月明かり

気がつくと、歌を歌っている。
Nの癖が、いよいよ本格的に伝染したらしい。
「お兄ちゃん、歌うの上手」
ぼんやりと月を見ていたハンスが、こちらを見て微笑む。
「そう? よく歌を歌ってた、家族…みたいな人がいたんだ。その影響かな」
「その人は、今どこに」
「死んじゃった」
彼の言葉を遮って囁くように言うと、ハンスが息を呑むのが分かった。
「……僕らは、奴隷だったんだ」
「ど、れい?」
聞いたこともない単語だったらしい。それに何故だか安堵すると共に、少し、ほんの少しだけ、彼が羨ましかった。
「モノみたいに扱われる人」
「お兄ちゃんの家族の人も?」
黙って頷くと、年端もいかない彼の目が痛みを孕んで揺れていた。
「裏切られて、売られて。虐められて、殺されそうになって、逃げた。しばらく逃げ続けたんだけど、追手が来て、彼女は殺された」
どうして彼には話せてしまうのか、僕自身にも分からない。でも、話してみたかった。
淡々と、事実だけをかいつまんで話す。そうしないと、声が震えてしまいそうだった。
「彼女が殺された後、僕は僕らを裏切った『あいつ』を探した」
「その人も、どれい?」
「ううん。別の場所で虐められてた僕らを助けて、色んなこと教えてくれた人。その後、その人にも売られたんだけどね。だから、僕らからすると『裏切られた人』」
鼻の奥がツンと痺れて、それに抗うようにちょっと笑ってみる。
「……殺すつもりで探したんじゃないんだよ」
ハンスが不思議そうに僕を見る。その無垢さが痛くて、でも、ありがたかった。
「もしかしたら一発殴ってやるぐらいは思ってたのかもしれないけど、殺して彼女の仇を討とうなんて考えてなかった」
「……じゃあ、なんで」
「…覚えてて欲しかったのかな。『彼女は死んだ』って伝えたら、謝ってくれなくてもいいから、『まぁ、貴方まだ生きてたの』みたいな皮肉の一つや二つくらいは言って欲しかった」
話し続けながら、あぁそうだったのかと、すとんと腑に落ちるのを感じた。
殺す気もないのに、どうしてあんなに必死にあいつを探したんだろうと、我ながら疑問に思っていたのだ。でも、そうか。
僕が、僕らが。存在していた証拠が欲しかったのか。
「……お兄ちゃんは、優しいね」
「そんなこと」
そんなことない、と言いかけた僕の腕に、ハンスが甘えるようにすり寄ってくる。それを見て、ふっとNのことを思い出した。
「怖い夢を見た」と、Nが眠っている僕の腕の中にもぐり込んでくることがあった。最初はうざったく思っていたけど、そのうち慣れてしまって、構わず2人で眠っていたっけ。あの温かさが永遠に失われてしまったことを、今更のように理解する。
あぁ、と思った。
「……守りたかったなぁ」
僕の口から言葉が零れた。腕にある温かさを、一層強く感じる。
ハンスは、何も言わなかった。眠ってしまったのかもしれない。
ゆっくりと夜は更けていく。その暗さと傍にある確かな温もりに身を任せて、僕もいつの間にか眠ってしまった。

「お兄ちゃん、起きて」
肩を揺すられて、瞼の上に日の光を感じた。目を開けると、1人の少年が僕の目を覗き込むように眺めている。
「………あ、おはよう」
昨夜の出来事を思い出して、僕はやっと言葉を返した。
「じゃあ、行こうか」
伸びをしてから立ち上がる僕を、ハンスは少し驚いたように見つめている。
「どうしたの?」
「お兄ちゃん、寝起き良いね、すごく」
「生憎、人生の大半が起きてすぐ働く生活だったからね」
独り言のように呟いて、洞窟の外を覗いてみる。太陽の光が、木の枝の隙間から鋭く差し込んでいた。見上げた先にある山頂は、銀色に輝いている。
「良い天気だよ、行こう」
ハンスがこくりと頷いて、僕と並んで歩き出す。
「おれのお父さんとお母さんね」
彼の方を見ると、その目は真っ直ぐに前を見据えていた。
「いっぱい働いて、おれを育ててくれたの。……酷い人たちじゃないんだよ。仕事がなくて、お金がなくなって…でも2人とも、おれのこと大好きだったの」
思わず目を見開く。
Nの言葉を思い出した。
「ねぇF。子供は無知だけど、Fが思っているほど莫迦じゃないよ」
いつだったか、街で子供たちを眺めていた僕にNがそう言った。「利用して上手いこと儲けられないかなとか考えてた?」とも。僕の目に微かな侮蔑が浮かんでいるのを、彼女はしっかりと見ていたのだろう。僕が犯罪者に身を落とさなかったのは、Nが居てくれたからだ。
「ハンスは、家族が好き?」
「うん、大好き」
少し寂しそうに、でも本当に嬉しそうに、彼は笑った。
「……ハンスは、幸せになってね」
ハンスが不思議そうに首を傾げる。僕はそれに気づかない振りをして、麓の教会へ歩みを進めた。

「ねぇ。これ、あげる」
教会の扉の前に彼と立った僕は、彼の手にNの手回しオルゴールを握らせた。
「なにこれ?」
「僕の家族が大事にしてくれてた物。雪の中に埋まっちゃうの勿体無いから」
ゆっくりとゼンマイを回すと、聞き慣れた音楽が流れ始める。それと呼び合うように、ハンスの表情が輝き始めた。
「お兄ちゃんが歌ってた……貰っていいの?」
僕はにこりと笑って、頷く。
「貰って欲しいんだ」
「……ありがとう」
ハンスが愛おしげに、オルゴールを胸に抱く。それを横目に、僕は教会の扉をコンコンと叩いた。
扉の向こうに人の気配を感じる。僕は小さい彼の頭をちょっと撫でて、耳元に囁いた。
「ヨハネスって名前。失くしちゃだめだよ」
扉が動くと同時に、僕は弾かれたように走り出す。ハンスの声が追いかけてきたような気がしたけど、聞こえない振りをした。