大学の最寄り駅から三つ越えた駅前商店街。参加しているテニスサークルのメンバーと一緒に、私は幹事の野口先輩が会計を終えて店から出てくるのを待っていた。月に二回、この近くのコートを借りて活動した後、駅周辺で飲み会をする流れが多い。別に飲みサーってわけでもないから、集まりが悪ければ練習後にそのまま解散ってことだってある。
「じゃあ、この後はオールでカラオケだな。人数確認するから、行くやつは手を上げろー」
長いレシートを手に店から出て来た野口先輩が、二次会の参加者を募る。すでに二十三時前だからとっくに終電が無くなっているメンバーが勢いよく挙手していく。
「あ、私、まだ電車あるんで帰りまーす」
「ええーっ、美鈴、帰っちゃうのぉ?」
「うん、駅まで走ればギリギリで間に合いそうだもん。明日の一限、レポート提出あるしサボれないから」
同じ二年生の向井菜月が寂しいと上目遣いしてくるが、私はフルフルと首を振って拒む。昨晩に必死で書き上げたレポートを出しそびれるなんてことになったら最悪だ。始発の時間までカラオケしてたら帰宅後はそのまま昼まで寝てしまう。潔く一次会で帰ってしまうのが安全だ。
「あ、俺も帰ります」
私の後に不参加を表明したのは、福本柊人。学部が違うからサークル以外で見かけることは滅多にないけれど、ダブルスをする時の私のペアだ。彼も帰る方向が同じだから、駅までダッシュする気でいるんだろう。
スマホで時刻を改めて確認し、私達は「お疲れ様でしたー」とみんなへ挨拶してから、商店街のアーケードの下を走り出す。本当に冗談抜きで、終電ギリギリの時刻。アーケードを出てすぐの横断歩道の信号が青に変わるのを、ソワソワしながら待っていた。
「やばい、結構ギリギリだね……」
「森口、かなり飲んでた気がするけど、ちゃんと走れるか?」
柊人の問いかけに、今日はやたら心臓がバクバクしている原因に気付く。ちゃんと自己管理するつもりで途中からウーロン茶を頼んだのに、誰かが悪ノリしてウーロンハイとすり替えてきて、それに逆切れした私は意地でそれを飲み切ってやったのだ。予定よりも一杯多く飲んでしまったお酒が急に走ったことで一気に身体中に回り始める。
「……ダメかも。足がガクガクしてる。私のことは放っておいてくれていいから、柊人だけ先行って」
横断歩道の手前でしゃがみ込んでしまった私のことを、柊人が困惑した顔で見下ろしている。こんなところで休んでいたら終電にはどう考えても間に合わない。自分のせいで柊人まで乗り遅れてしまったら大変だと、私は同級生の顔を見上げながら小さく手を振ってみせる。
「ハァ。こんなところで座り込んでるやつ、置いてけるかよ」
「いいってば、先に行ってよ。まだ走れば間に合うんだから」
私が何度「いいから」と言っても、柊人は立ち去るどころかすぐ隣でしゃがみ込み始めた。カラオケに行かなかったってことは、柊人にも帰らないといけない理由があるはずなのだ。私のせいで電車に乗り遅れるなんてことになったら申し訳ない。
私はふぅっと大きく息を吐いて必死で酔いを宥める。ウーロン茶をすり替えた犯人が心底憎らしい。誰がやったかなんて、大体検討がつく。こういう詰まんないことをするやつは限られている。飲み会がある時しか顔を見せない、一つ上の先輩達の誰かだ。
「ほんと、私のことは見捨ててくれていいから……」
言いながら、青信号が点滅して赤に戻っていくのを見上げる。次で渡らないと確実に間に合わない。ふらつく身体を起こして、私は柊人に「平気だから」と笑って見せる。青に変わってからヨタヨタと歩き始めた私の隣を、柊人は走ろうとはせずに同じペースで駅へと向かう。
ようやく改札口が目の前に見えた時、ホームから立ち去っていく電車の音が聞こえてくる。無情にも、最終電車が行ってしまったらしい……
「終電、無くなったな」
「……ごめん、私のせいだ」
改札前で茫然と立ち尽くす私と柊人。彼一人だけなら間に合っていたはずなのに、私が途中でくたばってしまったおかげで、一緒に電車を逃してしまった。次は始発まで電車は来ない。俯いて謝る私の隣で、柊人は困惑しながら頬を人差し指で掻いている。
「どうする? カラオケに戻る?」
二次会に合流し直すかと聞かれて、私は少し考えた後に首を横に振る。みんなと一緒に徹夜で騒ぐ元気はもうない。かと言って、ここからタクシーに乗って帰れるほどのお金も持ってない。
