僕とNの出会いは、6、7年も前に遡る。
僕が働かされていた工場に、Nが連れて来られた。突然現れた自分よりも一つか二つ年下に見える少女に、戸惑ったのを覚えている。
「管理番号はN-2583だ。F-3146、仕事を教えるように」
僕らの所有者はそれだけ言って、さっさと歩き去った。
「……僕、F-3146。Fって呼んで」
「N-2583。…じゃあ、私はN」
腕の識別番号が名前であった僕と彼女が、FとNになったのはこの時からだ。
工場では人間扱いされなかった。
僕らが人間になれたのは、僕らが互いを人間と思って接する時だけ。
Nは強かった。誰より、優しかった。
早朝から夜中までひたすら働かされて、まともな食事も与えられず、小さなミスひとつで嫌というほど折檻される。
あの生き地獄の中で、優しさを持ち続けるのは本当に辛いことだっただろう。
いっそのこと心を捨てたほうが、楽に生きられたに違いない。
でもNはそうしなかった。Nのお陰で、僕も人間であることを忘れずにいられた。
「ねぇF。Fは歌好き?」
「どうだろう。よく分からない」
「じゃあ一緒に歌ってみようよ。私歌うから、Fは真似してね」
「……分かった」
窓に鉄格子が嵌められた檻のような寝床の中でNと歌を歌うのが、僕は好きだった。
月明かりに照らされて笑うNは、当時の僕が見ても分かるぐらい綺麗だった。
いつかここを出よう、という夢を持つのに、そう長い時間は掛からなかった。ここを出て、Nと一緒に人間として生きるのだ。
工場で働いている時も、あいつに拾われてからも、初めて人間の知識なるものに触れた時も、裏切られてあいつに売られてからも、命からがらあそこを逃げ出した時も、僕らの胸にはこの夢があった。それはまるで月明かりみたいに、僕らの道を照らしていた。
幸せと呼べる生活じゃなかった。
でも希望があったから、なんとか生きてこられた。
「ここを出て、」
「人として生きる。2人一緒に」
辛いことがあっても、2人でそう唱えれば。きっと僕らは、何だって乗り越えていけたのだ。
そう、あの日までは。
夏の足音が聞こえてくる頃だった。
あの日僕は仕事を終えて、僕ら2人が暮らしていた古い幌馬車──かつて商人が盗賊か何かに襲われて奪われたものだろう──に帰ってきた。
いつもなら先に仕事を終えたNが、中で待っているはずだった。でもあの日、中には誰もいなくて、彼女が買ってきたのであろうパンは僕が彼女に贈った手回しオルゴールの横に放置されていた。
「……N?」
何かは分からない。でも何かどうしようもなく嫌な予感が、僕の胸を稲妻のように貫いた。
幌馬車の周りをきょろきょろと見回しながら、Nの姿を探す。
空は茜色に染まっていた。
顔を上げると、金色に染まった草原の中で一点だけ、空と同じ色に染まっている場所が目に入った。
息が止まる。
転がるように駆け寄ると、一番見たくなかったものが目の前にあった。
驚愕に見開かれた双眸。
腕の管理番号を覆うようについた、手形の痣。
自衛のためか、固く握られた小さな折り畳み式ナイフ。
冷えて固まった身体。
そして、胸に残る惨烈な刺し傷。明らかに、握られているナイフによるものではなかった。
「……N? 起きてよ、どうしたの」
手が震える。脈が、呼吸が、速くなる。冷汗が、額を濡らしていく。
どうしてこうなったのか、分からない。
でも、状況を整理していく思考は嫌味なほど研ぎ澄まされていた。
彼女が明確に敵意を持った相手。
降参すれば殺されなかったかもしれないのに、それをしなかった。
何かを隠そうとしたのか。守ろうとしたのか。
細い腕に残る、痛々しい痣。
管理番号を隠していた薄汚い包帯は剥ぎ取られている。
相手は、彼女が奴隷であったことを知っていた?
ピン、と何かが弾かれるような音が頭の中で響いて、僕はひとつの結論に辿り着いた。
追手だ。
僕らが逃げて来たあそこの人々が、僕らを血眼になって探しているのだろう。
先にここにいたNが見つかって、連れ去られそうになって、抵抗した。
僕の居場所も問われたに違いない。『奴ら』が今ここにいないということは、Nがハッタリを嚙まして欺いたか。
時間稼ぎにはなるだろう。
でも、きっと長くは持たない。
そうなった以上、ここにいる訳には──
そこまで考えて、理性的な思考が途切れた。
Nは。
ここに置いていく?
死んだ人は埋葬するのだと、何かの本で読んだことがある。
でも、僕がNにそれをしてあげられるか?
金は? 場所は? 時間は? 道具は?
