お互い三十歳になっても独り身だったら結婚するか。
いいね。しよう、しよう。
大学の仲間との飲み会でこっそりと交わされた会話。相手は、場を盛り上げるために言っただけだと思う。世界のあっちこっちでこういうやりとりがいっぱい繰り広げられているのも知ってる。一番信じちゃいけない約束のひとつ。
なのに。
じゃあ、決まりな!
真っ白な歯を溢しながら、緒方光は月子の顔の前に小指を差し出してきた。
まさか二十歳にもなって、指切りを求められるとは思わなかった。もともと光に対して好印象を抱いていたのもあったけれど、その仕草一つで不覚にも恋に落ちてしまった。
「私、光ちゃんが好き」
飲み会から数カ月後、後先考えずに伝えた想いは幸運にも受け入れられ、月子と光は恋人同士になった。交際は順風満帆。このまま約束は守られるものだと信じて疑わなかった。
「あーまだある……」
パソコンのディスプレイに表示されたフォルダをまとめて選択すると、川島月子は外付けハードディスクへ一気にマウスで移動させた。
「でも、ようやく終わりが見えてきましたよ」
隣に座る後輩の森崎暁が、両手を上に挙げた。
普段は五十人程度が働くだだっ広いスペースに、作業しているのは二人しかいない。というのも、今日はお盆の中日。大半の社員は休暇中だ。
おまけに経費削減のため、電気は自分の周囲しかついておらず、フロア全体は薄暗かった。ブラインドの隙間から漏れてくる月明かりが、ありがたかった。
「月子さん、巻きこんじゃってすみません」
「いやいや、森崎君が謝ることじゃないから。謝るのは部長でしょ」
お盆明けにシステムの大規模改修が行われるため、各部署のトップはデータのバックアップを取るように、少なくとも二カ月前には会社から指示が出ていた。にも関わらず、上司である田中部長は、ぎりぎりまでその作業を怠った挙句、嘘か本当かも分からない体調不良を理由に部下へ仕事を丸投げしてきたというわけだ。
―――川島さん、森崎君。大変申し訳ないけれど、お願いがあります。
部長からそんなメッセージが携帯に送られてきたのは、本日のお昼過ぎのことだった。部署には十五人が在籍しているが、月子たちにピンポイントで送ってきたのは、家族持ちや新入社員を省いた結果だろう。
ディスプレイ上に表示された内容の一部だけで嫌な予感がして、既読を付けるかどうか悩んでいたら、『分かりました』という森崎からの返信が入ってきた。
腹を決めてメッセージを開けると、案の定、膨大なデータのバックアップを頼むという内容だった。森崎一人でさせるわけにもいかず、月子は止むを得ず了承のメールを送ることになった。予定のない自分が恨めしかった。
「今、思えば、やたらと部長がお盆の予定を聞いてきてたんだよね」
「あ」
森崎のマウスを動かす手がぴたりと止まった。どうやら、思い当たることがあったらしい。
「森崎君も聞かれてたんだ?」
はい、と小さく頷く。
「……ということは、体調不良っていうのも嘘よね」
「そうなりますね」
「あーあ、まんまと部長にはやられたなー」
さっき選択したフォルダのバックアップがやっと終わり、月子は別のフォルダをダブルクリックした。仕事としては単純な作業だが、付きっ切りでやらないといけないのが、なかなかきつい。十五時過ぎに出社して、かれこれ八時間近く同じ作業を繰り返している。
「ですね。でも、いいですよ。あの部長に任せたら、抜けがいっぱいありそうなんで」
「おっ、言うねー」
「まぁ、事実ですし。ところで、月子さん。終電とかって大丈夫ですか? 俺は、家が歩いて帰れるところなんで、いいんですけど」
「大丈夫よ。あと一時間はいける。それに、もしかしたらもうすぐ終わるかも」
「本当ですか? というか、俺も終わりそうです」
「あ、すごい一気に80パーセントまで進んだ!」
月子は、パソコンの画面上に表示された灰色の棒がどんどん色付いていくのを眺めていた。
「98パー、99、100! 終了!」
「俺の方も終わります! 99、100!」
「やったー!!」
どちらからともなく立ち上がり、両手で何度もハイタッチした。刹那、森崎が月子の右手を掴んだ。しかも、月子の顔をまじまじと見ている。日焼けした肌にすっきりと短く切り揃えられた黒い髪。こめかみに向かって一直線に伸びる眉毛とその下に控えるアーモンド形の瞳。十人中九人が森崎を見たら、整った顔立ちをしていると評するだろう。
そんな相手に見つめられて、心臓が一気に跳ね上がった。森崎は、月子の手を離すことなくずっと触れたままだ。何をしているのか尋ねてみようかと思ったら、森崎にしーっと先に制止されてしまった。
気が付けば自分の人差し指が頬に触れた。森崎が、月子の指をマジックハンドのように動かしていた。
「はい、願い事をどうぞ」
人差し指の上にまつ毛がのっていた。
「……どういうこと?」
「心の中で願い事を唱えて、ふっと吹き飛ばすんですよ。やったことないですか?」
森崎が小首を傾げた。
これって、そんなに有名なことなんだろうか。
月子は首を横に振ると、自分のまつ毛に息を吹きかけた。
「叶うといいですね、願い事」
「叶わないよ。なにも願ってないから」
「えー、せっかくのチャンスなのにもったいないじゃないですか」
「そんなことないよ……私の願いは絶対に叶わないから」
自分の願いは光に会いたい。ただそれだけ。だけど、叶うはずがない。願ってもむなしいだけだ。何かを言おうとしている森崎の唇が開かれるよりも先に、言葉を続けた。
「さ、帰ろっか」
月子は、森崎の適度に筋肉の付いた腕をぽんぽんと叩いた。
会社を後にして駅に向かっていると、不意に森崎が足を止めた。
「どうしたの?」
「月子さん、あれ」
森崎が、すっと腕を上げると、前に向かって長い指を差した。
駅に行くには、カバの口を連想させるような入口から地下に続く階段を下りる必要があるのだけれど、その入り口にはシャッターが下ろされていた。シャッターには張り紙がしてあって、目を凝らすと『お盆休みは祝日・休日ダイヤのため、本日の運行は全て終了しました』と記されている。
「へ?」
予期していないことが起こると、人間はよく分からない言葉を発してしまうものらしい。
「……どうしますか?」
「……まぁ、タクシーで帰るしかないかな」
