見慣れた緑色の電車が、遠ざかっていく。
少しだけ泣き出したい気持ちに駆られて、乗れなかった。
飲んでいたとか、誰かと一緒にいたとか、そういうことはなくて……
自宅に帰りたくなくて、自主的に見送った最終電車。
終電を逃したのは、大学生になってから初めてだ。
自分好みの部屋は、自分らしく生きるために作ったはずだった。
いつから、寂しさを増幅させる場所になってしまったのだろうか。
そんなことを考えながら、駅から遠ざかる。
後先考えずに終電を逃してしまったな、と思いながらも足は赴くままに動いた。
いつもだったら、演劇を見に行ったりして寂しさを埋める。
それでも、こんな時間にやってるところはない。
お昼時には人並みが途切れない駅前の通りは、まばらだがまだ人がいる。
こんな時間までここにいて、この人たちはどこへ行くのだろう。
週末はまだ遠い。
水曜日の夜は、濃い夏の匂いがした。
それでも、半袖から覗く腕が少し肌寒い。
ぐんぐんと大通に近づいてくる。
私、大通に向かってたんだ。
理由も、ないけど。
ぱちんっと音がして、誰かと目があった。
十五分ほど歩いて、足が疲れてきた頃。
まるんっとした髪の毛の男の子はベンチに座って、私を射抜いていた。
「こんばんは?」
声を掛けられて、身構える。
同い年? ちょっと年下っぽい。
にしては、こんな時間に出歩いてる?
返事をする前に脳内にいろいろな考えがよぎっていく。
考えることに疲れて、止めた。
冷えた空気で肺を冷やしてから、同じ言葉を返す。
「こんばんは」
「終電逃したの?」
私の状況を見抜いて、口元を緩める。
フランクな話し方に、子犬みたいな笑い方。
正直、可愛いなと思ってしまった。
白い肌が夜に馴染んで、夜の妖精みたいだ。
「そうですね、お兄さんも?」
「そうといえば、そう」
「そうといえば、そう」
同じ言葉をオウム返しする。
私も、「そうといえば、そう」だ。
終電を逃す必然的理由はなかったし、乗ろうと思えば乗れた。
でも、結果的には逃している。
しっくりくる言葉に、体の力が抜けた。
どうぞ、と無言のまま左手で、ベンチを差し示される。
私も無言のまま、ありがとうと両手を合わせた。
二人で星空を見上げる。
誰かのぬくもりをこんなに近くに感じたのは、いつぶりだっただろうか。
自宅にいるよりも、心が暖かい気がしてつい口元が緩んでいく。
横目にお兄さんを眺めれば、口をぽかんと開けて空を見ていた。
何か聞いてみたい気もするけど、黙っていることが心地よい。
だから、凪いでる風を浴びながら目を閉じる。
ふわりふわりと、やりたいことが宙に浮かんでいく。
大学生になっても、私自身何をしていいかわからなかった。
友だちと呼べる人たちは、大学構内でしか共に過ごせない。
学ぶ内容も身に付いてる気はしないし、ただ無意に時間を過ごすばかりだった。
休んだことも遅刻したこともない。
それでも、何を学んでるのかすらあやふやだ。
入学した時は、まだ少しだけ期待があった。
一緒に過ごす仲間ができて、キラキラとした大学生になれるという夢。
実際の私は、講義中に話す相手もいない。
隣に座る学生の名前すら知らなかった。
家に帰っても一人で何をしていいか分からず、ただ、布団に包まる。
時間があまりに静かにゆっくり流れるから、私の心の傷口は開くばかりだった。
すぅっと深呼吸する音が聞こえて、考え事をしていた脳が止まる。
次の言葉を待つ間に、ただ息が空に登って行った。
「お兄さんって呼ぶけど、僕のこと誰かわかってない感じ?」
意を決したように放たれた言葉に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その度に、宙に浮かんでいたやりたいことは割れて消える。
誰か、誰だ、誰?
「だれ?」
「やっぱ、わかってなかった。隣に座ったこともあるんだけどな」
少し高めの笑い声が、心地よく耳に響いた。
隣に座ったこと……
同じ電車にいつも乗ってる人、だろうか?
