俺が生まれ育った忍の里は、奈川城よりさらに山奥にある、人口五〇〇人ほどの小さな集落だった。
 農作物が満足に育たない痩せた土地で生きていくために、里の大人は忍術を学び、侍に雇われることで生計を立てていた。
 優秀な忍は、この里では尊敬される存在となる。
 俺もそんな忍に早くなりたかった。
 そう……兄のような立派な忍に。
 
 俺の兄オオワシは、この里で最も腕のいい忍であり、常に任務に駆り出され、家を留守にしがちだった。
 その兄が今日、仕事を終え帰ってくる。
 俺は忍術の稽古を終え、帰ってくるなり、家の中を再点検した。
 米はすでに炊けている。風呂も事前に沸かしてあり、後は沸かし直すだけ。
 衝立の奥に畳んである綿布団は、天日干しを済ませた。
 久しぶりに帰ってきた兄が、自宅でくつろげる準備は万全にしてある。
 白米を食い、自宅の風呂に入り、畳に敷いた綿布団で寝る。
 両親を早くに亡くした俺たちが、こんな贅沢な暮らしが出来るのは、優秀な忍である兄のおかげだ。

「兄さん、おかえり!」
「ただいま、ハヤテ」
 兄が帰って来たのは、夕刻すぎ。
 いつものように穏やかな笑顔。しかし、その笑顔はどこか疲れた感じだ。
 先に里長の家に任務の報告に行ったせいだろう。
 兄はいつも里長と話すのは緊張すると言う。。確かに、あの神経質そうな爺さんを相手にしていたら、気疲れもする。
「いつも留守番、ありがとう」
 そう言って、俺の頭をなでてくれる。
 そのゴツく、温かい手でなでられると、兄が戻ってきた喜びと安堵を感じることができた。
「ご飯とお風呂、どっちにする」
「まずは風呂に入って、任務の疲れを流すとするか」
「じゃあ、湯加減見てくるね」
 兄が風呂を望んだので、裏にある風呂小屋に向かう。
 この里で、家に風呂があるのは里長と俺の家ぐらい。
 任務で疲れた兄の疲れが、少しでも癒えるようにとの、里長の計らいだった。
「あの爺さんも、いいところもある」
 そんなことを呟きながら、俺はちょうど良い湯加減になるように、窯に薪をくべた。

「やっぱり畳の上は落ち着くな」
 膳の前に座った兄からは、先ほどまでの疲れが消えているように見えた。
 夕飯の献立は、白米に鮎の燻製、それに蕎麦団子に干し芋。
「お、メジロ特性の燻製か。これは美味いんだよな」
 兄は嬉しそうに燻製をかじり、ご飯をかっこんだ。
 任務中はろくなものを食べられないので、家で食うご飯が美味しいようだ。
「この干し芋も美味いな、甘いものは疲れが吹き飛ぶ」
 そして、干し芋は俺の手製。
 自分が作ったものを、褒めてくれるのはこの上なく嬉しいことだった。
「ふ〜食った、食った」
 夕飯を済ませると、兄は生あくびをしながら、ゆっくりと背伸びをした。
「お布団、敷こうか」
「あ〜助かる。最近、任務が忙しくてな。早く布団で横になりたい」
「そういえば、兄さん。今回はいつまでいられるの?」
 大人たちは「このいくさは終わりに近づいている」「じきに西側の大将が天下を取る」と井戸端で噂をしている。
 その真相は俺には分からない。
 けど、いくさの回数が増えているのは、兄がこの家にいる期間が、少しずつ短くなっていることで気がついていた。
「ごめん、ハヤテ。明日には立つ」
 申し訳なさげに言う兄の表情を見ると、正直寂しかった。
 しかし、そんなことを顔に出して兄の負担になりたくない。それぐらいは理解できる歳だ。
「謝らなくていいよ。兄さんが任務に行ってる間、この家は俺が守るから」
「ああ、頼りにしている」
 そう言って横になろうとした兄が、動きを止める。
「もし良かったら、少し話さないか?」
 最近二人でゆっくり話す時間がないことを、兄も気にしてくれたのだろう。
 兄は自分が寝落ちするまで、俺と話す時間を作ってくれた。