「どうしよ、一個向こうの駅前のバーガー屋が二十四時間営業だった気がするし、そこまで歩いてくか……」
「お前、一駅も歩けるのか? 無理じゃねえ?」
柊人に冷静に突っ込まれて、私は睡魔に襲われ始めた目をショボショボさせる。酔っぱらったせいで、今ならどこでだって爆睡できそうだ。
立ってるだけでもふらふらと揺れている私のことを、柊人が心配そうな目で見ている。そして、近くに何かないかとスマホで検索してから言った。
「駅の反対側にネカフェあるみたいだぞ。学割でナイトパックが千五百円って」
「わ、いいね。私、学生証持ってる」
あまり聞いたことの無い店だったけれど、私達はぐるりと回って駅の反対側に移動した。柊人はずっと私のペースに合わせて歩いてくれていた。
駅前ロータリーのすぐ目の前のビルの三階。インターネットカフェというよりは漫画喫茶と呼んだ方が良さそうな古い店舗。入り口の扉を押し開けると古本と珈琲の混ざった匂いがもわっと襲ってくる。
私達はそれぞれ学生証を提示して会員登録を済ませ、どの席にするかを相談し合う。
「フラットシートの方が寝やすそうじゃない? 森口、もう限界だろ?」
「うん、じゃあ、それで」
禁煙エリアで隣同士のブースを選び、ドリンクバーでジュースを取って席へと向かう。ブース手前のコミック棚をちらっと覗き見たら、先月発売して読みたいと思っていた漫画が並んでいたし、思わずそれも手に取ってしまう。
呆れ顔の柊人へ慌てて弁解する。
「眠いけど、これだけは読みたい」
「まあ、気持ちは分からないでもない」
そういう柊人もいつの間にか漫画を数冊重ねて持っていた。
受付で渡された伝票番号が書かれたブースを見つけて中を覗くと、背の低い私でも足を伸ばして寝転べるかどうかという狭い空間に、備え付けのテーブルの上にパソコンが一台だけぽつんとあった。モニターの横に立て掛けられていたフードメニューと、箱ティッシュ、あとは小さなゴミ箱が一個。
目線がギリギリ隠れる高さのパーテーションで仕切られたブースは最近よく聞く鍵付きとかのちゃんとしたものではなくて、簡素なアクリル扉が出入り口に付いているだけだ。
ちょっと心細さを感じながらも、私は靴を脱いでからシートの上に上がり込む。何かあってもすぐ隣に知り合いがいると思うと心強い。
薄暗いブースの中でテーブルに固定された電気スタンドの明かりを頼りに、隣のブースとを隔てている薄い壁に背を凭れかせながら、私は借りてきた漫画のページを開く。
ちょうど半分くらいが読み終わった時、壁の向こうから小さな振動を感じた。隣にいる柊人も私と同じようにパーテーションを背凭れにして座ったのかもしれない。
——私のせいで、柊人まで帰れなくなっちゃったんだよね……
普通にしてれば、ギリギリで終電に間に合ったはずだった。それが途中で動けなくなった私のことを待ってくれたから、柊人までここで始発を待つ羽目になったのだ。自分の事なんて見捨ててくれたら良かったのに、なんて思ったけれど、そんなことができる奴じゃないのはよく知っている。
柊人は初めてサークルで出会った時から、とてもいい奴だった。出会いを求めてサークル活動に参加する人も多い中で、数少ないガチのテニス好き。練習時間の大半をベンチでお喋りして過ごすメンバーとは違い、コートが使える間はずっとボールを追い掛けているし、誰かが足をくじいたりすれば、真っ先に救急箱を持って駆け寄っていくような奴だ。
「テニサーじゃなくて、クラブ活動の方にすれば良かったんじゃないの?」
非公認の同好会じゃなくて大学公認のテニス部ならもっとガチで練習できたのにと聞いた際、柊人は「あー」と困惑した顔になった。
「俺、家賃以外の生活費はバイトして稼がなきゃなんないし、そんな暇はない」
私と同じで実家を出て一人暮らししている柊人は、毎日練習のある部活は無理だと首を横に振っていた。仕送りは割と多めに貰ってバイトもしていなかった当時の私には彼の言葉はとても耳が痛かった。同じ歳なのにこんなしっかりした人がいるのかと感心してしまったのを覚えている。
壁越しにコトンと小さな振動が響くのを背中で感じる。向こうのブースで柊人が体勢を変えて凭れ直したんだろうか?