お兄さんは私の問いには答えずに、ベンチから立ち上がる。
そして、私の目の前で右手を差し出した。
どういう意味かはわかる。
わかるけど、わからない。
行き場を失った右手を、お兄さんは引っ込めることもせず私の方をじっと見つめていた。
口角の上がった優しい笑顔のまま。
「ん?」
顎でしゃくるように右手をさす。
仕方なく手を取れば、引っ張り上げられた。
「甘いものでも食べに行かない?」
「はい?」
「君も、周りの子たちみたいに太るとか気にする?」
しない。
いや、正直にいえばいつもなら気にするかもしれないけど。
今日は大したものも食べていないから、かまわない。
むしろ、ここ最近はあまり食も進んでいなかった。
暑さのせいだと思い込んでいるけど。
周りの子たちみたいには、誰に掛かってるんだろうか。
私の友だち(仮)?
でも、そういう子なのかどうかすらわからない。
だって会話は「この課題来週提出だって」とか、「この教授めっちゃ楽だよね」くらいだもん。
「よし、問題なさそうだから行こう」
お兄さんは私の左手を優しく握りしめて、迷いなく進んでいく。
ぬるい体温を感じながら、私も握り返す。
柔らかい手のひらに、少しだけドキドキしながら。
すれ違う人たちは大体酔っ払っていて、真っ赤な顔に、おぼつかない足取りだった。
何人かのよっぱらいとすれ違い、光が増していく。
夜の街だけど、終電後といえど人通りが多いところだ。
変なところに連れて行かれることはなさそう。
一つの小さいビルの前で立ち止まって、私を確認する。
小さい声で問いかけられた。
「お酒、飲めるよね?」
年齢的な話なのか、アレルギー的な話なのか。
わからないけど、どちらにせよ飲めるので頷く。
お兄さんは私の返答に満足そうにエクボを作って、ビルの中に入った。
少し埃っぽいビルの中は階段とエレベーターしかない。
壁には、ビルに入ってるテナントの名前がずらりとはられていたけど。
どこに向かうのかわからず、エレベーターに二人で乗り込む。
ここまでくるともはや、ワクワクの方が強くなってきた。
甘いものを、こんな夜の街で食べる。
すっと思い浮かんだのは、パフェだった。
間違っていなかったらしく、エレベーターが開いた瞬間メルヘンな空間が広がっている。
店員さんに案内されて、カウンターの奥の方へ座った。
ネオンが店内で輝いているし、動物の置物がいたるところに置かれていて可愛らしい。
メニューを眺めれば、お酒のパフェのようだ。
だから、先ほどの質問だったのか。
納得しながら、浮いた足をぷらぷらと揺らす。
店に着いたというのに、左手はお兄さんの右手に捕まえられたままだった。
「どれにする?」
お兄さんは私の方を向いて、首を傾げる。
ネオンが輝いてるというのに、店内は薄暗く表情は読めない。
メニューも見ずに、人差し指を置く。
梅酒のパフェを選んでいた。
「俺もそれ好きー」
ゆるっとした返答に、胸が変な音を立てる。
さっきまで俺と言っていたっけ?
