昨夜は、緊張して寝れなかった。なーんてことはなく、驚くほどぐっすりと眠れてしまった自分の神経の図太さに感心する。
起床時刻はまだ早朝の5時だが、自主練と朝練の為に、眠い目を擦ってベッドから降りた。
欠伸をしながら階下に降りると、ちょうど弁当を作っていた母親に出くわした。
「かーちゃん、はよーっす」
「あら、環ちゃんおはよう! 環ちゃん、昨日お弁当も残して夕飯の作り置きも食べてなかったけど……どこか具合でも悪いの?」
「別に。ちょっと腹下しただけ」と、適当に嘘をついて、冷蔵庫から取り出した豆乳を専用カップに入れ、プロテインの粉末をぶち込み、シャカシャカ振りまくる。
「……ならいいんだけど」と行ったかーちゃんが、茶色づくしの冷凍食品弁当から、唐揚げを退けようとしたのを咄嗟に止める。
「ど、どうしたの? 環ちゃん」
「その唐揚げはゼッテーいる。むしろ、数増やしといてほしい」
「ええっ? でも環ちゃん、お腹下したんでしょう? 今日は茶色弁当はやめようかと思ってたんだけど……」
「んーん。それでいい。ってか、そのままでいい。あ。唐揚げ多めにね!」
そう言って、オレは朝食代わりのプロテインと1本のバナナを持って、筋トレをしに自室へ戻ったのだった。
*****
筋トレを終えてシャワーを浴び、脱衣所で髪をセットしていると、ピンポーンとチャイムの音が聞こえた。
「えっ! あいつもう来たん!?」
焦って手に着いたワックスを洗い流していると、パタパタと廊下を小走りするかーちゃんのスリッパの音が聞こえてきた。
「はいはーい」と、かーちゃんは脱衣所の前を通り過ぎて玄関へ向かう。「かっ、かーちゃん待って! オレが出るからっ」と、廊下をひょっこり覗いた時には、もう玄関扉は開いていた。――かーちゃん、行動が早すぎる! さすが現役看護師!!
などと感心している場合ではなく、オレは焦って玄関へ向かった。
「あらあら、王路君じゃない! 久しぶりねぇ」
「おはようございます、おばさん。ご無沙汰してます」
「まあまあ、ご丁寧にどうもありがとう。もしかして環ちゃんを迎えに――」
「かーちゃん! あとはオレが相手するからっ。かーちゃんも仕事行く準備があるだろ?」
オレがまくしたてるように言うと、かーちゃんは玄関の壁に掛けてある時計を見て、「あらやだ」と声をあげた。時刻は6時15分過ぎである。かーちゃんはこれから化粧をして、家事をこなして7時には家を出なければならない。
「今日は日勤なのよ〜。王路君ごめんなさいねぇ、バタバタしちゃって!」
「いえ。自分は大丈夫っす」
「いいから、かーちゃんは早く準備しろって」
「はいはい、わかったわよ〜。それじゃあ、王路君、またね」と、かーちゃんは忙しなく階段を上っていった。
かーちゃんがいなくなった途端、肌がむず痒くなるような、項のあたりがそわそわするような妙な空気が流れた。とりあえず、何か言わなければと思い朝の挨拶をする。
「はよっす」
「はよ。……急がねーと、電車に乗り遅れんぞ」
言われて、オレはハッと自分の姿を見下ろした。――まだ、Tシャツにスウェットパンツ姿だった!
「わ、わり! すぐに着替えてくるわ!」
「おう。行ってら」と、王路の声を聞きながら、オレは急いで階段を上がった。自分の部屋の扉を開けて、すぐに制服に着替える。スポーツバッグはキッチンに置いてある。
オレは青いネクタイをテキトーに結んで、羽織ったブレザーのボケットにスマホを入れて、財布をズボンの尻ポケットに入れた。「よし!」と言って部屋を出る。バタバタと階段を駆け下りて、キッチンに向かい、スポーツバッグを引ったくるようにして持った。
「わり! 待たせた!」
オレは雑にスリッパを脱いで、踵の潰れたスニーカーを履く。よし、行くぞ! と立ち上がると、すぐ目の前に王路の顔があってびっくりする。――も、もしかして、ここで「おはようのチュー」とか!?
なんて思い、反射的に両目を瞑ると、シュルッとネクタイが解かれる音がした。
オレは頬に血液が集中するのを感じて、
「あ、朝っぱらから人ん家の玄関で、ナニするつもりだっ」
と小声で抗議すると、王路はきょとんとして、
「ネクタイがぐちゃってたから、結び直してやろーと思って」
と言った。――な、なんだ。ネクタイか……いや、でも、ネクタイ結びって地味に照れるやつ!!
オレは王路からネクタイを奪った。
「い、行きの電車の中で結ぶからいい!」
「? すぐに済むぞ?」
「い、いいんだよ! 早く行くぞ!」と、オレは王路の手を咄嗟に握って、玄関ドアを開けた。――な、なんかすげぇナチュラルに手ぇ握っちまったーー!!
オレの頭の中はパニックになっていた。――ど、どうする? これってどのタイミングで手ぇ離せばいいんだ!?
王路の手を握ったまま、オレは早足で駅に向かう。早朝の住宅街はひっそりと静まり返っていて、今のところ人影はない。手を繋がれたまま、大人しく着いてくる王路をチラッと確認すると、王路の顔が赤くなっていた。――わ、わ、わぁーー!!
オレは恥ずかしさに叫び出したい衝動に駆られたが、寸でのところでなんとか耐える。……こいつ、可愛すぎだろ!!
