「うそ……」
 伸ばした腕を力無く下ろす。
 戦いや浄化は続くのに、実南の時間は止まっていた。

 好きだと気付いたから。そばにいたいから。だから、雲海都市に来たのに。
 会えて話せたのはあの僅かな時間だけ。
 結局自分は無力で、何も出来ないままグラースを失った。
「話したいこと、あるって言ったのに……」
 喪失感に開いた目が閉じない。
 呼吸が苦しい。あんなに一瞬で命が奪われることに、実南は吐き気を覚えた。

 俯いて浅い呼吸しか出来ない実南。
 そんな姿を見たクルレーは大きな声で叫ぶ。
「実南! ちゃんと見て!」
 彼には珍しい必死な姿に、実南は顔を上げた。

 視線の先には変わらず大きな陽龍。
 しかし今までと違うのは、その真っ黒な巨体をムズムズと動かしていること。まるで魚の骨が喉に引っかかっているようだ。
 ムズムズと言っても、実際の動きはそんなに可愛いものではなく、必死に体を振り回している為その衝撃が四方八方に広がる。
 実南の乗っている舟も大きく揺れ、飛び散る瘴気に視界が塞がれる。

 なんとか腕を顔の前に動かし、その姿を見逃すまいと思っていると、突然それは起きた。
 陽龍の胴の部分が急に膨らんだ。丸い形に膨らんだ胴は、今にもはち切れそうにしている。ホースを足で踏んづけたときのようだ。

 苦しいのか、咆哮もより低く大きなものになる。絞り出したような声に鼓膜が破れそうだった。
 そしてこれ以上膨らまない、となったとき、陽龍の体は弾け飛んだ。パッと花火が咲くように周囲へ広がり、細かくなった陽龍の体は塵となって消えていった。

 その瞬間、他の陽龍たちも煙のように消えていく。
 黒い靄だけが漂い、龍の形は跡形も無くなった。ただ薄暗い場所に、禍々しい霧が立ち込めているだけ。先程までの恐怖は無くなっていた。

 弾け飛んだ龍のいた場所を見ると、ボロボロのグラースの姿が。
 彼は水のクッションの上に横たわっていた。
 クルレーは器用に彼を舟の上に運び、そこへ寝かせてあげる。
 実南も雲の精に頼み、舟を近寄らせる。
 今度は静かに足を下ろすと、目に入ったものは肌や髪、服の一部が紫色の痣に覆われているグラースの姿だった。

「グラース! どうして……」
「浄化を早く終わらせる解決策を、ボクに提案してきたんだ」
 苦しそうに唸るグラースの手を握りながら、クルレーの話を聞く。

「実南がボクを呼んだお陰で、水の精は簡単に雲海都市へ辿り着くことが出来た。でも陽龍の邪悪化、巨大化のせいで水の精がこっちに来ても直ぐには浄化が終わらないことが、彼……グラースは分かったみたい」
 彼の呼吸は浅くつらそうなものになる。
「それと、あの一番大きな陽龍が本体……つまり、邪悪化した太陽の欠片がくっついて生まれた陽龍だって、分かったんだ。他のやつはそいつから生み出された、ただの瘴気の塊。自我は持っていたけどね」
「本体……」
「そう。だからそいつを浄化しちゃえば、他のやつも消えるんじゃないかって予想。それで一気に浄化するために、わざと体内に入って内側から浄化の力を放散したんだ。結果的には上手くいったけど……」

 そう話しながら、クルレーもグラースへと視線を向ける。
 肌は変色し、顔色も悪い。髪や衣装は、真っ白から徐々に濃い紫へと染まっていった。

「ねぇ苦しそうだよ! これ、どうしたの!?」
 つらそうに呼吸をする彼を見て、涙を浮かべながら焦ったように問いかける。
「……瘴気に染まりすぎたんだ。近くで大量の瘴気を身に受けた。そのせいで、自分も邪悪化しそうになっているんだ」
「それなら、浄化すれば良いんじゃない? それならすぐ治るよね……?」
 ほぼ願望のような聞き方に、クルレーは視線を落とす。他の雲の精たちも、気不味そうな表情を浮かべた。
「どうして……」
「精霊はお互いに浄化し合うことは出来ないのさ。だから、こういうときは……」
「こういうときは?」
 言いにくそうにするクルレーに、答えを促す。
「ボクたちを生み出した精霊王が、その身に還してくれるんだ。でもそれは、精霊として存在しなくなるってことで……」
「うそ……」
「グラースはもう、この姿を留めてはおけない」
 それは、つまりグラースが消滅してしまうことを意味していた。

 実南はグラースに視線を向ける。
 凄く苦しそうで、出来ることなら直ぐにでもその症状を治してあげたいが、その方法が消滅することだなんて。一番頑張った筈なのに、その扱いは酷いものだ。

「グラース……!」
 近くに座り、涙を流しながら何度も名前を呼ぶ。
 その声に反応し、グラースは手を握り返しながら震える声で喋り始めた。その表情は真っ青だったが、笑みを浮かべていた。
「大丈夫……雲はね、小さくなって、消えて、また生まれる……っ。だから、大丈夫、だよ」
 苦しいのを耐えるグラースの姿は痛々しいものだった。
「じゃあ、また会えるの?」
 震える声で問う実南。
「それは分からないんだぁ……」
 弱々しい笑みを零す。
「どんな姿で、どんなところにいるか。それは……僕にも、分からない」
 グラースの言葉に、実南は顔を歪めてしまう。
 折角出会ったのに。ここでお別れだなんて。

「いやっ! そんなのやだ!」
 鼻を啜りながら、駄々をこねる子どものように首を振る。
「……実南」
「なに……っ! グラース!」
「僕、実南に会えて良かったよっ……。ありがとう。大好き————」

 その言葉を最後に、グラースは小さな光の泡となって空の彼方へと消えていった。
 最後の声は消え入りそうなくらい小さかったが、変わらず笑みを浮かべ、実南に向けて放ったものだった。

 先程まで彼の体温が残っていた舟の上には、もう実南とクルレーしかいない。
 衣装も残さず、彼は旅立ってしまったのだ。

 その後、雨や浄化によって白く普段通りの景色になったそこでは、実南の悲しい声だけが響いていた。