雲の泡沫




 親子は沈んでいく太陽に照らされながら家へ帰った。
 今日も早く帰宅出来た父波男と共に、三人で食卓を囲み、昨夜と同じ幸せを噛み締めた。

 食事後、実南は行動を起こすべく部屋に戻って携帯を手に取る。
 電話をかける。液晶画面には朱里のアイコンが。
 事前に連絡していないにも関わらず、彼女はコール二音目で出た。
「……もしもし」
「あ、朱里。えっと」
 自分の意志を伝えるとなると、つい緊張してしまう。
「何?」
 電話の向こう口からは不機嫌な声が聞こえた。
 不安になる実南だが、朱里も実はソワソワしていた。
 夕方にあれだけのことを言えば、恐らく実南から何らかの反応があると踏んでいたからだ。
「あのね、私、やっぱり雲海都市に戻ろうと思う」
「……」
 ゆっくり深い呼吸をした後、意志が伝わるようにはっきりと言葉を発する。けれど朱里からは何も返事が無い。
 怒らせてしまったか、若しくは聞こえていなかったのかもしれない。
「朱里? 聞こえてる……?」
「好きにしたら。自分で決めたことなら、私からは何も言わないわ」
 それじゃあ。
 そう言って早々に電話を切ってしまった朱里。
 伝えたいことは伝えられたのだが、いくらなんでも切るのが早すぎやしないか。
 朱里の真意は分からぬまま、次は紗由理のアイコンへと指が伸びる。

「もしもし? 紗由理です」
「実南だけど、今少し良いかな」
「良いよ〜」
 携帯越しでも癒される声。
 先程よりも少し落ち着いた状態で口を開く。
「私雲海都市に行くことにした」
「……そっか」
 僅かな間があったが、直ぐに返事をする紗由理。
「そうだね。実南ちゃんは、好きなことに真っ直ぐでいなくちゃ。分かった。じゃあ私たちは、実南ちゃんのこと信じて待ってるね。怪我だけは気を付けてね」
 次に聞こえたものは、実南の身を案じ心配する声。
「うん。ありがとう」
「どういたしまして。帰ってきたら課題頑張ろうね」
「うっ……はい」
「ふふ。それじゃあ、おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 穏やかな会話後、静かに電話は切れた。
 素敵な幼馴染を持ったものだ。
 自分の意志を伝えれば、それを受け入れて認めてくれる。これがどれだけ有り難く貴重なものか。今の実南には分かるような気がした。

「よし!」
 このままの勢いで家族にも伝えなければ。
 実南は、一階の居間にいるであろう両親のもとへ駆けていった。


****


「お母さん! お父さん!」
「どうした? そんな慌てて」
 お風呂上がりなのだろう。
 タオルで髪を拭きながらソファーに座る波男。
 由美はキッチンで食器の後片付けをしていたのだろう。実南の声が聞こえたら、そちらから出てきた。

 二人がこちらを見ている。
 緊張するが、由美の言葉を思い出し息を吸う。

「詳しいことはまだ言えないけど、私また何日か寝た切りになります。どうしてもやりたいことがあって、その影響で寝ちゃうけど、体調は平気! だから、だから……」
「良いわよ」
「え!」
 すんなりと返事をする由美に驚きの声を上げるのは、夫の波男の方だった。
 実南は呆気にとられて目と口が閉じない。
「自分で決めて、それをちゃんと事前に言ってくれたんだから良いじゃない」
「そうだけど……でも、お父さん耐えられるかなぁ。何日か実南と会えないんだろう? また仕事が手につかなくなっちゃうよ……」
「実南が行きにくくなることを言わない」
「はい……」
 実南が黙っているうちに話は進む。
 両親二人とも、思っていた反応では無かった。いや、由美は実南の背中を押した張本人だ。まだ理解出来る。
 しかし波男はどうだろう。普通なら寝た切りになることに対して何かを思う筈だが、そうでは無く会えないことへの嘆きを零していた。

「あ、あの……良いの?」
「そりゃあ凄く寂しいけど、怪我無く無事に帰って来てくれさえすれば良いよ」
 波男が穏やかに笑みを浮かべながらも、真剣な眼差しで言い聞かせる。
「好きなことを真っ直ぐ追い求めることが、実南の良いところなんだから。それを一番自由な時期に取り上げるのは、両親である私たちがして良いことじゃ無いよ」
 実南の頭を撫でながら、由美が包み込むように話す。

 二人の言葉に実南は涙が流れた。
 愛されて育っていることは知っていたけれど、こんなにも自分は愛されていたなんて。
 実南の瞳は涙でぼやけていたが、視線の先では由美と波男が穏やかな表情を浮かべていた。

 優しい両親を心配させたことへの罪悪感と、同じ行為をもう一度してしまう申し訳無さ。そして沢山の感謝を含んだ涙を袖で拭き取り、実南は二人に向き合った。

「ありがとう。絶対無事に帰って来る!」
「行ってらっしゃい」
「気を付けるんだよ」

 何処へ行くかも分からないのに、二人はそう声を掛けた。
 親というものは不思議な存在だ。子どものことは何でも分かるようだった。
 流石に別の世界に行くなんてことは想像していないようだが、そんなことは今関係無い。

 実南は幸せを抱き締めたまま、部屋に戻った。


****


 パジャマから制服へ。
 今思えば雲を眺めているときは、制服であることが多いような気がする。
 だからという訳では無いが、気を引き締めるため、勝負服として実南は着替えた。

 どうやって雲海都市に行けるか。
 確実なことは言えない。しかし実南には漠然とした確信があった。
 水面都市に向かったとき。そのときは夢を見ていた。会話をしていた気がするし、その相手はクルレーだったと思う。

 ならば寝てみるのが一番効果的だと言えるだろう。
 制服のままベッドに乗る。
 ふと窓の方へ視線を動かすと、カーテンが開いていた。
 そこからは静かな暗い夜空が見えた。薄っすらとした雲が漂っている。なんだか久しぶりに目にした雲だ。

「グラース……」

 ふわふわとした彼を思い浮かべる。
 早く会いたい。そばに行きたい。

 改めて決心した実南は、月光に当たりながら布団をかけ、夢の中へと入っていった——。



****


会いたい

どこにいるの?

グラース

私気付いたんだよ

お願い

どうか辿り着きますように

大好きな空のため

大好きな雲のため

大好きな君のため————