私はちょっとドキドキする。こうやってこっち側で私も壁に凭れていることに、柊人は気付いているんだろうか?
入部したばかりの時は私のペアは二つ上の女の先輩だった。同じ学部の人だったからテニスだけじゃなく講義の取り方だとか、ゼミの選び方だとかいろいろ教えてくれて助かった。でも就活が始まって三年生の先輩達がサークルに顔を出さなくなった後、同じ状況で余ってしまった者同士ということで柊人とペアを組み直すことになった。
ペアを組むようになったことで話すようになった柊人のことを私が気になるようになったのは当然だと思う。だって彼はとても真面目でいい奴だし、何よりも優しい。嫌う要素なんて思いつかない。菜月から言わせると「恋は盲目」ってやつらしいけど、嫌な要素が一つくらいあったとしてもきっと好きになってた自信はある。
コトンとまた向こう側から柊人が動いた気配がした。私は読みかけの漫画を置いてから、壁に触れている背中と後頭部に神経を集中させて、彼の存在を静かに感じる。真後ろに大好きな彼がいる。それだけで何だか幸せだった。目を閉じて、壁の向こうで凭れかかっている柊人の姿を頭に思い浮かべる。今、薄い木製の壁を挟んで私達は背中を合わせて座っているのかもしれない。そう考えたら妙に照れくさくなってきて、私は両手で自分の顔を覆った。
また、向こう側から小さな振動。その後すぐに隣のアクリル扉が開いた音が聞こえてくる。飲み物のおかわりを取りに出たんだろうか?
そう思っていたら、私のブースの扉を誰かがノックしてきて、私は慌てて「はい」と小さく返事する。
「森口、ちょっといい?」
柊人の声だった。私が「うん」と答えた後、扉を開けて顔を出した柊人は、少し緊張しているみたいに顔を強張らせている。
「あのさ、ブースここじゃないとこに移動させてもらわないか?」
「え、どうしたの? 何かあった?」
「いや、ここって鍵とかないだろ、こんなところで女子が一人は心配っていうか……ほら、意外と他のブースにも人がいるみたいだし。多分、森口以外は男ばっかりみたいだし」
柊人が言うように、平日の夜なのにブースの三分の一は誰かが利用しているみたいだった。いろんなところから寝息や物音が聞こえていて、正直言って怖くて眠れそうもない。だから、漫画を読んで朝まで起きているつもりでいた。
「まあ、確かに」
「だから、一緒の席にした方がマシじゃないかって思ったんだけど」
「ああ、カップルシートってやつ?」
二人掛けの大きめソファーがあるというカップルシートはブースの隅の方にあるみたいだし、今の場所よりは少しは静かそうだった。
「俺は朝まで漫画読んで起きてるつもりだし、森口は寝てくれて構わないから」
アルコールのせいで眠さ限界の私を気遣って言ってくれているみたいだったけれど、「あ、でも俺が一緒にいたら逆に落ち着かないか……」と柊人は自分自身で提案を打ち消してしまう。ブースへと戻って行こうとする彼を、私は慌てて呼び止める。
「ううん、そっちが嫌じゃなければ、一緒にいて欲しい」
壁越しじゃなくすぐ隣に座る柊人は宣言通りに漫画を大量にブースへ持ち込んできて、順番に読み始める。私も並んで数冊は読んでいたけれど、いつの間にか睡魔に負けて眠ってしまったみたいだった。狭い空間に異性と二人きり。そんな状況にドキドキしなかったわけじゃなかったけれど、相手が柊人なら嫌なことなんて何もない。私は覚悟を決めて目を閉じ、あっという間に夢の中へ引きずり込まれていた。さっきまでは人の気配が怖かったはずなのに、真横にいる柊人の気配には安心してしまうなんて不思議な話だ。
始発電車が走り出す時刻に合わせて鳴ったスマホのアラームを私は急いで止めて、隣にいる柊人のことを見る。本当に彼は一晩中読み続けていたみたいで、目の前のテーブルには私の見覚えのない漫画が重ねられている。