月子はTシャツの首元を掴んだ。
財布の中にいくら入っているんだろうと考えてみたけれど、答えは出てこなかった。
「でも、その前に、もし良かったらなにか食べていかない?」
「本当ですか?」
森崎の表情が一瞬明るくなった。自分の提案が嫌がられているのではないと分かり、ほっとした。
「どうせ終電ないんだもん。それなら、ちょっと遅くなったって一緒だから」
「なんにしますか? 俺はなんでもいいです」
「その答え方は一番困るんだけど」
「すみません」
森崎が頭に手をやったあと、何かに気が付いたように空を見上げた。
「月子さん、月が綺麗ですよ」
そうだねと相槌を打つと、森崎はどこか不満げな顔をした。
「なに? もしかして愛の告白だった?」
揶揄ったつもりだった。なのに、森崎の顔に緊張の色が浮かんだ。
「……そうだって言ったらどうします?」
月子は息を呑んだ。そのとき―――。ソラシーラソ、ソラシラソラーと子供の頃、リコーダーで吹いたメロディーが流れてきた。音の方へ顔を向けると、最近は見かけなくなった手押しの屋台が来ていた。屋台の横には、冷やし中華始めました、の看板が出ている。
「ねえ、冷やし中華だって。屋台で冷やし中華なんて珍しいし、この際、どう?」
「……いいですよ」
森崎が、大きく息を吐き出した。
「はい、冷やし中華お待ちぃ」
頭にタオルを巻き、首にもタオルをかけた店主が、月子たちの前にプラスチックの容器に盛られた冷やし中華を二つ並べて置いた。屋台には、折り畳み式の丸椅子が三つ用意されていて、そこに月子たちは腰を下ろしていた。四、五十代と思われる店主によると、終電後は駅の入り口が封鎖されるため、よくここへ来るらしい。
「通行人の邪魔にもならないし、ちょうどいいスペースができるんだよ」
店主は首のタオルで汗を拭うと、周囲を見渡した。
「いただきます!」
月子は手を合わせると、一気に冷やし中華を啜った。真夜中とはいえ、日中の熱気をいっぱいに含んだ空気はまだまだ蒸し暑い。その蒸し暑さと多少の風のもとで食べる冷やし中華は格別だった。酸味のあるたれとハム、キュウリ、トマト、それに錦糸卵。特段、自分で作る冷やし中華と何かが違うわけではないのに、味には明らかな優劣があった。
「美味しい」
隣の森崎の皿を見ると、すでに半分以上が胃の中に収められていた。
「月子さんは、帰省とかしないんですか?」
「しない、しない。お盆の間は親戚がいっぱい来るし、私はずらして帰るようにしてる」
親世代の親戚は、ほとんどが三十までに結婚すべきと考えている人たちばかりだ。両親は何も言ってこないが、それでも親戚たちの暴走を止めることはできず、二年前に帰ったら、彼氏はいるのか、お見合いはどうかと根掘り葉掘り聞かれて、ただただ疲弊した。羽を休めるために帰省したはずが、もぎ取られて終わっただけだった。
三十を迎えてしまった今となっては、帰省なんて選択肢はそもそもなかった。
「森崎君こそ帰らないの?」
「俺はもともと実家暮らしです。って言っても、親が海外に住んでるんで、一人暮らしなんですけど」
「じゃあ、実家が会社に近いってこと?」
頷きながら、森崎が麺を啜った。
「それはなんとも羨ましい。でも、お盆にご両親が戻ってこられたりはしないの?」
「ないですね。お盆の間は、飛行機代も高いし、なにより暑さにも耐えられないって」
「確かに。最近の暑さは異常だもんね」
「親に会いたきゃ、そっちから来いって言われます」
はははと笑いながら、森崎が手を合わせた。
「なるほど」
月子もたれの中を泳いでいた数本の麺を口に運ぶと、箸を置いた。勘定を済ませると、おつりと一緒に店主が月子に線香花火をくれた。
「たまにはいいもんだよ。でも、火の始末だけはくれぐれも気を付けてね」
店主はそう言うと、にぃっと笑った。
「さて。これ、どうしようか」
屋台を離れると、月子は線香花火の入った袋を持ち上げると、森崎にお伺いを立てた。
「せっかくだし、やりませんか?」
「……いいよ」
月子は頷いた。
「月子さん、勝負しましょうよ」
場所を駅前の公園に移し、コンビニで仕入れてきたろうそくにライターで火をつけると、森崎が線香花火を月子に手渡してきた。
「どっちが長く生き残れるかってこと?」
です、ですと森崎が首を縦に振った。
「勝ったらご褒美はあるの?」
「ないです。でも、負けた方が勝った方の質問に必ず答えなきゃいけないって言うのはどうですか?」
正直に言えば、勝った方がアイスをご馳走してもらえる、とかの方が良かった。けれど、わざわざ森崎の提案に異議を唱えるのも野暮な気がした。
「分かった」
月子は了承した。
「せーのっ」
風がほとんどないおかげで、二人の線香花火は同時にぱちぱちと火花を散らし始めた。月子は、じっと花火の先を見つめていた。勝負に勝ったときに備えて、質問を考えようとしたものの、頭の中には何も浮かんでこなかった。
「あー、俺の負けだ……」
隣から、悲痛な敗北宣言が聞こえてきた。そのすぐあとに、月子の花火も消えた。
「さぁ、月子さん。なんでも聞いてください」
「……ごめん。でも、なにも質問がないの」
「じゃあ、五秒以内に出なかったら、権利は無効になるってことで」
森崎が、大きな手を広げて、一本ずつ指を折っていった。
「はい、残念。終了でーす」
「ごめん。せっかくのゲームに水を差しちゃって」
「本当ですよ。俺、結構ショックです。月子さんが俺に全く興味がないっていうのが分かって」
はぁあと、森崎がため息をついた。
「そういう訳じゃないんだけど、火を見てたら頭が空っぽになっちゃって」
「なんでも良かったんですよ。俺の貯金額とか」
「えー、そんなプライベートなところまでOKだったの?」
「当たり前じゃないですか」
「じゃあ、次はそれにしよう」
月子は、あと六本となった線香花火に手を伸ばした。
二回戦はまさかの引き分けだった。勝負はあと二回。森崎が、次こそは絶対勝ちますと鼻息を荒くした。
三回戦は、月子の負けだった。森崎が、ガッツポーズまでして喜んでいるので、月子はどんな質問が投げかけられるのだろうかと身構えた。
「……つ、月子さん。俺は月子さんのことが好きです。月子さんは俺のことをどう思ってますか」
「好きよ」
