オレの名前は、姫川環(ひめかわたまき)

 地方の私立高校に通う、高校2年生だ。

 スポーツ推薦で入学したオレは、スポーツ特待生として入学した親友――王路修斗(おうろしゅうと)と一緒に、朝の自主練をしている。

 バスケ部に所属するオレたちは、毎朝7時前に登校して、基礎練習を繰り返すのが日課だ。この習慣は高校1年の時からのもので、第2学年に上がっても変わらず続けている。

 オレがシューティングの練習を続けていると、小高い土地にあるバスケットコートから、電車通学の生徒たちがわらわらと校門をくぐってくるのが見下ろせた。

王路(おうろ)! そろそろ片付けて、教室に行こうぜ!」

「おう。じゃあ、そのボールこっちに寄越せよ」

「りょーかいっ」

 2人きりの片付けも馴れたもので、オレたちはあっという間に片付けを終わらせて、その辺に脱ぎ捨てていたブレザーと鞄を拾い上げた。

 よいしょっと、とジジくさい声を上げながらスポーツバッグを肩にかける。その時、ちょっとだけ、肩の筋がピリッとした。すると横から王路の手が伸びてきて、オレのスポーツバッグを掻っ攫っていった。

「おい。なにすんだよ、王路。オレのスポーツバッグ返せよ」

「さっき、肩が痛いって言ってただろ? 無理すんな」

「はぁ? だからって姫扱いしなくたって、」

「ハハッ。俺ら『王子』と『姫』なんだろ? また女子どもにキャーキャー騒いでもらえるぞ?」

 2人分のスポーツバッグを片手に持って、ひょいっと肩にかついだ王路は、機嫌よさげに階段を降りていく。

「おいっ! まてよ! 置いてくなって!」

 王路の後を、オレは慌てて追いかける。――オレの身長は167cmで、王路の身長は178cmだ。

 ……11cmの差は大きくて、足の長い王路の歩幅に追いつくには、オレが小走りするしかない。ちょっと悔しいけど、たぶん後姿は、完全に“お王子を追いかける姫”だった。

 スポーツバッグを持つ、持たないで言い争いという名のじゃれ合いをしていると、ようやく地上に降りたオレたちを待っていたのは、鼻息を荒くした一部の女子生徒たちだった。

「きゃっ! アレ、見て見て〜! 王子と姫がじゃれ合ってるぅ〜! めちゃカワイイんだけどっ」

「王子が姫のスポーツバッグ持ったげてるじゃん! クソ萌えるんだけど!」

「朝から目の保養ありがとうございます。今日も1日推させていただきます」

「あはっ! なにそれ。マジウケる」

 声のトーンを下げることなく喋り続ける女子たちの前を横切ると、王路が後ろを向いてニヤニヤと嫌な笑顔を浮かべてきた。

「ひゅ〜! 今日も人気だなぁ、()()()

 にしし、と笑ってからかってくる王路に、オレは不機嫌になった。

「……王路。お前、あんなこと言われて何とも思わないのかよ?」

「あ? あんなことって?」

「だーかーらー! 『王子』と『姫』つって、カップルみてーに騒がれることだよ!」

「あー、別に。俺は気になんねーけど」

「マジかよ……」

 俺はげんなりしつつ、下駄箱から室内履き(シューズ)を取り出して、すのこの上に雑に落とした。踵が潰れた室内履きを履きながら、スニーカーを下駄箱にしまう。

 その間も例の女子たちがキャーキャーと騒いでいる声を聞いて、オレはイラッとする気持ちを押さえられないまま、王路からひったくるように自分のスポーツバッグを奪い取った。

「もーいい。自分で持つ」

「あ? 急に機嫌悪くなんなよ、めんどくせーな」

「……お前。マジで気にならないわけ? アレ」

 言って、オレは親指で女子たちを指さした。

「騒いでるだけで、何かしてくるわけでもねーし。それに俺は『王子』だしな」

「! お前は良いかもしんねーけど、オレは『姫』って呼ばれてんだぞ!」

「お前の名字の『姫川』からもじったんだろ。それに、お前ってかわいい顔してるからな。諦めろ」

「はぁ? キッショ! 真顔でかわいいとか言うなよ。鳥肌がたったじゃねーか」

「わりー、わりー。つい本音が出たわ」

「王路、お前なぁ!」

 わいわい言い合いながら2階までの階段を上がって、推薦クラスの2-9に到着した。教室の扉は開いたままになっていて、種目は違うが、同じスポーツ推薦の男子たちがたむろっていた。

