薄暗く、かび臭い。里のはずれのボロ小屋。
 俺がここに追い立てられて、どれだけ経ったのだろう。

 ムシロも敷かずに地べたに寝ているせいで、地面の冷たさと硬さで背中が鈍く痛い。
 天井を見ると、板葺の隙間から微かに空の青さが目に入ってくる。
 けど俺の心は暗雲で覆われ、あの日以来、何もする気にはなれなかった。

 ***

 騎馬武者が帰った後、俺は里長の邸宅に呼び出された。
 いや、茫然自失だった俺は、連れていかれたと言ったほうがいいだろう。
 家屋に上がることは許されず、中庭の砂利の上で正座での待機。
 オオワシの弟として優しく接してくれた大人たちは、今までとはあきらかに態度が違った。
 しばらくして現れた里長は、いつもの高慢な雰囲気ではなく、怒りと困惑に囚われた表情をしていた。
「オオワシが、貴様の兄がしくじったのじゃ!」 
 俺の顔を見るなり、里長は憎々しげに吐き出した。
 興奮が治らない里長を、長老の一人がなだめ、別の長老が俺に事情を説明した。

 今回この里が請け負った任務は、補給部隊の警護。
 いくさを優勢に進めている自陣での後方支援。
 メジロが言った通り、本来はそれほど危険な任務ではないはずだった。
 だが正面から戦っては不利な敵軍は、補給線を分断するため夜襲を仕掛けてきた。
 その襲撃の際に、兄は見張りを怠り、居眠りをしており、結果、兵糧は焼かれ、味方の軍は後退を強いられることになった。
 当然、補給陣地の侍大将は、大いに怒り、兄の首を跳ねた。
 それが今回のあらましであった。

 後で聞いたが、今回の任務で全滅した里の忍の中には、里長の孫ビャッコも含まれており、それが里長の正気を粉砕した。
「お前が悪いわけじゃないが、しばらくは里の外れに移れ」
 長老の一人が、腫れ物を説き伏せるように、俺に命令した。
 今までは里の稼ぎ頭の弟ということで、いつも穏やかな顔を見せていた好々爺たち。
 それが今は冷たく見下すような表情で、俺を取り囲んでいた。
 結局、俺はこの里で決められた制裁『村八分』を受け入れるしかなかった。

 ***

「体が鉛のように重く、動かすのも億劫だ」
 畳どころか板間すらない小屋。
 土壁はところどころ崩れ、屋根板もまくりあがり、雨が降ればそこから容赦なく雨漏りをする。
 そのせいで、ここに持ってきた乾飯は濡れ、保存食としての用を成さず、臭気を放ち始めている。
 俺自身、二日ほど食事が喉を通っていない。
 体は飢餓の警告を発し続けるが、もう何も食うが起きなくなっている。
 どうせ手元にあるのは、腐りかけた米や野菜クズ。そんなものを食っても、腹を壊し、かえって苦しみが辛くなるだけ。
「どうでもいい……」
 そして、生きる気力のなさも、飢餓の警告を無視させた。
 兄もメジロも死んでしまった。
 そして里の人間は、俺に対する態度を急変させた。
 誰かが腹いせに石を投げ、へし折られた戸板。
 石を投げた相手には、不思議と憎しみは湧いてこない。
 そいつも、今回の任務で家族が死んだのだろう。
 どこかに怒りをぶつけないと、やっていけない。
 
 ただ、そんな村人の増悪を受け続けることに、十五歳の小僧が耐え続けられるわけがない。
「このまま『死ぬ』のも悪くはない……な」
 霞がかかったような思考の中、俺は何度も「死ぬ」と言う言葉を反芻し続ける。
 けど自分で命を絶つ勇気もない。
 だったら、このままゆっくりと朽ち果てればいい。
 さいわい俺の感覚は、少しずつ麻痺して来ている。
 もし極楽浄土なるものがあるなら、そこでまた兄に会うことができるだろうか?
 たとえ死の先にあるのが「無」だとしても、今の状況よりは全然いい。
 俺は「死」が自分を迎えに来てくれるのを、横になって待ち続けた。