するりと言葉が口から出た。
「マジっすか?」
「うん」
「恋愛の対象として?」
「うん」
森崎が、両手で握りこぶしを作り、文字にできない雄たけびと共に夜空に突き上げた。
「じゃ、じゃあ、俺と付き合って下さい」
「それはできない」
森崎の目が大きく見開かれた。
「……どうしてですか?」
「その質問の答えが欲しかったら、勝負に勝ってもらわなきゃ」
月子は、残り二本となった線香花火に目をやった。
「……分かりました。でも、俺が絶対に勝つんで。そのときは、ちゃんと答えて下さいよ」
森崎の覚悟を決めた眼差しに、月子は思わず怯んだ。手が自然と首元へ動いていた。
泣いても笑っても最後となる四回戦目は、緊張感があって二人とも言葉を発しなかった。それぞれが自分の手元にだけ集中していた。フィナーレを迎えた花火が、最後にぱちっ、ぱちっと火花を地面に散らし始めたとき、二人の線香花火があろうことかくっついてしまった。
「あ」
同時に声が出た。
自分たちの手元に集中するあまり、花火の近さに気が付いていなかった。
二本だった線香花火は一本になり、お互いの火種からできた一つのオレンジ色の球はやがて土の上にぽとりと落ちた。
お互いに顔を見合わせようとして、距離の近さに驚いた。後退ろうにも、しゃがんでいるせいで素早くは動けず、ただ目を逸らした。
「……なんか、この結末ってちょっと気恥ずかしいね」
「……ですね」
「さぁ、そろそろ帰りますか」
月子は立ち上がると、コンビニでもらったビニール袋にすべての残骸を集めた。
「ど、どこに?」
「もちろん、お互いの家にでしょ?」
「月子さん、どうやって帰るんですか? もう一時回ってますよ」
森崎がシルバーの腕時計に視線を落とした。
「駅前に戻れば、タクシーがあるよ」
歩き出そうとすると、前に森崎が立ちはだかった。
「……月子さん、俺、振られましたけど、好き合ってる二人ですよ。無能な上司のせいで休日返上で仕事して、終電を逃して、屋台で冷麺食って、公園で線香花火までした仲です」
そうだねと相槌を打つ。
「漫画やドラマ、映画だったらとっくに恋仲になってるシチュエーションです」
「かもしれないね」
「だったら、このまま解散っていうのはあんまりじゃないですか? せめて、うちに来てください。さっきも言いましたけど、俺、実家住まいなんです。ちゃんと客間もありますから」
「でもね、今は現実だから。そうはうまくはいかないんだよ」
ふふふと月子は笑った。
「あぁ、もう。でも分かりました。ただ、防犯面を考えて、タクシーがいなかったら問答無用でうちにきてもらいますよ」
森崎が腕を組んだ。嫌とは言える雰囲気ではなかった。仮に、ノーを突き付けたら、このまま担いで森崎の家に連行されてしまいそうだった。
「分かった。そうさせてもらうから」
異議はありません、と月子は両の手を森崎に見せた。
「森崎君、見て。タクシー、あります。ほら」
駅前までやってくると、数台のタクシーが並んでいた。月子は、じゃじゃーんと両腕を広げた。森崎が舌打ちをしたような気がした。
「あぁ、俺はここでもまた勝負に負けた……」
「じゃあ、お疲れ様。また明後日、じゃないや。また明日ね」
普段の退社時と同じように、月子は手を振った。
「そっか、明日にはまた月子さんに会えるのか……。なら、いいや」
森崎はぼそぼそと呟くと、月子に向かって一礼した。森崎がくるりと踵を返して、歩き出すのを見届けると、月子は自分もタクシー乗り場へと向かった。浮足立っている自分に気が付いて、喝を入れた。
振り返ると、森崎の背中はずいぶん小さくなっていた。
森崎君、ごめん。
心の中で謝ると、タクシーには乗らずに、別の方向へ向かった。今夜はどうしても訪れたい場所があった。
脇目も振らずに一五分ほど歩いて、ある歩道橋の上までやってきた。手摺に腕を載せる。視線を落とすと、下の道路をひっきりなしに車が行き来していた。
あのときもこんな風だったんだろうか。三年前、この歩道橋の下で光は命を失った。
歩道にいた光を狙うかのように、宅配会社の大型トラックが突っ込んでいった。ガードレールは何の意味もなさず、光は即死だった。
事故の原因は居眠り運転だった。深刻なドライバー不足により、運転手は過酷な労働を強いられていたとはニュースで聞いたが、恋人を奪われた月子の心には何も響かなかった。
光を亡くして、月子は文字通り光を失った。
森崎君のことが好きということに嘘はない。生きている人の中では一番。だけど、私の傍にいるのは、光以外には考えられない。
このまま下に落ちてしまえば、光に会えるだろうか。
手の甲に涙が一粒落ちた。
月子は、Tシャツの下に隠していたチェーンネックレスを引っ張り出した。一緒にチェーンに通されたいびつな形の指輪が出てきた。指輪はひしゃげているが、立て爪のダイヤがあしらわれていて、見る人が見れば婚約指輪だと一目で分かる。
指輪は遺品として光の両親から受け取った。
これは、月ちゃんに持っていてもらった方が、あの子も喜ぶと思うの。だから良かったら……。
ぐちゃぐちゃに泣き濡れた顔で、光のお母さんが遠慮がちに渡してくれた。箱もあったらしいが、見せるのも忍びないほどに潰れていたらしい。
三十歳になったら結婚するか、という約束だったけれど、プロポーズをしてくれる予定だったと聞いて、幸せな気持ちと悲しみが一気に押し寄せてきたのを思い出した。
「光ちゃん、私、三十歳になっちゃったよ……」
指輪をネックレスから外すと、左手の薬指にはめた。指輪は歪められているせいで第一関節までしか入らなかったが、月子は手を上にかざした。
不注意、のなにものでもないが、きちんとはまっていない指輪が何かの拍子に抜け落ちた。
しまった、と思う暇もなく、指輪は転がって歩道橋の隙間から道路へと落ちた。
「だめ、だめ、だめ!」
月子は、手摺から身を乗り出した。自分も落ちるかもしれないと思った。
だけど、それでもいい。そうすれば、光ちゃんのもとにいける。
刹那、温かな空気のようなものが月子の身体を覆った。湿り気と熱気を孕み否が応でもまとわりついてくる空気とは違う、全く別のもの。同時に、頭の中に声が響いた。
―――月子、それはだめ。
「……光ちゃん?」
―――俺を忘れたの?