「はよーっす」

「おう。王路、姫川、はよー」

「……ッス」

 テンションの低いオレは、そっけなく挨拶すると、真っ直ぐ自分の席に向かって椅子に座った。

 朝の教室はいつも通りざわついていて煩いけれど、王路とクラスメイトの話声が聞こえてくる。

「おい、王路。姫川のヤツどーしたんだ?」

「あ? なんか、あの日らしーぜ?」

「ギャハハ! なんじゃそりゃ! 姫川ちゅあーん、大丈夫でちゅか〜?」

「うるせー! 黙ってろ、バーカ!」

「……アイツ、マジで機嫌わりーじゃん。なんかあったんか?」

「あー、いつものアレだよ。『王子』と『姫』って騒がれたんだ」

「へー。なーる。俺からしてみれば、女子にキャーキャー騒がれて羨ましーけどな。逆に」

 だったらお前がオレの代わりになれや、と思いながら、オレは1限目の歴史の教科書を取り出した。

「……1限目から歴史とか。ぜってー寝るんだけど」

 そう呟いて、オレは机に顔を伏せた。

 教科書のページをめくる気が起きねぇ。

 昨日、新作のゲームをして寝不足だったせいか、すぐに睡魔が襲ってくる。

 オレは全ての感覚をシャットダウンするように、浅い眠りについたのだった。


*****


 キーンコーン、カーンコーン、と授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。

「じゃあ、今日の授業はここまで。課題の提出は明後日だ。提出期限を守るように」

 教師が教科書を閉じると、日直の女子が「きりーつ」と言った。生徒たちはだるそうに椅子から立ち上がる。オレも面倒くさいと思いながら、中途半端に腰を上げた。

「きをつけー、礼」

「ありがとうございましたー」

 教師は教室から出ていくと、生徒たちは席に座ったり、友だちのところにいったりと、それぞれの時間を過ごし始めた。ざわざわと騒がしい音が、昼休みの始まりを告げる。

 間もなく、昼休みを知らせるチャイムが鳴った。――この時間が、一日の学校生活で2番目に嬉しい時間だ。1番目はもちろん、下校する時である。

 オレはスポーツバッグを机の上に置くと、ごちゃごちゃしたバッグの中から弁当の包みを取り出した。ちょうどその時、目の前にやってきた王路が、オレの前の席の椅子にまたがって座った。

「よう。機嫌は直ったか? 姫川くん」

 言いながら、王路はビニール袋の中から、色んな種類のパンが入った5つの袋を取り出す。どれもこれも、糖分の塊みたいな菓子パンばかり。

「……いっつも思うんだけどさ。お前、よくそんなに食えんね?」

 しかもラインナップが全部甘い。うええ。胃がもたれそうだ。

 オレは内心でそんなことを考えながら、弁当箱の包みを開いた。弁当箱の蓋を開けると、茶色い冷凍食品のオンパレード。――うん。うまいけどね。作ってもらえるだけ有り難いんだけどね。でも、やっぱり彩りって大事だと思う。

 オレが箸入れから箸を取り出して「いただきます」と言った時、王路は3つ目のパンの袋を開けていた。

「ちょっ、お前。相変わらず食うのはえーな!?」

「……姫川が遅すぎるんだよ」

「いやいや! 昼休憩始まって、まだ3分しか経ってないからね?」

「その唐揚げうまそーだな。1個くれ」

「人の話聞いてるか? ……まあ、いいけどよ」

 オレは疲れてどうでも良くなってしまった。そうだよな。好きに食えばいいんだよ、弁当なんてな。

 オレは食べかけの唐揚げを弁当箱に戻して、新しい唐揚げを弁当の蓋の上にのせてやろうとしていた。

 だが、王路は――

「これでいい」

 そう言って、箸で食べかけの唐揚げを掴むオレの手首を握って、そのまま大きな口を開けてぱくりと食べてしまった。

 ――今、何が起こったんだ?

