雲の泡沫




「クルレーってほんと意地悪」
 ジト目で文句を言う実南に、クルレーはまだ微かに肩を揺らしていた。
「だから言ったろう? 水の精は悪戯好きだから気を付けろって」
「もう。……まぁ、素敵なものを見せてくれたから、今回は許す!」
 実南は何故か得意げに胸を張る。
「……変なの」
「それよりも! 水の精の主な仕事って、さっきの浄化?」
 クルレーの反応を気に留める素振りも無く、話し続ける。
 彼は考えることを辞めた。大人しく彼女の質問に答えることにしよう。
「川とか海を担当している水の精はそうだね。住居担当の精たちは、水を生み出し送り込むのが主な仕事」
「へー!」
「ボクだってあれが全ての仕事じゃないからね。他にも川の生物の調査したり、バランス保ったり、植物の精と協力したり……色々やってるの」
 少し不満げに言うクルレー。
 けれど話を聞けば聞くほど、実南の頭は好奇心でいっぱいになる。今まで知らなかった世界で、こんな心踊ることが行われていたなんて。ファンタジー映画の中に入り込んでしまったようだった。
「クルレーすごい! 魔法使いみたい!」
 水にも負けない純粋な瞳で、クルレーを見つめる実南。
「……悪い気はしないね」
 返事はやっぱり偉そう。
「水の精って、みんなクルレーみたいな性格なの?」
「それはどういうことかな?」
 ニコリと笑顔で聞き返すクルレーだったが、彼の額には青筋が浮いていた。どこか朱里を思わせる雰囲気に、身体が緊張する。
「はぁ……そうだね。基本的に水の精はみんな同じだよ。悪戯やからかいが大好き。本心は言わない見せない。だから、水の精同士はお互い関わらない。相手にするのが面倒だからね」
「じゃあ誰に悪戯するの?」
「他の精霊や、君みたいに迷い込んだ人間に仕掛けるんだよ」
 とても楽しそうに笑みを浮かべる。
 その表情に実南は不満げになるが、どうしても彼を嫌いにはなれなかった。
 水の精という生き物の特性がそういった性格なら、人間である自分は何も言えない。それに、意地悪で上から目線だけど、きっとクルレーは根底から酷い人では無いのだと思う。
 そのことに気付いた実南は、なんだか目の前の少年が可愛い弟のように思えてきた。一人っ子の実南にとって、弟という存在は嬉しいもののようだ。


****


「それで、他に見てみたいものはある?」
 暫くお互いのことを語り合った後、クルレーが実南に問う。
 水面都市の話や、水の精の話を聞いた。自分の話も沢山した。来るときに体験した周囲の人たちの異様な対応は、彼が見せた幻覚だということも知った。喜ぶと思ったらしい。ついでにいうと、実南が全然気付かなかったことも馬鹿にされた。酷い話である。

 そんな中、実南は大好きな空のことを思い出す。ふとあの綺麗で広い空を、立体的な雲を、眺めたいと思い始めたのだ。
「もう一度あの高台に行きたい!」
「良いよ。連れて行ってあげる」
 彼について行き建物の外に出る。空を見上げるが先程と何ら変わりない。青い幻想的な都市に、揺らめく淡い光が差し込むばかり。そこに雲の姿は目視出来ない。
 中学生の頃から空を見上げることが大好きだった実南。ほぼ毎日眺めていたのだ。そろそろあの空が恋しくなってきた。
 どこもかしこも雲を眺めることは出来ないが、時間が経った今なら、もしかしたら高台で夕焼けくらいは見えるのでは無いか。実南はそんな期待を胸に秘めていたのだ。……恐らくこの感じだと、期待通りにはいかないように見えるが。


****


 水の精に沢山の悪戯を仕掛けられる中、なんとか高台に辿り着く。
 クルレーがフォローしてくれたが、足を引っ掛けられたり、少量の水をかけられたり……地味に嫌な悪戯を仕掛けられた実南は息も絶え絶えになっていた。
「水の精って、なんでこんなに悪戯好きなの?」
 呼吸を整えながら聞く。
「楽しいからさ!」
 出会ってから一番の笑顔で言い切るクルレー。
「それに、嫌なことから助けられたら、その人を完璧に信じ切るだろう?」
 人間でいう吊り橋効果ってやつ?
 彼はそう話すが、いまいち実南には何が言いたいのか理解出来なかった。
 楽しそうなクルレーを余所に、実南は高台の柵側に駆け寄る。そして空を見上げて一言。
「やっぱり、ダメか……」
「何が?」
「ここなら、夕焼けが見られるかもしれないって思って」
 でも駄目そうだね。
 少し落ち込みながら呟く。
「ま、ここはある意味別世界のようなものだからね」
 上から光は差し込むが、それが本当に太陽や月の光かも分からない。この都市には時間だけでなく、天気という概念も無いのだろう。

 それを理解すると、実南は途端にこの世界が窮屈なものに感じられた。
 クルレーは意地悪だけど一緒にいて楽しい。水面都市は幻想的で綺麗で、言葉に出来ないくらい美しい場所だ。けれど彼女にとって、広い空と様々な顔を見せてくれる雲が全てなのだ。それが見られない場所にはいられない。後ろ髪を引かれる思いだが、ここでお別れかもしれない。
 実南は一度深呼吸をして、クルレーに向き直る。
「クルレー、あのね」
「何?」
「私、帰ろうと思うの」
「なぜ帰りたいの?」
「雲が好きなの。特に立体的な雲が」
 何かありそうな感じがするでしょ?
 そう言いながら楽しそうに笑う実南は、どこまでも真っ直ぐで眩しかった。
「ここだと、何も見えないから。だから、帰りたいなって」
「雲? やめておきなよ。あんなところを好きになるなんて」
「なぜ?」
「君は、あそこの精がどんな奴らか知らないから、呑気でいられるんだよ」
「雲にも精霊がいるの!?」
「あいつらは柔らかく何でも肯定して、絶対に否定はしない。人を駄目にしちゃうんだ。そんなのいけないことだろう? 雲の中にも都市があって精霊がいるのは本当だけど、好きになるのはやめておくんだね」

 本当に、夢見ていたように、雲の中にも都市があるなんて思わなかった。
 実南は開いた口が塞がらない。
 早くあの橋から、雲を眺めたい。どんな都市か想像させて欲しい。
「……どうせならボク(水の精)に溺れれば良かったのに」
「どういうこと?」
 つい妄想に耽っていた実南は、彼の言葉を深く理解するのが難しかった。
「何でもないさ」
「そっか。あと、学校のテストとかもあるの。だから帰りたい。お願いクルレー」
「はぁ……良いよ。あんまり引き留めても悪いしね」
 意外と呆気ない。というかクルレーが帰り方を知っていて良かった。よくある話だと、帰り方を探すために冒険に、なんてこともある。一先ず安心だ。
「でも、また悪戯を仕掛けられたくなったら来なよ。水のある場所で、ボクの名前を呼んでくれれば良いからさ」
「悪戯は嫌だけど……分かった!」
「それじゃあ、また会えることを願うよ」
「うん」
 目を瞑って。
 その声に従い、その場で瞼を下ろす。
「————次目覚めたときには、君はきっといつも通りの日常に戻っているはずさ」
 クルレーの透き通った声を最後に、実南の意識は奥深くへと沈んでいった。