お兄さんは楽しそうな声で店員さんに注文をしてから、私の左手を解放する。
そして、ピッチャーからグラスに水を注いだ。
ちゃぷんっと水面が跳ねる音が、耳に響く。
「で、誰かわかった?」
「ヒントまったく、なくないですか?」
「じゃあ、君の年齢を当てよう。ハタチになりたて」
「正解、です」
注文したパフェが目の前に届いて、それ以上私たちの間には会話がなくなった。
ほんのりお酒の香りがする甘酸っぱいアイスを頬張る。
お兄さんのこと見たこと、あるだろうか。
考えてみても、記憶にない。
そもそも誰かと関わりがあったことはほとんどないのだ。
だから、思い出そうとしたところで答えは変わらない。
パフェとはいえ、アルコールが入ってるようで頭がふわふわとする。
今ならお酒のせいにして、なんでもできる気がした。
「なんて呼べばいいんですか」
「なんでもいいけど」
「名前もわかんないんですけど」
顔全体がポカポカしてきて、視界が揺らぐ。
そんなことすら面白くて、つい、笑ってしまった。
「楽しい?」
その問いかけに、一瞬現実に引き寄せられる。
私の理性はもうどこかに消えたらしい。
勝手に口から、素直な言葉が吐き出されていく。
「寂しい」
寂しくて、寒くて、どうしようもない。
帰る場所が欲しい。
一人で居ると、苦しさが親しげな顔をして私の肩を抱きしめてくるから。
誰ともうまくできない。
お前は一生寂しさと生きていくんだ、って言いに。
「そっかそっか」
お兄さんは私の言葉を聞いても、変わらずに柔らかく明るい声を出した。
聞き心地が良くて、お酒が楽しくて、寂しさを少しだけ忘れられる。
空になったパフェのグラスを眺めた。
有は無になる。
いつか失うなら、一人でいいかもしれない。
そう思うと、寂しさとも付き合っていけるような気がしてきた。
そのために、今日私はお兄さんに会ったのかもしれない。
あまりにも甘すぎる考えな気もするけど。
「じゃ、次行こうか」
「次?」
「俺のこと思い出すまで帰す気ないけど」
優しかった目線が突き刺さる。
不意に変わった口調に、抱き寄せられたような感覚になった。
全身に血が巡ってる。
「それに、あんなにキラキラした目で見つめてくれてたのに思い出してくれないのは、ねぇ?」
そんな一言と共に、また左手を握りしめられる。
立ち上がれば、足元がふわふわと揺れた。
「お酒弱かった?」
「飲んだことないのでわかりません」
「飲み会とかは?」
「行ったこと、ないので」
本当の友達も、知り合いもいないから。
憧れがないわけではないけど、居るのに居ない存在になる方が寂しさは増す。
だから、一度も行かなかった。
店の外に出れば、思ったよりも寒い空気が頬を冷やす。
頭が少しずつ、現実に帰ってくる。
だいぶ恥ずかしいことを口走った。
それでも目の前のお兄さんは、まだ、私の手を掴んでいる。
夜の街は、煌びやかな人で溢れていた。
こんな時間なのに、まだたくさんの人たちがいる。
ここなら私の寂しさは埋まる気がした。
夜なのにまだ明るい街の間を、通り抜ける。
大きな笑い声や、可愛らしい女の子の声。
誰かの歌い声。
様々な音が、私の耳に届く。
お兄さんはお酒に強いらしく、しっかりとした足取りでビルの間を進んでる。
どこに行くんですか、と聞く気も起きなかった。
一人じゃないなら、どこでもいい。
寂しさから逃れるために、まだ一緒に居たい。
キレイな鼻筋を見上げながら、年は近そうだなと思う。
同い年という感じでもしないけど。
最初は年下に見えたけど、しっかりしてるところを見ると年上。
それに、私の年齢を知ってる上でちょっと子ども扱いしてきてる。
「お兄さんは、一、二歳くらい年上?」
「お、大正解」
「どうして、私に思い出して欲しいんですか」
私がどこかで会った人。
私のことを知っていて、私が知らない人。
自己紹介をして初めましてをすればいいのに。
わざわざヒントを出して、私に思い出させようとする意味がわからない。
ぽつりとこぼれ落ちた質問に、お兄さんは立ち止まる。
そして、熱のこもった瞳で私を見ていた。
「どうしてだと思う?」
はぐらかされると思った。
だって、さっきから私が当てるまで何一つきちんと答えてくれない。