 ポカーン、としてしまったオレだったが、王路は「冷凍唐揚げ、安定の旨さ」とかなんとか言って、唇についた油をぺろりと舐め取った。

 教室内に、たちまち女子たちの歓声が沸き起こる。面白がって冷やかす男子たちの指笛の音が、教室内に鳴り響いた。

 『オレの食べかけを食うんじゃねーよ』と言えば済む話なのに、オレは顔がほてり始めたのを感じて、勢いよく椅子から立ち上がった。オレの席は最後尾なので、けたたましい音を立てて、椅子が床に倒れた。その音で、教室内がシーンと静まり返る。

 オレは謝ることもふざけることもできずに、俯いて顔を隠したまま、走って教室から逃げだした。

 背後から、王路の静止の声が聞こえたが、オレは足を止めずにひたすら廊下を走った。途中、すれ違う教師に「廊下を走るなー」と注意されながら、オレは屋上へと続く階段を駆け登った。たどり着いた先に見えたのは『立入禁止』の4文字で、オレはその手前で足を止め、力が抜けたようにその場に座り込んだ。

 頭の中に、あの教室の喧騒が何度も再生される。

『おっ! 間接チューじゃーん』

『やるなー、王子。惚れ直したわー。ギャハハッ』

『見て見て! 姫が顔真っ赤にしてる〜! 尊い〜!』

『今日もこれで1日生きていけます。推しのテレ顔をありがとうございました、神様仏様』

『あんた、無宗教じゃん』

 キャハハ、ギャハハ……笑い声が頭の中でぐるぐるまわる。耳鳴りみたいに、どんどん気分が悪くなっていく。オレは上体を前に倒し――

「げえっ、げはっ、げほっ……!」

 その瞬間、誰かが差し出したビニール袋が口元にあてられ、階段を汚すのは免れた。

 オレは、胃の中が空っぽになるまで吐いた。吐き終えたあと、目の前に青いハンカチが差し出される。ハンカチで口元を拭いていると、次は水が入ったペットボトルが差し出された。それに思わず笑ってしまった。

 ――こんな気遣いができるやつは、オレが知る人間で一人しかいない。

「――サンキュ。王路」

 王路は無言で頷くと、ゲロ入りのビニール袋の口を何重にも縛って、階段の壁際に置いた。そしてオレの気分が回復してきた頃になって、キーンコーン、カーンコーンと予鈴が鳴る。

 「もう、行かねーと」と、オレが立ち上がろうとすると、左手首を掴まれた。

「なにするんだよ」

 と言って、オレが王路を振り返ると、王路は眉間にシワを寄せていた。

「そんな状態で授業に出るつもりか?」

「そーだけど」

「お前ってやつは、ほんと……はぁ……手がかかる」

 王路の言葉にカチンときたオレは、王路の手を振り払おうとした。が、その動作よりも早く――

 オレの口は、王路の唇で塞がれた。

 一瞬、時間が止まった気がした。

 息をするのも忘れて、オレは石のように動けなくなった。

 やがて、唇がゆっくりと離れていく。王路の真剣な表情に、オレは言葉をなくしたまま、ただ見とれていた。

 そして――

「俺達。付き合ってみる?」

 それは、爆弾みたいな一言だった。


*****


「ただいまー」

 父と母は共働きなので、昼過ぎに学校を早退してきた息子のことなど知らない。――まあ、親への連絡を断ったのはオレなんだけどな。

「……正直、体調が悪いとかどーでもいいわ」

 オレはスポーツバッグを床に落として、脱いだブレザーをデスクチェアに放り投げる。着替える気力もないまま、Yシャツと制服のズボンを履いた姿で、自分のベッドにダイブした。

「『付き合う』って、言っちゃった」

 オレはその言葉を声に出すと、ふかふかの枕に顔を埋めて、ぎゃーぎゃー叫びまくった。――もちろん、照れからだ。

 枕に顔を押さえつけて、ベッドの上でゴロゴロしていたら、ドスン! と大きな音を立てて床に落ちてしまった。

 「いてて」と、腰を擦りながら膝立ちになり、そこでようやくハッとする。

「男同士が付き合うって……何すればいいんだ……?」

 気になって仕方がなくなったオレは、ブレザーのポケットからスマホを取り出して、男同士の交際について調べてみることにした。

 オレはラグの上で胡座をかくと、枕をクッション代わりにして抱き込み、スマホの画面をタップした。

「えーっと。『男同士』『恋愛』『何をする』……っと」

 検索結果はすぐに出てきた。さすが○ー○ル先生。

「なになに……? 『手を繋ぐ』かぁ。結構、ハードル高いな……」

 『肩を組む』なら簡単にできそうだけど、手を繋ぐとなったら話は別だ。

「……いくら女っぽい顔してるって言っても、どこからどう見ても男だしな、オレ」

 現実は漫画のようにはいかないな、とため息をつく。が、すぐにハッとして、頭をブンブンと左右に振った。

「なに考えてんだバカっ! オレはこの女顔が嫌いなの! それをまるでステータスみたいに言いやがって、コノヤロー!」

 オレは気を引き締める為に、思いっきり両頬を叩いた。パンッ、という音が部屋に響く。「よしっ」と、気合を入れ直したあと、もう一度スマホを手に持つ。――頬がヒリヒリして痛い。ちょっと強く叩きすぎたかもしれない。明日、腫れないことを祈る。

