雲の泡沫




「はっ……!」
 目が覚める。目覚めの勢いで上半身を起こす。体が痛かった。
 はっはっはっと浅い呼吸を繰り返し、体中にかいた汗を感じる。
 喉に手を当てるが、もう痛みは無かった。けれど頭はあの苦しさを覚えている。一向に呼吸が落ち着かない。

 焦った気持ちのまま周囲を見渡す。
 見慣れた自分の部屋。水面都市に行く前から何も変わっていない。
 白や茶色を基調とした家具に、オレンジ色や黄色の小物。幼馴染三人で写った写真。間違いない。ここは現実世界の自分の部屋だ。

 戻って来てしまったのだ。自分だけ。助かってしまった。
「う、そ……」
 掠れた声が一人の部屋に落ちる。
 着ている服は制服ではなくパジャマ。した覚えのない着替えに頭痛がした。
 もしかしたら自分は、ただ長い夢を見ていただけなのかもしれない。水面都市も雲海都市も、そこで出会った精霊たちも、全部自分が作り出した想像なのではないか。普通に学校へ行き、家へ帰っていつも通り過ごして、寝るときに自分でパジャマに着替えただけなのでは。それで眠りについて、長い長い夢を見ていたのではないか。
 どこまでが現実か分からない。混乱と孤独感に、実南の心はぽっかりと穴が空いたような心地がした。

「……実南?」
 暫くぼうっとしていたら、部屋の扉の方から声が聞こえた。
 目線を上げ声のした方を向くと、いつの間にか扉は開いていてそこに一人の女性が立っていた。
 実南の母親だ。
「え、お母さん……?」
 彼女の瞳は見開かれ、驚いている様子が見て取れる。
「目を覚ましたのね!」
 涙を浮かべながら、部屋の中に走って来る。
 上半身だけ起き上がっている実南を抱き締め、その存在を噛み締めているようだった。
 実南は正直何が起きているのか理解出来なかったが、こんなにも母が嬉しそうに抱き締めるものだから、自身もその温もりに身体を預ける。
 安心したのか、少しの涙が瞳を潤した。


****


 暫く時間が経つと、ゆっくりと体が離される。
「どこか具合の悪いところは無い?」
「大丈夫。ちょっと体は痛いけど……」
 肩や腕、脚を動かしながら答える実南。
「そりゃそうよ。三日間も寝た切りだったんだから」
「嘘!」
「本当よ。熱は無いから病院には行かなかったけど、今日救急車を呼ぼうと思っていたんだから……っ」
 流れる涙を拭いながら実南の母親——名を小鳥遊由美(たかなしゆみ)という——は答える。

 由美の話によると実南は三日前……つまり、教科書や提出課題を忘れて朱里や先生に注意された日の夜から眠っていたらしい。
 その日は確かに下校して夜は家で過ごし、眠りに入った記憶がある。
 しかしそれ以降の日は水面都市や雲海都市に迷い込んでいた為、現実世界では眠っていたことになるのだろう。
 寧ろ眠っていた期間が三日間だということに驚きだ。

 精霊の世界……各都市は時間感覚が無い。故に詳しい時間は分からず体感でしか無いのだが、実南にとっては一週間程の旅のように感じられていた。まぁもしかしたら、時間の流れが異なるのかもしれないが。思ったよりも短い時間で助かった。
 けれど家族に心配をかけたのは事実。
 真実を伝えることは出来ないが、だからこそ彼女に謝りたかった。

「心配と迷惑をかけて、ごめんなさい」
「そうね……心配だった。声をかけても起きないし、寝返りも打たなくて。慌て過ぎていたから、実南の心臓の音を聞いたとき拍動が小さく聞こえちゃって。……気のせいなのは分かっていたけど、本当に吃驚したの」
 つらそうな母の姿に、実南はつい腕を引いて抱き締める。
 都市にいるときは眠っているだけと聞いていたけれど、まさか現実世界で三日も経過していたなんて思わなかった。もし知っていたら、のんびり都市を探検なんてしなかったはずだ。
 とはいえど「後悔先に立たず」だ。こんなこと今更思っても、もう遅い。
 実南は罪悪感で胸が苦しかった。

 流石母親と言うべきか。そんな彼女の様子に気付いた由美は、明るい雰囲気で口を開いた。
「だけど元気そうで良かった。お腹は空いてる?」
「うん」
「じゃあお粥持って来るから、水でも飲んで待ってて」
 枕元にペットボトルの水を置いて行き、由美はキッチンへ向かった。
 母親と話したことで落ち着いた実南。時計の針は十二時半を指している。
 水を飲みながら窓に目を向ける。カーテンを開けて外を見ると快晴で、雲一つ無い青空が広がっていた。


****


「お父さんもだけど、朱里ちゃんと紗由理ちゃんも心配してたわよ」
 熱々のお粥を冷ましながら食べていると、ベッドの近くに座った由美がそう言った。
 確かにそうだ。三日間も眠っていたのだから、母親以外の人にも心配をかけるのは当然だろう。
 実南は幻覚の中で幼馴染二人とは顔を合わせていた為、全く会っていなかった感覚が無かったのだ。
 充電が満タンになった携帯を開いてみると、幼馴染からは勿論、何人かの友人から体調を心配する連絡が入っていた。
「二人とも放課後お見舞いに来てくれたのよ。目が覚めたって連絡してあげなさい」
 由美が言うには、学校には熱で寝込んでいると伝えたが、朱里と紗由理には「何故かずっと目が覚めない」という真実を伝えていたそうだ。
 仲の良さや長年の付き合いを加味した判断だろう。