「おはよう」
私が声をかけると、柊人はちょっと驚いた顔をした後、すっと視線を逸らせる。
——え、もしかして思い切り寝ぐせついてる⁉ え、それともヨダレでも出てる⁉
彼の反応に、私は慌てて自分の髪や顔に手をやって確認する。寝起きの無防備な姿をこんな間近に見られた上に幻滅されるとか、地獄でしかない……
頭も顔も何ともなさそうだけど、柊人の今の態度は絶対に何か原因があるはずで、私はオロオロし出す。
「ご、ごめん……もしかして、私、イビキとか煩かったりする? それとも何か変な寝言でも言ってた?」
眠っている時のことなんて、自分ではよく分からない。無意識に恥ずかしい姿を晒していたのかと思うと、かーっと顔が熱くなる。よりによってそれを好きな人に見られるなんて。
その私の問いかけに、なぜか隣の柊人まで顔を一気に赤らめ始める。一体、私は寝ている間に何をやらかしたんだろう?
「ううん、全然。森口はすごく静かに寝てたよ」
そう言った後、また柊人は私から視線を反らす。そして、壁に向かってぼそっと呟く。
「あやうく手を出しそうになるくらい、可愛い寝顔だった」
「へ?」
「あ、うん、何もしてないから安心して。可愛かったのは本当なんだけど……」
彼の必死の否定に、何もないのは分かったけれど、私は顔が熱くなるのを止められなかった。狭いブースの中、私達はそっぽを向き合い互いの顔の熱が引いていくのを静かに待った。
どさくさに紛れて、私は後ろを向く柊人の背中に自分の背中をそっと凭れさせる。今度は私達の間に壁なんて無いから、彼の体温が直接伝わってくる。
駅の方から始発電車が発車する音が聞こえてきたが、私達はこのままもう少しだけと背中をくっつけ合ったまま動かなかった。
「じゃあ、この後はオールでカラオケだな。人数確認するから、行くやつは手を上げろー」
長いレシートを手に店から出て来た野口先輩が、二次会の参加者を募る。すでに二十三時前だからとっくに終電が無くなっているメンバーが勢いよく挙手していく。
「あ、私、まだ電車あるんで帰りまーす」
「ええーっ、美鈴、帰っちゃうのぉ?」
「うん、駅まで走ればギリギリで間に合いそうだもん。明日の一限、レポート提出あるしサボれないから」
同じ二年生の向井菜月が寂しいと上目遣いしてくるが、私はフルフルと首を振って拒む。昨晩に必死で書き上げたレポートを出しそびれるなんてことになったら最悪だ。始発の時間までカラオケしてたら帰宅後はそのまま昼まで寝てしまう。潔く一次会で帰ってしまうのが安全だ。
「あ、俺も帰ります」
私の後に不参加を表明したのは、福本柊人。学部が違うからサークル以外で見かけることは滅多にないけれど、ダブルスをする時の私のペアだ。彼も帰る方向が同じだから、駅までダッシュする気でいるんだろう。
スマホで時刻を改めて確認し、私達は「お疲れ様でしたー」とみんなへ挨拶してから、商店街のアーケードの下を走り出す。本当に冗談抜きで、終電ギリギリの時刻。アーケードを出てすぐの横断歩道の信号が青に変わるのを、ソワソワしながら待っていた。
「やばい、結構ギリギリだね……」
「森口、かなり飲んでた気がするけど、ちゃんと走れるか?」
柊人の問いかけに、今日はやたら心臓がバクバクしている原因に気付く。ちゃんと自己管理するつもりで途中からウーロン茶を頼んだのに、誰かが悪ノリしてウーロンハイとすり替えてきて、それに逆切れした私は意地でそれを飲み切ってやったのだ。予定よりも一杯多く飲んでしまったお酒が急に走ったことで一気に身体中に回り始める。
「……ダメかも。足がガクガクしてる。私のことは放っておいてくれていいから、柊人だけ先行って」