「あとは……『ハグ』ね。これはなんとかなりそうかも。そもそも毎日のようにくっついてるしな」

 ふむふむと頷きながら、オレは自分の口からポロリとこぼれ落ちた言葉に、数テンポ遅れて気づく。そして、ついさっき言った台詞を脳内再生して、抱えていた枕を部屋の壁に叩きつけた。

「わああっ! うわーっ! 何言ってるんだオレ! 何考えてんだオレ! お、落ち着くんだ。落ち着け……落ち着けぇ……」

 スーハー、スーハー、と深呼吸を繰り返し、ちらっとスマホの画面を見ると、知らない間に画面が動いていた。――指か何かがあたったのだろう。

 そして、その画面に表示されている文字を、なんの覚悟もなく見てしまった。
 
「……『キス』」

 そう呟いた途端、顔全体にかあっと血が上ったのを感じた。

 昼間のキスの感触が鮮明によみがえる。

 王路の唇は薄くてカサついていた。ファーストキスはレモンの味がするって聞いたことがあったけど、王路とのキスは――たっぷり砂糖のかかったカスタードパンの甘ったるい味がした。それに、

「全然、嫌じゃなかった。むしろ、もっとしていたかったような……」

 オレは、ぼうっとしたまま、自分の唇を触った。王路に比べて少し厚めの唇は、カサついて荒れていた。

「……リップクリーム、買ってこようかな」

 そう呟いて立ち上がると、オレはカッターシャツの上にスカジャンを羽織った。そして、スポーツバッグの中から長財布を取り出して、ズボンの尻ポケットに入れる。

「よし。んじゃ、行ってくるか」

 オレはスマホと家の鍵を手に持ち、近所のコンビニへ向かったのだった。


*****


「――で? まだ授業中のお前が、なんでここにいるんだよ」

 コンビニで王路に出会ったオレは、奢ってもらったカフェラテをちびちび飲みながら、つっけんどんに言った。――自分でもかわいくない態度だと思ったけれど、キスしたばかりの相手と平気な顔して話すのは、かなりレベルが高いと思う。

 そう考えると、オレの隣で当たり前のように車道側を歩いて、照れることなく会話をする王路はレベチだと思う。――というか、なんでいつも車道側を歩くんだよ。慣れてるのか? ……何に?

 王路は焼きそばパン――またパン食ってやがる――を咀嚼しながら、ちらっとこっちを見てきた。

「早退してきた」

「なんで?」

「彼氏が体調不良で早退したから。その見舞いに来た」

「お……っ、まえ、彼氏いたのかよ!?」

「姫川……お前のことだよ、お・ま・え」

「いてぇっ」

 王路にでこピンされた額をなで擦りながら、ああ、オレのことだったのかと内心で納得した。

「――それで? 体調はもういいのか?」

「ああ、うん。まぁ、そこそこかな。まだ胃のあたりが痛いけど」

「そっか。お大事にな」

「おう。サンキュ」

 それきり会話が途切れてしまう。

 オレは気にしてない風を装って、内心ではめちゃくちゃ焦っていた。――な、何か、何か話さないと!

 そんなことを考えていると、結局ろくな会話も出来ないまま、あっという間に我が家に到着してしまった。

 オレは心の中で涙を流しつつ、門扉に手を掛けて後ろを振り返る。

「あれ? お前、寄ってかねーの?」

「えっ。……あ、ああ。顔が見れたから……それでいい」

 王路はここにきて初めて動揺を見せた。それにつられてオレも動揺する。

「そ、そっか。わかった。じゃ、じゃあ、また明日学校でな!」

 なんとか噛まずに言えたことに、内心でガッツポーズをしていると、フッと影が重なった。驚いて振り返ると、目の前に王路のかっこいい顔があって、オレは静かに目を閉じた。――唇がそっと触れ合うだけのキス。

