振り落とされそうなスピードで進む舟が、再び落ち着いた。
辺りを見てみると陽龍はいないものの、周囲の空気や息苦しさは先程よりも苦しいものへと変わっていた。
舟を包む光しか見えず、本当の真っ暗闇に包まれる。
毒ガスのような霧は吸う度に苦しく、普通の呼吸が出来なかった。
実南はハンカチで口を押さえながら、反対の手で必死に舟にしがみついていた。
「本当にこの先もついてくるのぉ?」
そんな実南の姿を見て、舟の前に乗っていた雲の精は振り向きながら問う。
「ここから先はもっと大きな陽龍がいるし、人間には苦しいと思うよぉ」
確かに怖い。これ以上に苦しいなんて耐えられないかもしれない。
けれどここまで来たなら諦められない。
「大丈夫。邪魔はしないから、連れて行って欲しい」
「邪魔では無いけど、気にせず舟動かすからねぇ」
「分かった。頑張る……」
苦しいながらも彼の問いに答えた実南。
その必死な姿に感動すると同時に、これからのつらさに顔を歪めた。
この先はもっと陽龍に近付く。瘴気も濃くなるし、陽龍に襲われる可能性も格段に上がる。雲の精ですら苦しさを我慢するのに精一杯なのに、この状況に慣れていない人間がその空間に入ったらどうなってしまうのか。
それは誰にも知りようがなかった。
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「行くよぉ!」
周りの舟の動きに合わせ、スピードを上げてより一層黒い靄の方へと進む。
靄の正体が濃い瘴気だと理解しているからこそ、靄に入っていくときについ息を止めてしまう。
進み続けていくと、耳を劈くようなあの恐ろしい鳴き声が脳を揺らす。
その衝撃と驚きにより、実南はハンカチ越しに息を吸ってしまった。幸い噎せることは無かったが、喉は焼けるように熱く、目からは生理的な涙が溢れる。風邪を引いたときのような症状だ。
それでも尚舟は進み続けた。
未だ鳴き声しか聞こえない陽龍だが、確実にその距離が近付いていることは分かる。
囲み泳ぐように自分の周辺全てに陽龍が存在しているようだった。四方八方から獣のような声が聞こえ、この世界に自分一人しかいないようにさえ感じた。
あまりの恐怖に目を瞑る実南。
すると突然、周囲の空気が和らいだような気がした。
森の中のような清々しさにより、呼吸が幾分か楽になる。
陽龍の存在は体全体でヒシヒシと感じていたが、空気の変わりように実南は目を開ける。
視界に入ったのは開けた場所だった。
雲の色は黒や紫のままだが、漂う瘴気の色は薄い。陽龍こそいれど、何十隻の舟からの光により、この空間だけは少し明るくさっぱりとした空気だった。
恐らく浄化と雨雲の舞を舞っている雲の精たちのお陰だろう。
実南はハンカチを当てるのをやめ、舟の上からグラースの姿を探す。
けれど広い場所、その上この人数の中から探し出すのは大変だった。
「グラース! グラース!」
大きい声で名前を呼ぶが、陽龍の鳴き声で全てかき消されてしまう。
ましてやこの舟は水の欠片を補充する為のもの。
他の雲の精が乗っている舟の近くを通って、素早く欠片を渡す。故に舟は動き続けているのだ。その中から探すなんてとても大変だ。
しかし実南は諦めなかった。
瘴気で目が痛かったけれど、瞬きさえも惜しんで探し続けた。
「え……」
すると舟の動きとは逆側に、その姿はあった。
白い髪も衣装も所々汚れているが、実南には分かった。
あの雲の精はグラースだということが。
「グラース!」
精一杯大きな声を出すが見向きもされない。
恐らく声が届いていないのだろう。折角ここまで来たのに。なんともどかしいことだ。
そうこうしているうちに、彼から舟が離れていく。
「待って! お願い、あそこまで戻って!」
座る雲の精に声を掛ける。
しかしそれは難しい望みだった。
なぜなら、グラースのいる場所は戦いの前線といわれる場所だったからだ。
どの場所よりも陽龍からの攻撃が多く、それを避けたとしても瘴気の影響が強い。
「お願い!」
叫び声にも近い声で頼み込む実南。
「無理だよぉ! 近付き過ぎちゃう」
舟はグラースのもとから離れ、いくつもの舟へと欠片を補充しに向かう。
その間も彼女は、グラースの舟を見失わないようにしていた。
