初めて死を覚悟した。
 迫ってくる黒い口が、ゆっくりに感じた。
 初めて、走馬灯というものを見た……。

 小さい頃の思い出から最近のことまで全て。
 脳内に巡り巡って流れる。一つの映画を観ているような心地だった。

 死ぬのは怖い。でも、グラースが危ないと思ったら、体が勝手に動いていたのだ。後悔はしていない。大丈夫。
 心残りがあるとすれば、家族や幼馴染のこと。
 無事に帰ると言ったのに。ごめんなさい。
 水の精のクルレーも。折角仲良くなれたのに。

(お母さん、お父さん。あか、ゆり……クルレー、グラース————)

 震える体を律し、なんとか立ち続けようとする。
 怖さに目を瞑ってしまう。その瞬間、

 ビシャッ!
 大きな水の音が聞こえた。立っていた実南にも少しかかる。
 驚きで目を開けると、目の前には小さくなった陽龍が……。

「え……」
「ふぅ……! 思い出すの遅すぎ。やっと辿り着いた」
 聞き覚えのある中性的な声。
 姿は水色を基調とするものばかり。

 現れたのはクルレーだった。

 雲の上に水面を広げ、その透明な扉から何人もの水の精が出てくる。
 クルレーによく似た水色の髪を揺らし、どんどんその人数を増やしていく。周りを見れば、他の場所でも同じように雲の上に水面が張られていた。

「なんで……」
「君がボクのことを呼んだんだろう?」
 雲の精よりも簡単に大量の水を生み出し、陽龍に向けて放つクルレー。
「雲海都市が危険だって聞いてたからさ、ボクらも向かうところだったんだ」
 確かに水の欠片を使って雲の精が雨雲から作り出すよりも、水を操ることの出来る水の精が雨を降らせる方がに簡単なのだろう。
「君がボクの名前を呼んだお陰で、君を介して直ぐに雲海都市へ辿り着くことが出来たんだよ。ま、着いた瞬間に君が襲われそうなのを見て、ボクの心臓はとっても痛いけどね」
 相変わらず意地悪そうに言うクルレー。
 けれど水を生成する手は止めず、沢山の水の精と協力して陽龍へ雨を降らし続けていた。

 水の精が辿り着いたことにより、雲の精は全ての者が浄化に手を付けられるようになった。
 雨雲の舞を舞っていた雲の精も、皆陽龍から距離を取り、舟の上で浄化の舞を舞い始める。

 水と光の輝かしい景色に目を奪われていると、急に腕を引かれた。
 後ろにいるのはグラースのみで、彼の方を見ると俯いている為よく分からないが、顔が真っ青だった。

「グラース?」
「あんな危ないことするなんて……」
「ごめん。でも、どうしても心配だったから。来ちゃった」
 悪戯っ子のような笑みに、グラースも怒るに怒れず、深呼吸をしたあといつも通りの間延びした声で話し始めた。
「……ありがとう。水の精たちが来てくれたから浄化出来そうだよぉ。僕も頑張ってくる」
「うん! 気を付けてね」
「勿論。実南は危ないから後ろの雲の精の舟に乗ってね〜」
「でも……」
「お願い。あと、浄化が終わったら言いたいことあるから、僕のこと待っててね」
 あまりにも真剣な表情で言うものだから、実南もつい頷いてしまう。


****


 その後、実南が他の雲の精の舟に乗ることを確認したグラースは舟を動かし、陽龍の近くに寄る。
 いくら弱っているとはいえど、やはり瘴気や陽龍の攻撃は身体につらいものだった。

「ちょっと」
「僕、今、浄化中なんだけど……っ」
 陽龍の噛み付きや振り下ろされる尾鰭の攻撃を防ぎながら、クルレーはグラースに声を掛ける。グラースは浄化の舞を舞っている途中なのに、だ。
「君も実南がお気に入りなの?」
「……お気に入り。そうだね。よく分からないけど、僕は実南とずっと一緒にいたいと思ってるよ」
 舞を止めることなく、穏やかな表情で言い切るグラース。
「だからね、実南の好きな空や雲を守る為に、早く浄化したいんだ。それで——————」
 その提案を聞いたクルレーは目を見開く。

 既にグラースは、瘴気によって身体中が紫色の痣のようなもので蝕まれていた。
 物凄い痛みを伴って広がるその痣に、グラースだけでなくクルレーも顔を顰める。
 瘴気に侵された精霊は、気配が変わるのだ。その為他の精霊からはよく分かった。白い衣装で隠れているので、実南には気付かれていないけれど。

 そんな中伝えられた言葉。
 内容は酷いものだった。クルレーは腹が立った。けれど“雲の精”として望む姿に心を動かされ、彼も決心する。
「ボクは何があっても知らないからね!」
「大丈夫。約束があるからねぇ」

 その言葉と同時に二人は動き出す。


****


「何をする気……?」
 前線から少し離れた別の舟から二人を眺める実南。
 周囲の瘴気は薄まり、息苦しさも消えた。陽龍が目に見えて弱っていることは人間である実南にも理解出来た。

 雲の精と水の精が二人一組ずつになり、舟の上から協力して攻撃と浄化を繰り返している。
 そんな中、クルレーとグラースだけ他の精霊たちたは異なる動きをしていた。

 クルレーが大きな水の球を作り出す。シャボン玉のような真ん丸の球だ。
 それは人ひとりが入るほどの大きさだった。
 水で出来たその球は、人間が入ったら溺れてしまうだろう。

 球はある一定の大きさになると膨らむのを止め、そのまま彼らの目の前で浮遊する。
 するとグラースが舞を舞いながら、その球へと近付いた。
「え?」
 声を掛ける暇なく、彼は水の球へ入っていく。
 球の中も水が満たされているであろうに、それでも舞は止めなかった。

 水の球に入ったグラースは、そのまま浄化の美しい光を纏いながら陽龍のすぐそばにまで寄る。

 近寄った陽龍は、他の個体よりも少し体が大きかった。
 毒々しい霧を纏い、その黒い巨体で浄化を続ける雲の精たちを攻撃する。避けても多少は攻撃が当たってしまうようで、雲の精と水の精たちは切り傷が目立った。

 そんな、他の個体より大きい体をした陽龍のそばにいるグラース。
 彼は水の中でも舞を続け、どんどんと輝かしい浄化の力を球の中に込める。水が太陽に反射しているように、キラキラしていた。
 その彼に気付いたのか、陽龍はグラースの方に顔を向け、大きく口を開ける。

「ダメ————っ!」
 舟から身を乗り出して実南は手を伸ばす。
 後ろで雲の精が落ちないように服を引っ張っているが、そんなのは関係無い。
 今、目の前でグラースが飲み込まれたのだ。水の球ごと、あの大きな恐ろしい口の中に入っていった。