「ハヤテいるか?」
 ボロボロの雨戸の向こうから聴きなれた声。
 一瞬、幻聴が聞こえたのかと思った。
 それとも、極楽浄土で彼女と再会したのか。
 俺の手を握る力強く子供のような大きさの手。
 それは暖かく、どこか俺の心を安心させた。
 俺は首を起こし周囲を見渡す。
 ひょっとして、兄もいるのでは。しかしそんな淡い期待は満たされることはなかった。
 目の前にいたのは……メジロ一人だけ。
 薄汚れてはいるが、見覚えのある癖っ毛に大きな目。
 けど、そこには俺の知っている悪戯っぽい輝きはなく、目一杯に溜められた涙がキラキラと光を反射していた。
「え、あ……メ、メジロさん、帰って来たんですね」
「ああ、オオワシのおかげでな」
 もう死んだと思ったメジロ。
 彼女が心配そうに、俺の顔を覗き込もうと下を向いた瞬間。
 メジロの猫のような形の目から、涙が滴り落ち、俺の頬を濡らした。

「どうだ美味いか? 蕎麦粉を湯でとかしたものだ」
 メジロは俺の口に、どろっとした液体を運んでくれた。
「ゆっくりと食え、飢餓状態で急に食うと死ぬぞ」
 久しぶりに味わう食い物らしい味と香り。
 それが俺をあの世の手前から、ゆっくりと引き戻してくれた。
 俺が自分で蕎麦湯を口にできることを確認すると、メジロは今回の任務で何が起こったかを話し始めた。
「話は里の連中から聞いた。君がなんで、こんなところに住まわされているのか、そしてオオワシのせいで、里の忍びが全滅したと皆が思っていることも」
 彼女は重く沈んだ表情で言う。
「けど、悪いのはオオワシじゃない」
 そしてメジロは、真実を俺に語ってくれた。

 今回の原因を作ったのは村長の孫ビャッコだった。
 見張りに立っていた彼は、初陣で功を焦ったのか、敵の陽動にいとも簡単に引っかかった。
 持ち場を離れた彼が開けた穴から、敵の忍者が入り込み、味方の陣地に火を放ち、その混乱に乗じて、敵が夜襲を仕掛けてきた。
「オオワシはそんな中で、混乱する里の忍をまとめ、撤退させようとした」
「兄さんは、居眠りをしてたんじゃ……」
「あいつがそんなヘマをするか。オオワシは最後まで孤軍奮闘し続けた。だから味方の侍たちは全滅をまぬがれた。だけど、里のものは皆、包囲され……それを抜け出せたのは僕だけ」
「メジロさん」
「ごめん、ハヤテ。オオワシを守るなんて、偉そうなこと言っておいて。けどオオワシからの君への言葉だけは聞いてほしい……僕はそれを君に伝えるために、生きて帰って来たんだ」
 メジロは俺の目を見つめ、ゆっくりと噛み締めるように口を開いた。
「お前だけは幸せに生きてほしい」
 自分を助けてくれた親友の死。
 それを思い出したメジロの目から、我慢していた涙が溢れ出た。
 俺は死ななくてよかった。
 あのまま死を選んでいたら、極楽浄土で兄に合わせる顔がない。
 メジロが教えてくれた真実は、俺を悲しませると同時に、絶望の淵にいた俺に再び生きる気力を与えてくれた。
「大丈夫だ、ハヤテ。里長たちには僕が真実を伝える。絶対に取り戻さなきゃな、オオワシの名誉は……」
 彼女は涙を拭うと、大きな目を真っ赤にしながら、俺を元気付けるようにニコッっと笑った。

 しかし里の長老たちは、真実を受け入れようとはしなかった。
「すまん、すまんハヤテ……」
「気にしないで、メジロさん」
 肩をガックリと落とし、メジロは俺の元に戻って来た。
 兄の名誉のため里長に直談判してくれたメジロを責められる訳がない。
 メジロから真実を聞かされた里長だが、失敗の原因が自分の孫にあることは、受け入れることが出来なかった。
 そして長老たちも、それは同じ。
 今回の原因が里長の孫にあることが広まれば、家族を亡くした里の住人の憎しみが里長に向けられる。
「今のままで、この里は上手くまとまっている」
「オオワシは死んだのだ。なれば生き残った者のために、少しでも役立つべきではないか」
「ハヤテは村八分を解いてやっても良い。もちろん、余計なことを言わなければじゃが」
 長老たちはそう言って、メジロの報告を握り潰すよう説き伏せ始めた。
 大切なのは村の平穏。
 別の見方をすれば自分達の保身。
 それが俺と兄の犠牲の上に成り立っていることなど、長老たちには知ったことではないのだ。