オレよりデカい図体をして、大型犬のように大人しく引っ張られる王路は、なんというか言葉にできない不思議な感情を与えてくれた。
オレが、ニヤつく顔を引き締めようと必死になっていると、前方にサラリーマンらしきおっさんの姿が見えた。ヤベッ! と思った瞬間、オレの手の中から、するりと王路の手が抜けていった。
こんなにアッサリ手を離されると思っていなくて、オレは自分の胸がズキンと痛んで、テンションが下がって行くのを感じた。でも、住宅街を抜けると一気に人が増えるので、そろそろ手を離さなければいけないのは確かだった。
「ちぇっ」
思わず心の声が出てしまい、ハッとすると、さっきまで繋いでいた王路の手がオレの頭を優しく叩いた。そして耳元で、
「また明日、手ぇ繋ごうぜ」
と言って離れていった。オレは、おう、と素っ気なく返事をするのが精一杯で。太鼓のように、ドンドコ、ドンドコ鳴る心臓が、口から飛び出てきそうだった。
4月の早朝はまだまだ寒い。
けど、オレの耳は燃えるように熱くて、額にもじっとりと汗をかいていた。
「……制汗スプレー、持ってくればよかった」
「あ? なんか言ったか?」
「な、なんでもねぇよ! ほら早く! 電車に乗り遅れるぞ!」と言って、オレは王路に顔を見られないように駅まで猛ダッシュした。
「わー! 待って、待って! オレたち、乗りまーす!」
『駆け込み乗車はおやめください』のアナウンスを完全に無視して、オレと王路は電車に全力で駆け込み乗車した。すし詰め状態の車内に、強引に身体をねじ込む。肩に掛けたスポーツバッグが、挟まれるか挟まれないかのスレッスレで、電車のドアがプシュゥ〜と閉まった。
「ぎ、ギリセ〜フ!」
「『ギリセーフ』じゃねーよ。明日からはもっと余裕を持って準備しとけ、バカ」
乱れた呼吸を整えながら、王路は呆れたように、ため息混じりに言った。「お、おう」と言って、オレは俯く。――えっ、明日も迎えに来るのか!? そ、そっか……オレたち、付き合ってるんだもんな!?
走った直後とは別の理由で心臓の音がドキドキしていた。どうか王路に聞こえていませんように! と祈りながら電車に揺られる。自分のことにばかり気を取られていたオレは、電車が大きく揺れた時にバランスを崩して、王路の胸に顔から突っ込んでしまった。
「うぷっ」
王路の胸に縋り付く体勢になってしまったオレは、急いで体勢を戻そうとした。
「っ、うっ、……アレ?」
車内が人でぎゅうぎゅうのせいで、身体を真っ直ぐ起こすことができない。背中には、知らんおっさんの鞄。――くっそ、邪魔!!
なんとか抜け出そうとジタバタしていると、周囲の視線が冷たく変わっていくのが分かった。ようやく自分のやらかしに気づき、オレは小さな声で「スンマセン」と呟く。
オレが動くのを止めたことで、車内に少しだけ平穏が戻った。――でも、この体勢、解決してねぇ……!
制服越しとはいえ、完全に王路と密着してしまっている。正面から抱き合うみたいな形で。
――うっわ、マジ無理。死ぬほど恥ずい。
王路も、絶対迷惑してるはずだ。
とりあえず謝ろうと、首をちょっとだけ動かして王路の顔を見上げる。
「王路。マジでごめ……ん、な……」
そして、言葉の途中で固まる。
……顔、近っ!! てか、整いすぎじゃね?
「……おう。気にすんな」と、王路は言ったが、気にしないなんて無理。だって――
「おまえ……顔、真っ赤じゃん……」
「うるせぇよ」
王路は顔をそらしたが、耳まで赤くなってる。
しかも、今さら気づいたんだけど、王路の胸に右耳を預けた状態のオレには、王路の心臓の音がドクドクと早く響いてきて――……走ったせいじゃねーよな。これ。
もしかして、王路も……?
そう思った瞬間、胸の奥がキュンと震えた。
「?」
たった一瞬の間に感じた、心臓を鷲掴みにされたような、甘い痺れに似たナニか。
オレは自分の身に何が起こったのか分からず、こてんと首を傾けた。
「……それ、やめろよ。姫川」
「それ、って何が?」
「その、首をひねるやつだよ」
「首をひねる??」
王路が何を言おうとしているのか、全く分からなくて、オレは首を傾げる。
「それ。それだよ。お前が今やってるやつ」
「えぇ?」
段々とイライラしてきたオレの様子に気づいたのか、王路は「もういい。お前、じっとしてろ」とため息を吐いた。
――なんなんだよ。意味わかんねー。
さっきまで胸がドキドキしてたのに、今は胸がモヤモヤする。
「……ったく、なんなんだよ。マジで」
フンと鼻を鳴らして顔を反対方向に向けた時、電車の揺れで、微妙に体勢が変わった。今まで上半身だけ王路にくっついた状態だったけど、今度は下半身もくっついてしまった。――これは、マジでマズイ。
そう思った時、オレのへそのあたりに、何か硬いものが当たっていることに気がついた。これって、まさか――
「……生理現象だ」
王路の下半身の状態に集中していたオレは、掠れた低い声にビクッとする。
「そ、そっか。そりゃあ、仕方ないな」
――いや、仕方なくねぇよ! 何言ってんだオレ!
自分で自分にツッコミを入れて、オレは、電車が一刻も早く駅に着いてくれることを願った。
*****
電車が高校の最寄り駅に到着する頃には、オレのメンタルは疲労しきってボロボロだった。――なんかもう、家に帰ってベッドで寝たい。
そう思ったあと、オレは王路の痴態を思い出して、頭をぶんぶん! と左右に振った。
――ベッドはマズイ! ベッドは!