 王路は無言で離れ、

「明日から家まで迎えに来る。待ってろ」

 と言って、颯爽と来た道を帰って行った。

 オレはその後ろ姿が見えなくなるまで見送って、熱く火照った頬に、冷たい手の甲を当てた。

「か……っ、かっこよすぎるだろ……!」

 そう言って、オレは腰が抜けたように、ずるずるとポーチに座り込んだのだった。

*****


 王路に送ってもらったあと、周囲をぐるりと見回して、誰にも見られてないか確認してから家に入って素早く鍵を締めた。

 カフェラテが甘かったからか、喉が渇いて仕方がなくて、オレは台所に向かった。

 ファミリータイプのでかい冷蔵庫を開けると、500ml入りのミネラルウォーターを取り出して、勢いよく扉をしめる。

 部屋に上がるついでに脱衣所に寄って、Yシャツと靴下を脱いで洗濯機の中に放り込んだ。

 階段を登って部屋に入り、ブルゾンをハンガーにかける。上のTシャツは脱がずに、制服のズボンを脱いでスウェットパンツを履いた。

 ようやく一息ついたオレは、ミネラルウォーターの蓋を開けて3分の1くらい中身を飲んで、蓋を閉める。ペットボトルはデスクの上に置いて、ふと思い出したように、ブルゾンのポケットからリップクリームを取り出した。

 コンビニなのに無駄に品揃えが良くて、どれがいいか分からなかった。しかも、王路に鉢合わせたものだから、1番売れてるリップクリームを適当に買ったのだ。

 普段使わないせいか、ただのリップクリームなのに、買うのに勇気がいった。だけど王路が側にいたから、なんでもない風を装って、金を払ったあとは素早くポケットに入れたのだった。

 オレはベッドに仰向けに転がって、パッケージを取り払ったリップクリームの本体をまじまじと眺めた。

「とりあえず、一番売れてるヤツを買ったけど、女の子用なのか男用なのかもわかんねーな。……調べてみるか」

 ここでまたもや、◯ー◯ル先生の出番である。いつも助かってます。あざっす。

 カメラを起動して、リップクリームを撮ると、すぐに検索結果が出てきた。

 オレが買ったのは、男女兼用のリップクリームで、敏感肌に優しい◯ュレルという名前の商品だった。

「やけに高いと思ったら、結構良いやつ買ってたんだな、オレ」

 でも大金を払った分、効果は期待できそうだ。レビューもいい感じだし。

「……早速塗ってみるか。これ、別に鏡とかいらねーよな? 無色だし」

 オレは人生初のリップクリームを、少し緊張しながら唇に塗った。

「おお……なんかベタベタする。けど、嫌な感じはしねーな」

 これを使い続けていれば、ぷるぷるの唇が手に入るのだろうか?

「……わかんねーけど、使い続けてみるしかねぇよな。……高かったし」

 オレはリップクリームを眺めながら、さっきのキスを思い出した。途端、顔に血がのぼり、頬が火照りだす。

 何故かじっとしていることが出来なくて、枕を抱えて左右にゴロゴロと転がった。心臓がバクバクして、暑くないのに汗が滲んだ。

 大声で叫び出したい。誰かに話を聞いてもらいたい。

 胸の奥がむずむずとして、オレは自然とニヤける顔を何度も平手打ちした。

「たっ、たかがキス……くらいで、舞い上がってんじゃねーよ! オレにはまだ、『手をつなぐ』のと『ハグをする』ってミッションが残ってるんだからな!」

 気合を入れ直しても、何度も脳内でリプレイされる王路とのキスに、なんだかムラムラとした気持ちが湧き上がってきた。

 そしてオレは驚愕することになる。

 まさかと思って下半身を見ると、

「くっ、ク◯ラがたった……」

 オレは暫くの間呆然としたあと、いそいそとトイレに行き、すっきりした気分で部屋に戻ってきた。

 そして、爆速でスマホを操作し、さっきの現象について調べる。それで分かった事実。それは――

「オレ。王路とのキスに興奮して、やることやっちまった……」

 しかも、◯Vを観るよりも、具合が良かったのだ。――それが良いのか悪いのか、オレにはわからないけど。

 なんだか両親を裏切ってしまったような複雑な気分になったオレは、すっきりしたついでにシャワーを浴びに行った。だが、そこで思いがけない問題に直面する。

「……オレ、カリンチョリンじゃね?」

 1年以上もバスケを続けているので、筋肉質ではある。でも、どこからどう見ても細すぎる。

「こんな身体だったら、ハグした時に王路に笑われるかもしれん」

 そう思ったオレは、筋トレの量を増やし、プロテインを飲むようにした。

「よし! 目指せ、バキバキボディ!!」

 その日の夕食は喉を通らなくて、オレはドキドキしながら眠りについた。