考えている間にもみるみる虫が集っていく『彼女だったもの』を、僕は茫然と見つめていた。
数日経つと、もうNの側には居られなくなった。
生き物ではなくなった彼女の身体には蛆が湧いて、死体特有の臭いが僕の鼻を突いた。腐って骨が剥き出しになっていくNをもう見ていられなくなって、僕は幌馬車の中から手回しオルゴールと冬用の上着だけを掴んで飛び出した。
どこに行くかは決まっていた。
Nが死んだのは、元を辿ればあいつのせいだ。あいつが僕らを裏切らなければ、Nが死ぬことはなかったかもしれない。
あいつを探す。
探して、見つけて、その後は──
僕が働かされていた工場に、Nが連れて来られた。突然現れた自分よりも一つか二つ年下に見える少女に、戸惑ったのを覚えている。
「管理番号はN-2583だ。F-3146、仕事を教えるように」
僕らの所有者はそれだけ言って、さっさと歩き去った。
「……僕、F-3146。Fって呼んで」
「N-2583。…じゃあ、私はN」
腕の識別番号が名前であった僕と彼女が、FとNになったのはこの時からだ。
工場では人間扱いされなかった。
僕らが人間になれたのは、僕らが互いを人間と思って接する時だけ。
Nは強かった。誰より、優しかった。
早朝から夜中までひたすら働かされて、まともな食事も与えられず、小さなミスひとつで嫌というほど折檻される。
あの生き地獄の中で、優しさを持ち続けるのは本当に辛いことだっただろう。
いっそのこと心を捨てたほうが、楽に生きられたに違いない。
でもNはそうしなかった。Nのお陰で、僕も人間であることを忘れずにいられた。
「ねぇF。Fは歌好き?」
「どうだろう。よく分からない」
「じゃあ一緒に歌ってみようよ。私歌うから、Fは真似してね」
「……分かった」
窓に鉄格子が嵌められた檻のような寝床の中でNと歌を歌うのが、僕は好きだった。
月明かりに照らされて笑うNは、当時の僕が見ても分かるぐらい綺麗だった。
いつかここを出よう、という夢を持つのに、そう長い時間は掛からなかった。ここを出て、Nと一緒に人間として生きるのだ。
工場で働いている時も、あいつに拾われてからも、初めて人間の知識なるものに触れた時も、裏切られてあいつに売られてからも、命からがらあそこを逃げ出した時も、僕らの胸にはこの夢があった。それはまるで月明かりみたいに、僕らの道を照らしていた。
幸せと呼べる生活じゃなかった。
でも希望があったから、なんとか生きてこられた。
「ここを出て、」
「人として生きる。2人一緒に」
辛いことがあっても、2人でそう唱えれば。きっと僕らは、何だって乗り越えていけたのだ。
そう、あの日までは。
夏の足音が聞こえてくる頃だった。
あの日僕は仕事を終えて、僕ら2人が暮らしていた古い幌馬車──かつて商人が盗賊か何かに襲われて奪われたものだろう──に帰ってきた。
いつもなら先に仕事を終えたNが、中で待っているはずだった。でもあの日、中には誰もいなくて、彼女が買ってきたのであろうパンは僕が彼女に贈った手回しオルゴールの横に放置されていた。
「……N?」
何かは分からない。でも何かどうしようもなく嫌な予感が、僕の胸を稲妻のように貫いた。
幌馬車の周りをきょろきょろと見回しながら、Nの姿を探す。
空は茜色に染まっていた。
顔を上げると、金色に染まった草原の中で一点だけ、空と同じ色に染まっている場所が目に入った。
息が止まる。
転がるように駆け寄ると、一番見たくなかったものが目の前にあった。
驚愕に見開かれた双眸。
腕の管理番号を覆うようについた、手形の痣。
自衛のためか、固く握られた小さな折り畳み式ナイフ。
冷えて固まった身体。
そして、胸に残る惨烈な刺し傷。明らかに、握られているナイフによるものではなかった。
「……N? 起きてよ、どうしたの」
手が震える。脈が、呼吸が、速くなる。冷汗が、額を濡らしていく。
どうしてこうなったのか、分からない。
でも、状況を整理していく思考は嫌味なほど研ぎ澄まされていた。
彼女が明確に敵意を持った相手。
降参すれば殺されなかったかもしれないのに、それをしなかった。
何かを隠そうとしたのか。守ろうとしたのか。
細い腕に残る、痛々しい痣。
管理番号を隠していた薄汚い包帯は剥ぎ取られている。
相手は、彼女が奴隷であったことを知っていた?
ピン、と何かが弾かれるような音が頭の中で響いて、僕はひとつの結論に辿り着いた。
追手だ。
僕らが逃げて来たあそこの人々が、僕らを血眼になって探しているのだろう。
先にここにいたNが見つかって、連れ去られそうになって、抵抗した。
僕の居場所も問われたに違いない。『奴ら』が今ここにいないということは、Nがハッタリを嚙まして欺いたか。
時間稼ぎにはなるだろう。
でも、きっと長くは持たない。
そうなった以上、ここにいる訳には──
そこまで考えて、理性的な思考が途切れた。
Nは。
ここに置いていく?
死んだ人は埋葬するのだと、何かの本で読んだことがある。
でも、僕がNにそれをしてあげられるか?
金は? 場所は? 時間は? 道具は?
考えている間にもみるみる虫が集っていく『彼女だったもの』を、僕は茫然と見つめていた。
数日経つと、もうNの側には居られなくなった。
生き物ではなくなった彼女の身体には蛆が湧いて、死体特有の臭いが僕の鼻を突いた。腐って骨が剥き出しになっていくNをもう見ていられなくなって、僕は幌馬車の中から手回しオルゴールと冬用の上着だけを掴んで飛び出した。
どこに行くかは決まっていた。
Nが死んだのは、元を辿ればあいつのせいだ。あいつが僕らを裏切らなければ、Nが死ぬことはなかったかもしれない。
あいつを探す。
探して、見つけて、その後は──