オレはあらぬ妄想をしかけてしまった自分の頬をビンタした。
「……なにやってんの、お前」
電車の中でのことなんか無かったように、平然とした態度で見下ろしてくる王路を、キッと睨みつけた。
「お前のせいで朝っぱらから疲れた! 罰としてオレのスポーツバッグを持て!」
「はぁ?」
突拍子もないオレの言葉に、マヌケな声を出した王路のアホ面を見て、オレはスッと胸がすくのを感じた。
「なーんつって。冗談だよ、冗談。早く学校行こーぜ」
オレはケラケラと笑いながら、制服のポケットからネクタイを取り出して首に引っ掛けた。すると――
「まてよ、姫川」
「ん?」
「俺が結んでやる」
「え」と言って、オレがきょとんとしている間に、王路は素早くネクタイを締めてしまう。その早業にポカンとしていると、オレらを見て、キャーキャー騒ぐ女子達が視線の端に映った。――不思議なことに、昨日までの嫌悪感や不快感を全く感じない。
なんでだ? と思って女子達を眺めていると、目の前に王路が立ち塞がった。
「王路?」
「また気持ち悪くなったらいけねーから。お前は俺だけ見とけ」
そう言って、王路はオレの手首を持って引っ張った。再び女子達が騒ぎ始めたのが見えたけど、オレは王路の言う通り、王路の背中だけを見て通学路を歩いた。
学校が近づく頃には、手首が解放されてしまって、オレは少しだけ残念に思ったのだった。
*****
オレと王路は、いつも通りに朝の自主練をこなして、女子達に騒がれながら教室へ向かった。
「……やっぱり、おかしい」
「あ? 何がだ?」
オレの独り言を聞き取った王路が首を傾けて訊ねてきたけど、オレは「なんも言ってねーよ」と嘘をついて誤魔化した。
おかしい、おかしいと頭の中で繰り返しながら、首をひねって教室にたどり着く。すると毎朝のごとく、いつものメンバーが教室の扉の前でたむろっていた。
「はよーっす」と、王路が言う。「おう。王路はよー」と挨拶が返ってきて、王路は教室に入っていく。オレも王路に続こうと挨拶をしたら、何故か足で通せんぼされた。
「ハァ? なんのつもりだよ、お前」
オレが若干キレ気味に言っても、男子連中はニヤニヤしたままだ。無理やり通ろうとしても、他の連中が妨害してくる。イラッとしたオレは、教室の後ろのドアに向かったけど、そこは吹奏楽部の女子のたまり場になっていて、女子に苦手意識を持つオレは引き返すしかなかった。
イキってキレていたくせに、すごすごと尻尾を巻いて戻ってきたオレを見て、男子連中は「ギャハハハ!」と腹を抱えて笑っていた。――マジ、なんだコイツら。バリ、うぜぇ。
オレはもう一度、教室の敷居を跨ごうとしたけど、やっぱり道を塞がれてしまった。――こいつらサッカー部の連中。悪い奴らばっかじゃねーんだけど、こういうノリだけはマジうぜぇんだよなぁ。
「……どうやったら通してくれんの?」と、仕方なく聞いてみた。すると、
「お姫様はお金持ちなので、通行料500円頂きまぁ〜す」
と言われた。――はぁ!? マジ、くだらねー!!
オレは内心カチキレそうになりながら、ここは大人になって付き合ってやるか、と思ってエア500円玉を手渡した。しかし――
「おい、姫川。ケチってんじゃねーよ。はよ、500円寄越せって」
と言ってきやがった。「はぁ? なんでお前にマジで通行料払わねぇといけねーんだよ?」と、オレはキレ気味に言った。すると相手も本気になってきて、もうちょいでつかみ合いの喧嘩に発展するか、と思った時。
「おー。そう言えば、俺の荷物忘れてたわ」
と言って、王路がオレの両脇に手を差し入れ、ヒョイッと軽々持ち上げた。オレは無事に教室へ入れたけど、突然のことに思考が追いつかなくて、ほんの一瞬放心状態になった。それからハッと正気を取り戻したオレは、王路に礼を言おうとしたんだけど、さっきまで隣りにいたはずの王路がいない。
「どこ行ったんだ?」
と首を傾げた瞬間、キャーッ! と女子達の悲鳴が教室と廊下に響き渡った。クラスメイト達の視線を追っていくと、王路がさっきの男子を廊下の壁に押し付けて、そいつの顔の横にダン! と足ドンをかましていた。――王路は背が高いし、足もデカイから、下手したら相手の顔面を踏み潰しかねない。
オレはとっさに、キレちまってる王路の腰に手を回して抱きついた。――こいつ、筋肉量が半端ねぇ! マジで、両腕が回らねーぞ!?
なんて内心の動揺を隠して、オレは王路をなだめることにした。
「おっ、王路! 助けてくれてサンキューな! オレはなんともねーから、そいつのことは許してやってくれ」
「あぁ?」と、低い声を出した王路だったが、自分の身体に回されたオレの腕に気づいて正気を取り戻したようだった。
王路はゆっくり壁から足を離しかけ、――そしてもう一度、ダン! と足ドンをかました。
――正直、見ていてめちゃ怖い。
2回目の足ドンをされた男子は、廊下の壁に背中を預けたまま、半泣き状態でズルズルと床にへたり込んだ。その姿を見て怒りが収まったのだろう。王路は、フンと鼻を鳴らして、今度こそ脚を床におろした。
「……今回は姫川に免じて許してやる。けど、次同じことしやがったら許さねーからな!」
「行くぞ、姫川」と、王路はオレの肩を抱いて教室に入っていった。そして、オレと姫川は、それぞれ自分の席にたどり着く。
高校に入学して以来、王路とはほぼ毎日一緒にいるけど、さっきみたいにキレたところを見たのは初めてだった。
「オレの彼氏、クソかっけぇ……」
オレは自分の胸がドキドキして、頬に熱が集まってくるのを感じた。――オレ、女の子が好きなはずなのに、王路に惚れちゃいそう。
そんなことを考えながら、ぼうっと王路を見ていると、奥二重の切れ長の目と目が合ってしまった。
「ヤッべ」
――見惚れてたのがバレてませんよーに!!