光がくすりと笑ったような気がした。
「……忘れてない。忘れるわけがないよ」
―――さぁ、身体を俺に預けて。手摺から離れよう。
「で、でも、指輪が。あれがないと、私……」
―――大丈夫。あれがなくても、月子は生きていける。
「……でも、私はもう」
―――そんなことを言わないで。
「……だって。光ちゃん、月は光を受けてないと輝けないんだよ。光ちゃんがいないと私はダメなの」
―――そうじゃないよ。それはいずれ分かる。今は一緒に帰ろう。
「……どこに?」
―――月子の家だよ。あの日、指輪を手に入れた俺が向かおうとしてた。
「……どうして来てくれたの? 今までは来てくれなかったのに」
―――今夜がお盆だからかな。
光が自信なさげに首を傾げた気がした。
―――さあ、行こう。
光に促されて、月子は再び一歩目を踏み出した。足音も歩道橋に映し出される影も月子のものだけ。けれど、光が共に歩んでくれているのが分かった。
傍から見たら、月子は一人で誰かと話す奇妙な人だったかもしれない。けれど、そんなことはどうだっていい。
話題は尽きなかった。時間の間隔も何もかも忘れて、マンションが見えたときには真っ暗だった空が白み始めていた。
―――さぁ、俺はいかなきゃ。今日はもう帰る日だ。
「……また会える?」
―――会えるよ、必ず。俺は待ってるから。そのときは、あいつと直接対決をすることになるかもしれないけど。
「あいつ?」
―――月子を心配して、ずっとついてきたみたいだ。俺がちょっと意地悪してたけど。まぁ、これくらいは許されるだろ。
くっくっくと笑みを零す光の顔が手に取るように思い起こされた。
―――さあ、本当に行かなきゃ。月子、目を閉じて。五秒数えたら、目を開けて、後ろを振り返ってごらん。
何を言っても、もう光を引き留めることはできないのだと直感した。言われるがままに、瞳を閉じた。
五、四、三、二、一。
その瞬間、瞼は下りているのに強い光を感じた。その光は、月子の身体の一番奥深いところに吸い込まれていったような気がした。
月子はゆっくりと目を開けた。徹夜明けのはずなのに、身体が信じられないほど軽かった。光の言葉を思い出し、後ろを向いた。
朝日を背負うようにして、男性が離れた場所に立っていた。
「森崎君?」
視線が重なると、相手は決まり悪そうな顔をして、駆け寄ってきた。
「月子さん! 俺は怒ってるんですよ。タクシーに乗るって言いながら、嘘をついたでしょ!」
「本当に。ごめん、ごめんなさい」
何度もぺこぺこと頭を下げた。
「でも、気づいてたのなら声を掛けてくれたら良かったのに」
「いや、何度もそうしようと思ってたんですけど、できなかったんですよ。なんかバリアが張られてるみたいな感じで、ちょっと何を言ってるのか分かんないかもしれないけど、近づけなかったんです」
―――俺がちょっと意地悪してたけど。
光の言っていた意味が分かった気がした。
「こいつ、訳の分からないことを言ってるなと思ってます? おまけにやってることストーカーに近いし」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないよ」
ぶんぶんと頭を振った。そうでもしないと、涙が零れてしまいそうだった。
困惑する森崎の顔を見ると、頬にカタカナのノの字がついていた。
「あ、まつ毛」
月子は森崎の頬に手を伸ばすと、自分の人差し指の上にまつ毛を載せた。
「はい、お願い事をどうぞ」
「月子さんとコーヒーが飲みたいです」
森崎は間髪入れずに願い事を言うと、ふっとまつげを吹き飛ばした。
「願い事は心の中で言うんじゃなかったの?」
「この場合は、口に出した方が叶うかなと思って」
森崎が、にっと口角を上げた。
「いいよ、来て」
「え、部屋に行っていいんですか?」
「コーヒーを飲みたいって、そういう意味じゃなかったの?」
「いや、まあそういう意味っちゃ意味ですけど、店でも別に俺は全然」
「この辺に、気軽に入れるコーヒーショップがあるかは知らないの。それでどうする? 来る? それとも来ない?」
「来ます!」
「変な日本語」
月子は失笑した。
「じゃあ、行こ。ごめんね、こんなところまで歩かせちゃって」
マンションのエントランスをくぐりながら、月子は頭をぐるぐる働かせていた。
部屋は綺麗だったっけ?
まぁ、いいか。それで引かれてダメになるくらいなら、もともとうまくいきっこないんだから。
「見て下さい。青白い月と朝日、良い組み合わせだと思いません?」
「……いいと思うけど?」
朝日と共存するようにして、空には青白い月が浮かんでいる。
確かに綺麗だけれど、唐突にどうしたんだろうと首を捻る。ピンと来ていない月子に対して、森崎の顔はどこか不満げだ。
「……月子さんって、俺の名前知ってます?」
森崎あきら。たしか、漢字は―――暁だ。
「あ、そういうこと!?」
「傷つくなぁ。俺に興味がないのが丸分かりで」
「ごめん、ごめん。じゃあ、コーヒー飲みながら色々教えてよ」
月子はとびっきりの笑顔を森崎に向けた。
〈了〉
いいね。しよう、しよう。
大学の仲間との飲み会でこっそりと交わされた会話。相手は、場を盛り上げるために言っただけだと思う。世界のあっちこっちでこういうやりとりがいっぱい繰り広げられているのも知ってる。一番信じちゃいけない約束のひとつ。
なのに。
じゃあ、決まりな!
