見知らぬ誰かの光

見知らぬ誰かの光

その夜、ミナは池袋のサウナでバイトを終えたあと、居酒屋の先輩たちとちょっとだけと立ち飲み屋に寄った。5杯目の中ジョッキを空けたときには、すでに終電の時刻を過ぎていた。
「今日はどこに泊まろうかなぁ・・・・・・」
ミナはそれまでにも何度か、似たような状況に遭遇していた。終電が出たあとに気づく無力感、それに続く一連の行動は、もう習慣になっていた。
しばらくして会がお開きになり、ミナは皆に別れを告げる。外に出ると11月にもかかわらずかなり寒い。向かいのコンビニに入ってホットコーヒーを買い、イートインのカウンターに腰をおろす。上着からスマホを取り出す。誰かに連絡すれば、泊めてくれる男は何人かいた。セフレという言葉を使うのは、彼らに対して少し乱暴すぎると思っていたが、かといって恋人ではなかった。彼らに泊めてもらう見返りは、だいたい決まっていた。ベッドに入ることで宿泊費を浮かせる??その程度の軽さで、ミナは東京を生きていた。
しかし、その夜に限って誰にも連絡がつかなかった。5人、6人、名前を思いつくかぎりの男たちにメッセージを送ったが、未読のまま時間だけが過ぎていく。今日は平日だ。みんなそれなりに働いている。あるいは彼女と一緒に寝ている。もしくは本命の彼女と・・・・・・。焦りも怒りもなく、むしろ「そういう夜もある」と、どこか冷めた気分だった。
コーヒーが空になったところで、ミナはSNSに短い投稿をした。
《終電逃した。誰か今夜だけ泊めてくれる人いませんか? 条件はひとつ、冷たいシャワーじゃないこと》


10分のうちに何件かメッセージが届いた。そのなかに、見知らぬアカウントの奇妙な一文が目に留まった。
《条件を満たしてます。体は不自由ですが、迎えに行けます。駅から車椅子で10分。静かな夜を保証します》
投稿者の名前はダイスケ。年齢は35歳で会社員らしく、ミナの一回り上のようだ。プロフィールにはそれだけしか書かれていない。顔写真はなく、フォロー数も少ない。最初はスルーしようと思ったが、「静かな夜を保証します」の文に、なぜか目が止まった。
ミナは「会ったこともない男の家に泊まる」ということよりも、「車椅子で迎えに来る」という言葉に、少し興味を持っていた。返事を送り、駅の階段に座って待っていた。煙草に火をつけようとしたときに、メールが届いた。
《今どこですか?》
《池袋東口、西武側です》
《それでは、東武側に移動してください。あと5分くらいで着きます》
ミナは急いで西口に走る。


ダイスケは約束どおり、5分後に現れた。電動車椅子に乗り、長いリーチの左手で器用に操作している。黒いウィンドブレーカーを着て、背筋が伸びていた。
「・・・・・・あんたがダイスケ?」
敬語はよく知らないので、通常使っている言葉を使う。ダイスケはうなずき、左手で電動車椅子を操作しながら、小さく会釈する。
「私はミナ。よろしくね!」
「僕の家まで10分くらいだから」
車椅子の方向を変えて、ゆっくりと進むダイスケ。
ミナは隣を歩きながら戸惑っていた。見知らぬ男の部屋に泊まることは、これまで何度もあった。でも、車椅子の男は初めてだ。
ダイスケは何も言わず先を急ぐ。冷たい風が吹き空き缶が歩道の上を転がる。
 
「車椅子って大変でしょ? 会社に行ってるらしいけど」
ミナが車椅子をまじまじと見る。
「5年前に脳梗塞を起こし、それから右半身が麻痺して動かない」
「そうなんだ・・・・・・」
「ただ、会社が在宅勤務を認めてくれているんで、仕事は続けられてる」
ダイスケが車椅子を止めてミナを見る。
ミナがしゃがんでダイスケの目を見る。
「あんた、毎回こうやって誰か拾ってんの?」
一瞬、考えたが、その後、ダイスケが大笑いする。
「いや、初めて。だからちょっと緊張してる」
ミナも笑った。こんな真面目な男に出会うのは、いつ以来だろう。