心の中で、神様に祈る。しかし、現実は甘くない。
オレがスポーツバッグを机の横のフックに掛けて、椅子に座った頃に、王路が隣にやってきてしゃがみ込んだ。そして、オレにだけ聞こえる声量で話す。
「彼氏にみとれてんじゃねーよ。付き合ってるって、バレちまうぞ?」
「ま、俺は別にかまわねーけど」と、楽しげに笑う王路を、オレは苦し紛れにキッと睨みつけた。すると王路は一瞬、目を丸くしたあと、口元を片手で覆ってフハッと吹き出した。
「姫川、お前、なんつー顔してんだよ」
「は、はぁ? なんのことだよ」と、素知らぬ顔をしたけど、時すでに遅し。
王路はクックッと笑った後、オレの耳元に口を寄せてきた。
「顔、真っ赤だぞ? 今すぐキスしたくなるから、その顔やめとけ」
と言って、上機嫌で自分の席に帰っていった。その後ろ姿をポカンとして眺めたオレは、王路に言われた言葉を思い出して、机に突っ伏したのだった。
*****
待ちに待った昼飯の時間がやってきた。
オレはスポーツバッグから弁当の包みを取り出して机の上に置くと、前の席に座りに来る王路のことを、いつものように待っていた。だけど、数分経っても王路は来ない。
「王路の奴、トイレにでも行ってんのか?」
きょろきょろと教室内を見回して、やっと原因が分かった。朝の騒ぎのせいだと思うけど、王路を正義のヒーロー=イケメン男子と勘違いした女子達が、彼女ポジを狙って昼飯で王路を釣ろうとしてるんだろう。――アイツは冷凍唐揚げでイチコロだぞ。教えてやらんけど。
「ねえ、ねえ。王路修人君っている〜?」
「王路君、呼んでもらえませんか?」
「王子様〜! どこぉ〜?」
王路は、各クラスの女子達から逃げて、どこかに隠れているんだろう。――きっと今頃、腹をすかせてるはず。
「……仕方ねえなぁ〜」
オレはスポーツバッグに弁当をしまって、空気のように教室内を横切っていく。なんとか無事に王路の机にたどり着くと、王路のスポーツバッグの中からパンの袋を取り出して、自分のスポーツバッグの中に詰めていった。――相変わらず数が多い! 菓子パンだけで6袋とか、バケモンか!
「王子様ぁ〜! どこぉ〜?」
「おべんと一緒に食べようよー」
「王路くぅ〜ん」
各教室や廊下など、王路を探し回るハイエナ女子達の横を、オレは気配を消して通り過ぎる。気を抜くと『姫』のオレまで捕まってしまうかもしれない。――なぜか『王子』と『姫』は常にセット扱いされてるからな!
それにしても不思議なことに、オレに近寄ってくる女子が全くいない。『姫』のオレを囮にすれば、王路はすぐに姿を見せるだろうに。これももしかしたら、朝の騒動が原因かもしれなかった。
「……王路と仲良くなりたいんだったら、オレに手ぇ出すのは逆効果だって、情報に敏感な女子なら知ってるか」
オレはどうにか上手く2年生の階を抜けて、3階に続く階段を駆け上がる。そうすると1年生の階に着くので、更に上の4階を目指す。そして最後に、屋上へ続く階段を上りきると、昨日オレが座っていた場所に王路が座っていた。
オレは息を弾ませながら、残りの数段をゆっくり一歩一歩上っていく。ぐったりと俯いていた王路が、オレの足音に気がついて、ゆるゆると顔を上げた。
「おう。……よくここが分かったな」と、王路は力なく笑う。その満身創痍の姿を見て、オレは苦笑いするしか出来なかった。――モテるって、命がけなんだなぁ。
階段を上りきったオレは、肩に掛けていたスポーツバッグを踏板の上に下ろした。それから当然のように、王路の隣に座る。
「お前だって、すぐにオレを見つけたじゃんか。オレにだって、お前が行きそうな場所くらい、予想がつくんだよ」
「オレ様を甘く見んなよ!」と、オレはニシシと笑う。『バーカ』の一言でも返ってくるかと思ったけど、予想は外れたようで、王路は何も言ってこない。――よっぽど精神的にキたんだな。確かに、あのハイエナ女子達の目はギラついていて怖かった。
王路のことを心の底から不憫に思いながら、オレはスポーツバッグを膝の上に置いて、ファスナーを開ける。
「じゃーん! 見てみろ。お前の昼飯持ってきてやったぞ」
「感謝しろよな〜」と、パンの袋を取り出そうとしたら、いきなり王路に横から抱きしめられた。
――えっ! そんなに感激すること!? そうか。よっぽど腹が減ってたんだな……かわいそうに。
「……王路、もう大丈夫だからな。安心しろよ」
オレがお前のパン、全部持ってきてやったからな! そう言いたかったんだけど、言えなかった。――王路があまりにも強く抱きしめてくるから。
「王路? お前、大丈夫か?」
心なしか呼吸が荒い王路の額に手を当てると、驚くほど熱かった。
「王路……お前、熱あるぞ」
王路はぐったりしてなんの反応も返さない。
これはヤバい、と思ったオレは、平らな床に王路を横たえさせてから、急いで保健室に向かった。
*****
「38度5分。……かなり熱が高いわねぇ。風邪の兆候は見られないし……一度、病院に行って診てもらったほうがいいわね」
養護教諭のおばちゃん先生は、体温計を消毒して片付けて、ベッドで眠る王路の元へ向かった。そして、日除け兼目隠しの薄いカーテンをシャッと開ける。
「王路くん。王路くん。今、喋れる? さっき、あなたのお母さんに電話してみたんだけど、繋がらなかったのよ。緊急連絡先も、お母さんの携帯番号になってるし……他に頼れる大人の人はいる? お父さんはどうかな?」
王路はぼうっとした目を先生に向けて、力なく首を左右に振った。