真っ白な歯を溢しながら、緒方光は月子の顔の前に小指を差し出してきた。
まさか二十歳にもなって、指切りを求められるとは思わなかった。もともと光に対して好印象を抱いていたのもあったけれど、その仕草一つで不覚にも恋に落ちてしまった。
「私、光ちゃんが好き」
飲み会から数カ月後、後先考えずに伝えた想いは幸運にも受け入れられ、月子と光は恋人同士になった。交際は順風満帆。このまま約束は守られるものだと信じて疑わなかった。
「あーまだある……」
パソコンのディスプレイに表示されたフォルダをまとめて選択すると、川島月子は外付けハードディスクへ一気にマウスで移動させた。
「でも、ようやく終わりが見えてきましたよ」
隣に座る後輩の森崎暁が、両手を上に挙げた。
普段は五十人程度が働くだだっ広いスペースに、作業しているのは二人しかいない。というのも、今日はお盆の中日。大半の社員は休暇中だ。
おまけに経費削減のため、電気は自分の周囲しかついておらず、フロア全体は薄暗かった。ブラインドの隙間から漏れてくる月明かりが、ありがたかった。
「月子さん、巻きこんじゃってすみません」
「いやいや、森崎君が謝ることじゃないから。謝るのは部長でしょ」
お盆明けにシステムの大規模改修が行われるため、各部署のトップはデータのバックアップを取るように、少なくとも二カ月前には会社から指示が出ていた。にも関わらず、上司である田中部長は、ぎりぎりまでその作業を怠った挙句、嘘か本当かも分からない体調不良を理由に部下へ仕事を丸投げしてきたというわけだ。
―――川島さん、森崎君。大変申し訳ないけれど、お願いがあります。
部長からそんなメッセージが携帯に送られてきたのは、本日のお昼過ぎのことだった。部署には十五人が在籍しているが、月子たちにピンポイントで送ってきたのは、家族持ちや新入社員を省いた結果だろう。
ディスプレイ上に表示された内容の一部だけで嫌な予感がして、既読を付けるかどうか悩んでいたら、『分かりました』という森崎からの返信が入ってきた。
腹を決めてメッセージを開けると、案の定、膨大なデータのバックアップを頼むという内容だった。森崎一人でさせるわけにもいかず、月子は止むを得ず了承のメールを送ることになった。予定のない自分が恨めしかった。
「今、思えば、やたらと部長がお盆の予定を聞いてきてたんだよね」
「あ」
森崎のマウスを動かす手がぴたりと止まった。どうやら、思い当たることがあったらしい。
「森崎君も聞かれてたんだ?」
はい、と小さく頷く。
「……ということは、体調不良っていうのも嘘よね」
「そうなりますね」
「あーあ、まんまと部長にはやられたなー」
さっき選択したフォルダのバックアップがやっと終わり、月子は別のフォルダをダブルクリックした。仕事としては単純な作業だが、付きっ切りでやらないといけないのが、なかなかきつい。十五時過ぎに出社して、かれこれ八時間近く同じ作業を繰り返している。
「ですね。でも、いいですよ。あの部長に任せたら、抜けがいっぱいありそうなんで」
「おっ、言うねー」
「まぁ、事実ですし。ところで、月子さん。終電とかって大丈夫ですか? 俺は、家が歩いて帰れるところなんで、いいんですけど」
「大丈夫よ。あと一時間はいける。それに、もしかしたらもうすぐ終わるかも」
「本当ですか? というか、俺も終わりそうです」
「あ、すごい一気に80パーセントまで進んだ!」
月子は、パソコンの画面上に表示された灰色の棒がどんどん色付いていくのを眺めていた。
「98パー、99、100! 終了!」
「俺の方も終わります! 99、100!」
「やったー!!」
どちらからともなく立ち上がり、両手で何度もハイタッチした。刹那、森崎が月子の右手を掴んだ。しかも、月子の顔をまじまじと見ている。日焼けした肌にすっきりと短く切り揃えられた黒い髪。こめかみに向かって一直線に伸びる眉毛とその下に控えるアーモンド形の瞳。十人中九人が森崎を見たら、整った顔立ちをしていると評するだろう。
そんな相手に見つめられて、心臓が一気に跳ね上がった。森崎は、月子の手を離すことなくずっと触れたままだ。何をしているのか尋ねてみようかと思ったら、森崎にしーっと先に制止されてしまった。
気が付けば自分の人差し指が頬に触れた。森崎が、月子の指をマジックハンドのように動かしていた。
「はい、願い事をどうぞ」
人差し指の上にまつ毛がのっていた。
「……どういうこと?」
「心の中で願い事を唱えて、ふっと吹き飛ばすんですよ。やったことないですか?」
森崎が小首を傾げた。
これって、そんなに有名なことなんだろうか。
月子は首を横に振ると、自分のまつ毛に息を吹きかけた。
「叶うといいですね、願い事」
「叶わないよ。なにも願ってないから」
「えー、せっかくのチャンスなのにもったいないじゃないですか」
「そんなことないよ……私の願いは絶対に叶わないから」
自分の願いは光に会いたい。ただそれだけ。だけど、叶うはずがない。願ってもむなしいだけだ。何かを言おうとしている森崎の唇が開かれるよりも先に、言葉を続けた。
「さ、帰ろっか」
月子は、森崎の適度に筋肉の付いた腕をぽんぽんと叩いた。
会社を後にして駅に向かっていると、不意に森崎が足を止めた。
「どうしたの?」
「月子さん、あれ」
森崎が、すっと腕を上げると、前に向かって長い指を差した。
駅に行くには、カバの口を連想させるような入口から地下に続く階段を下りる必要があるのだけれど、その入り口にはシャッターが下ろされていた。シャッターには張り紙がしてあって、目を凝らすと『お盆休みは祝日・休日ダイヤのため、本日の運行は全て終了しました』と記されている。
「へ?」
予期していないことが起こると、人間はよく分からない言葉を発してしまうものらしい。
「……どうしますか?」
「……まぁ、タクシーで帰るしかないかな」
月子はTシャツの首元を掴んだ。
財布の中にいくら入っているんだろうと考えてみたけれど、答えは出てこなかった。
「でも、その前に、もし良かったらなにか食べていかない?」
「本当ですか?」
