家に帰る。

 これ以上、学校に俺の居場所なんてなかった。教室でも一人きり。職員室にも味方はいない。挙句の果てに生徒指導室は二度の呼び出しで二度と足を踏み入れたくもない。

 すべては吉岡の被害妄想が原因なのだ。

 俺が吉岡のことが好きで、つきまとって、さらには自分の小説の中に吉岡をモデルとしたキャラを登場させて主人公と絡ませた。吉岡は本気でそう思い込み、自分は可哀そうな被害者だと断言、担任の篠田に通告したのだ。あろうことか教育者である篠田も吉岡のそんな戯言を信じてしまう。

 となると、俺はみるみるうちに犯罪者扱いだ。

 担任にストーカー扱いされ、「高校生の健全な恋愛とは?」を熱弁される始末。さらにはことの顛末を母に連絡したという暴挙。

 もはや手に負えない。反論するのもバカバカしく、俺は無言で学校を飛び出した。

 確かに、確かに一瞬だけ、気の迷いからPV数を増やすためにクラスメイトをモデルにしようと考えたこともあった。

 それは俺が天才ゆえの懊悩の先にたどり着いた、つまりは戦略のようなものだった。

 俺が誰に対して恋愛感情があり、それを小説内に反映させてやろうという考えは一切ない。ましてや吉岡のような女に対して、俺が性的興味を抱くとでも? バカバカしい。ヘソで茶を沸かした上にバーベキューまでできそうだ。

 さらに篠田は母と今後の進路を話し合えと言ってきた。

 これは教育者としてはあるまじき行為だ。生徒のプライバシーを親に密告し、その対応を丸投げする。あのバカ教師のやってることは、吉岡と同じで、ただチクるだけですべてを解決したかのように思い込んでいるだけだ。そこの俺の意見や状態は一切無視。考えられない。

 俺はもし、ここでトラックに飛び込んで死んだらどうなるだろうかと考えた。

『クラスメイトと担任が共謀して、嫌がらせを受けた橋和馬。夢を否定され、邪魔され、絶望を感じた橋和馬は、精神的疲労から車道に飛び込んだ。享年17歳。書籍化作家を夢見る高校二年生だった』

 そう報じられ、これが篠田や吉岡への復讐と相成るだろうか? 少なくとも篠田は担任という立場から罷免は免れないだろう。いい気味だ。教員免許を取り上げられ、一生工事現場で旗でも振っとけ。

 いや、待てよ。あいつらは全員グルだ。もしかしたら学校側も不祥事を隠そうと、俺のことを悪者にしかねない。するとどうだろう。

『クラスメイトへの執拗なストーカーとなった橋和馬は、担任からの注意にも反抗し、学校を飛び出す。自分の否を認められない橋一馬は、逃亡の果てにトラックに轢かれて死亡。享年17歳。学校では誰も悲しむ者はいなかった』

 と、こう印象操作される可能性もある。これは黙って死ぬわけにはいかない。

 いや、そもそもなぜ俺が死なねばならぬのだ。俺は書籍化という夢がある。あんな奴らの謀略にはまって死ねるか。むしろ死ぬのはあいつらだ。なんの夢も持たず、ただ息を吸ってるだけの木偶の坊たちが。

 夢のない人間など、生きている価値などない。俺のような人間にこそ、価値はある。俺の命には、無限大の価値がある。

「あいつら、俺の邪魔ばっかりしやがって!」

 学校を出た俺は、次第に怒りが増幅し始めてきた。あの篠田の態度、そしてすべての元凶、吉岡美奈。

 とりあえず、あいつらへの復讐を考えるよりも、もっと重大なことがあった。母にどう説明するかだ。

 まず、篠田がどこまで母に説明しているかだ。

 俺は学校での話を母にはほとんどしない。テストがあるとか、来週体育祭があるとか、そういう事務的な話をするだけで、実際にあった出来事や感想を述べたりはしない。

 もちろん、俺が教室ではずっとボッチで、昼休みは逃げるように校舎の裏に行っていることなんか、言えるはずがなかった。つまり母は、俺は充実した高校生活を送っていると思っているに違いなかったし、俺もそう思っていてほしかった。

 それなのに、いきなり篠田から電話があって母は驚いたことだろう。

 まさか、「お宅の息子さんはストーカーをしています」なんてことは言わないはずだ。さすがに、篠田がそんなこと言っていたとしたら、俺は神経を疑う。一応あのバカ教師も教員免許を持った教師である。

 しかし、俺がネットで小説を書いていることは伝えているに違いない。

 篠田としても、生徒の親に電話するというのはなかなか精神的に難しいことだと思われる。となると、やはり適度なお茶の濁し方をしているはずで、話の導入として入りやすいのはテストの成績のことだろう。俺は高校に入って初めて赤点を取ったし、ほとんどの教科で平均点に届かなかったのは今回が初めてだ。その件で電話をした、と言えば角は立たずに本題に入っていけるはずだ。

