俺は、生まれ育った忍びの里を逃げ出すような形で、この奈川城にやってきた。

 そしてメジロの口利きで、使用人として働くことになる。
 俺の最初の仕事は、城主の息子の誕生日会の警備だった。
 東西に分かれ争っていた戦乱の世は終局に向かい、奈川城の属する西側が天下統一へあと一歩の状態。
 戦線はこの島国のはるか東へ移り、奈川城の防衛拠点としての戦略価値はほとんどなくなっていた。
 そんな小城の宴会警備という退屈な仕事。
 そして俺は最初から勤労意欲をなど持ち合わせておらず……早速仕事をサボることにした。

「こんなちんけな城、誰も盗みに入らねぇよ」
 雇ってもらった恩はあるものの、侍どもの馬鹿騒ぎの警護など、真面目にやる気はない。
 勤務初日だと言うのに、俺は干し芋を齧りながら、次の仕事をどうするかを考え始めていた。
 里を抜け出す便宜上、この城で働くことになったが、侍にこき使われるなどまっぴらごめん。
 ある程度、種銭が溜まったらここを出て街を目指そう。
「腹が減っては、仕事もできぬ」
 そんなことを考えながら、干し芋を一口かじり、眉を顰める。
 せっかくメジロがくれた手作りの干し芋だが、熟成が足りないせいか、甘みが足りない。不味くはないが、これなら俺が作った方が美味い。
 もちろん、俺はそれを口に出すほど礼儀知らずではないが。

 そう思った瞬間、俺は自分の手元に視線を感じる。
「さ、サボってません」
 慌てて立ち上がりながら、言い訳をした。
 仕事を初日でクビになり、里に送り返されるのは、流石にごめん被りたい。
 あんな場所に戻りたくないから、俺はこうやって真面目? に働こうとしているのだから。 
 が、視線の主は、城の使用人ではなかった。
 背丈はメジロと同じぐらいの小柄な少女。
 年は俺より少し下か同じぐらいか。
 黒目がちの大きな目に綺麗な黒髪、俺たち使用人とは違う綺麗な着物を着ている、上品な感じの少女だった。
 宴会に参加している侍の娘だろうか?
 俺はそう考えて、使用人らしく丁重な態度で女の子に聞いてみた。
「どうしたのですか、道に迷いましたか?」
 いや、いくら何でも子供ではないんだ、天守の方向ぐらいはわかるだろう。
 かといって、こんな少女が侵入者とも思えない。
「えっと……」
 少女はうまく言葉が出てこないようで、俯き加減で声を詰まらせる。
「安心してください、僕はこの城の使用人です。宴会に戻られますか?」
 この子は俺のことを警戒しているのか、それとも人と話すのが苦手なのか?
 できるだけ、相手に話しやすいように優しい口調で聞いてみた。
 が、相変わらず彼女は俺の手元を見ながら、もじもじしている。

(とりあえずは、メジロさんに報告すべきだな)
 面倒くさいことは自分で抱え込まずに、上に報告。
 そうすれば、俺は責任を取らなくても済む。
 そう判断して、目の前の子の名前ぐらいは聞き出そうと思った。
「お名前、教えてもらえますか?」
「ま、葵……深志葵です……」
 えっ! 俺はその名前を聞いて、少し驚く。
 深志といえば、この城の城主の苗字。
 そして葵は、確か城主の娘の名前。

 なぜ、この城の姫がこんな場所に?
 と一瞬思ったが、ここで働く際、メジロから言われた警告を思い出した。
 その中の一つ、「奈川城主の鶴姫は冷徹な女性だから、絶対に不興を買うな。そしてその親子関係には絶対に関わるな」と。
 そういえば、今回の宴会の主役は鶴姫の実子である竹千代。
 その子は現在、西側の総大将の元に人質に出されているが、七歳の誕生日に一時帰省を許されて奈川城に戻っている。
 一方、目の前にいる葵は、先代の城主の子。
 後妻である鶴姫とは血の繋がりはない。
 要は、この葵という少女は、血のつながらない弟が主役の宴席には居場所がなく、一人こうやって抜け出した訳か。
(めんどくせぇ、関わりたくないな)
 とはいえ、まだ春先で風も冷える。
 目の前で暗そうな表情をしている少女を、放置しておく訳にはいかない。
 それに、俺は一人でサボっていたい。
 この暗い感じのお姫様と、二人でいるのは正直しんどい。
(とっととメジロさんに、報告するか)

「ここでちょっと待ってて……」
 報告のためにこの場を離れようとした時、葵は相変わらず、俺の手元を見ていた。
 そして葵の視線が、干し芋に注がれていることに俺は気づいた。
「あ……あの、これよければ食べますか?」
 この姫様は腹が減っているのか。
 俺は笹の葉に包まれた、干し芋を差し出してみせる。
 だが葵は干し芋をじっと見たまま、小さく首を振った。
 そうだよな。こんな下々の食事を、姫様が食うわけがない。
 と思ったが彼女の顔からは、干し芋への羨望の視線と、俺への遠慮の視線が交互に向けられていた。
 ひょっとすると……。
 俺はこの少女に、もう一度言葉を選んで問い直した。
「姫様、僕は少食で、干し芋を二枚も食べられないのです。ですから、この残った一枚、よかったら召し上がってください」
 もちろん、腹いっぱいなのは嘘だ。
 だがこの子は、どうやら他人の物を貰うのを遠慮しているらしい。
 この城の姫様なのだから身分は当然、侍。
 侍なら他人の物を奪っても平気な人種だと思っていたが、彼女は違うらしい。