「困ったわねぇ」と、おばちゃん先生がため息をついたので、オレはそろ〜っと右手を上げた。
「先生。オレ、こいつとめっちゃ仲良くて。しかもオレの母ちゃん、看護師なんです。先生に時間があればなんすけど、片道だけかーちゃんが勤めてる病院に送ってもらって、あとは王路のかーちゃんと連絡がつくまで、オレんちで預かるってのはどうっすか?」
おばちゃん先生は、そうねえ、と言って担任に連絡を取った。緊急事態ということで、なんとか許可がおり、オレは王路の付き添いで早退することになったのだった。
起床時刻はまだ早朝の5時だが、自主練と朝練の為に、眠い目を擦ってベッドから降りた。
欠伸をしながら階下に降りると、ちょうど弁当を作っていた母親に出くわした。
「かーちゃん、はよーっす」
「あら、環ちゃんおはよう! 環ちゃん、昨日お弁当も残して夕飯の作り置きも食べてなかったけど……どこか具合でも悪いの?」
「別に。ちょっと腹下しただけ」と、適当に嘘をついて、冷蔵庫から取り出した豆乳を専用カップに入れ、プロテインの粉末をぶち込み、シャカシャカ振りまくる。
「……ならいいんだけど」と行ったかーちゃんが、茶色づくしの冷凍食品弁当から、唐揚げを退けようとしたのを咄嗟に止める。
「ど、どうしたの? 環ちゃん」
「その唐揚げはゼッテーいる。むしろ、数増やしといてほしい」
「ええっ? でも環ちゃん、お腹下したんでしょう? 今日は茶色弁当はやめようかと思ってたんだけど……」
「んーん。それでいい。ってか、そのままでいい。あ。唐揚げ多めにね!」
そう言って、オレは朝食代わりのプロテインと1本のバナナを持って、筋トレをしに自室へ戻ったのだった。
*****
筋トレを終えてシャワーを浴び、脱衣所で髪をセットしていると、ピンポーンとチャイムの音が聞こえた。
「えっ! あいつもう来たん!?」
焦って手に着いたワックスを洗い流していると、パタパタと廊下を小走りするかーちゃんのスリッパの音が聞こえてきた。
「はいはーい」と、かーちゃんは脱衣所の前を通り過ぎて玄関へ向かう。「かっ、かーちゃん待って! オレが出るからっ」と、廊下をひょっこり覗いた時には、もう玄関扉は開いていた。――かーちゃん、行動が早すぎる! さすが現役看護師!!
などと感心している場合ではなく、オレは焦って玄関へ向かった。
「あらあら、王路君じゃない! 久しぶりねぇ」
「おはようございます、おばさん。ご無沙汰してます」
「まあまあ、ご丁寧にどうもありがとう。もしかして環ちゃんを迎えに――」
「かーちゃん! あとはオレが相手するからっ。かーちゃんも仕事行く準備があるだろ?」
オレがまくしたてるように言うと、かーちゃんは玄関の壁に掛けてある時計を見て、「あらやだ」と声をあげた。時刻は6時15分過ぎである。かーちゃんはこれから化粧をして、家事をこなして7時には家を出なければならない。
「今日は日勤なのよ〜。王路君ごめんなさいねぇ、バタバタしちゃって!」
「いえ。自分は大丈夫っす」
「いいから、かーちゃんは早く準備しろって」
「はいはい、わかったわよ〜。それじゃあ、王路君、またね」と、かーちゃんは忙しなく階段を上っていった。
かーちゃんがいなくなった途端、肌がむず痒くなるような、項のあたりがそわそわするような妙な空気が流れた。とりあえず、何か言わなければと思い朝の挨拶をする。
「はよっす」
「はよ。……急がねーと、電車に乗り遅れんぞ」
言われて、オレはハッと自分の姿を見下ろした。――まだ、Tシャツにスウェットパンツ姿だった!
「わ、わり! すぐに着替えてくるわ!」
「おう。行ってら」と、王路の声を聞きながら、オレは急いで階段を上がった。自分の部屋の扉を開けて、すぐに制服に着替える。スポーツバッグはキッチンに置いてある。
オレは青いネクタイをテキトーに結んで、羽織ったブレザーのボケットにスマホを入れて、財布をズボンの尻ポケットに入れた。「よし!」と言って部屋を出る。バタバタと階段を駆け下りて、キッチンに向かい、スポーツバッグを引ったくるようにして持った。
「わり! 待たせた!」
オレは雑にスリッパを脱いで、踵の潰れたスニーカーを履く。よし、行くぞ! と立ち上がると、すぐ目の前に王路の顔があってびっくりする。――も、もしかして、ここで「おはようのチュー」とか!?
なんて思い、反射的に両目を瞑ると、シュルッとネクタイが解かれる音がした。
オレは頬に血液が集中するのを感じて、
「あ、朝っぱらから人ん家の玄関で、ナニするつもりだっ」
と小声で抗議すると、王路はきょとんとして、
「ネクタイがぐちゃってたから、結び直してやろーと思って」
と言った。――な、なんだ。ネクタイか……いや、でも、ネクタイ結びって地味に照れるやつ!!
オレは王路からネクタイを奪った。
「い、行きの電車の中で結ぶからいい!」
「? すぐに済むぞ?」
「い、いいんだよ! 早く行くぞ!」と、オレは王路の手を咄嗟に握って、玄関ドアを開けた。――な、なんかすげぇナチュラルに手ぇ握っちまったーー!!
オレの頭の中はパニックになっていた。――ど、どうする? これってどのタイミングで手ぇ離せばいいんだ!?
王路の手を握ったまま、オレは早足で駅に向かう。早朝の住宅街はひっそりと静まり返っていて、今のところ人影はない。手を繋がれたまま、大人しく着いてくる王路をチラッと確認すると、王路の顔が赤くなっていた。――わ、わ、わぁーー!!
オレは恥ずかしさに叫び出したい衝動に駆られたが、寸でのところでなんとか耐える。……こいつ、可愛すぎだろ!!