「お前のこと、メジロが褒めてたぞ。飲み込みが早いって」
 兄は布団に横になり、側に座った俺に話しかけてくれた。
 自分で言うのもなんだが、俺は忍の素質はあるようで、早ければ来年には一人前の忍として任務につく予定だ。
 兄は俺が褒められたことを、自分のことのように喜んでくれている。
「うん、俺もメジロさんの元で修行して、早く兄さんの力になりたい」
「忍は……やめておけ」
 しかし一方で、俺の子供らしい夢には、兄にはあまり乗り気ではない様だ。
「お前はいろんな素質もあるんだ、忍以外も視野に入れるといい。そう、例えば玩具職人なんかどうだ? 子供たちにも喜ばれるし、何より……死ぬ心配がない」
「僕は忍になりたい。忍になって、手柄を立てて、兄さんの役に立ちたい」
 思えば、兄の言うことを素直に聞いたフリをしていればよかったが、この時の俺は、自分の夢を否定されて少し意固地になっていた。
 兄は少し困った表情をして、話を逸らす。
「もうじき、このいくさは終わる……そしたら忍も必要なくなる……だから」
 兄も俺の夢を否定するのは、楽しくないのだろう。
 俺もそんな気持ちを察し、忍になる夢の話は打ち切り、兄の言葉に相槌を打つ。

「いくさが終わるって、西側の大将が『天下人』になるの?」
 話の流れを変えるため、聞きかじった単語を並べてみせる。
「お、さすが勉強してるな。そう、このまま順当に行けばな。おそらく、近いうちに大いくさがある。そして、今の勢力差なら西側の大将が勝ち、彼がこの国を治めるだろう」
 戦乱の世は終わりに近づいている。
 兄が休む間もなく任務に駆り出されているのは、その前兆なのだろう。
「天下が統一され、いくさが終わったら、長い休みがもらえると思う。そしたらな、二人で旅行に行かないか、西の都とか」
「西の都?」
「ああ、西側の大将が住む街だ。なんかすごいらしいぞ。豪華な寺や、でかい仏像があって、毎日が祭りのように賑わっているらしい」
 正直、寺だの仏像には興味はなかった。
 けど兄と二人でのんびり旅行ができるのは楽しみだ。
 この狭い里から出たことのない俺には、話でしか聞いたことのない都の情景を想像するだけで、気分が高揚した。
「じゃあ、早くいくさが終わって欲しいね」
 そんな他愛もないことを話しているうちに、兄の瞼がどんどん重くなってゆく。
 優秀な忍である兄も、眠気には勝てなかった。
「おやすみ、兄さん」
 行燈の火を吹き消すと、俺は土間にムシロを敷いて横になった。

 翌朝、俺が起きた時には、すでに兄の姿はなかった。
「もう、任務に出かけたのか」
 ポロッと口から漏れる。
 几帳面に畳まれた布団と寝巻き。
 厨房には、おひつの残り飯で作られた、おにぎりが置かれている。
 おそらく、任務に持っていく自分の分のついでだろう。
 そして、メジロが作った燻製も一匹、微かにいい匂いを残している。
「全部食って良かったのに」
 自分の好物を、俺のために残しておいてくれた。そんな兄の気遣いが嬉しかった。

 兄の無事を祈りつつ、一人で朝食を食おうとすると、メジロが玄関を開けて入って来た。
「おう、ハヤテいるな」
「どうしたんです、稽古の時間にはまだ早い……」
 そう言ってから、メジロの格好が普段と違うことに気づいた。
「メジロさん、その格好?」
 普段着とは違う旅装束。手には杖を持ち、背中には小柄な体には不釣り合いな大きな行李を背負っている。
「夜逃げですか?」
「ばか、こんな堂々とした夜逃げがあるか。それに僕はこの里から逃げ出すような悪さを働いてはいないぞ」
 確かにメジロは、持ち前の無邪気さで色々とやらかしているが、里を追い出されるほどの悪事は働いていない。
 何より彼女がいなくなれば、忍を育てるものがいなくなり、この里が立ち行かなくなる。
「僕も今回の任務に駆り出されたんだ」
「へぇ」
 昨日、兄から聞いた、大いくさのためだろうか。
 子供たちに忍術を教えるメジロまで、任務に駆り出されるということは、相当な規模のいくさなのだろう。
「僕だけじゃない、この里の忍者が総出の仕事だ。そんなわけで、里に残った忍者の中では、君が最年長になる。子供たちの面倒を、僕に代わってしっかり見ておいてくれよ。それを伝えにきた」」
「俺が最年長?」
「ああ、ビャッコは十六歳になったからな」
 メジロは里長の孫の名前を言った。
 この里でも一六歳が一人前の区切りで、その年齢になれば忍者として実戦に駆り出される。
 それを聞き、俺も早く大人になって活躍したいという焦りが生まれた。

