過去の記憶が陽炎のようにゆらめき、消えていった。
そして一人、現実に胸を締め付けられる。
天下人が決めた見合いというなら、それが事実上の婚姻であると言っていい。
もしこの見合いで、葵様が幸せになるのなら、俺は身分差を言い訳に、この想いを断ち切ることができた……いや、しなければと思う。
しかし、葵様の見合い相手に選ばれた清成という男。
やつが葵様を幸せにしてくれるとは、到底思えなかった。
「葵様はどう考えているのか……」
あのような男との、結婚を受け入れるつもりなのか。
心の奥から、湧き上がる衝動。
俺は懐から、かんざしを取り出した。
あの庭に捨てられたかんざし。どこにでも売っている安物の玩具。
だけど、これを手に取った時の、葵様の笑顔を俺は忘れることができない。
そして葵様からもらった香袋。
彼女の香の匂いが、俺の気持ちを焚きつける。
会いたい!
そして葵様の本当の気持ちを知りたい。
外を見ると、日は沈みかけていた。
今はまだ時間が早い。
城の者たちが行動している。今、動くわけにはいかない。
俺は一度芽生えた焦りを抑えることができず、陰鬱な状態に苦しみ続けた。
日が沈み奈川城が静まり返る頃。
俺は月明かりを頼りに葵様の部屋を訪れた。
これからの行動の意味、そしてその結果。
それは、俺が一年間積み重ねてきたものを、一瞬にして瓦礫にしかねない。
だが、それでも自分の行動を止めることはできない。
そうしなければ……張り裂けそうな心は、俺を再び絶望の日々に落とし込むだろう。
裏庭に面した葵様の部屋。
彼女は窓辺で本を読んでいるだろうか、障子越しに人影が浮かんで見えた。
俺は少し様子を伺ったが、この時間、部屋には葵様ただ一人。他には誰もいない様子だ。
「ほうほう」
覚悟を決め、フクロウの鳴き真似をした。葵様を呼ぶ時の二人で決めた合図だ。
それが聞こえたのか、障子戸の向こうで彼女の影が動いた。
「ハヤテなの?」
障子に近づいてきた葵様の影が大きくなる。
そして、障子の向こうから焦ったような口調で、俺の名を確認した。
「そうです……」
「怪我は無事ですか」
「こう見えても鍛えてますから」
「よかった……」
葵様が安堵で胸を撫で下ろすが、どこかその声の歯切れの悪いのは、俺を置いて行ったことへの罪悪感からだろうか。
だが俺は、そんな葵様を攻めるつもりなどない。
彼女の優しさを知っているから、鶴姫に逆らえず彼女が苦しんでいたこともわかる。
「葵様に……お聞きしたいことが」
葵様は、俺の無事な姿を見たかったのか。障子を開けようとした。
だが、俺はその動きを制するように、葵様に声をかけた。
俺の問い詰めるような口調に、葵様の動きが止まった。
彼女の気持ちを知りたいと同時に、今頃になって自分を押し留めようとする気持ちも働いた。
聞いてどうする?
覚悟していたはずなのに、俺の心の弱さが、再び問いかけてくる。
もし彼女の気持ちが、俺の望むものと異なっていたら。その事実を受け入れる事はできるのか?
だが、もう後戻りはできない。
「この度の見合いの件です」
「……」
障子越しに葵の動揺が伝わってきた。
彼女を困惑させたことを……俺は少し後悔する。
だが、一度口に出した以上もう後に引けない。そう考えながら、葵様の答えを待った。
しかし彼女は何も言わない。ただ、障子の向こうで黙りこくっているだけだ。
重い空気が二人に流れる。
障子に写る影からは、葵様の表情までは分からない。
この障子を開け、葵様の顔を見たい気持ちを自制し、俺は沈黙に耐える。
「ハヤテ……」
少し時間が経って、葵様はようやく口を開いてくれた。
戸惑いながら、少しずつ言葉を選び、発せられる声。
「私は、この城の姫です。侍の家に生まれた女の……しきたりに……従うだけです」
絞り出すように言った葵様の声。それは彼女の本心とは、とても思えなかった。
「それでよいのですか?」
愚問だが、口に出さずにはいられない。
葵様自身、この結婚話を喜んで受け入れているとは思わない。
だからこそ俺は彼女の偽りのない心の声を聞きたかった。
「どういうことです?」
「俺は、葵様の本当の気持ちを知りたい……」
俺の更なる問いかけ。
しかし葵様の答えは意外なものだった。
「もう私を苦しめないで……」
俺の想いとは裏腹に、葵様は静かに言う。
彼女は俺と向き合うことを、拒絶した。
その答えに、混乱とそして微かな失望を感じる。
いや、何を失望しているのか。
葵様の返事の内容にか?