部屋は古いマンションの3階。エレベーターはなかったが、階段脇に小さな昇降機が取り付けられていた。
「すげー、・・・・・・本気だ!」
「まあ、生活のためにね!」
ダイスケは慣れた様子でリフトに乗り、ゆっくりと上がっていく。ミナはその背中を見ながら、思っていた以上に、彼の生活が「整っている」ことに驚いた。
部屋は狭いけど、清潔だった。観葉植物、整った書棚、コーヒーの香りに癒された。間取りは1LDKで、バスとトイレは別だった。建物は新しくないが、湯船とシャワーは最新型にリフォームしているようだ。この点は譲れないのであろう。
「ほんとにシャワー、ちゃんとしてるんだ」
「お湯の温度にはこだわってるからね。冬はちょっと贅沢するよ。手すりも付けてもらったし・・・・・・」
 

ミナが風呂から上がる。
タオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、ダイスケは湯たんぽを膝に乗せて、小さな音で静かな音楽を流していた。
「泊めてくれてありがと。で、これからどうする? セックスする? 私さ、別に援助交際しているわけではないんだけど、寝るってことで泊めてもらうの、別に悪いって思ってないから・・・・・・」
ダイスケは笑った。けれど、その笑いには、照れでも下心でもなく、静かな優しさがあった。
「でも、あんた、最初からそういう感じじゃないじゃん。だから逆に、なんか変な気分になってる。なんで泊めてくれたの? 善意? それとも、同情?」
少しの沈黙のあと、ダイスケは言った。
「誰かを泊めるって、たぶん、“何か”を信じていないとできないことだと思う。信じたのは君の言葉だけじゃなくて、“静かな夜が欲しい”という言葉の奥にある寂しさだった」
ミナは目を細めて、それがどういう意味なのか考えていた。

「ミナさんは映画好き?」
「別に・・・・・・。でも、何でも見るよ」
ダイスケは缶コーヒーを2本冷蔵庫から出した。


映画が終わり、ミナは煙草に火をつけた。
「ねえ、ダイスケ」
「ん?」
「また、聞くけど・・・・・・、なんで、見ず知らずの女を泊めてくれたの?」
ダイスケは少しだけ考えてから、答えた。
「たぶんね、自分が必要とされる機会って、年齢を重ねるごとに減っていく。特に、体がこうなってからは・・・・・・」
脳梗塞で倒れて、右半身が動かなくなってから、彼の時間はずっと「諦める」ことの連続だった。今まで当たり前だった生活、キャリア、恋愛、そして将来への展望。それらすべてが「少しずつ手放していくべきもの」として目の前に並べられ、静かに葬られていった。
誰にも言えなかった。言ったところで、状況が変わるわけじゃないから。誰かに同情されるのも、哀れまれるのも嫌だった。だから、笑った。仕事では今まで以上に冗談を言ったし、ミスも笑ってごまかした。
だけど、夜が来るたびに――その夜、終電に乗り遅れたこの夜のように――ダイスケの心は何度も崩れていた。ひとりで布団に入るたびに、「なんでこんな体になったんだろう」「なんで僕だけが」そんな声が、心の底から湧き上がって、喉元まで届いていた。
「でも、あの投稿を見たときに、ああ、誰かの“助け”になれるのかもしれないって思った。もちろん、危険はあるけどね。 それから、“さみしい”って良く使うよね?」
「まさに、今日なんか“さみしい”よ」
携帯灰皿に灰を落とすミナ。
「“さみしい”って“誰かがいて欲しい”ことだと思ってた。でも、最近は少し違うような気がするんだ。たとえば、自分が“誰かの役に立たない”って思うときのほうが、よっぽど孤独なんだよ!」
ダイスケの脳裏に、脳梗塞で倒れた日の記憶がよみがえった。
ミナは目を閉じて、天井を見つめた。
彼女の中で、何かが動いた。
自分が誰かの「役に立つ」なんて、考えたこともなかった。