お兄さんに合いそうな名前を思い浮かべる。
私が何も答えないことを察したのか、また歩き出した。
白い肌に、あたたかい笑顔。
ぼんやりと冬と陽が浮かんだ。
「とうや、とか」
「え?」
「あ、お兄さんの名前どんなのかなーって考えてて」
気まずくて、へへっと笑ってしまう。
お兄さんは私の方に振り返る。
そして、輝くような笑顔を見せた。
「とう、の部分はあってるよ」
「冬でとう?」
「そう、冬生まれだから」
しっくりくる。
雪の妖精と言われたら、納得できるくらい。
だって、儚くて、白くて、ふわふわしてる。
「とう、とうま、とか!」
「お、正解」
「とうまさん」
また幸せそうな顔でこちらを見つめるから、勘違いしてしまいそうになる。
誰かに好かれるなんてありえないのに。
とうまさんは私の左手の手のひらを上に向けさせた。
そして、指で手のひらをなぞる。
「冬に真実の真で、冬真」
「冬真さん」
「ほのかちゃん」
「私の名前まで知ってるってことは、うーん」
大学が思い浮かんだ。
それでも、大学で私の名前を覚えるようなきっかけは想像がつかない。
サークルにも参加していないし、講義でも目立つことはしていなかったはずだ。
きちんと講義に参加してはいるし、発言もしてるけど。
大体の学生みんなそうだから。
「思いつかない? 接点」
「一つだけ、でも、ありえないなぁって」
「言ってみればいいじゃん。間違ったって何か損があるわけでもないし」
冬真さんは、私の隣に立つ。
意識していなかったけど、見上げるような身長だ。
並んだまま冬真さんが歩き始めるから、私も考えてる素振りをしながら歩く。
どこかへ向かってるわけじゃなさそう。
隣に立ってみて、気づいた。
目線がいろんなところに動いてる。
何かを探してるのかな?
「冬真さんは何を探してるの?」
「面白いこと」
「私に出会ったのは、面白いこと?」
冬真さんがくすりと笑って、空気が揺れた。
私までなんだか、楽しくなってくる。
冬真さんが足を止めたのは、見慣れた場所だった。
終電を先ほど見送った駅。
「もう終電ないですよ」
「知ってる。歩き疲れてない?」
足元を見つめる。
擦り切れたスニーカーが、目に入った。
高校生の頃からずっと履き続けてるから、もうボロボロだ。
身なりに気を遣っていないことが、急に恥ずかしくなる。
ほどよい疲労感が、全身に広がっていた。
通学には公共交通機関しか使用しない。
こんなに歩いたのは久しぶりだった。
左手の腕時計を見れば、もう二時過ぎ。
それでも、始発まではまだ四時間近くある。
「歩き疲れたかもしれません」
「じゃあ、寄ってく?」
冬真さんが指さしたのは、駅から右の方に逸れた道。
劇場がある方向だった。
私は、その道を知ってる。
大学の友だちに誘われて、演劇を見に行ったことがあった。
観客はみな同じところを見つめて、同じように笑う。
一人じゃなくて、あたたかくて、私が好きな場所だ。
「俺の家あっちなんだよね」
「そう、ですか」
冬真さんのお家にお邪魔する。
それが正解かはわからない。
でも、他人の家に入ってしまえば私はますます寂しくなる気がした。
冬真さんといれば紛れていたのに。
正直に言えば、もう眠りたい。
寂しさは襲ってくるだろうけど、家に帰りたい気持ちになっていた。
足は疲れているし、まぶたは重い。
一限目から講義があったから、今日だって六時には起きた。
数えてみればもう二十時間近く起きてることになる。
眠たくもなるはずだった。
「仮眠してってもいいよ。普通に寝てもいいし」
「それは」
さすがに、ちょっと。
私なんかと何かあるとは思っていないけど。
それでも、初めましての人の家で寝てしまえるほどの無防備さは持ち合わせていない。
「本当はもうわかってんでしょ」
手を引かれるように、道を進む。
劇場を通り過ぎて冬真さんは、左に曲がった。
大きなマンションを通り過ぎて、また左に曲がる。
冬真さんが立ち止まったアパートは、コンクリート打ちっぱなしのよくあるタイプ。
上の階からなら、劇場が見えるかもしれない。
部屋の向き次第だけど。
大学じゃなくて、劇場で隣に座っていた……?