 続けて「和馬君の成績の低下の原因は何か心当たりが?」と尋ね、きっと母は「見当もつかない」と答えたに違いない。

 すると篠田は「実は和馬君、ネットで小説を書いているみたいで、そっちのほうに意識が行き過ぎているのではないでしょうか。一度、ご家庭でも進路についてお話になられてみてはどうでしょうか?」などと白々しく話を切り出したに違いない。

 ならば、俺が吉岡にストーカーをしたとか、そういうデマは母には知られていないはずだ。

 しかし、できることならば俺がネットで小説を書いていることも知られたくはない。隠し通したい。

 これは母に無駄な心配をかけたくないという気持ちが大きく、俺はなろう作家としてはまだ結果を出していない状態なのだ。できれば書籍化が決まってから、俺の夢に関しては公表したい。それが俺の思いだ。

 そう考えると、俺が母に伝えることはひとつだ。

「篠田先生は勘違いしてるんだよ。ネットで小説を書いているとか言ってなかった? それは勘違いで、俺、Twitterとかやってるじゃない? あれって多少のフィクションというか、ストーリーも混じったりするじゃない。それを先生がなんだか勘違いしちゃってさ、俺が小説を書いてるだなんて、無茶苦茶だよね。でも今回テストの成績が悪かったのは、ちょっと力の入れ方のバランスが悪かっただけ。反省もしているし、期末テストはこんなことにはならないように、ちゃんと勉強する。篠田先生は大げさに言いすぎなんだ。母さん、ごめんね、心配させちゃって」

 これは嘘じゃない。母を安心させるための、優しい嘘だ。

 俺がネットで小説を書いているということは、できるだけ隠しておきたい。篠田だけでなく、この状態で母にまで読まれたら、俺はどうしていいか分からない。書籍化が決まるまで、母には読まれたくない。

 俺は完全なシミュレーションをして、家の扉を開けた。

 母が今日は仕事の代休で一日中家にいたという不運もあった。篠田が家に電話をしても、普段ならば母は仕事に行っており、そう簡単に連絡がつかないはずである。こんな不運が、俺の運命を巻き込むのはなんという皮肉だろう。

「ただいま」

 母がキッチンにいることは家に入った瞬間から気配を感じていた。

 いつも通り、そう、いつも通りの俺でいなければならない。学校で何かあったと思われてはいけない。ただ、篠田にテストの成績のことで面談があって、少しの勘違いが生まれただけ。それだけのこと。

「和馬」

「ただいま、母さん」

 キッチンに入った瞬間、母の悲しそうな顔が目に入った。

 橋由美子。

 母は、感情を隠すのが苦手だ。嬉しいときは笑い、悲しいときは泣く。感情を表に出すことで、誰とでも近づくことができるらしい。保険のセールスをやっている母は、それが持って生まれた性格で、とても役に立っているといつも言う。

「私は単純だから、嘘が付けないのよ。だから、お客さんと一緒に笑ったり泣いたりして、信頼してもらうしかないの」

 母はいつも自虐的にそう話しているが、誰とでも仲良くなれて、誰にでも信頼されるのは才能だ。

 俺はそんな母の遺伝子を継ぐことなく、笑うことも苦手で、信頼なんてどこにもない。友人もいないし、いつもボッチ。

 ごめんね、母さん。こんな俺が息子で。

「篠田先生から連絡があったわよ。どうしたの、和馬?」

 母は眉を下げ、じっと俺の顔を見てくる。言いたいことがあるが、それを飲み込み、俺の言葉を待っている。

 そんな顔しないで、母さん。俺はこれから嘘をつこうとしてるんだよ。そんな顔をしていると、俺は嘘をつけない。困るんだよ、母さん。

「母さん……」

 俺はさっき考えて、帰り道に何度も復唱していた言葉を、飲み込んだ。

 俺はネットで小説を書いている。それを、隠すために嘘をつこうとしている。

「和馬、母さんは、一馬のこと信じているからね。だから……、信じてるから」

 母の目には涙が溢れていた。

 母は、どこまで知っているのだろうか? 俺がKAZMAという名で「異世界ハーレム戦記」という異世界チーレムものを書いていること、吉岡をストーキングしていたこと、学校ではボッチなこと、山本に嫉妬していること、書籍化することが夢であること……、母はすべてを知っているのだろうか? 知った上で、その涙なのか?

「……」

 俺は、何も言えなかった。嘘も、真実も、何も言えなかった。

 ただ、俺の行動が母を泣かせてしまったという事実を受け止められなくて、俺は部屋に閉じこもってしまった。

 俺は、どうすればいいのだろう。

 俺は、ただのクズかもしれない。クズ。クズ。クズ。

 暗い部屋、俺はひとり、繰り返す言葉はひとつだけ

「母さん、ごめんね」