冷たい風が頰を刺す街外れで、僕はぼんやりと空を見上げている。僕は月夜が好きだ。Nは星空が好きだった。今夜は星や月は見えるだろうか。
痛いほど澄み渡った青を見ながら、ふと思いついた。
星月が綺麗に見えるのは、灯りが少ないところだと言う。どうせ行く宛などないのだから、とにかく灯りのない、人のいないところへ行ってみよう。
綺麗な月明かりを探すのだ。
そう思い立った途端、僕はばね仕掛けの人形のように立ち上がった。
風の隙間を縫うように歩き始める。
明日、明後日、僕は果たして生きているのかは全く分からなかった。
街を出て山を越えると、ごろごろと石が転がる荒地に出た。西日が僕を刺すように照らしている。
今日はこの辺りまでだろうか。夜通し歩き続けるのも悪くないけど、早々に行き倒れて獣に喰われるのは本意ではない。
申し合わせたように小さな洞穴が目に入って、身を屈めて中に入る。街で買ったビスケットを齧りながら、ぼんやりと外を眺めた。
良い天気だ。街の灯りが山の向こうに小さく見える。薄紫色の空に、細い月が浮かんでいる。
「こんなにすぐ逃げられたんだな」
皮肉めいた独り言が口を突いて出て、思わず苦笑いした。
Nがこの場にいたら、彼女はどうしただろう。
幼気な少女のようにはしゃいで、飽きもせずいつまでも空を眺めているかもしれない。若しくは、「誰もいない」と笑って大きな声で歌い出すかもしれない。
思い立って、コートのポケットに入れていた手回しオルゴールを取り出す。
目の前に掲げてゼンマイを回すと、飽きるほど聞いた柔らかい音色が、薄暗闇に吸い込まれていった。
それからは、旅をしながら色々なものを見つけた。
満点の星空を目眩がするまで眺めた。
見たことがない花に足を止められた。
大地を風が吹き抜ける音を聞いた。
広大な森林を生まれて初めて見た。
初めてのことばかりだった。
僕が、いや、きっとNも、想像したこともないような広い世界が広がっていた。
Nにも、見せてあげたかった。
そんなことを思いながら山の中腹にある洞窟で寒さを凌いでいると、奥の方から微かな物音がした。
コウモリだろうか。
そう思った瞬間、突然人影が目の前に現れた。
「お父さん? お母さん?」
「ゔわ」
あまりに突然の出来事に、思わず変な声が出る。
「あれ、違う。誰?」
「…………おか、お父、え?」
両親を示すというその言葉は僕には縁遠すぎて、なんだか別の世界の言葉のように感じた。そんな僕に物怖じすることもなく、恐らく僕より10は歳下の彼は僕の隣にすとんと腰を下ろした。
「お兄ちゃん。おれのお父さんとお母さん、知らない? どこか行っちゃった」
「……知らない」
「僕はヨハネス。ハンスって呼んでよ。お兄ちゃんは? なんて名前なの?」
「……F、とでも呼んで」
名前を持っている人に対等に話しかけられたのは初めてだった。他人に名前を名乗ったのも、初めてだ。
彼は──ハンスは、少し不思議そうに首を傾げた後、頷いた。名前を持たない人がいるということなど、想像もできないような環境で育ったのだろう。
「……ハンスは」
恐る恐る話しかけると、好奇心に輝いた瞳がこちらを向いた。
「家族は、いなくなったの?」
「うん。何日か前にお父さんとお母さんと一緒にこの辺りまで来て、『ちょっと待ってて』って言ったまま、2人共いなくなっちゃった」
積雪は多くはないとはいえ、ここは雪山だ。遭難したか、若しくは、この少年を捨てたか。残念ながら、有力なのは後者だろう。
「飯は? 食ってる?」
「雪を食べてるけど、ご飯は食べてない」
