「おはようございます! 今日も遅れてすみません!」
朝。天気は晴れ。故に実南はいつも通り、近所の橋から綺麗な空を眺めてから駅へと走って来た。彼女の額にはうっすらと汗が流れている。
駅に着き、改札から階段までも小走りで進む。ホームの少し開けた場所には、いつもと同じように幼馴染二人が待っていた。
前記の言葉を発するも、その後のいつも感じられるピリッとした空気感は生まれない。
今日は朱里が怒っていないのだろうか?いやいや、そんな筈は無い。いつもおっかない顔をして待っているではないか。
「あのー……」
「全く、仕方ないわね。急いで来たみたいだから、許してあげる」
眉間に皺を寄せず普段と変わらない表情で言い放つ朱里。所謂真顔というものだ。
ちらっと駅の電光掲示板の時計を見るが、昨日と同じ時間。更に言えば一応いつも急いで来ている。今日は今までと何も変わりはない。
しかし朱里の反応はどうだろう。なんだかとっても甘い気がする。
「今日は、なんか……優しい?」
「は? 何、厳しい方が好きなの?」
おっと。なんだ、やっぱりいつもと変わらないじゃないか。
少し感じた違和感に頭を捻るも、気のせいだろうと深く考えることは止め、実南たちは到着した電車に乗り込んだ。
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「さてと、今日の一時間目は……」
あまり怒られなかったことに鼻歌を零しながら、いつも通り授業の準備をする。
「やば!」
朝、鞄が軽いと思った。それもそのはず。今日は体育着を忘れていたようだ。
授業で使う教科書は入れた。提出予定の課題も入れた。しかし体育着は無い。今日、体育の授業があるにも関わらず、だ。
「何? 今日も何か忘れたの?」
狼狽える実南に目敏く反応する朱里。その視線は獲物を狙う鷹のようだ。
実南はきつい口調に肩を揺らした。朝の優しさはどこへいってしまったのだろうか。
「た、体育着を、忘れました」
何を言われるのだろうか。びくびくしながら次の言葉を待つ。
「はあ……」
耳に入る重い溜め息が聞こえ、実南は朱里に視線を向けた。
しかし目に入ったのは、普段通りの朱里の姿。こちらが呆気にとられるくらい、纏っている雰囲気も怖いものではない。表情を見ても、怒っているようには見えなかった。実南は開いた口が塞がらない。
「そんなことだろうと思った。私今日二着あるから、それ使って良いわよ」
「へ?」
「嫌とは言わせないわよ」
嫌という訳では無い。驚いているのだ。
普段の朱里であれば体育着を忘れたことを注意し、紗由理に借りるか見学するかしろと言うはず。陸上部の実南にとって、体育の授業が一番好きなのだから。反省するという点では、見学させることが最も効果のあることであろう。それを朱里も分かっている。
しかし今日はどうだろう。
朝の遅刻も、体育着忘れも、大して怒られなかった。そればかりか、朱里が体育着を貸すと?明日は大雨通り越して雪でも降るのだろうか。
つい窓の外を見た実南の目には、広い青空と燦燦とした太陽しか映っていなかった。
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結局その日は、一日中周りの対応がおかしかった。
“おかしい”と一言で纏めたが、実南にとって最早恐怖であった。
朱里をはじめとした周囲の人物が、皆とても優しくて甘かったのだ。
朝の遅刻、体育着忘れ、授業中の居眠り、その他諸々。
ちょっとしたおふざけをするにしても、普段であれば朱里は呆れつつ厳しい口調で突っ込むし、紗由理は……紗由理は穏やかに微笑んでくれる、から今日もいつもと変わらないのだが。しかし朱里は今日、仕方なさそうに笑いながら褒めてくれたのだ!あの冷たい真顔を緩めて、暖かく笑顔を見せた。
勿論幼馴染故に、朱里の笑顔は何度も見たことある。小さい頃に比べれば機会は減ったが、今でも笑みを零すことくらいよくある。けれどそうだとしても、やっぱりおかしい。
先生も、他の生徒も、両親までも。
能天気な実南も流石に違和感を感じ、素直に喜ぶことが出来ないでいた。
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次の日。
昨日の異変に怯えながらも、いつも通りの日課を終え、駅のホームへ走る。そこにはやっぱり二人の幼馴染がいた。
うん、大丈夫。いつも通りだ。
「お、おはよう……」
「おはよう。相変わらず遅いけど、それも実南らしいわね」
「うんうん。丁度電車も来たみたいだし、乗ろうか〜」
昨日と同じだ……。
朱里も紗由理も怖く無い。怒らない。ここまで来ると恐怖しか感じられない。
実南は自分だけ違う世界に来てしまったような心地になり、つい辺りを見回してしまった。けれど周りの風景は、今までと何も変わらない。暑くて眩しい太陽。朝の混んでいる電車。疲れた顔をするサラリーマン。いつもと同じ。
「何してるの」
「早く早くー」
でも……
「何か、違う——」
まるで水滴が静かな水面に落ちたように、波紋が広がっていくように、実南の言葉が引き金となって世界が揺れた。
比喩でもなんでも無い。
周りの世界の時間が止まり、揺れながら形を変えた。色は鮮やかなものから白黒に変わり、揺れて全てがごちゃ混ぜになった。
酔いそうだった。自分が今どういう状態なのか、目まいを起こしているのか、真っ直ぐ立てているのか。もう何もかも分からなかった。自分を中心に、世界という波が渦を巻いているようだった。
——どれくらい経っただろう。
揺れが小さくなり、次第にまたもとの静かな水面に戻った。
けれどいつもの駅では無い。周りの風景は知らないものへと変化していた。色が戻っても、やっぱり分からなかった。
ここは、どこなのだろうか————。