森崎の表情が一瞬明るくなった。自分の提案が嫌がられているのではないと分かり、ほっとした。
「どうせ終電ないんだもん。それなら、ちょっと遅くなったって一緒だから」
「なんにしますか? 俺はなんでもいいです」
「その答え方は一番困るんだけど」
「すみません」
森崎が頭に手をやったあと、何かに気が付いたように空を見上げた。
「月子さん、月が綺麗ですよ」
そうだねと相槌を打つと、森崎はどこか不満げな顔をした。
「なに? もしかして愛の告白だった?」
揶揄ったつもりだった。なのに、森崎の顔に緊張の色が浮かんだ。
「……そうだって言ったらどうします?」
月子は息を呑んだ。そのとき―――。ソラシーラソ、ソラシラソラーと子供の頃、リコーダーで吹いたメロディーが流れてきた。音の方へ顔を向けると、最近は見かけなくなった手押しの屋台が来ていた。屋台の横には、冷やし中華始めました、の看板が出ている。
「ねえ、冷やし中華だって。屋台で冷やし中華なんて珍しいし、この際、どう?」
「……いいですよ」
森崎が、大きく息を吐き出した。
「はい、冷やし中華お待ちぃ」
頭にタオルを巻き、首にもタオルをかけた店主が、月子たちの前にプラスチックの容器に盛られた冷やし中華を二つ並べて置いた。屋台には、折り畳み式の丸椅子が三つ用意されていて、そこに月子たちは腰を下ろしていた。四、五十代と思われる店主によると、終電後は駅の入り口が封鎖されるため、よくここへ来るらしい。
「通行人の邪魔にもならないし、ちょうどいいスペースができるんだよ」
店主は首のタオルで汗を拭うと、周囲を見渡した。
「いただきます!」
月子は手を合わせると、一気に冷やし中華を啜った。真夜中とはいえ、日中の熱気をいっぱいに含んだ空気はまだまだ蒸し暑い。その蒸し暑さと多少の風のもとで食べる冷やし中華は格別だった。酸味のあるたれとハム、キュウリ、トマト、それに錦糸卵。特段、自分で作る冷やし中華と何かが違うわけではないのに、味には明らかな優劣があった。
「美味しい」
隣の森崎の皿を見ると、すでに半分以上が胃の中に収められていた。
「月子さんは、帰省とかしないんですか?」
「しない、しない。お盆の間は親戚がいっぱい来るし、私はずらして帰るようにしてる」
親世代の親戚は、ほとんどが三十までに結婚すべきと考えている人たちばかりだ。両親は何も言ってこないが、それでも親戚たちの暴走を止めることはできず、二年前に帰ったら、彼氏はいるのか、お見合いはどうかと根掘り葉掘り聞かれて、ただただ疲弊した。羽を休めるために帰省したはずが、もぎ取られて終わっただけだった。
三十を迎えてしまった今となっては、帰省なんて選択肢はそもそもなかった。
「森崎君こそ帰らないの?」
「俺はもともと実家暮らしです。って言っても、親が海外に住んでるんで、一人暮らしなんですけど」
「じゃあ、実家が会社に近いってこと?」
頷きながら、森崎が麺を啜った。
「それはなんとも羨ましい。でも、お盆にご両親が戻ってこられたりはしないの?」
「ないですね。お盆の間は、飛行機代も高いし、なにより暑さにも耐えられないって」
「確かに。最近の暑さは異常だもんね」
「親に会いたきゃ、そっちから来いって言われます」
はははと笑いながら、森崎が手を合わせた。
「なるほど」
月子もたれの中を泳いでいた数本の麺を口に運ぶと、箸を置いた。勘定を済ませると、おつりと一緒に店主が月子に線香花火をくれた。
「たまにはいいもんだよ。でも、火の始末だけはくれぐれも気を付けてね」
店主はそう言うと、にぃっと笑った。
「さて。これ、どうしようか」
屋台を離れると、月子は線香花火の入った袋を持ち上げると、森崎にお伺いを立てた。
「せっかくだし、やりませんか?」
「……いいよ」
月子は頷いた。
「月子さん、勝負しましょうよ」
場所を駅前の公園に移し、コンビニで仕入れてきたろうそくにライターで火をつけると、森崎が線香花火を月子に手渡してきた。
「どっちが長く生き残れるかってこと?」
です、ですと森崎が首を縦に振った。
「勝ったらご褒美はあるの?」
「ないです。でも、負けた方が勝った方の質問に必ず答えなきゃいけないって言うのはどうですか?」
正直に言えば、勝った方がアイスをご馳走してもらえる、とかの方が良かった。けれど、わざわざ森崎の提案に異議を唱えるのも野暮な気がした。
「分かった」
月子は了承した。
「せーのっ」
風がほとんどないおかげで、二人の線香花火は同時にぱちぱちと火花を散らし始めた。月子は、じっと花火の先を見つめていた。勝負に勝ったときに備えて、質問を考えようとしたものの、頭の中には何も浮かんでこなかった。
「あー、俺の負けだ……」
隣から、悲痛な敗北宣言が聞こえてきた。そのすぐあとに、月子の花火も消えた。
「さぁ、月子さん。なんでも聞いてください」
「……ごめん。でも、なにも質問がないの」
「じゃあ、五秒以内に出なかったら、権利は無効になるってことで」
森崎が、大きな手を広げて、一本ずつ指を折っていった。
「はい、残念。終了でーす」
「ごめん。せっかくのゲームに水を差しちゃって」
「本当ですよ。俺、結構ショックです。月子さんが俺に全く興味がないっていうのが分かって」
はぁあと、森崎がため息をついた。
「そういう訳じゃないんだけど、火を見てたら頭が空っぽになっちゃって」
「なんでも良かったんですよ。俺の貯金額とか」
「えー、そんなプライベートなところまでOKだったの?」
「当たり前じゃないですか」
「じゃあ、次はそれにしよう」
月子は、あと六本となった線香花火に手を伸ばした。
二回戦はまさかの引き分けだった。勝負はあと二回。森崎が、次こそは絶対勝ちますと鼻息を荒くした。
三回戦は、月子の負けだった。森崎が、ガッツポーズまでして喜んでいるので、月子はどんな質問が投げかけられるのだろうかと身構えた。
「……つ、月子さん。俺は月子さんのことが好きです。月子さんは俺のことをどう思ってますか」
「好きよ」
するりと言葉が口から出た。
「マジっすか?」
「うん」
「恋愛の対象として?」
「うん」