 俺の言葉を聞いた葵は、遠慮がちに差し出した干し芋を受け取った。
 そして一口食べると、その表情はパァッと明るくなった。
「美味しいですか?」
「美味しい……」
 よほど腹が減っていたんだろう。ごくありふれた味のメジロの干し芋を、ものすごく美味しそうに食べている。
(俺が作った干し芋の方が、美味いんだけどなぁ)
 そんな顔を見ていると、俺はつい、自分が作った干し芋なら、彼女をもっと笑顔にできるのでは、などと考えていた。
 そして彼女は人の目を見て話すのが苦手なのか、俯き加減で、けど嬉しそうにポツリと言った。
「ありがとう」

(えっ!)
 俺は……その横顔を見て……心を射抜かれた。
 先ほどまでは暗い感じの女だと思っていた。
 だが、今見せた彼女の控えめな笑顔は、優しく温かく、そして気品があった。
 今まで見たこともない素敵な笑顔。
 俺の育った里は貧しく、いつも皆がお互いを監視し合い、そこには安らぐような笑顔など存在しなかった。
(落ち着け、落ち着くんだ、俺)
 精神を集中して、胸の高鳴りを懸命に押さえつける。
 侍の身分の女に、心惹かれたことを認めたくないという、侍への憎しみと妙な意固地さもあったかもしれない。
自分の心の奥に芽生えた気持ちを打ち消すように、俺は使用人として振る舞おうとした。
「葵様、このような場所におられると、皆が心配されますよ」
「私は、別にいなくてもいいから」
 あ……しまった……。
 やはり葵は、あの宴会には居場所がなかったのだろう。
 俺は自分の思慮の浅さを悔やんではみた。
 とはいえ、いつまでもここに一緒にいる訳にはいかない。
 俺が判断にあぐねていると、城の方から微かな声が聞こえた。
 メジロの声だ。葵の名前を呼び、周囲を探している。
「えっと、使用人が葵様を探しているようですが」
 気が進まなかったが、伝えないわけにはいかない。
「戻らないと、いけないですね……?」
 葵は暗い表情で、俺に聞き返す。
 宴会には戻りたくないのだろう。
 そして落ち込んだ彼女を見ると、俺もなぜか心苦しくなった。

 できればもう少し一緒にいてあげたかった。
 だが葵は、まるで自分の役目を果たすように、渋々と宴会の方へと戻ろうとした。
 そんな彼女の背中に、俺は思わず声をかけた。
「あ、俺、今日からこの城で働くハヤテって言います。以後お見知り置きを」
 唐突な自己紹介。我ながら間抜けな感じである。
 だが俺は、彼女に自分の名前を覚えておいて欲しかった。
「ハヤテ……ごめんなさい、迷惑をかけて」
「迷惑など、とんでもない。もし葵様さえよければ、また干し芋を献上しに参ります」
 先ほど一瞬だけ見せた明るい表情。
 俺は彼女のその表情をまた見たかった。
 そして、俺が作った干し芋なら、もっと彼女を笑顔にできる自信もあった。
 俺は葵の前にあえて大袈裟に跪いて見せる。
 そんな道化ぶりを見て、葵は「くすっ」と笑ってくれた。
 そして控えめな口調でこう言った。
「干し芋、美味しかったです。また……食べたいな」
 
 それ以来、俺は葵様の元へ、理由をつけては顔を出すようになった。
 約束通り干し芋を届け、そしてある時は手作りの玩具や、仕事の合間に採ってきた木の実を持参して。
 俺がどのようなものを持参しても、葵様は喜んで迎え入れてくれた。
 そして一緒に過ごす時間が増えるうちに、彼女は義母に冷たく扱われ、この城に居場所のないことを知った。
 城主の鶴姫は、血の繋がらない葵様に愛情を注ぐことなく、城の姫として、まるで物のように扱っていた。
 葵様にとっては、この奈川城は広大な牢獄。
 その心は、常に鎖に繋がれているようだった。

 だが葵様は、俺と一緒にいることで少しずつ笑顔が増えていた。
 一方の俺も葵様の笑顔に支えられて、他人のために何かをする喜びを思い出した。
 葵様の存在のおかげで、この奈川城が自分の居場所だと思えるようになった。
 忍ではなく、城の使用人が俺の天職だと思えるようになった。
 俺が手に入れた退屈だが平穏な日々。
 この生活がこれからもずっと続いて欲しかった。
 俺と葵様。いずれは二人とも別々の道を歩くことにはなるだろう。
 そんな事はうっすら分かっていた。

 だけど、それはもっと先のことだと言い聞かせつつ、俺は今の幸せを大切に、日々を生きてきた。
 しかし、その時間は、いま終わろうとしていた。