こういう時、『普通の人』はどうするのだろう。家に連れて帰る? それとも、親がいないのをいい事に、散々虐めるものなのか、……売り飛ばすのか。
僕が持っているビスケットは、もう3枚も残っていなかった。
「……少ないけど。食べる?」
「良いの?お兄ちゃんは?」
ハンスは、僕のことを『F』とは呼ばなかった。
「もう食べたから」
嘘だ。本当は空腹だった。でも空腹は、僕の身近で、Nよりも長い付き合いの友人だ。彼よりもそれには慣れている。
「……ありがとう」
ビスケットをちょっと齧って、すぐに安心したような笑顔を浮かべる。僕の口の中には涎が溢れたけど、僕は気付かないふりをした。
さて、面倒なことになった。
彼を連れて旅をする余裕なんて無いし、第一明日からの食べ物もたった今なくなった。中途半端な情で彼を連れていくほど、僕は莫迦じゃない。
「ねぇ、ハンスは、どこから来たの?」
「あっちの方」
僕が歩いてきたのとは真反対の方向を指差した。僕が歩いてきた方角の集落にあった教会に引き渡せば、奴隷になることはないだろうか。
「じゃあ、今日はもう暗いから、明日山を降りてみよう」
「お父さんとお母さんが待っててって言ってたのに?」
真っ直ぐ過ぎる瞳が僕を刺した。「君は捨てられたんだ」と言葉にするのは簡単だ。でも、残酷な事実を7、8歳の子供に伝えるのは気が滅入る。
「……迷子になって、間違えて先に山を降りたのかもしれない」
冷たい色をした月を眺める。月を見て、冷たいと思ったことは今までなかった。
「……お兄ちゃんは、なんでここまで来たの?」
僕の苦し紛れの言葉に肯定も否定もせず、彼は急に話を方向転換させた。その目は僕と同じように、冷たい月を映している。
「綺麗な月明かりと星明かりを探しに」
「見つけた後は?」
「どうかな。考えてない」
僕は何をしているんだろうか。
後先考えずに飛び出してきたことに今更ながら気付いて、薄く笑った。
痛いほど澄み渡った青を見ながら、ふと思いついた。
星月が綺麗に見えるのは、灯りが少ないところだと言う。どうせ行く宛などないのだから、とにかく灯りのない、人のいないところへ行ってみよう。
綺麗な月明かりを探すのだ。
そう思い立った途端、僕はばね仕掛けの人形のように立ち上がった。
風の隙間を縫うように歩き始める。
明日、明後日、僕は果たして生きているのかは全く分からなかった。
街を出て山を越えると、ごろごろと石が転がる荒地に出た。西日が僕を刺すように照らしている。
今日はこの辺りまでだろうか。夜通し歩き続けるのも悪くないけど、早々に行き倒れて獣に喰われるのは本意ではない。
申し合わせたように小さな洞穴が目に入って、身を屈めて中に入る。街で買ったビスケットを齧りながら、ぼんやりと外を眺めた。
良い天気だ。街の灯りが山の向こうに小さく見える。薄紫色の空に、細い月が浮かんでいる。
「こんなにすぐ逃げられたんだな」
皮肉めいた独り言が口を突いて出て、思わず苦笑いした。
Nがこの場にいたら、彼女はどうしただろう。
幼気な少女のようにはしゃいで、飽きもせずいつまでも空を眺めているかもしれない。若しくは、「誰もいない」と笑って大きな声で歌い出すかもしれない。
思い立って、コートのポケットに入れていた手回しオルゴールを取り出す。
目の前に掲げてゼンマイを回すと、飽きるほど聞いた柔らかい音色が、薄暗闇に吸い込まれていった。
それからは、旅をしながら色々なものを見つけた。
満点の星空を目眩がするまで眺めた。
見たことがない花に足を止められた。
大地を風が吹き抜ける音を聞いた。
広大な森林を生まれて初めて見た。
初めてのことばかりだった。
