養護教諭のおばちゃん先生の車で病院に向かい、王路はレントゲン検査を受けた。オレは家族じゃないから、待合いでソワソワしながら結果を待つ。そして――

「感染性の急性胃腸炎!?」

 今いる場所が病院の待合だから、オレは驚きつつ、慌てて声のトーンを下げた。

「それって、何が原因なんすか?」

 オレの質問に、おばちゃん先生は優しく教えてくれる。

「病院のお医者さんが言うには、さまざまな原因があるって。だけど、おそらく今回は、ウイルスや細菌が原因で高熱がでたんでしょう、っておっしゃってたわよ」

 そ、そ、それってまさか……! オレは動揺が顔に出ないよう、必死に堪えた。

「ウイルスや細菌感染……それって、ゲロを……触る、とかで罹りますか?」

 実際には、マウストゥーマウス。キスしちゃったんですよねえ、はい。

「あらまっ! 心当たりがあるのね?」

 「……ま、まあ……」と、オレは、ソッとおばちゃん先生から視線をそらした。けど内心では――

 ありまくりです! むしろ原因の病原菌はオレです!! ……と叫びたいのを我慢した。

 オレはいたたまれなくて、早くこの場所から逃げ出してしまいたい思いだった。だけど、そんな無責任なことは出来ない。

 「い、今、王路はどこに?」と、内心動揺しているせいでどもってしまったけど、おばちゃん先生は気にしていないようでホッとする。

「注射を打ってもらっているわ。それが終われば、あとは窓口で支払いね。あっ、お薬も出してくれるそうよ」

「じゃあその後は、看護師のかーちゃんがオレんちに連れて帰って、看病してくれるって言ってました」

「助かるわ〜! でも一応、もう一度、王路君のお母さんに連絡してみるわね」

 おばちゃん先生は、ジャケットのポケットからスマホを取り出して、オレに向かって手を振りながら病院の外に出ていった。オレも先生にひらひらと手を振って見送ったあと、一人残された待合いで頭を抱えてしゃがみ込んだ。――だあーーっ!! 完っ全に、オレとチューしたせいじゃねえかぁーーっ!!

「知らなかった……オレって、病原菌だったんだ……」

 道行く患者さんや付き添いの人に心配されながら、オレはよろよろと歩いて、王路が出てくるはずの病室前の椅子に座った。――オワッタ。オレは病原菌……もう、王路とキス出来ない。

『なぁーにが『リップクリーム』だバーカ!! お前は病原菌なんだ!! そんなもん塗ったってなあ、もう二度と王路とキスできやしねぇーよ!!』

 脳内の悪魔が、かなりキツイ言葉でオレを責めてくる。

『何言ってんだ! 今回はたまたま病原菌を持ってて、たまたまキスして、たまたま急性……なんちゃら? を発症しただけだろう!』

 脳内の天使が、オレを擁護してくれる……のはいいけど、病名くらい覚えとけ!!

 オレは自分も病人なんじゃないかってくらいに、頭をふらふら揺らしながら待合いの椅子に座っていた。

 ――数分後。

 病室の扉ががらがらと音を立てて開いた。薄いカーテンの向こうで、王路が礼を言っている声が聞こえる。――よかったぁ〜! 喋れるようになったんだな、王路。

 「失礼しました」と、王路は意外とケロッとした顔で出てきた。

「お、王路。大丈夫か? 会計まで少し時間かかるらしいから、窓口前の椅子んとこ行こーぜ?」

 顔色は良くなったけど、熱が下がっていないからか、フラフラしている王路の腕を持った。それからオレは王路の杖代わりになって、窓口前まで付き添って、王路と並んで椅子に座った。ちなみに、おばちゃん先生は戻ってきてない。

 そわそわして座っていると、王路がオレの頭に寄りかかってきた。王路がオレより11cmも背が高いから、肩に寄りかかれなかったんだろうな。

「おい、王路。横になった方が良いんじゃねーか? そっちのが楽だろ。この一列、オレらしか座ってねーし。ほら、横になれよ」

 ぼうっとしている王路は、こくんと頷いた。――よし! じゃあ、オレはもうちょい横に移動して……って、え?

 オレは膝に重みと熱さを感じて、自分の足を見下ろした。

「ひ、膝枕……?」

 ん、んん? オレ今さっき、横になれって言っただけだよな? 膝枕してやるなんて、一言も言ってねーぞ!?