横断歩道の手前でしゃがみ込んでしまった私のことを、柊人が困惑した顔で見下ろしている。こんなところで休んでいたら終電にはどう考えても間に合わない。自分のせいで柊人まで乗り遅れてしまったら大変だと、私は同級生の顔を見上げながら小さく手を振ってみせる。
「ハァ。こんなところで座り込んでるやつ、置いてけるかよ」
「いいってば、先に行ってよ。まだ走れば間に合うんだから」
私が何度「いいから」と言っても、柊人は立ち去るどころかすぐ隣でしゃがみ込み始めた。カラオケに行かなかったってことは、柊人にも帰らないといけない理由があるはずなのだ。私のせいで電車に乗り遅れるなんてことになったら申し訳ない。
私はふぅっと大きく息を吐いて必死で酔いを宥める。ウーロン茶をすり替えた犯人が心底憎らしい。誰がやったかなんて、大体検討がつく。こういう詰まんないことをするやつは限られている。飲み会がある時しか顔を見せない、一つ上の先輩達の誰かだ。
「ほんと、私のことは見捨ててくれていいから……」
言いながら、青信号が点滅して赤に戻っていくのを見上げる。次で渡らないと確実に間に合わない。ふらつく身体を起こして、私は柊人に「平気だから」と笑って見せる。青に変わってからヨタヨタと歩き始めた私の隣を、柊人は走ろうとはせずに同じペースで駅へと向かう。
ようやく改札口が目の前に見えた時、ホームから立ち去っていく電車の音が聞こえてくる。無情にも、最終電車が行ってしまったらしい……
「終電、無くなったな」
「……ごめん、私のせいだ」
改札前で茫然と立ち尽くす私と柊人。彼一人だけなら間に合っていたはずなのに、私が途中でくたばってしまったおかげで、一緒に電車を逃してしまった。次は始発まで電車は来ない。俯いて謝る私の隣で、柊人は困惑しながら頬を人差し指で掻いている。
「どうする? カラオケに戻る?」
二次会に合流し直すかと聞かれて、私は少し考えた後に首を横に振る。みんなと一緒に徹夜で騒ぐ元気はもうない。かと言って、ここからタクシーに乗って帰れるほどのお金も持ってない。
「どうしよ、一個向こうの駅前のバーガー屋が二十四時間営業だった気がするし、そこまで歩いてくか……」
「お前、一駅も歩けるのか? 無理じゃねえ?」
柊人に冷静に突っ込まれて、私は睡魔に襲われ始めた目をショボショボさせる。酔っぱらったせいで、今ならどこでだって爆睡できそうだ。
立ってるだけでもふらふらと揺れている私のことを、柊人が心配そうな目で見ている。そして、近くに何かないかとスマホで検索してから言った。
「駅の反対側にネカフェあるみたいだぞ。学割でナイトパックが千五百円って」
「わ、いいね。私、学生証持ってる」
あまり聞いたことの無い店だったけれど、私達はぐるりと回って駅の反対側に移動した。柊人はずっと私のペースに合わせて歩いてくれていた。
駅前ロータリーのすぐ目の前のビルの三階。インターネットカフェというよりは漫画喫茶と呼んだ方が良さそうな古い店舗。入り口の扉を押し開けると古本と珈琲の混ざった匂いがもわっと襲ってくる。
私達はそれぞれ学生証を提示して会員登録を済ませ、どの席にするかを相談し合う。
「フラットシートの方が寝やすそうじゃない? 森口、もう限界だろ?」
「うん、じゃあ、それで」
禁煙エリアで隣同士のブースを選び、ドリンクバーでジュースを取って席へと向かう。ブース手前のコミック棚をちらっと覗き見たら、先月発売して読みたいと思っていた漫画が並んでいたし、思わずそれも手に取ってしまう。
呆れ顔の柊人へ慌てて弁解する。
「眠いけど、これだけは読みたい」
「まあ、気持ちは分からないでもない」
そういう柊人もいつの間にか漫画を数冊重ねて持っていた。
受付で渡された伝票番号が書かれたブースを見つけて中を覗くと、背の低い私でも足を伸ばして寝転べるかどうかという狭い空間に、備え付けのテーブルの上にパソコンが一台だけぽつんとあった。モニターの横に立て掛けられていたフードメニューと、箱ティッシュ、あとは小さなゴミ箱が一個。