「それで、今回の任務はいつまでです?」
 俺が一番知りたかったのは、そのこと。
 今度いつ兄に会えるかだが、メジロは困ったように首を傾げてみせた。
「う〜ん、今回の任務は期限が決められてないんだ。ただ任務自体は、危険は少ないから安心して待ってろ」
 そしていつものような、悪戯っぽい笑顔を見せる。
「僕もオオワシも、ちゃんと戻ってくる。そしたら三人で、川に鮎を釣りに行こう。そうだハヤテ。君に燻製の作り方を教えてやる。僕の自慢の料理だ。忍術以上に感謝して教えを乞え」
 メジロの口調は明るいが、それはどこか上辺だけに感じた。
 子供たちを教えるメジロまでが任務に駆り出される。
 長引くいくさのせいで、里の忍者の人材枯渇は、そこまで来ていた。
 当然、それは一人ひとりの忍者への負担にもなるだろう。
 けど、俺は不思議と不安は感じなかった。
 兄もメジロも一流の忍だ。
 きっと無事に帰って来てくれる。俺はそう信じて、メジロを送り出した。

「あ、そうだ。メジロさん、ちょっと待ってて」
 俺は兄が残してくれた、おにぎりをメジロに渡した。
「お〜これはひょっとして、白い飯のおにぎりか」
 笹の葉に包まれた大きな二つのおにぎりを見て、メジロは嬉しそうに言った。
「はい、メジロさんにはいつもお世話になってますから」
「いや〜悪いねぇ」
「兄のことを、よろしくお願いします」
「安心しろ、オオワシのことは僕が守ってみせる。そして僕も手柄を立てて、君たちみたいに白い飯を食えるまで出世してみせる」
 そう言ってニコッと笑ってみせるメジロ。
「だから……僕たちの帰りをいい子にして待っているんだぞ」
 そう言って彼女は、自分より上にある俺の頭をなでてみせた。
 
 忍者として働ける大人たちが全員出払うと、途端に里は寂しくなった。
 残されたのは女子供と、里長をはじめとした老人たち。
 俺はそんな中、メジロの言いつけを守り、子供に忍術の稽古をつけていた。
 子供たちは俺に懐いてくれる。そして、俺の丁寧な指導は彼女よりも評判が良かった。
(メジロさん、あんまり教えるの上手くないよな)
 違う立場に立ってみて、初めて気づくこともある。
 二人の帰りを待ちつつ過ごす、平穏な日常。
 そんな日常が終わるのは、兄たちが任務に出てから、二ヶ月ほど過ぎてからだった。

 騒がしさに気づいた俺が家から出ると、里の入り口に三騎の騎馬武者がいた。
「敵襲……や違う」
 騎馬武者たちは味方である西側の旗を差していた。
 兜はかぶっておらず、着けている鎧も簡素。
 そして背負っている旗には「ムカデ」が描かれている。確か西側の伝令兵が使う旗だ。
 と言うことは、西側の陣からの使者か。
 あの殺気立った様子を見る限り、あまり明るい報告ではないだろう。
 俺は兄やメジロのことが気になり、人垣の前に割って入る。
 すると人垣で見えなかったが、里長を初め長老たちが、騎馬武者の前で土下座をしていた。
 里の人間たちは騎馬武者の剣幕に押され、遠巻きに見守るしかできない。
 俺が、ことの成り行きを見ていると、唯一頬面をつけた騎馬武者が、里長に向かって風呂敷包みを投げ捨てた。

 どすん
 重々しい音を立て、風呂敷の中から、中のモノが転がり出る。
 それを見た俺の呼吸が止まった!
 騎馬武者が放り投げたものの中身。
 それは兄オオワシの首だった……。