「……どーしてこうなった……」

 オレは恥ずかしくて、いっそのこと気を失えたらいいのにと思った。――まあ、そんな都合のいいことは起きちゃくれないけどな。

「……それにしても、すげえ汗だな」

 ズボンごしに伝わる、王路の頭の熱さと汗。オレはスポーツバッグから、まだ使っていないタオルを取り出して、王路の額や首元を拭いてやった。その間もずっと、王路は苦しそうに息をしていて、かわいそうで仕方がなかった。

「もうすぐ、うちに連れて帰ってやるからな。安心して眠っとけ」

 オレの言葉が聞き取れたのか、王路はぼんやりと目を開けて、ふにゃりと笑って眠りについた。その顔をダイレクトに見てしまったオレは、両手で口を塞ぎながら、なんとか叫ぶのを耐えた。――なんだ今の。めちゃかわなんだが? くっそかわいい笑顔だったんだが??

 オレは気分の高揚を抑えきれず、黙ったままガッツポーズをしたのだった。

 結局、王路のかーちゃんと連絡が取れて、仕事を早退して病院まで迎えに来てくれた。――ちなみに、めっちゃ美人だった! そりゃ、あのかーちゃんの遺伝子受け継いだら、王路がイケメンなのは仕方がない!

 オレは養護教諭のおばちゃん先生と一緒に王路を見送ったあと、おばちゃん先生と別れて、退勤してきたかーちゃんの車に乗って帰宅した。


*****


 ――そして、翌日の早朝。

 オレは朝の自主練を休むつもりで、朝6時半というレアな時間に王路のマンションに見舞いに来ていた。――だって、放課後は部活があるし、部活帰りだと遅い時間になっちまうからな。

「一応、王路に◯INEして確認したら『OK』って返ってきたから……まあ、大丈夫だろ!」

 何度か遊びに来たことがあるのに、『彼氏』の見舞いに来たって思うと、なんか知らんが緊張する。

 オレはマンションのエントランスに入って、機械に王路んちの部屋番号を入力した。するとしばらくして、はい、と王路の声が聞こえてきた。

「あっ、もしもし。オレです、姫川です」

『プッ。もしもし、ってなんだよそれ。しかも敬語になってるし』

「うっ、うるせーな! 慣れてねーんだよ、こういうの!」

『クックッ、あーおもれぇー。あ、今、オートロック解除したから。早く上がってこいよ。じゃな』

 笑うだけ笑った王路に、一方的に通話を切られたオレは、「相手は病人だ」と思うことで怒りを抑えた。――そうだ。むしろ、あれだけ喋れるようになってることを喜んだ方がいい。

 オレはエントランスを抜けてエレベーター前に立つと、エレベーターが降りてくるのを待つ間に、少しだけ昨日の王路の姿を思い出す。

 両目を閉じて、弱っていた王路を思い浮かべ、むむむっと脳にインプットする。

「――よし! アイツは病人! オレはそのお見舞い! 喧嘩しないっ!」

 自分にしっかり言い聞かせて、いつの間にか到着していたエレベーターに急いで乗り込んだ。

「……エレベーターに乗ると、なんであんなに気まずくて、無言になっちまうんだろう。あと、なんでかビミョーに怖い」

 とかなんとか、どーでも良いことを一人で喋っていたら、目的の階にエレベーターが止まった。オレはスポーツバッグを肩にかけ直し、エレベーターを降りる。――えーっと。王路んちは、エレベーターから降りて左側……だったよな?

 オレが左へ向かって歩き出した瞬間――

「おい! どこ行くんだよ、姫川。俺のうちはこっちだろーが」

 後ろから王路の声が聞こえてきて、驚いて振り返ると、中途半端に開けたドアから顔を出した王路と目が合った。ゲラゲラ笑っている。――どうやら右側だったらしい。

 意味もなく咳払いをして方向転換。は、恥ずかしい……っ!!

 こっちを覗き見ながら、ひーひーと腹を抱えて笑う王路の姿を見て、オレは少しだけ王路の体調が心配になってきた。――こいつ、熱のせいで、ハイテンションになってるんじゃないのか……?