オレよりデカい図体をして、大型犬のように大人しく引っ張られる王路は、なんというか言葉にできない不思議な感情を与えてくれた。
オレが、ニヤつく顔を引き締めようと必死になっていると、前方にサラリーマンらしきおっさんの姿が見えた。ヤベッ! と思った瞬間、オレの手の中から、するりと王路の手が抜けていった。
こんなにアッサリ手を離されると思っていなくて、オレは自分の胸がズキンと痛んで、テンションが下がって行くのを感じた。でも、住宅街を抜けると一気に人が増えるので、そろそろ手を離さなければいけないのは確かだった。
「ちぇっ」
思わず心の声が出てしまい、ハッとすると、さっきまで繋いでいた王路の手がオレの頭を優しく叩いた。そして耳元で、
「また明日、手ぇ繋ごうぜ」
と言って離れていった。オレは、おう、と素っ気なく返事をするのが精一杯で。太鼓のように、ドンドコ、ドンドコ鳴る心臓が、口から飛び出てきそうだった。
4月の早朝はまだまだ寒い。
けど、オレの耳は燃えるように熱くて、額にもじっとりと汗をかいていた。
「……制汗スプレー、持ってくればよかった」
「あ? なんか言ったか?」
「な、なんでもねぇよ! ほら早く! 電車に乗り遅れるぞ!」と言って、オレは王路に顔を見られないように駅まで猛ダッシュした。
「わー! 待って、待って! オレたち、乗りまーす!」
『駆け込み乗車はおやめください』のアナウンスを完全に無視して、オレと王路は電車に全力で駆け込み乗車した。すし詰め状態の車内に、強引に身体をねじ込む。肩に掛けたスポーツバッグが、挟まれるか挟まれないかのスレッスレで、電車のドアがプシュゥ〜と閉まった。
「ぎ、ギリセ〜フ!」
「『ギリセーフ』じゃねーよ。明日からはもっと余裕を持って準備しとけ、バカ」
乱れた呼吸を整えながら、王路は呆れたように、ため息混じりに言った。「お、おう」と言って、オレは俯く。――えっ、明日も迎えに来るのか!? そ、そっか……オレたち、付き合ってるんだもんな!?
走った直後とは別の理由で心臓の音がドキドキしていた。どうか王路に聞こえていませんように! と祈りながら電車に揺られる。自分のことにばかり気を取られていたオレは、電車が大きく揺れた時にバランスを崩して、王路の胸に顔から突っ込んでしまった。
「うぷっ」
王路の胸に縋り付く体勢になってしまったオレは、急いで体勢を戻そうとした。
「っ、うっ、……アレ?」
車内が人でぎゅうぎゅうのせいで、身体を真っ直ぐ起こすことができない。背中には、知らんおっさんの鞄。――くっそ、邪魔!!
なんとか抜け出そうとジタバタしていると、周囲の視線が冷たく変わっていくのが分かった。ようやく自分のやらかしに気づき、オレは小さな声で「スンマセン」と呟く。
オレが動くのを止めたことで、車内に少しだけ平穏が戻った。――でも、この体勢、解決してねぇ……!
制服越しとはいえ、完全に王路と密着してしまっている。正面から抱き合うみたいな形で。
――うっわ、マジ無理。死ぬほど恥ずい。
王路も、絶対迷惑してるはずだ。
とりあえず謝ろうと、首をちょっとだけ動かして王路の顔を見上げる。
「王路。マジでごめ……ん、な……」
そして、言葉の途中で固まる。
……顔、近っ!! てか、整いすぎじゃね?
「……おう。気にすんな」と、王路は言ったが、気にしないなんて無理。だって――
「おまえ……顔、真っ赤じゃん……」
「うるせぇよ」
王路は顔をそらしたが、耳まで赤くなってる。
しかも、今さら気づいたんだけど、王路の胸に右耳を預けた状態のオレには、王路の心臓の音がドクドクと早く響いてきて――……走ったせいじゃねーよな。これ。
もしかして、王路も……?
そう思った瞬間、胸の奥がキュンと震えた。
「?」
たった一瞬の間に感じた、心臓を鷲掴みにされたような、甘い痺れに似たナニか。
オレは自分の身に何が起こったのか分からず、こてんと首を傾けた。
「……それ、やめろよ。姫川」
「それ、って何が?」
「その、首をひねるやつだよ」
「首をひねる??」
王路が何を言おうとしているのか、全く分からなくて、オレは首を傾げる。
「それ。それだよ。お前が今やってるやつ」
「えぇ?」
段々とイライラしてきたオレの様子に気づいたのか、王路は「もういい。お前、じっとしてろ」とため息を吐いた。
――なんなんだよ。意味わかんねー。
さっきまで胸がドキドキしてたのに、今は胸がモヤモヤする。
「……ったく、なんなんだよ。マジで」
フンと鼻を鳴らして顔を反対方向に向けた時、電車の揺れで、微妙に体勢が変わった。今まで上半身だけ王路にくっついた状態だったけど、今度は下半身もくっついてしまった。――これは、マジでマズイ。
そう思った時、オレのへそのあたりに、何か硬いものが当たっていることに気がついた。これって、まさか――
「……生理現象だ」
王路の下半身の状態に集中していたオレは、掠れた低い声にビクッとする。
「そ、そっか。そりゃあ、仕方ないな」
――いや、仕方なくねぇよ! 何言ってんだオレ!
自分で自分にツッコミを入れて、オレは、電車が一刻も早く駅に着いてくれることを願った。
*****
電車が高校の最寄り駅に到着する頃には、オレのメンタルは疲労しきってボロボロだった。――なんかもう、家に帰ってベッドで寝たい。
そう思ったあと、オレは王路の痴態を思い出して、頭をぶんぶん! と左右に振った。
――ベッドはマズイ! ベッドは!