目線がギリギリ隠れる高さのパーテーションで仕切られたブースは最近よく聞く鍵付きとかのちゃんとしたものではなくて、簡素なアクリル扉が出入り口に付いているだけだ。
ちょっと心細さを感じながらも、私は靴を脱いでからシートの上に上がり込む。何かあってもすぐ隣に知り合いがいると思うと心強い。
薄暗いブースの中でテーブルに固定された電気スタンドの明かりを頼りに、隣のブースとを隔てている薄い壁に背を凭れかせながら、私は借りてきた漫画のページを開く。
ちょうど半分くらいが読み終わった時、壁の向こうから小さな振動を感じた。隣にいる柊人も私と同じようにパーテーションを背凭れにして座ったのかもしれない。
——私のせいで、柊人まで帰れなくなっちゃったんだよね……
普通にしてれば、ギリギリで終電に間に合ったはずだった。それが途中で動けなくなった私のことを待ってくれたから、柊人までここで始発を待つ羽目になったのだ。自分の事なんて見捨ててくれたら良かったのに、なんて思ったけれど、そんなことができる奴じゃないのはよく知っている。
柊人は初めてサークルで出会った時から、とてもいい奴だった。出会いを求めてサークル活動に参加する人も多い中で、数少ないガチのテニス好き。練習時間の大半をベンチでお喋りして過ごすメンバーとは違い、コートが使える間はずっとボールを追い掛けているし、誰かが足をくじいたりすれば、真っ先に救急箱を持って駆け寄っていくような奴だ。
「テニサーじゃなくて、クラブ活動の方にすれば良かったんじゃないの?」
非公認の同好会じゃなくて大学公認のテニス部ならもっとガチで練習できたのにと聞いた際、柊人は「あー」と困惑した顔になった。
「俺、家賃以外の生活費はバイトして稼がなきゃなんないし、そんな暇はない」
私と同じで実家を出て一人暮らししている柊人は、毎日練習のある部活は無理だと首を横に振っていた。仕送りは割と多めに貰ってバイトもしていなかった当時の私には彼の言葉はとても耳が痛かった。同じ歳なのにこんなしっかりした人がいるのかと感心してしまったのを覚えている。
壁越しにコトンと小さな振動が響くのを背中で感じる。向こうのブースで柊人が体勢を変えて凭れ直したんだろうか?
私はちょっとドキドキする。こうやってこっち側で私も壁に凭れていることに、柊人は気付いているんだろうか?
入部したばかりの時は私のペアは二つ上の女の先輩だった。同じ学部の人だったからテニスだけじゃなく講義の取り方だとか、ゼミの選び方だとかいろいろ教えてくれて助かった。でも就活が始まって三年生の先輩達がサークルに顔を出さなくなった後、同じ状況で余ってしまった者同士ということで柊人とペアを組み直すことになった。
ペアを組むようになったことで話すようになった柊人のことを私が気になるようになったのは当然だと思う。だって彼はとても真面目でいい奴だし、何よりも優しい。嫌う要素なんて思いつかない。菜月から言わせると「恋は盲目」ってやつらしいけど、嫌な要素が一つくらいあったとしてもきっと好きになってた自信はある。
コトンとまた向こう側から柊人が動いた気配がした。私は読みかけの漫画を置いてから、壁に触れている背中と後頭部に神経を集中させて、彼の存在を静かに感じる。真後ろに大好きな彼がいる。それだけで何だか幸せだった。目を閉じて、壁の向こうで凭れかかっている柊人の姿を頭に思い浮かべる。今、薄い木製の壁を挟んで私達は背中を合わせて座っているのかもしれない。そう考えたら妙に照れくさくなってきて、私は両手で自分の顔を覆った。
また、向こう側から小さな振動。その後すぐに隣のアクリル扉が開いた音が聞こえてくる。飲み物のおかわりを取りに出たんだろうか?