森崎が、両手で握りこぶしを作り、文字にできない雄たけびと共に夜空に突き上げた。
「じゃ、じゃあ、俺と付き合って下さい」
「それはできない」
森崎の目が大きく見開かれた。
「……どうしてですか?」
「その質問の答えが欲しかったら、勝負に勝ってもらわなきゃ」
月子は、残り二本となった線香花火に目をやった。
「……分かりました。でも、俺が絶対に勝つんで。そのときは、ちゃんと答えて下さいよ」
森崎の覚悟を決めた眼差しに、月子は思わず怯んだ。手が自然と首元へ動いていた。
泣いても笑っても最後となる四回戦目は、緊張感があって二人とも言葉を発しなかった。それぞれが自分の手元にだけ集中していた。フィナーレを迎えた花火が、最後にぱちっ、ぱちっと火花を地面に散らし始めたとき、二人の線香花火があろうことかくっついてしまった。
「あ」
同時に声が出た。
自分たちの手元に集中するあまり、花火の近さに気が付いていなかった。
二本だった線香花火は一本になり、お互いの火種からできた一つのオレンジ色の球はやがて土の上にぽとりと落ちた。
お互いに顔を見合わせようとして、距離の近さに驚いた。後退ろうにも、しゃがんでいるせいで素早くは動けず、ただ目を逸らした。
「……なんか、この結末ってちょっと気恥ずかしいね」
「……ですね」
「さぁ、そろそろ帰りますか」
月子は立ち上がると、コンビニでもらったビニール袋にすべての残骸を集めた。
「ど、どこに?」
「もちろん、お互いの家にでしょ?」
「月子さん、どうやって帰るんですか? もう一時回ってますよ」
森崎がシルバーの腕時計に視線を落とした。
「駅前に戻れば、タクシーがあるよ」
歩き出そうとすると、前に森崎が立ちはだかった。
「……月子さん、俺、振られましたけど、好き合ってる二人ですよ。無能な上司のせいで休日返上で仕事して、終電を逃して、屋台で冷麺食って、公園で線香花火までした仲です」
そうだねと相槌を打つ。
「漫画やドラマ、映画だったらとっくに恋仲になってるシチュエーションです」
「かもしれないね」
「だったら、このまま解散っていうのはあんまりじゃないですか? せめて、うちに来てください。さっきも言いましたけど、俺、実家住まいなんです。ちゃんと客間もありますから」
「でもね、今は現実だから。そうはうまくはいかないんだよ」
ふふふと月子は笑った。
「あぁ、もう。でも分かりました。ただ、防犯面を考えて、タクシーがいなかったら問答無用でうちにきてもらいますよ」
森崎が腕を組んだ。嫌とは言える雰囲気ではなかった。仮に、ノーを突き付けたら、このまま担いで森崎の家に連行されてしまいそうだった。
「分かった。そうさせてもらうから」
異議はありません、と月子は両の手を森崎に見せた。
「森崎君、見て。タクシー、あります。ほら」
駅前までやってくると、数台のタクシーが並んでいた。月子は、じゃじゃーんと両腕を広げた。森崎が舌打ちをしたような気がした。
「あぁ、俺はここでもまた勝負に負けた……」
「じゃあ、お疲れ様。また明後日、じゃないや。また明日ね」
普段の退社時と同じように、月子は手を振った。
「そっか、明日にはまた月子さんに会えるのか……。なら、いいや」
森崎はぼそぼそと呟くと、月子に向かって一礼した。森崎がくるりと踵を返して、歩き出すのを見届けると、月子は自分もタクシー乗り場へと向かった。浮足立っている自分に気が付いて、喝を入れた。
振り返ると、森崎の背中はずいぶん小さくなっていた。
森崎君、ごめん。
心の中で謝ると、タクシーには乗らずに、別の方向へ向かった。今夜はどうしても訪れたい場所があった。
脇目も振らずに一五分ほど歩いて、ある歩道橋の上までやってきた。手摺に腕を載せる。視線を落とすと、下の道路をひっきりなしに車が行き来していた。
あのときもこんな風だったんだろうか。三年前、この歩道橋の下で光は命を失った。
歩道にいた光を狙うかのように、宅配会社の大型トラックが突っ込んでいった。ガードレールは何の意味もなさず、光は即死だった。
事故の原因は居眠り運転だった。深刻なドライバー不足により、運転手は過酷な労働を強いられていたとはニュースで聞いたが、恋人を奪われた月子の心には何も響かなかった。
光を亡くして、月子は文字通り光を失った。
森崎君のことが好きということに嘘はない。生きている人の中では一番。だけど、私の傍にいるのは、光以外には考えられない。
このまま下に落ちてしまえば、光に会えるだろうか。
手の甲に涙が一粒落ちた。
月子は、Tシャツの下に隠していたチェーンネックレスを引っ張り出した。一緒にチェーンに通されたいびつな形の指輪が出てきた。指輪はひしゃげているが、立て爪のダイヤがあしらわれていて、見る人が見れば婚約指輪だと一目で分かる。
指輪は遺品として光の両親から受け取った。
これは、月ちゃんに持っていてもらった方が、あの子も喜ぶと思うの。だから良かったら……。
ぐちゃぐちゃに泣き濡れた顔で、光のお母さんが遠慮がちに渡してくれた。箱もあったらしいが、見せるのも忍びないほどに潰れていたらしい。
三十歳になったら結婚するか、という約束だったけれど、プロポーズをしてくれる予定だったと聞いて、幸せな気持ちと悲しみが一気に押し寄せてきたのを思い出した。
「光ちゃん、私、三十歳になっちゃったよ……」
指輪をネックレスから外すと、左手の薬指にはめた。指輪は歪められているせいで第一関節までしか入らなかったが、月子は手を上にかざした。
不注意、のなにものでもないが、きちんとはまっていない指輪が何かの拍子に抜け落ちた。
しまった、と思う暇もなく、指輪は転がって歩道橋の隙間から道路へと落ちた。
「だめ、だめ、だめ!」
月子は、手摺から身を乗り出した。自分も落ちるかもしれないと思った。
だけど、それでもいい。そうすれば、光ちゃんのもとにいける。
刹那、温かな空気のようなものが月子の身体を覆った。湿り気と熱気を孕み否が応でもまとわりついてくる空気とは違う、全く別のもの。同時に、頭の中に声が響いた。
―――月子、それはだめ。
「……光ちゃん?」
―――俺を忘れたの?