オレはあらぬ妄想をしかけてしまった自分の頬をビンタした。
「……なにやってんの、お前」
電車の中でのことなんか無かったように、平然とした態度で見下ろしてくる王路を、キッと睨みつけた。
「お前のせいで朝っぱらから疲れた! 罰としてオレのスポーツバッグを持て!」
「はぁ?」
突拍子もないオレの言葉に、マヌケな声を出した王路のアホ面を見て、オレはスッと胸がすくのを感じた。
「なーんつって。冗談だよ、冗談。早く学校行こーぜ」
オレはケラケラと笑いながら、制服のポケットからネクタイを取り出して首に引っ掛けた。すると――
「まてよ、姫川」
「ん?」
「俺が結んでやる」
「え」と言って、オレがきょとんとしている間に、王路は素早くネクタイを締めてしまう。その早業にポカンとしていると、オレらを見て、キャーキャー騒ぐ女子達が視線の端に映った。――不思議なことに、昨日までの嫌悪感や不快感を全く感じない。
なんでだ? と思って女子達を眺めていると、目の前に王路が立ち塞がった。
「王路?」
「また気持ち悪くなったらいけねーから。お前は俺だけ見とけ」
そう言って、王路はオレの手首を持って引っ張った。再び女子達が騒ぎ始めたのが見えたけど、オレは王路の言う通り、王路の背中だけを見て通学路を歩いた。
学校が近づく頃には、手首が解放されてしまって、オレは少しだけ残念に思ったのだった。
*****
オレと王路は、いつも通りに朝の自主練をこなして、女子達に騒がれながら教室へ向かった。
「……やっぱり、おかしい」
「あ? 何がだ?」
オレの独り言を聞き取った王路が首を傾けて訊ねてきたけど、オレは「なんも言ってねーよ」と嘘をついて誤魔化した。
おかしい、おかしいと頭の中で繰り返しながら、首をひねって教室にたどり着く。すると毎朝のごとく、いつものメンバーが教室の扉の前でたむろっていた。
「はよーっす」と、王路が言う。「おう。王路はよー」と挨拶が返ってきて、王路は教室に入っていく。オレも王路に続こうと挨拶をしたら、何故か足で通せんぼされた。
「ハァ? なんのつもりだよ、お前」
オレが若干キレ気味に言っても、男子連中はニヤニヤしたままだ。無理やり通ろうとしても、他の連中が妨害してくる。イラッとしたオレは、教室の後ろのドアに向かったけど、そこは吹奏楽部の女子のたまり場になっていて、女子に苦手意識を持つオレは引き返すしかなかった。
イキってキレていたくせに、すごすごと尻尾を巻いて戻ってきたオレを見て、男子連中は「ギャハハハ!」と腹を抱えて笑っていた。――マジ、なんだコイツら。バリ、うぜぇ。
オレはもう一度、教室の敷居を跨ごうとしたけど、やっぱり道を塞がれてしまった。――こいつらサッカー部の連中。悪い奴らばっかじゃねーんだけど、こういうノリだけはマジうぜぇんだよなぁ。
「……どうやったら通してくれんの?」と、仕方なく聞いてみた。すると、
「お姫様はお金持ちなので、通行料500円頂きまぁ〜す」
と言われた。――はぁ!? マジ、くだらねー!!
オレは内心カチキレそうになりながら、ここは大人になって付き合ってやるか、と思ってエア500円玉を手渡した。しかし――
「おい、姫川。ケチってんじゃねーよ。はよ、500円寄越せって」
と言ってきやがった。「はぁ? なんでお前にマジで通行料払わねぇといけねーんだよ?」と、オレはキレ気味に言った。すると相手も本気になってきて、もうちょいでつかみ合いの喧嘩に発展するか、と思った時。
「おー。そう言えば、俺の荷物忘れてたわ」
と言って、王路がオレの両脇に手を差し入れ、ヒョイッと軽々持ち上げた。オレは無事に教室へ入れたけど、突然のことに思考が追いつかなくて、ほんの一瞬放心状態になった。それからハッと正気を取り戻したオレは、王路に礼を言おうとしたんだけど、さっきまで隣りにいたはずの王路がいない。
「どこ行ったんだ?」
と首を傾げた瞬間、キャーッ! と女子達の悲鳴が教室と廊下に響き渡った。クラスメイト達の視線を追っていくと、王路がさっきの男子を廊下の壁に押し付けて、そいつの顔の横にダン! と足ドンをかましていた。――王路は背が高いし、足もデカイから、下手したら相手の顔面を踏み潰しかねない。
オレはとっさに、キレちまってる王路の腰に手を回して抱きついた。――こいつ、筋肉量が半端ねぇ! マジで、両腕が回らねーぞ!?
なんて内心の動揺を隠して、オレは王路をなだめることにした。
「おっ、王路! 助けてくれてサンキューな! オレはなんともねーから、そいつのことは許してやってくれ」
「あぁ?」と、低い声を出した王路だったが、自分の身体に回されたオレの腕に気づいて正気を取り戻したようだった。
王路はゆっくり壁から足を離しかけ、――そしてもう一度、ダン! と足ドンをかました。
――正直、見ていてめちゃ怖い。
2回目の足ドンをされた男子は、廊下の壁に背中を預けたまま、半泣き状態でズルズルと床にへたり込んだ。その姿を見て怒りが収まったのだろう。王路は、フンと鼻を鳴らして、今度こそ脚を床におろした。
「……今回は姫川に免じて許してやる。けど、次同じことしやがったら許さねーからな!」
「行くぞ、姫川」と、王路はオレの肩を抱いて教室に入っていった。そして、オレと姫川は、それぞれ自分の席にたどり着く。
高校に入学して以来、王路とはほぼ毎日一緒にいるけど、さっきみたいにキレたところを見たのは初めてだった。
「オレの彼氏、クソかっけぇ……」
オレは自分の胸がドキドキして、頬に熱が集まってくるのを感じた。――オレ、女の子が好きなはずなのに、王路に惚れちゃいそう。
そんなことを考えながら、ぼうっと王路を見ていると、奥二重の切れ長の目と目が合ってしまった。
「ヤッべ」
――見惚れてたのがバレてませんよーに!!