 オレは王路の元へたどり着くと、なんの前置きもなく背伸びして、冷却シートの貼られた額に自分の額をぴたりと当てた。

「なっ、おいっ、姫川っ!?」

「んー? なんだ?」

「急になにすっ……」

「おい! てかお前、まだ熱高ぇじゃねーか!」

 バッと額を離すと、笑いすぎて火照っていた王路の背中を押して一緒に玄関へ入った。

「ったく。昨日あんだけしんどそうだったのに、半日でケロッとしてるから、変だなって思ったんだよな。まあ、オレのかーちゃんは、大体一日で熱が下がるって言ってたけど。」

 ――個人差ってあるしな!

 事前に◯INEで聞いていた通り、王路のかーちゃんは仕事に出かけて居なかった。とーちゃんは海外赴任中。

 「そんじゃ、お邪魔しまーす」と、オレは靴を脱ぎ、しっかり揃えて家に上がる。オレのかーちゃん、しつけには厳しいからな!

「おい、王路。早く部屋に戻って横になれ。お前、また昨日みたいに苦しい思いしたいのかよ?」

 リビングの扉を開けて、おしゃれなテーブルの上に、お見舞い品を並べていく。けど、王路がリビングに来ない。

「何やってんだ、アイツ」

 オレは荷物を置いて、玄関まで小走りで戻ると、王路が玄関で頭を抱えてうずくまっていた。

「王路!!」

 昨日の姿がフラッシュバックして、オレはスリッパを脱ぎ捨てて駆け寄った。

「王路、王路? 大丈夫か? またしんどくなったのか? オレが支えてやるから、取り敢えず立とうぜ。春だけど、朝はまだ冷えるし、身体に悪いだろ?」

 王路の腕を自分の肩に回して立たせようとした時、赤い顔で潤んだ目の王路がオレを見上げた。

「……と、思った」

 最初の言葉が掠れて聞こえなかった。「もう一回言えよ」と、耳を近づけると、

「キス、されるかと思った」

「はぁ!? おまっ、それで玄関でじっと座ってたんか!? そんなペラッペラのパジャマ1枚で!? てか、キスだったら、もう2回もしてんだろーが!」

「いや……自分からするのと、お前の方からしてくるのとじゃあ、破壊力が違う、っていうか……」

「破壊力ってなんだよ!? 意味わかんねー! 日本語で喋れ日本語で! もぉ〜、お前って……普段はしっかりしてんのに、こういう時はポンコツだな!!」

「ハイ。スミマセン。俺は、ポンコツです」

 しおらしく謝る王路を見て、オレは思った。――素直な王路。かわいすぎじゃね?

 オレは、一瞬頭に浮かんだ「王路が可愛い」の5文字を、パッパッと手を振ってかき消した。

 それから王路をリビングまで誘導して、白い革張りの高そうなソファに座らせた。――オレは恐れ多くて、おとなしくラグの上に胡座をかく。……これもたぶん高いやつだけどな。

「こほん! ……王路。よく聞け。今のお前は”通常モード”じゃない。情緒不安定なのは、全部高熱のせいだ!」

 オレは人差し指を、王路の鼻先にびしっと突きつける。王路はぼんやりしながら、くてんと首を傾けた。

「……お前に恋してるから、情緒不安定なんじゃなくて?」

 王路の言葉に、オレの顔はカアッと熱くなった。――まっ、まっ、真顔で『恋』とか言うなやぁあぁ!

「今はそういう話してません! ……とにかく! 今のお前は、熱でバグってるんだってば!」

 オレが腕を組めば、王路も真似するように腕を組んだ。

「たしかにな。今の俺、姫川にムラムラしてて、めちゃくちゃセッ、」

「シャラップ!!」

 ――せ、せ、セーフ!

「頼むから、黙ってオレの話を聞いてくれ……」

 羞恥と動揺でどうにかなりそうなオレは、切実な懇願モードで王路に訴える。王路はこくりと頷いて、口を両手で隠した。――いや。そうじゃない。『黙れ』って言ったけど、なんで可愛いポーズとるんだよ……。

 とりあえず、オレは現状把握を優先することにした。手提げ袋から体温計を取り出して、王路に差し出す。

「ほら。これで体温計ってくれ」

「……わかった」

 王路は、オレから受け取った体温計を脇に挟んだ。ピピッと瞬速で音が鳴る。――まじかよ。これ、ぜってー熱高いやつじゃん!

