、遠目にも目印となってくれたのは有難い。
「さて、これからが俺の新しい人生だ」
ここまでくると家屋はまばら。
外堀を兼ねた小さな川を渡れば、そこは城下街の外。
眼前に田園が広がり、奥には丘が見える。
先ほどの薄暗い裏通りを抜け、お日様を浴びながら俺は大きく背伸びをした。
あとは、どうやって生きていくかだが……
「玩具職人なら、食いっぱぐれることはないな」
俺が作った玩具は、里でも城でも評判が良かった。
その腕前があれば、少なくとも食うに困ることはないと思う。
玩具職人は兄が俺に望んだ生き方の一つ。その望みをこういう形で叶えることになるのも悪くはない。
もちろん玩具職人では、俺が望んでいるような巨額な銭は稼げない。
だから俺は職人で終わるつもりはない。
稼いだ銭を元手に、手広く商売をしてみせる。
そしたら……。
一瞬、脳裏に浮かんだ考えを振り払うように首を振る。
いくら銭を稼いでも、手に入らないものもある。
そこを弁えておかなければ、俺は銭に支配されるだろう。
足元を掬われないよう、そこだけは自戒しておかねばならなかった。
新しい目標に向け一歩踏みだそうとした時……俺の嗅覚を蕎麦の香りが刺激した。
「蕎麦湯?」
命をギリギリで救われた過去の記憶が蘇り、足が不意に止まる。
一刻も早く、西の都を目指したい。
そんな決意を、蕎麦の香りが早くも揺るがせる。
辰起城を出れば、しばらくは買い溜めした干し飯が中心の食事になる。
蕎麦の香りが俺の思考を歪める。
「くそっ」
これから続く味気ない食生活を想像すると、俺の気持ちが食欲に引きずられる。
蕎麦なら……今の手持ちの金でもなんとかなるし、時間もかからない。
蕎麦の香りが俺の行動を支配する……
俺もつくづく食いものの誘惑に弱い。
気がつくと俺は屋台の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐると、店主が威勢よく声をかけてきた。
店主は澄んだ声の二〇代半ばの女性だった。
少し日焼けした肌。髪は短く、こざっぱりした感じの背の高い美人。
彼女はにっこりと笑うと、俺に座るように促した。
「何食べます?」
「あ、じゃあ蕎麦を一つ」
「はいよ、すぐに茹で上がるからね」
そう言って店主は麺を窯に放り投げ、こなれた手つきで蕎麦を湯の中で泳がせる。
周囲を見ると、客は自分一人。
すでに昼時が過ぎたせいか、それとも街のはずれで場所が悪いためか。
屋台から香るいい匂いとは裏腹に、中は閑散としていた。
「誰とも会わずに腹ごしらえが出来るのはありがたい」
そんなことを呟きながら、出された蕎麦に口をつけた……。
蕎麦は思った以上に美味かった。
麺もいいが、味噌風味のツユもそれに負けないぐらい、しっかりと自己主張している。
おそらく、ちゃんと出汁をとっているのだろう。味噌の塩気がいい感じに、まろやかになっている。
ずずずずっ。
俺は勢いよく、蕎麦をすする。このすする時の勢いが、蕎麦を食う時の醍醐味だ。
ふと俺を見る視線に気がつき顔を上げると、店主が切長の目を細め、俺の顔を見ていた。
慣れない女性からの視線に気づいて、少し照れくさくなった。
腹が減っていたせいで、少しがっつきすぎたかもしれない。
「いい食いっぷりだね、坊や」
店主は嬉しそうに声をかけてくれた。
「腹が減ってて」
つい正直な感想が口に出る。
そしてすぐに蕎麦の味を褒めなかったことを後悔したが、俺の満足そうな表情を見て、味にも満足していると察してくれたのだろう。店主は何も言わずに微笑んでくれる。
この蕎麦が不味ければ、腹が減っていても、こんなふうに夢中に食ったりはしない。
「あ、もちろん、それだけじゃなくて……」
「これ、おまけ」
慌てて弁明しようとした俺を遮るように、店主はスッと竹輪を乗っけてくれた。