心の中で、神様に祈る。しかし、現実は甘くない。
オレがスポーツバッグを机の横のフックに掛けて、椅子に座った頃に、王路が隣にやってきてしゃがみ込んだ。そして、オレにだけ聞こえる声量で話す。
「彼氏にみとれてんじゃねーよ。付き合ってるって、バレちまうぞ?」
「ま、俺は別にかまわねーけど」と、楽しげに笑う王路を、オレは苦し紛れにキッと睨みつけた。すると王路は一瞬、目を丸くしたあと、口元を片手で覆ってフハッと吹き出した。
「姫川、お前、なんつー顔してんだよ」
「は、はぁ? なんのことだよ」と、素知らぬ顔をしたけど、時すでに遅し。
王路はクックッと笑った後、オレの耳元に口を寄せてきた。
「顔、真っ赤だぞ? 今すぐキスしたくなるから、その顔やめとけ」
と言って、上機嫌で自分の席に帰っていった。その後ろ姿をポカンとして眺めたオレは、王路に言われた言葉を思い出して、机に突っ伏したのだった。
*****
待ちに待った昼飯の時間がやってきた。
オレはスポーツバッグから弁当の包みを取り出して机の上に置くと、前の席に座りに来る王路のことを、いつものように待っていた。だけど、数分経っても王路は来ない。
「王路の奴、トイレにでも行ってんのか?」
きょろきょろと教室内を見回して、やっと原因が分かった。朝の騒ぎのせいだと思うけど、王路を正義のヒーロー=イケメン男子と勘違いした女子達が、彼女ポジを狙って昼飯で王路を釣ろうとしてるんだろう。――アイツは冷凍唐揚げでイチコロだぞ。教えてやらんけど。
「ねえ、ねえ。王路修人君っている〜?」
「王路君、呼んでもらえませんか?」
「王子様〜! どこぉ〜?」
王路は、各クラスの女子達から逃げて、どこかに隠れているんだろう。――きっと今頃、腹をすかせてるはず。
「……仕方ねえなぁ〜」
オレはスポーツバッグに弁当をしまって、空気のように教室内を横切っていく。なんとか無事に王路の机にたどり着くと、王路のスポーツバッグの中からパンの袋を取り出して、自分のスポーツバッグの中に詰めていった。――相変わらず数が多い! 菓子パンだけで6袋とか、バケモンか!
「王子様ぁ〜! どこぉ〜?」
「おべんと一緒に食べようよー」
「王路くぅ〜ん」
各教室や廊下など、王路を探し回るハイエナ女子達の横を、オレは気配を消して通り過ぎる。気を抜くと『姫』のオレまで捕まってしまうかもしれない。――なぜか『王子』と『姫』は常にセット扱いされてるからな!
それにしても不思議なことに、オレに近寄ってくる女子が全くいない。『姫』のオレを囮にすれば、王路はすぐに姿を見せるだろうに。これももしかしたら、朝の騒動が原因かもしれなかった。
「……王路と仲良くなりたいんだったら、オレに手ぇ出すのは逆効果だって、情報に敏感な女子なら知ってるか」
オレはどうにか上手く2年生の階を抜けて、3階に続く階段を駆け上がる。そうすると1年生の階に着くので、更に上の4階を目指す。そして最後に、屋上へ続く階段を上りきると、昨日オレが座っていた場所に王路が座っていた。
オレは息を弾ませながら、残りの数段をゆっくり一歩一歩上っていく。ぐったりと俯いていた王路が、オレの足音に気がついて、ゆるゆると顔を上げた。
「おう。……よくここが分かったな」と、王路は力なく笑う。その満身創痍の姿を見て、オレは苦笑いするしか出来なかった。――モテるって、命がけなんだなぁ。
階段を上りきったオレは、肩に掛けていたスポーツバッグを踏板の上に下ろした。それから当然のように、王路の隣に座る。
「お前だって、すぐにオレを見つけたじゃんか。オレにだって、お前が行きそうな場所くらい、予想がつくんだよ」
「オレ様を甘く見んなよ!」と、オレはニシシと笑う。『バーカ』の一言でも返ってくるかと思ったけど、予想は外れたようで、王路は何も言ってこない。――よっぽど精神的にキたんだな。確かに、あのハイエナ女子達の目はギラついていて怖かった。
王路のことを心の底から不憫に思いながら、オレはスポーツバッグを膝の上に置いて、ファスナーを開ける。
「じゃーん! 見てみろ。お前の昼飯持ってきてやったぞ」
「感謝しろよな〜」と、パンの袋を取り出そうとしたら、いきなり王路に横から抱きしめられた。
――えっ! そんなに感激すること!? そうか。よっぽど腹が減ってたんだな……かわいそうに。
「……王路、もう大丈夫だからな。安心しろよ」
オレがお前のパン、全部持ってきてやったからな! そう言いたかったんだけど、言えなかった。――王路があまりにも強く抱きしめてくるから。
「王路? お前、大丈夫か?」
心なしか呼吸が荒い王路の額に手を当てると、驚くほど熱かった。
「王路……お前、熱あるぞ」
王路はぐったりしてなんの反応も返さない。
これはヤバい、と思ったオレは、平らな床に王路を横たえさせてから、急いで保健室に向かった。
*****
「38度5分。……かなり熱が高いわねぇ。風邪の兆候は見られないし……一度、病院に行って診てもらったほうがいいわね」
養護教諭のおばちゃん先生は、体温計を消毒して片付けて、ベッドで眠る王路の元へ向かった。そして、日除け兼目隠しの薄いカーテンをシャッと開ける。
「王路くん。王路くん。今、喋れる? さっき、あなたのお母さんに電話してみたんだけど、繋がらなかったのよ。緊急連絡先も、お母さんの携帯番号になってるし……他に頼れる大人の人はいる? お父さんはどうかな?」
王路はぼうっとした目を先生に向けて、力なく首を左右に振った。
「困ったわねぇ」と、おばちゃん先生がため息をついたので、オレはそろ〜っと右手を上げた。
「先生。オレ、こいつとめっちゃ仲良くて。しかもオレの母ちゃん、看護師なんです。先生に時間があればなんすけど、片道だけかーちゃんが勤めてる病院に送ってもらって、あとは王路のかーちゃんと連絡がつくまで、オレんちで預かるってのはどうっすか?」
おばちゃん先生は、そうねえ、と言って担任に連絡を取った。緊急事態ということで、なんとか許可がおり、オレは王路の付き添いで早退することになったのだった。