僕が、いや、きっとNも、想像したこともないような広い世界が広がっていた。
Nにも、見せてあげたかった。
そんなことを思いながら山の中腹にある洞窟で寒さを凌いでいると、奥の方から微かな物音がした。
コウモリだろうか。
そう思った瞬間、突然人影が目の前に現れた。
「お父さん? お母さん?」
「ゔわ」
あまりに突然の出来事に、思わず変な声が出る。
「あれ、違う。誰?」
「…………おか、お父、え?」
両親を示すというその言葉は僕には縁遠すぎて、なんだか別の世界の言葉のように感じた。そんな僕に物怖じすることもなく、恐らく僕より10は歳下の彼は僕の隣にすとんと腰を下ろした。
「お兄ちゃん。おれのお父さんとお母さん、知らない? どこか行っちゃった」
「……知らない」
「僕はヨハネス。ハンスって呼んでよ。お兄ちゃんは? なんて名前なの?」
「……F、とでも呼んで」
名前を持っている人に対等に話しかけられたのは初めてだった。他人に名前を名乗ったのも、初めてだ。
彼は──ハンスは、少し不思議そうに首を傾げた後、頷いた。名前を持たない人がいるということなど、想像もできないような環境で育ったのだろう。
「……ハンスは」
恐る恐る話しかけると、好奇心に輝いた瞳がこちらを向いた。
「家族は、いなくなったの?」
「うん。何日か前にお父さんとお母さんと一緒にこの辺りまで来て、『ちょっと待ってて』って言ったまま、2人共いなくなっちゃった」
積雪は多くはないとはいえ、ここは雪山だ。遭難したか、若しくは、この少年を捨てたか。残念ながら、有力なのは後者だろう。
「飯は? 食ってる?」
「雪を食べてるけど、ご飯は食べてない」
こういう時、『普通の人』はどうするのだろう。家に連れて帰る? それとも、親がいないのをいい事に、散々虐めるものなのか、……売り飛ばすのか。
僕が持っているビスケットは、もう3枚も残っていなかった。
「……少ないけど。食べる?」
「良いの?お兄ちゃんは?」
ハンスは、僕のことを『F』とは呼ばなかった。
「もう食べたから」
嘘だ。本当は空腹だった。でも空腹は、僕の身近で、Nよりも長い付き合いの友人だ。彼よりもそれには慣れている。
「……ありがとう」
ビスケットをちょっと齧って、すぐに安心したような笑顔を浮かべる。僕の口の中には涎が溢れたけど、僕は気付かないふりをした。
さて、面倒なことになった。
彼を連れて旅をする余裕なんて無いし、第一明日からの食べ物もたった今なくなった。中途半端な情で彼を連れていくほど、僕は莫迦じゃない。
「ねぇ、ハンスは、どこから来たの?」
「あっちの方」
僕が歩いてきたのとは真反対の方向を指差した。僕が歩いてきた方角の集落にあった教会に引き渡せば、奴隷になることはないだろうか。
「じゃあ、今日はもう暗いから、明日山を降りてみよう」
「お父さんとお母さんが待っててって言ってたのに?」
真っ直ぐ過ぎる瞳が僕を刺した。「君は捨てられたんだ」と言葉にするのは簡単だ。でも、残酷な事実を7、8歳の子供に伝えるのは気が滅入る。
「……迷子になって、間違えて先に山を降りたのかもしれない」
冷たい色をした月を眺める。月を見て、冷たいと思ったことは今までなかった。
「……お兄ちゃんは、なんでここまで来たの?」
僕の苦し紛れの言葉に肯定も否定もせず、彼は急に話を方向転換させた。その目は僕と同じように、冷たい月を映している。
「綺麗な月明かりと星明かりを探しに」
「見つけた後は?」
「どうかな。考えてない」
僕は何をしているんだろうか。
後先考えずに飛び出してきたことに今更ながら気付いて、薄く笑った。



