「どちら様ですか?」
ずっと探し続けたあいつはそう言った。
昔の僕らに向けていた人形のように綺麗な笑顔を欠片も見せずに、僕を頭のてっぺんから爪先までを無遠慮に眺め回している。
気付いた時には、僕は彼女を壁に押し付けて胸ぐらを掴み上げていた。
「Nは死んだぞ」
怒りで、彼女のコートを握る手が震える。僕らが一日いちにちを必死に生きようと足掻いている間も、此奴はのうのうとこの街で生きていたのだ。彼女を噛み付くように睨む僕とは対照的に、当の本人は全く覚えがないというように首を傾げている。
「……失礼ですが…人違いでは? 私、Nさんなんて方は存じ上げませんわ」
「巫山戯るな。シラを切ったって無駄だぞ、僕は全部覚えてる」
「本当に知りませんよ。どちら様ですか?」
嘘をついている風ではなかった。
覚えていないのか。
まさか、本当に忘れたのか?
僕らにしたことを。
『あれ』を忘れるなんて。
酷いじゃないか。
「おい、何してる!」
背後から怒号が聞こえて、僕はびくりと肩を震わせた。
「喧嘩か?」
「女性が胸ぐらを掴まれてる!」
「若い奴を取り押さえろ!早く!」
ざわめきが、僕と奴を中心に波紋のように広がっていく。僕は舌打ちをして、彼女の耳元で低く唸った。
「酷いじゃないか。僕はあんたに歪められたのに」
優しい人だと思っていた。
社会の裏側でモノのように扱われていた僕らを、助けてくれた。
「もう大丈夫よ」と頭を撫でてくれた。
読み書きと計算を教えてくれた。
尊敬していた。
彼女みたいになりたかった。
まさか、まさか彼女が。
僕らを助けるためじゃなく、できるだけ高値で売るために、僕らに基礎的な学力を身につけさせたとは思ってもいなかった。
「今回もうまくいって良かった」と嬉しそうに笑う彼女を、克明に覚えている。
僕らは所詮、道具だったのだ。
人間になんて、なれていなかった。
僕らは売り飛ばされた先で再びモノのように扱われて、殺されそうになって、そこを逃げ出して。
数ヶ月前、Nは死んだ。
茜色の空の下で、茜色に染まっていた。
燃えるような色で、冷たくなっていた。
追手に殺されたのだと気付くのに、時間は掛からなかった。
「貴方も、辛い思いをしたのかもしれないけど……」
「神様はきっと見ていてくださる」
彼女の目が大きく広がった。
僕は吐き出すように笑う。
「聞いた。聞いたさ、何回も。あんたの口癖だ。信奉者らしいな」
背後から掴みかかってきた誰かを蹴り飛ばして、僕はウサギみたいに逃げ出した。
坂道を駆け上がりながらちらりと振り返ると、奴は阿呆みたいに呆然と突っ立っているだけだった。
息を荒くしながら街の外れまでやってくると、あの日のような茜空が広がっていた。
僕の嫌いなもの。
茜空。
あいつ。
人間。
街。
神様。
僕の好きなもの。
歌。
月夜。
あとは、N。
生きていく意味は、Nだけで良かった。
Nが笑うなら、僕は例え悪魔にだって、喜んでなっただろう。
でも、Nはもういない。
あいつも、僕らのことなど覚えちゃいなかった。
これから、どうしようか。
物事が行き詰まると、Nはよく歌を歌っていた。その癖が僕にもしっかり伝染していることに気付いて、苦笑いする。
どこかで聞いたことのある曲。
Nが自分で作っていた曲。
あそこから逃げた後に、僕がたった一度だけ、稼いだお金でNに贈った安くて小さな手回しオルゴールの曲。
色々な曲を覚えて、Nはいつも楽しそうに歌っていた。
Nの声を思い出す僕の口から旋律が零れて、それが吹き荒ぶ風に攫われていく。
暦の上では、もう冬がすぐそこまでやってきていた。
ずっと探し続けたあいつはそう言った。
昔の僕らに向けていた人形のように綺麗な笑顔を欠片も見せずに、僕を頭のてっぺんから爪先までを無遠慮に眺め回している。
気付いた時には、僕は彼女を壁に押し付けて胸ぐらを掴み上げていた。
「Nは死んだぞ」
怒りで、彼女のコートを握る手が震える。僕らが一日いちにちを必死に生きようと足掻いている間も、此奴はのうのうとこの街で生きていたのだ。彼女を噛み付くように睨む僕とは対照的に、当の本人は全く覚えがないというように首を傾げている。
「……失礼ですが…人違いでは? 私、Nさんなんて方は存じ上げませんわ」
「巫山戯るな。シラを切ったって無駄だぞ、僕は全部覚えてる」
「本当に知りませんよ。どちら様ですか?」
嘘をついている風ではなかった。
覚えていないのか。
まさか、本当に忘れたのか?