そう思っていたら、私のブースの扉を誰かがノックしてきて、私は慌てて「はい」と小さく返事する。
「森口、ちょっといい?」
柊人の声だった。私が「うん」と答えた後、扉を開けて顔を出した柊人は、少し緊張しているみたいに顔を強張らせている。
「あのさ、ブースここじゃないとこに移動させてもらわないか?」
「え、どうしたの? 何かあった?」
「いや、ここって鍵とかないだろ、こんなところで女子が一人は心配っていうか……ほら、意外と他のブースにも人がいるみたいだし。多分、森口以外は男ばっかりみたいだし」
柊人が言うように、平日の夜なのにブースの三分の一は誰かが利用しているみたいだった。いろんなところから寝息や物音が聞こえていて、正直言って怖くて眠れそうもない。だから、漫画を読んで朝まで起きているつもりでいた。
「まあ、確かに」
「だから、一緒の席にした方がマシじゃないかって思ったんだけど」
「ああ、カップルシートってやつ?」
二人掛けの大きめソファーがあるというカップルシートはブースの隅の方にあるみたいだし、今の場所よりは少しは静かそうだった。
「俺は朝まで漫画読んで起きてるつもりだし、森口は寝てくれて構わないから」
アルコールのせいで眠さ限界の私を気遣って言ってくれているみたいだったけれど、「あ、でも俺が一緒にいたら逆に落ち着かないか……」と柊人は自分自身で提案を打ち消してしまう。ブースへと戻って行こうとする彼を、私は慌てて呼び止める。
「ううん、そっちが嫌じゃなければ、一緒にいて欲しい」
壁越しじゃなくすぐ隣に座る柊人は宣言通りに漫画を大量にブースへ持ち込んできて、順番に読み始める。私も並んで数冊は読んでいたけれど、いつの間にか睡魔に負けて眠ってしまったみたいだった。狭い空間に異性と二人きり。そんな状況にドキドキしなかったわけじゃなかったけれど、相手が柊人なら嫌なことなんて何もない。私は覚悟を決めて目を閉じ、あっという間に夢の中へ引きずり込まれていた。さっきまでは人の気配が怖かったはずなのに、真横にいる柊人の気配には安心してしまうなんて不思議な話だ。
始発電車が走り出す時刻に合わせて鳴ったスマホのアラームを私は急いで止めて、隣にいる柊人のことを見る。本当に彼は一晩中読み続けていたみたいで、目の前のテーブルには私の見覚えのない漫画が重ねられている。
「おはよう」
私が声をかけると、柊人はちょっと驚いた顔をした後、すっと視線を逸らせる。
——え、もしかして思い切り寝ぐせついてる⁉ え、それともヨダレでも出てる⁉
彼の反応に、私は慌てて自分の髪や顔に手をやって確認する。寝起きの無防備な姿をこんな間近に見られた上に幻滅されるとか、地獄でしかない……
頭も顔も何ともなさそうだけど、柊人の今の態度は絶対に何か原因があるはずで、私はオロオロし出す。
「ご、ごめん……もしかして、私、イビキとか煩かったりする? それとも何か変な寝言でも言ってた?」
眠っている時のことなんて、自分ではよく分からない。無意識に恥ずかしい姿を晒していたのかと思うと、かーっと顔が熱くなる。よりによってそれを好きな人に見られるなんて。
その私の問いかけに、なぜか隣の柊人まで顔を一気に赤らめ始める。一体、私は寝ている間に何をやらかしたんだろう?
「ううん、全然。森口はすごく静かに寝てたよ」
そう言った後、また柊人は私から視線を反らす。そして、壁に向かってぼそっと呟く。
「あやうく手を出しそうになるくらい、可愛い寝顔だった」
「へ?」
「あ、うん、何もしてないから安心して。可愛かったのは本当なんだけど……」
彼の必死の否定に、何もないのは分かったけれど、私は顔が熱くなるのを止められなかった。狭いブースの中、私達はそっぽを向き合い互いの顔の熱が引いていくのを静かに待った。
どさくさに紛れて、私は後ろを向く柊人の背中に自分の背中をそっと凭れさせる。今度は私達の間に壁なんて無いから、彼の体温が直接伝わってくる。
駅の方から始発電車が発車する音が聞こえてきたが、私達はこのままもう少しだけと背中をくっつけ合ったまま動かなかった。