答えはまだ見つけ出せていない。
そんなに他人に興味がないつもりはなかったのに。
「ここ。夜だから静かにね」
静寂の中、階段を登っていく。
ふと、出会った時の冬真さんの言葉を思い出した。
「そう、といえばそう」
全然そんなことないじゃん。
冬真さんは終電を逃してない。
だって、家がここなら終電になんて乗らなくていいんだもん。
部屋に案内されれば、テーブルとソファがちょこんと置かれていた。
物があまりない。
私の部屋と違って、ほとんどなかった。
こんな部屋だったら、私はもっと寂しくてしょうがないだろう。
冬真さんはソファを倒して、ベッドに変えている。
寝てもいいよということだろう。
ぽんっと投げ渡されたクッションを受け止めて抱きしめた。
ふわりと甘い香りが漂ってきて、心地よいなと思ってしまう。
冬真さんの纏う空気感と同じで、優しくて柔らかい。
「で、思い出した?」
「全くもって」
冬真さんはソファに腰掛けて、ぽんほんと隣を叩く。
少しだけ間を空けて座る。
冬真さんが遠慮なしに、私たちの隙間を埋めていく。
「思い出せない? それとも、思い出したくない? それとも、そんなに俺に興味ない?」
そんなことを言われても……
あまり何の記憶も残っていないから、しょうがない。
記憶がもっとあったら、こんなに寂しくならないのかな。
「最初は確かに、不安そうな顔で見てたけどさ」
私が見ていた。
見ていた?
冬真さんが、窓を開けに立ち上がる。
ふわりと家に入り込んだ風がカーテンを靡かせた。
カーテンの隙間から差し込む月の光。
それを受けて輝く、悲しそうな瞳。
見たことがあった。
その熱のこもった、それでいて悲しそうな瞳を。
何度も、何度も見つめていた。
「あの劇団の人」
冬真さんの表情が、パァアっと明るくなる。
そして、私に近づいて微笑んだ。
「それだけじゃないけど、正解!」
「それだけじゃない?」
「普通にそこまで答えにたどり着いたらわかんだろ」
くすくすと笑いながら、私の前に腰掛ける。
そして、ゆっくりとグラスを傾けながら水を飲み込んだ。
横顔の白さに、目がちらつく。
「大学の演劇サークル見に行ったんでしょ」
私は大学の友達に誘われて、見に行った。
大学の演劇サークルの演目を。
最初は、人の温かさを感じられることが嬉しくて通っていたけど。
いつのまにか、お話にのめり込んでいた。
「大学の、先輩?」
「でもあります」
「うそ」
「同じ講義でペアワークもしたけど?」
全然、覚えていなかった。
それに、舞台に立ってる時と雰囲気が違う。
今はこうなんというかうまく言い表せないけど、普通の人だ。
「最初はさ、つまんなそうに身を窄めてる子がいるなって思った」
「私だけ、場違いだったから……」
「でも、途中からキラキラと憧れるような目で見つめてくるから。気になって仕方なかったんだよ」
冬真さんを見つめていた私を、見つめ返してくれていた。
その事実に、かぁあっと身体中が熱くなる。
でも、その熱さが寂しさを晴らしていく。
あぁ一人じゃなかったんだ。
そんな思いで力が抜けた。
「俺人気ないんだよね。演技もうまくないし」
「そんなことないです!」
私は冬真さんの寂しそうで、でも、強い湧き出る目力に救いを感じていた。
「そうだよね、ほのかちゃんは俺のことが好きだ」
「それは」
そう言い切られると、はっきりうんとは言えない。
でも、俳優としての冬真さんは好きだった。
だって、私と違って強さが宿っていたから。
憧れに、似たようなものだった。
「そう思えたら、頑張れたんだ。見に来てくれるかな、今日もあの子いるかなって気になってた」
「だから、大学の講義で隣に座ったんですか?」
「同じ大学の子だって、気づいて本当に嬉しかったんだよ。俺は、この子に見てもらうために演劇を続けようとって思えたから」
冬真さんは、本気で私を思ってるように口を動かす。
その言葉が耳に響いて、私の中に浸透していく。
誰の中にも、私はいないと思っていた。