僕らにしたことを。
『あれ』を忘れるなんて。
酷いじゃないか。
「おい、何してる!」
背後から怒号が聞こえて、僕はびくりと肩を震わせた。
「喧嘩か?」
「女性が胸ぐらを掴まれてる!」
「若い奴を取り押さえろ!早く!」
ざわめきが、僕と奴を中心に波紋のように広がっていく。僕は舌打ちをして、彼女の耳元で低く唸った。
「酷いじゃないか。僕はあんたに歪められたのに」
優しい人だと思っていた。
社会の裏側でモノのように扱われていた僕らを、助けてくれた。
「もう大丈夫よ」と頭を撫でてくれた。
読み書きと計算を教えてくれた。
尊敬していた。
彼女みたいになりたかった。
まさか、まさか彼女が。
僕らを助けるためじゃなく、できるだけ高値で売るために、僕らに基礎的な学力を身につけさせたとは思ってもいなかった。
「今回もうまくいって良かった」と嬉しそうに笑う彼女を、克明に覚えている。
僕らは所詮、道具だったのだ。
人間になんて、なれていなかった。
僕らは売り飛ばされた先で再びモノのように扱われて、殺されそうになって、そこを逃げ出して。
数ヶ月前、Nは死んだ。
茜色の空の下で、茜色に染まっていた。
燃えるような色で、冷たくなっていた。
追手に殺されたのだと気付くのに、時間は掛からなかった。
「貴方も、辛い思いをしたのかもしれないけど……」
「神様はきっと見ていてくださる」
彼女の目が大きく広がった。
僕は吐き出すように笑う。
「聞いた。聞いたさ、何回も。あんたの口癖だ。信奉者らしいな」
背後から掴みかかってきた誰かを蹴り飛ばして、僕はウサギみたいに逃げ出した。
坂道を駆け上がりながらちらりと振り返ると、奴は阿呆みたいに呆然と突っ立っているだけだった。
息を荒くしながら街の外れまでやってくると、あの日のような茜空が広がっていた。
僕の嫌いなもの。
茜空。
あいつ。
人間。
街。
神様。
僕の好きなもの。
歌。
月夜。
あとは、N。
生きていく意味は、Nだけで良かった。
Nが笑うなら、僕は例え悪魔にだって、喜んでなっただろう。
でも、Nはもういない。
あいつも、僕らのことなど覚えちゃいなかった。
これから、どうしようか。
物事が行き詰まると、Nはよく歌を歌っていた。その癖が僕にもしっかり伝染していることに気付いて、苦笑いする。
どこかで聞いたことのある曲。
Nが自分で作っていた曲。
あそこから逃げた後に、僕がたった一度だけ、稼いだお金でNに贈った安くて小さな手回しオルゴールの曲。
色々な曲を覚えて、Nはいつも楽しそうに歌っていた。
Nの声を思い出す僕の口から旋律が零れて、それが吹き荒ぶ風に攫われていく。
暦の上では、もう冬がすぐそこまでやってきていた。