「ふ、ふざけるな……」
 兄は忍として働く以上、どこかで死を覚悟していただろう。
 だから俺は、兄が死んだこと自体は受け入れる覚悟はあった。
 だが、その死が嘘で歪められるのは許すことができない。
 俺の望みは兄の名誉回復。
 長老たちの態度は、俺にもメジロにも到底受け入れることはできない。
「なあ、ハヤテ。これからどうする?」
 気まずそうにメジロが聞いてきたが、俺は無言で首を降った。
「一人にしておいてください」
 今は彼女の問いかけに、正直に返事をすることはできない。
 しかし自分の中では、どう行動するかはすでに決まっていた。

 俺は、その夜のうちに、忍の里を出た。
 しばらく動かなかったせいで、身体中の関節が軋みを上げる。体力も十分に戻っていない。
 しかし生きる気力は戻りつつあった。
 最後まで俺のことを想い続けた兄のため、もう自殺しようとは思わない。
 とにかく、生きていく。
 そして自分が生きる場所は、この忍の里ではない。
 自分達の地位を守るため、兄の名誉を回復しなかったあいつらのことは、絶対に許さない。
 同時に、俺には里に残り、兄の名誉を回復しようという選択はなかった。
 それは無理なことだと分かっている。
 老害どもが牛耳る閉鎖的な空間を、俺一人の力ではどうすることでもできない。
 だから、俺の方で里を見捨てる。
 兄は里の都合で、使い捨ての道具にされた。
 今なら兄が、俺が忍になることを、快く思わなかった気持ちがわかる。
 俺は……兄のようには生きない。

 山から降りるため、当て所もなく駆けていた俺は、足を急に止めた。
「メジロさん?」
 目の前に立ちはだかる小柄な体躯。
 その大きな目は、月明かりのもとで光を放ち、俺を見つめていた。
「里を……出るのか?」
 俺は質問に答えず、身構える。
 実力では向こうのほうが遥かに上。
 勝てるかはわからない。
 けどもう里には帰らない。
 俺が戦う構えを取るのは、その決意を示すためでもある。
「あてはあるのか?」
 そんなものはない。今はこの里から逃げ出したいだけだ。
「安心しろ、君を連れ戻しにきたわけじゃない」
 警戒する俺の気持ちを見透かしたように、メジロは言う。
「僕もあの里には、もう見切りをつけた。あんなところ、もう勝手に滅んでいくだろう」
 メジロは悔しそうな口ぶりで、事情を説明した。
 彼女は唯一の生き残りとして、長老たちから歓迎されていた。
 里の忍が全滅した今、メジロが次の世代の忍を育てなければ、里が衰退するのは目に見えている。
 だから長老たちは、メジロに兄以上の待遇を約束し、懐柔しようとした。
 綺麗な一戸建て、風呂付き、畳の上の布団、そして白い飯。
 しかし、彼女はその申し出を一蹴した。
 メジロが望んだのは、兄の名誉の回復のみ。
 だがそれが叶わない以上、メジロにとって、あの里は残るべき場所でなくなった。

「山を一つ超えた所に、奈川城って小さな山城がある。戦線が東に移った今は、用済みになって、城主の親子がひっそりと暮らしている小さな城だ」
 いきなり出してきた山城の話題。
 だが俺はそれだけで、彼女の言わんとすることが分かった。
「昔馴染みの老夫婦がそこで働いていて、何人か働き手を探しているらしい。一緒に来ないか、ハヤテ?」
 一緒に、あの忌々しい忍の里を出よう。
 そう言って差し出した彼女の手は、別の生き方への誘いに思えた。
 もう忍になんかなる気はない。
 兄のためにも命を大切にして、暮らしていきたい。
 俺にはメジロの差し出してくれた手を振り払う理由はなかった。

 そして俺は平穏を求め、新天地に向かった。