それとも……無理やり返答を迫った、俺の余裕の無さになのか。
返事を求めておきながら、それで得た答えを、俺は受け入れられないでいる。
そんな俺の沈黙に、彼女は追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「私はこの城の姫、あなたは使用人。住む世界が違うのです。わかってください……」
ゆっくりと、そして感情を押し殺したような言葉。
まるで心の動揺を、無理やり押さえつけるための口調だった。
俺は心が折れるのを感じた。
この一年間、俺の中にあった葵への想い。
そして、彼女が持っていただろう、俺への気持ち。
そのようなものは身分差の前には、あっさりと打ち砕かれる。
しかし彼女を責める気持ちは湧いてこない。
この世の中のしきたりは、俺たちの力ではとても乗り越えられるものではない。
それが分からないほど、子供ではない。
「所詮は身分が違いますから」
俺の口から、不意に言葉が漏れる。
全てを諦めたような、ひとこと。
それを聞いた葵が、どう感じるか。それを考える心の余裕などなかった。
葵が告げたように、俺自身もこの世界の身分制度を引き合いに出すことで、逆らえない現実への折り合いをつけようとしたのか。
今、そのことを深く考える必要は感じない。
たとえ、葵の本心が別の所にあったとしても、どうすることも出来ないのだ。
現実を突きつけられたのだから、あとは受け入れるしかない。
「出過ぎたことをしました、申し訳ありません」
彼女が障子の向こうで、どのような面持ちでいるかは分からない。
そしていま、この目の前の障壁を打ち壊し、それを確かめる情熱も俺には湧き出てこない。
俺の想いは、この和紙でできた壁を、乗り越える事はできなかった。
所詮は使用人と姫……身分も、住む世界も違う……
そう心の中で呟くことで、自分の気持ちを落ち着けようとする。
そして心にのこた、残り火を吹き消すように、俺は腕を振った。
とん。
かんざしが木の幹に突き刺さった音がした。
葵様に手渡そうとした、このかんざしは、棒手裏剣のように俺の手から放たれる。
そして、俺は突き刺さったかんざしに近づくと、その端に、葵からもらった香袋を引っ掛けた。
この二つは、これからの俺の人生には不要なもの。
(また俺は、逃げ出すのか……)
俺は未練を振り切ると、障子越しに見える影に一礼し、夜の薄闇に駆け出した。
月光の下、夜道を駆けながら、奈川城に来る前のことを思い出した。
忍の里から抜け出した時も、こんな感じの月明かりに照らされていたからだろう。
そして一人、現実に胸を締め付けられる。
天下人が決めた見合いというなら、それが事実上の婚姻であると言っていい。
もしこの見合いで、葵様が幸せになるのなら、俺は身分差を言い訳に、この想いを断ち切ることができた……いや、しなければと思う。
しかし、葵様の見合い相手に選ばれた清成という男。
やつが葵様を幸せにしてくれるとは、到底思えなかった。
「葵様はどう考えているのか……」
あのような男との、結婚を受け入れるつもりなのか。
心の奥から、湧き上がる衝動。
俺は懐から、かんざしを取り出した。
あの庭に捨てられたかんざし。どこにでも売っている安物の玩具。
だけど、これを手に取った時の、葵様の笑顔を俺は忘れることができない。
そして葵様からもらった香袋。
彼女の香の匂いが、俺の気持ちを焚きつける。
会いたい!
そして葵様の本当の気持ちを知りたい。
外を見ると、日は沈みかけていた。
今はまだ時間が早い。
城の者たちが行動している。今、動くわけにはいかない。
俺は一度芽生えた焦りを抑えることができず、陰鬱な状態に苦しみ続けた。
日が沈み奈川城が静まり返る頃。
俺は月明かりを頼りに葵様の部屋を訪れた。
これからの行動の意味、そしてその結果。
それは、俺が一年間積み重ねてきたものを、一瞬にして瓦礫にしかねない。
だが、それでも自分の行動を止めることはできない。
そうしなければ……張り裂けそうな心は、俺を再び絶望の日々に落とし込むだろう。
裏庭に面した葵様の部屋。
彼女は窓辺で本を読んでいるだろうか、障子越しに人影が浮かんで見えた。
俺は少し様子を伺ったが、この時間、部屋には葵様ただ一人。他には誰もいない様子だ。
「ほうほう」
覚悟を決め、フクロウの鳴き真似をした。葵様を呼ぶ時の二人で決めた合図だ。
それが聞こえたのか、障子戸の向こうで彼女の影が動いた。
「ハヤテなの?」
障子に近づいてきた葵様の影が大きくなる。
そして、障子の向こうから焦ったような口調で、俺の名を確認した。
「そうです……」
「怪我は無事ですか」
「こう見えても鍛えてますから」
「よかった……」
葵様が安堵で胸を撫で下ろすが、どこかその声の歯切れの悪いのは、俺を置いて行ったことへの罪悪感からだろうか。
だが俺は、そんな葵様を攻めるつもりなどない。
彼女の優しさを知っているから、鶴姫に逆らえず彼女が苦しんでいたこともわかる。
「葵様に……お聞きしたいことが」
葵様は、俺の無事な姿を見たかったのか。障子を開けようとした。
だが、俺はその動きを制するように、葵様に声をかけた。
俺の問い詰めるような口調に、葵様の動きが止まった。
彼女の気持ちを知りたいと同時に、今頃になって自分を押し留めようとする気持ちも働いた。
聞いてどうする?