光がくすりと笑ったような気がした。
「……忘れてない。忘れるわけがないよ」
―――さぁ、身体を俺に預けて。手摺から離れよう。
「で、でも、指輪が。あれがないと、私……」
―――大丈夫。あれがなくても、月子は生きていける。
「……でも、私はもう」
―――そんなことを言わないで。
「……だって。光ちゃん、月は光を受けてないと輝けないんだよ。光ちゃんがいないと私はダメなの」
―――そうじゃないよ。それはいずれ分かる。今は一緒に帰ろう。
「……どこに?」
―――月子の家だよ。あの日、指輪を手に入れた俺が向かおうとしてた。
「……どうして来てくれたの? 今までは来てくれなかったのに」
―――今夜がお盆だからかな。
光が自信なさげに首を傾げた気がした。
―――さあ、行こう。
光に促されて、月子は再び一歩目を踏み出した。足音も歩道橋に映し出される影も月子のものだけ。けれど、光が共に歩んでくれているのが分かった。
傍から見たら、月子は一人で誰かと話す奇妙な人だったかもしれない。けれど、そんなことはどうだっていい。
話題は尽きなかった。時間の間隔も何もかも忘れて、マンションが見えたときには真っ暗だった空が白み始めていた。
―――さぁ、俺はいかなきゃ。今日はもう帰る日だ。
「……また会える?」
―――会えるよ、必ず。俺は待ってるから。そのときは、あいつと直接対決をすることになるかもしれないけど。
「あいつ?」
―――月子を心配して、ずっとついてきたみたいだ。俺がちょっと意地悪してたけど。まぁ、これくらいは許されるだろ。
くっくっくと笑みを零す光の顔が手に取るように思い起こされた。
―――さあ、本当に行かなきゃ。月子、目を閉じて。五秒数えたら、目を開けて、後ろを振り返ってごらん。
何を言っても、もう光を引き留めることはできないのだと直感した。言われるがままに、瞳を閉じた。
五、四、三、二、一。
その瞬間、瞼は下りているのに強い光を感じた。その光は、月子の身体の一番奥深いところに吸い込まれていったような気がした。
月子はゆっくりと目を開けた。徹夜明けのはずなのに、身体が信じられないほど軽かった。光の言葉を思い出し、後ろを向いた。
朝日を背負うようにして、男性が離れた場所に立っていた。
「森崎君?」
視線が重なると、相手は決まり悪そうな顔をして、駆け寄ってきた。
「月子さん! 俺は怒ってるんですよ。タクシーに乗るって言いながら、嘘をついたでしょ!」
「本当に。ごめん、ごめんなさい」
何度もぺこぺこと頭を下げた。
「でも、気づいてたのなら声を掛けてくれたら良かったのに」
「いや、何度もそうしようと思ってたんですけど、できなかったんですよ。なんかバリアが張られてるみたいな感じで、ちょっと何を言ってるのか分かんないかもしれないけど、近づけなかったんです」
―――俺がちょっと意地悪してたけど。
光の言っていた意味が分かった気がした。
「こいつ、訳の分からないことを言ってるなと思ってます? おまけにやってることストーカーに近いし」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないよ」
ぶんぶんと頭を振った。そうでもしないと、涙が零れてしまいそうだった。
困惑する森崎の顔を見ると、頬にカタカナのノの字がついていた。
「あ、まつ毛」
月子は森崎の頬に手を伸ばすと、自分の人差し指の上にまつ毛を載せた。
「はい、お願い事をどうぞ」
「月子さんとコーヒーが飲みたいです」
森崎は間髪入れずに願い事を言うと、ふっとまつげを吹き飛ばした。
「願い事は心の中で言うんじゃなかったの?」
「この場合は、口に出した方が叶うかなと思って」
森崎が、にっと口角を上げた。
「いいよ、来て」
「え、部屋に行っていいんですか?」
「コーヒーを飲みたいって、そういう意味じゃなかったの?」
「いや、まあそういう意味っちゃ意味ですけど、店でも別に俺は全然」
「この辺に、気軽に入れるコーヒーショップがあるかは知らないの。それでどうする? 来る? それとも来ない?」
「来ます!」
「変な日本語」
月子は失笑した。
「じゃあ、行こ。ごめんね、こんなところまで歩かせちゃって」
マンションのエントランスをくぐりながら、月子は頭をぐるぐる働かせていた。
部屋は綺麗だったっけ?
まぁ、いいか。それで引かれてダメになるくらいなら、もともとうまくいきっこないんだから。
「見て下さい。青白い月と朝日、良い組み合わせだと思いません?」
「……いいと思うけど?」
朝日と共存するようにして、空には青白い月が浮かんでいる。
確かに綺麗だけれど、唐突にどうしたんだろうと首を捻る。ピンと来ていない月子に対して、森崎の顔はどこか不満げだ。
「……月子さんって、俺の名前知ってます?」
森崎あきら。たしか、漢字は―――暁だ。
「あ、そういうこと!?」
「傷つくなぁ。俺に興味がないのが丸分かりで」
「ごめん、ごめん。じゃあ、コーヒー飲みながら色々教えてよ」
月子はとびっきりの笑顔を森崎に向けた。
〈了〉