「ビール買ってくる。途中にコンビニあったよね?」
これで役に立つのかわからないけど、とりあえず行動しようと思った。
「まだ飲むの? 気をつけてよ!」


缶ビールで乾杯する。
「さっきの続きだけど・・・・・・」
ミナがダイスケの顔を見る。
「今のダイスケ、めちゃくちゃ弱くて、正直で、ちょっと泣きそうな顔しててさ。こっちまで苦しくなるくらい、生きてるって感じがする」
その言葉に、なぜか涙が込み上げた。こんなに誰かに肯定されたのは、いつぶりだろう。ダイスケは堪えきれず、声を震わせながらつぶやいた。
「僕……ほんとは、誰かに怒鳴りたかったんだ。ふざけんな!って。なんで僕なんだって。もっと、ずっと普通でいたかったって。怖いんだよ、これからの人生が。怖くて、寒くて、暗くて……だけど、誰にも言えなかった。全部、自分で抱えてた……」
気づけば、ミナがそっと肩を寄せていた。彼女の小さな身体が、自分の肩に重なってくるのがわかる。
「言えよ! 怒っても、泣いても、わめいても。私には届くから。ちゃんと、ここにいるから」
その言葉はダイスケの胸に刺さった。彼はこらえていた涙が一気にあふれるのを止められなかった。ミナの前で泣くことに、恥ずかしさはなかった。自分の弱さを見せることが、今はなによりも「生きている証」だった。
しばらくして、ようやく落ち着いたダイスケが小さくつぶやいた。
「ミナちゃん……、こんな僕でも、生きてていいのかな」
「生きろ!っていうか、生きててくれなきゃ困る」
「困る?」
「だってさ・・・・・・。私、きっと今、ダイスケに恋してる」
ミナは視線をそらす。そして、正面を向く。目を閉じる。
ダイスケは顔を近づけ、キスをする。

静寂の中に、電車の走る音が遠くから聞こえてきた。始発が近づいていた。

ミナは笑っていた。見かけによらず、笑うと頬にえくぼができる。こんな表情は初めて見た気がした。
「ダイスケ。私、ほんとはさっき、ちょっとだけ逃げたかったの」
「逃げる?」
「うん。ダイスケとこうして過ごすことが、楽しくなりすぎて……。この時間が終わるのが怖かった。だから、ビール買いに行くって口実で、距離置こうとしたの。でもね、外に出たら急に夜風が冷たくて。なんでか急に泣けてきて。……こんなの、変だね」
変じゃない。だけど、それを口にすると、たぶん僕のほうが泣いてしまいそうだった。
不自由な体で、惨めな気持ちを抱えて、それでも生きてるだけでいいじゃないかって自分に言い聞かせてた。でも、こうして目の前に座ってる彼女が、逃げたくなるほどの気持ちを抱えて戻ってきてくれた。それは、ずっと押し殺してきた自尊心を、やさしく包んでくれる手のぬくもりのようだった。
「ミナさん、僕ね、たぶんずっと、自分の人生のドアを外から閉めてたんだよ」
「え?」
「中に入るのが怖くて、誰かと一緒にそこにいるのも怖くて。だったらいっそ、閉めたままでいいやって。でも……今日は、ドア開けてみてもいいかなって、そう思ってる」
ミナはふっと息を吸って、夜空を見上げた。
「じゃあ、そのドア、私がノックしてもいい?」
僕は笑った。もう、泣きたくて仕方がない。
「ノックしなくていい。鍵、開けとくから」
ミナは缶ビールを一口飲む。
「乾杯しよう。終電を逃した夜と、新しい始まりに」
缶同士がカチンと軽い音を立てた。
その音が、駅のホームの静寂を破るように、夜を切り裂いた。
僕の中で、長い間に鳴り続けていた不安や孤独のブザーが、ようやく静まるのを感じた。
そして、気がつけば、遠くで始発のアナウンスが流れていた。


ミナはコーヒーの香りで目覚めた。キッチンではダイスケが左手だけでぎこちなくマグカップを持ち上げている。
「ランチだけど、簡単なのでよければ。トーストとスクランブルエッグ」
「もう、お昼なんだ」
パンをかじりながら、ミナは言った。
「さ、昨日の宿泊費。払わなきゃね」
「払ってるよ。もう十分」
「え?」
「君が話してくれたこと。笑ったこと。そこにいてくれたこと。静かな夜が、ちょっとだけあたたかくなった」
ミナは黙ってトーストをかじり続けた。


その日から、ミナは少し変わった。相変わらずバイトの掛け持ちは続いていたが、SNSに「泊めてくれる人募集」と書き込むことはなくなった。
代わりに、毎晩寝る前に日記を書き始めた。「今日の誰かにとって、自分が少しでも意味を持ったか」を記すノート。
数週間後、あるバイト先でパートリーダーがミナに言った。
「ミナちゃん、最近変わったね。前より、ちゃんと“ここにいる”って感じがする」
ミナはその夜、久しぶりにダイスケにメッセージを送った。
《あんたが保証した“静かな夜”は、あたしにとって“あたたかい夜”だったよ》
数分後、既読がつき、ハートのスタンプが返ってきた。
それは、恋の始まりでも、終わりでもなかった。けれど確かに、二人の孤独に灯った、小さな光だった。
(了)