覚悟していたはずなのに、俺の心の弱さが、再び問いかけてくる。
もし彼女の気持ちが、俺の望むものと異なっていたら。その事実を受け入れる事はできるのか?
だが、もう後戻りはできない。
「この度の見合いの件です」
「……」
障子越しに葵の動揺が伝わってきた。
彼女を困惑させたことを……俺は少し後悔する。
だが、一度口に出した以上もう後に引けない。そう考えながら、葵様の答えを待った。
しかし彼女は何も言わない。ただ、障子の向こうで黙りこくっているだけだ。
重い空気が二人に流れる。
障子に写る影からは、葵様の表情までは分からない。
この障子を開け、葵様の顔を見たい気持ちを自制し、俺は沈黙に耐える。
「ハヤテ……」
少し時間が経って、葵様はようやく口を開いてくれた。
戸惑いながら、少しずつ言葉を選び、発せられる声。
「私は、この城の姫です。侍の家に生まれた女の……しきたりに……従うだけです」
絞り出すように言った葵様の声。それは彼女の本心とは、とても思えなかった。
「それでよいのですか?」
愚問だが、口に出さずにはいられない。
葵様自身、この結婚話を喜んで受け入れているとは思わない。
だからこそ俺は彼女の偽りのない心の声を聞きたかった。
「どういうことです?」
「俺は、葵様の本当の気持ちを知りたい……」
俺の更なる問いかけ。
しかし葵様の答えは意外なものだった。
「もう私を苦しめないで……」
俺の想いとは裏腹に、葵様は静かに言う。
彼女は俺と向き合うことを、拒絶した。
その答えに、混乱とそして微かな失望を感じる。
いや、何を失望しているのか。
葵様の返事の内容にか?
それとも……無理やり返答を迫った、俺の余裕の無さになのか。
返事を求めておきながら、それで得た答えを、俺は受け入れられないでいる。
そんな俺の沈黙に、彼女は追い討ちをかけるように言葉を続けた。
「私はこの城の姫、あなたは使用人。住む世界が違うのです。わかってください……」
ゆっくりと、そして感情を押し殺したような言葉。
まるで心の動揺を、無理やり押さえつけるための口調だった。
俺は心が折れるのを感じた。
この一年間、俺の中にあった葵への想い。
そして、彼女が持っていただろう、俺への気持ち。
そのようなものは身分差の前には、あっさりと打ち砕かれる。
しかし彼女を責める気持ちは湧いてこない。
この世の中のしきたりは、俺たちの力ではとても乗り越えられるものではない。
それが分からないほど、子供ではない。
「所詮は身分が違いますから」
俺の口から、不意に言葉が漏れる。
全てを諦めたような、ひとこと。
それを聞いた葵が、どう感じるか。それを考える心の余裕などなかった。
葵が告げたように、俺自身もこの世界の身分制度を引き合いに出すことで、逆らえない現実への折り合いをつけようとしたのか。
今、そのことを深く考える必要は感じない。
たとえ、葵の本心が別の所にあったとしても、どうすることも出来ないのだ。
現実を突きつけられたのだから、あとは受け入れるしかない。
「出過ぎたことをしました、申し訳ありません」
彼女が障子の向こうで、どのような面持ちでいるかは分からない。
そしていま、この目の前の障壁を打ち壊し、それを確かめる情熱も俺には湧き出てこない。
俺の想いは、この和紙でできた壁を、乗り越える事はできなかった。
所詮は使用人と姫……身分も、住む世界も違う……
そう心の中で呟くことで、自分の気持ちを落ち着けようとする。
そして心にのこた、残り火を吹き消すように、俺は腕を振った。
とん。
かんざしが木の幹に突き刺さった音がした。
葵様に手渡そうとした、このかんざしは、棒手裏剣のように俺の手から放たれる。
そして、俺は突き刺さったかんざしに近づくと、その端に、葵からもらった香袋を引っ掛けた。
この二つは、これからの俺の人生には不要なもの。
(また俺は、逃げ出すのか……)
俺は未練を振り切ると、障子越しに見える影に一礼し、夜の薄闇に駆け出した。
月光の下、夜道を駆けながら、奈川城に来る前のことを思い出した。
忍の里から抜け出した時も、こんな感じの月明かりに照らされていたからだろう。