どんな形であろうと、私が存在していることに幸せを感じてしまう。
「ほのかちゃんの目線が力になってた。だから、今日、目が合った時、柄にもなく舞い上がった」
「それだけで、声をかけてくれたんですか」
「そうだよ、だって俺ほのかちゃんのことがもう好きになっちゃったから。こんな運命あるのかよ、劇かよ、って思った」
白い光がカーテンの隙間から、朝を連れてこようとしてる。
私の寂しさは、光に飲み込まれていったようだ。
「私、本当は寂しかったから、演劇に通ってたんです」
素直な言葉が、するりと口から飛び出ていく。
冬真さんは、真剣な顔のまま「そう」と頷いた。
「演劇見てる人たちって独特の熱気があって、あたたかくて、寂しさを紛らわせれた」
「すごいよね、演じてる俺よりエネルギーを持ってる人いっぱいいるもん」
「わかります? 最初は演劇が目的じゃなかった。周りの人の熱量を感じに行ってたんです」
冬真さんはうんうん頷きながら、立ち上がる。
そして、私の前にお茶の入ったコップを置いてくれた。
今日一日だけで、大学に入ってから一番言葉にしてる気がする。
「俺も寂しさを埋めてくれる場所だったよ。みんなが俺を見てくれる。心に置いてくれる。そんなところが演劇だった」
「私たち立ち位置は違うのに、同じようなことを思ってたんですね」
冬真さんと同じ。
そんな簡単なことに、私の絡まった心は解けていく。
他の誰かじゃ、きっとそんなことなかった。
どんどん、太陽が昇っていく。
窓の隙間からの光は青白く煌々と輝いていた。
終わりが近づいてる。
いつもだったら、きっと寂しくてたまらない。
それなのに、こんなに心の奥があったかいのは、冬真さんの言葉のおかげだろう。
「私、なんでこんなに寂しかったんだろう」
「一人になったら結局寂しさは襲ってくるよ」
「でも、冬真さんを見たらきっとすぐに消えてくれる」
確信めいた思いだった。
冬真さんがいると思えば、そんな数時間の寂しさを乗り越えられる。
あまりにも運命的すぎる今日の一日に、誰かの筋書きなんじゃないかと疑ってしまう気持ちも少しあるけど。
今まで寂しいと私は口にしてこなかった。
だから、それを見抜いてくれた冬真さんのことが気になって仕方がない。
「これでもう俺のこと覚えた?」
「忘れませんよ」
「覚えてなかったくせに?」
責めるような言い方じゃなくて、じゃれつく猫みたいな笑い方だった。
そんなことすら、身体中から幸せをかき集めてる。
朝が来るのが怖くない。
そんなことが、私には嬉しかった。
「そろそろ始発も動くんじゃない?」
冬真さんの言葉に、腕時計を眺める。
始発まであと一時間。
駅まで歩いて、少し待てばあっという間だ。
「そうですね」
「帰りたくない?」
「正直、帰りたくはないですね」
私が笑えば、冬真さんは私を優しく抱きしめる。
あまりのあたたかさに、涙が出そうになった。
「送ってくよ」
冬真さんの言葉に頷く。
まだ私たちは、序章に立ってる。
これから先、きっともっと関わり合えるだろう。
そんな予感だけで、十分だった。
二人で手を繋いで、朝焼けの中をゆっくり歩く。
世界がやけにスローモーションに見えるのは、本当にドラマみたいだな。
そんなことを考えていれば、冬真さんは腕を揺らした。
「答えはまだいらないからさ」
「時々、お話してください」
「お互いのことをもっと知り合えるようにね?」
「はい」
もう働きに向かう人たちが駅に向かって、歩いている。
人はまばらだけど、それでもいないわけじゃない。
見慣れた駅が目に入って、自宅を思い出した。
冬真さんとは、まだ一緒にいたい。
でも、眠気と限界そうだ。
気づけば、早く自宅に帰りたいと思っていた。
そしてあったかい布団で目覚めて、冬真さんに『起きました』とメッセージを送る。
そんな妄想をして、つい口元が緩む。
濃い夏の匂いは私たち二人を包んだ。
そして、爽やかな風で背中を押した。
<了>



