広い広い戦いの地で、実南を乗せた舟は水の欠片を補充し終えた。
物凄いスピードで舟の間や陽龍の攻撃を避けながら、木箱に積まれた水の欠片を全て分配したのだ。
他の雲の精たちも全て配り終えたようだった。
ここから再び浄化に力が入る。
ここにいる数十名を超えた雲の精誰もがそう思った瞬間。地を這うような、それでいて大きな雄叫びが響き渡った。
あまりのうるささに実南は耳を押さえる。雲の精たちも体を震え上がらせていた。
そんな彼らをお構い無しに、雄叫びを上げた陽龍たちは、動きをより一層速いものとした。
龍が雲の海をのたうち回っている。その体は大きくなり、折角薄くなった瘴気は再び毒々しい色へと変化した。
何が起きたのだ。
今から倒せそうな雰囲気だったではないか。
何人もの雲の精がそう思った。
その隙を見逃さないのが陽龍。
太さだけでも二メートル程で、長さは四十メートルはあるだろう。
そんな巨大な黒い龍が何頭も暴れている。
放心状態の雲の精は、そんな陽龍にあっという間に飲み込まれてしまった。
「へ……」
時が止まったように感じた。
目の前で、雲の精が陽龍に食われたのだ。
大きな口を開け、吸い込むようにして雲の精を腹へと含む。
圧倒的な大きさの前では、何もかも本当に無力なのだ。アリを小指で潰すように。それくらい簡単で単純なことなのだ。
「退避ー!!!!」
どの雲の精の声だっただろうか。
その言葉に意識を浮上させた実南は、込み上げる吐き気を無視してグラースがいた場所に目を向けた。
彼は未だそこで浄化の舞を舞っていた。
グラースだけではない。同じような位置に舟を浮かせる何人かの雲の精たちは、彼と同じように舞い続けていた。
瘴気の苦しさやかすり傷などにも目もくれず、彼らは堂々と舞っていた。
彼らのそばには雨雲を生成する雲の精たちが。
水の欠片が足りない中でも、陽龍が大きくなった中でも、雲の精たちは諦めなかった。
よく見てみれば、他にも精霊の力でバリアのようなものを作り出し、なんとか陽龍を抑え込もうとしている雲の精もいる。
混乱の中でも、雲の精の編成は崩れていなかったのだ。
陽龍と雲の精の抑えつけ合いが拮抗している間に、水の欠片を補充しに来た雲の精たちは散っていった。これは決して逃げているわけではなくて、応援を呼ぶ為に色々な雲海都市へ移動しているのだ。
「逃げるよ!」
同じ舟に乗っていた雲の精も実南に伝える。
「陽龍が邪悪化したんだ。このままじゃ全滅しちゃう。応援を呼びに行くよぉ」
「待って! 迷惑かけてごめんなさい。でも私は逃げない。お願い……あの舟の近くまで連れて行って」
彼女が指差す先はグラースが。
この戦いの地の前線ではないか。いくら陽龍が抑え込まれていても、邪悪化した陽龍に近付きたくない。
「お願い! ちょっと近付くだけで良いの」
泣きそうな顔で必死に頼み込む実南。
彼女からすれば、邪悪化した陽龍は怖いし、そこにグラースはいて戦い続けている。それがただただ恐ろしかった。
初めて目の前で、自分の大切な人が消えてしまうかもしれない。そういう恐怖心に襲われていたのだ。
「……分かったぁ。でも近くに行くだけだよ」
「うん! ありがとう」
親切な雲の精の運転のもと、実南は素早くグラースのもとへ向かった。
彼の近くは思っていたよりも陽龍との距離が近く、雲の精も実南もびくびくしていた。
「あと、少し……」
雲の精が震える手で舟を動かしていると、
「グォォォォッッ!!!」
バリアによって抑え込められていた陽龍が鳴き声を上げた。
その瞬間、再び陽龍の体は巨大化し、バリアにヒビが入ってしまう。
一瞬の出来事だった。けれど実南にはスローモーションに見えていた。
バリアが高い音を上げて割れたと思ったら、その衝撃で何人もの雲の精が吹き飛んだ。
雨雲を作っていた雲の精たちも、同じように飛んでいく。
浄化をしている雲の精たちは、それでも尚舞を止めなかった。けれどバリアを破った邪悪な陽龍の一頭が、グラースの眼の前に顔を突き出したのだ。
そして口を大きく開けた。先程の出来事がフラッシュバックする。あのままではグラースは吸い込まれてしまう——。
「そんなの、だめっっ!!!!」
大きな声を上げ、実南は乗っていた舟の床を蹴った。
二メートルあるか無いかの隙間を飛び越え、何とかグラースの舟に飛び乗る。
聞き覚えのある声と、重さによって揺れる舟に驚き、グラースは舞を止めた。
「……っ!」
そして一番に目に入ったのは実南の後ろ姿。
グラースを庇うように両手を広げながら、その視線は目の前の陽龍に向けられていた。
背中や腕は震えている。呼吸の苦しさが揺れる肩から伝わる。
「実南……?」
「グラースは私の大切な人なんだから! 殺させてなんかやらない!!」
瘴気で呼吸は苦しい。目だって本当は痛くて開けられない。
目の前の陽龍は禍々しい雰囲気を纏っており、凄く怖い。今直ぐにでも逃げ出したい。
けれど退くことは出来ない!
グラースを守りたいという一心で、実南はその手を下ろすことなく立ち続けた。
しかしそれで逃げてくれたら苦労はしない。
陽龍は再び実南の目の前で空気を揺らし、その大きな口を開けた。
目の前で見る陽龍の中は、先が見えない真っ暗闇で恐ろしかった。ブラックホールのような、想像もつかない虚無感。それと似た恐ろしさが今目の前を覆っている。
(あ、死ぬ————)