 オレは羞恥心も忘れて、パジャマの襟から王路の脇に手を突っ込み、体温計を取り出した。

「……38度2分」

 想像していたよりは低めだったけど、十分すぎるほどの高熱だ。

「まずは横にならねーと。ベッドに行くぞ」

 膝立ちで王路の横に近づき、ちゃんと歩けるか訊ねると、こくんと頷いた。オレはふらつく王路を見守りながら、ベッドまでゆっくり付き添った。

「――とりあえず、これでよしっと」

 王路をベッドに寝かせ、リビングに置いてきた手提げ袋を取りに行こうと振り返った瞬間――

 ぐいっ。

 裾を引かれて、オレはツンと前にのめった。

「どした? 他にやってほしいことでもあるのか?」

 病人には優しく! の精神で、オレの制服の裾を掴んで離さない王路に微笑みかける。すると王路は弱々しい声で、「行くな。ここにいろ」と言ってきた。その一言に、オレの胸がギュッと絞めつけられる。――正直、王路のことを恋人として好きかと聞かれたら、即答はできない。

 でも、こうして甘えられるのは嫌じゃない。キスも恥ずかしかっただけで嫌悪感は全く無かった。普段見れない王路の一面を、「可愛い」と思ってしまったのも事実だ。けれど、「ムラムラする」とか「セックスしたいか」と聞かれたら、答えはノーだ。

 多分オレは、やっぱり女の子が恋愛対象なんだ。王路だって、高校1年の最初の頃は、美人の彼女がいた。俺達はいわゆる『ノンケ』だ。――なのにどうして、王路はオレにキスしたくなったりするんだろう? オレは王路のことを可愛いと思ったりするんだろう?

 俺達は付き合ってるけど、その関係は歪だ。

「……姫川」

 オレが何を考えているのか分かっているみたいに、不安そうな顔でこっちを見つめてくる王路に、なぜか罪悪感を感じながら笑いかけた。

「もうすぐ電車の時間だから、ずっと側についててやることはできない。でも、枕元に経口補水のゼリーを置いていくからな。あと、体温計も。……そうそう。オレのかーちゃんが言ってたぞ。急性胃腸炎は無理に食事をせずに、胃腸を休めて水分をしっかり取れって」

 「覚えとけよ?」と聞いてみると、「わかった」と返事が戻ってくる。

「お前のかーちゃんが色々と面倒見てくれるかもしれねーけど、他にもいろいろ持ってきて、リビングのテーブルの上に置いておいたからな」

 「……さんきゅ」と、王路は熱い息を吐いた。

「朝は大体、熱が下がりがちになるっぽいんだけど、無理して動いたせいで熱が上がってきたかもな。そだ。朝の薬は飲んだか?」

「……抗生剤、飲んだ」

「解熱剤は出たか?」

「……ある。熱が出るのは身体が菌と戦ってるから、あまり飲むなって言われた」

 「そうだな」と、オレは頷いて、それでも今は飲んだ方がいい、と薬が入った袋を探した。すると、王路がデスクの方を指さしたので見てみると、『とんぷく(解熱剤)』と書いてある袋を見つけた。

 1回1錠と書いてある服用量を確認して、シートから錠剤を取り出した。オレはそれを王路の口の中に入れて、経口補水のゼリーで飲ませた。――吐き気がある時とか、この経口補水のゼリーで薬飲むと、気持ち悪くなりにくいんだよな。……まあ、個人差あるだろうけど。

「よし! 解熱剤も飲んだし、あとはたくさん寝るこった。じゃあ、そろそろオレは学校に――」

 行くからな、と言う言葉が突然のどから出てこなくなった。だって王路が、心細そうな、すがりつくみたいな目でオレのことを見るから。

「……お前って、体調が悪くなると甘えん坊になるんだな」

 「弱みを握ったぜ」と、オレはニシシと笑った。「……うるせえよ」と、王路は言いながら、手をつないでくれと掛け布団から左手を出した。

「ったく、しょーがねぇなぁ。”病人には優しく!”がうちの家訓だから、少しだけ側にいてやるよ。オレの優しさに感謝しろよな?」

 オレが笑って手を握ってやると、王路は安心した顔をして目を閉じた。その寝顔を見て、不覚にも可愛いと思ってしまったオレは、頭がどうかしちまったのかもしれない。

 そして、少しだけ側にいるはずが、いつの間にか王路と一緒に眠ってしまい、オレは盛大に学校へ遅刻したのだった。