「やあ、ここは水面都市だよ」
水のように透き通ったボーイソプラノ。中性的な声が実南の耳に響く。軽くて、少しハスキーな声だった。
「周りを見てごらん」
知らない人物の声に困惑するが、つい言われた通りにしてしまう。
顔を振り、変化した世界にゆっくりと視線を移した。先程まで駅のホームだったそこは、その影もなく全く違う風景になっている。
全体的に青い雰囲気。漆喰を塗ったような白い建物が並び、壁には温かい光を灯したランタンがかかっている。青く薄暗い雰囲気に太陽の存在は感じられず、上を見るとまるで水面のように揺らめいていた。向こうの景色はぼやけていて鮮明には確認できない。
その様子に水中にいるのではないかと錯覚してしまい、慌てて足元に目を向ける。靴の下には白い石畳が広がっており、実南は安心した。
顔を上げ改めて周りを見る。
実南は狭い路地のような場所にいた。左右には白い家が所狭しと並んでいて、後ろは行き止まり。木箱や樽などが重なっていて通れそうもない。前を見れば、ここよりも少し明るい広い道に繋がっているようだった。
どれだけ見渡しても、この場所に見覚えはない。一体どこなのだろうか。そして先程の声は?
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場所も分からない、声の正体も分からない。実南は一先ず明るい方へ歩みを進めようとした。が、一歩踏み出した途端、肩にひんやりと冷たい手が触れた。
「わああっ!!」
驚きと冷たさに身体中が震え上がる。つい声を出してしまったのは仕方の無いことだろう。
つんのめりながらも距離を取り、慌てて後ろを振り返ってみるとそこには子どもが立っていた。子どもといっても見た目は十六歳程。
身長は実南より少し高い程度。肌は白く透明感がある。サラサラとした水色の髪と、キリッとした青い瞳はこの世界同様水を思わせるものだった。
少年か、少女か……未だ判別は出来ないが、その子どもの口が弧を描いていることだけは分かった。
「やあ、ここは水面都市だよ」
先程と同じ言葉を同じトーンで話す。では、声の正体はこの子どもということ。一体どこに隠れていたのだろう?
「あ、貴方は……」
「ボク? 名乗っても良いけど、尋ねるときはまず自分から名乗るべきじゃない?」
相変わらず口には笑みを浮かべたまま。
見た目は子ども故に怖さは無いが、どこか異様な雰囲気を纏っている。
「えっと……私は小鳥遊実南」
「実南。うん、実南ね」
その名を咀嚼するように何度も呟く子ども。やっと知ることが出来た、と言わんばかりの表情だ。
「それで、貴方の名前は?」
「ボクはクルレー。水面都市に住む“水の精”さ」
「水面都市? 水の精?」
知らない単語ばかりで、実南は首を傾げる。
「歩きながら教えてあげる。君が知りたいのであればね」
何とも掴めない性格だ。親切なのか、不親切なのか。とりあえず素直でないことは確実だろう。
実南と、クルレーと名乗った子ども……見た目からして恐らく少年、いや青年と呼ぶ方が適切だろう。実南とその青年は並びながら、路地の先に続く明るい広い道へと出た。
路地から抜けると上からの淡い光とランタンの炎により、周りが少し明るく照らされる。
開けた道の両側にはやっぱり白い建物が並んでいた。地面に足を向けると、白い石畳の真ん中が細く窪んでおり水で満たされている。ずっと続く溝は、恐らく水路だろう。
青い幻想的な景色に実南は目を奪われた。
ここがどこで、クルレーは一体誰かとか、そんなことはどうでも良かった。ただ純粋に、この景色に見惚れていたかったのだ。
「綺麗だろ? ボクが連れてきたんだよ」
「クルレーが? どうやって?」
「水の精にとっては簡単なことさ」
歩みを進めながら答える。質問の内容には答えていないのだが。
「どこに向かっているの?」
「どこにも」
「え?」
「君が行きたいとこに連れて行ってあげる」
そんな無茶な。ここがどんな場所かも理解出来ていないのに。
「ここは、どんなところなの? 水面都市って何?」
歩みを止めず、首を振りながら実南は問う。
「質問が多いねぇ。でも良いよ。今ボクはとっても気分が良いから、説明するよ」
軽快な口振りで話し始める。
「“水面都市”。名前の通り水の中に存在する都市さ。そこで働いているのが、ボクたち水の精」
「水の精って?」
「ボクみたいな奴のこと」
「答えになってない……」
さっきから質問してもしても答えは返ってこない。のらりくらりしてばかりだ。
「水の精は、君たち人間が水を使うときに……ん〜、手伝う役?」
「手伝う役?」
質問したら、また疑問が生まれた。
あまり考えることが得意でない実南は、視線は景色に向けたまま必死に頭で考える。
うんうん唸っていると、クルレーの声が消えたことに気付いた。周りを見渡しても誰もいない。今まで目の前を歩いていたクルレーの存在が、パタリと消えてしまったようだった。
「クルレー? どこにいるの?」
声をかけても応えない。知らない世界でたった一人になってしまったことを自覚した。
いくら好奇心旺盛でいつも明るい実南でも、流石に焦りと恐怖を感じる。
「クルレー! どこー! 返事して!」
「実南!」
先程まで聞いていた声が耳に入る。後ろを見れば、そこにはクルレーの姿が。白い独特な衣装を振って、こちらに走ってきている。
「良かった。こんなところにいたんだね」
「……吃驚した。急にクルレーがいなくなるから」
眉を八の字にして俯きながら呟く。
「ごめんね実南。水の精は悪戯好きなんだ。きっと他の水の精が、ボクたちを離れ離れにしたんだよ」
「そんなことが出来るの?」
「水の精は、悪戯に繋がることならどんな能力だって身につけるよ」
可哀相に。クルレーは実南の手を握りながら慰める。終いには頭を撫でてきた。
初めて感じる孤独感に恐怖を感じ、実南はついクルレーの慰めを受け入れてしまう。独りぼっちの実南にとって、クルレーは既に兄のような存在になっていた。
彼が、どんな表情をしていたのかも知らないで——。
