雲の泡沫




 それからも彼らは色々な話をした。
 グラースは実南のことをもっとよく知ることが出来た。
 彼女は陸上部という部活に所属していて、走るのが得意ということとか、空を見ることの他に、体を動かすことが好きなこととか。他にも二人の友だちのことだったり、休日の過ごし方だったりを聞いた。

 月や星の光しかない薄暗い世界だったが、舟の上で語り合う彼らには丁度良かった。
 まるで自分たちしかいないように感じられる空間で、お互いのことを知り、絆を深める。

 頭の中には、この先の浄化に対する危機感や緊張感もしっかりある。
 けれど、感情がそれに伴う訳では無い。
 この時間の永遠を願うのは、仕方の無いことだろう。


****


 しかしそう上手くいかないのが、人生というもの。
 楽しく話していた二人だったが、突然グラースが喋るのを止め眉間に皺を刻む。
 ただならぬ空気感に実南も口を閉ざした。
「瘴気が漂って来たみたい。ここからはあんまり話さない方が良いかな」
 夜空が広がっている為、黒っぽい紫色のモヤは見えにくかった。しかし星の瞬きがぼやけているとこを見れば、周囲に瘴気が漂っていることは明白だろう。
 実南も彼の言葉に頷く。ここからはあまり息を吸わないようにしよう。

 瘴気の中でも舟は進み続ける。
 先程の雲海都市で目にしたものよりも、確実に濃く禍々しい瘴気が広がっている。
 気を抜けば周りの雲の精どころか、同じ舟に乗っているグラースのことも見失ってしまいそうだ。けれどそうならないのは、舟を動かすときにかけられた精霊の力による、薄い光の膜に覆われているからだろう。だが未だ北に位置する雲海都市は見えない。


****


 話さなくなってからどれくらい経っただろう。
 実南とグラースの間に会話は無いが、その代わり雲の精たちがざわざわと何かを話しているのが聞こえる。
 どんな話をしているのか、耳をすましてよく聞こうと思ったその瞬間。彼女の耳に体を劈くような長い咆哮が聞こえた。それも一つでは無い。いくつもの鳴き声が何度も何度も耳に入る。
 地を揺らすほどの迫力に、舟が揺れたような気がした。実南の体には一気に鳥肌が立ち、圧倒的な気配に思わず後ろに倒れそうになった。背中側に水の欠片が入った木箱が無ければ、そのまま頭を舟に打ち付けていただろう。

 陽龍の姿は見えないが、すぐそばにいることは分かる。
 互いの姿も声も認識出来ないが、雲の精たちは慣れたように舟を各々動かしていた。編成を組んでいるようにも見える。
 グラースも同じだった。舟を思いのまま動かし、他の舟と一定の距離を取る。
 実南は陽龍の位置も、何隻もの舟がどういった配置になっているかも分からなかったが、そろそろ新たな動きがあるということだけは身を以て感じた。
 恐怖からか。彼女の体は強張り緊張し続けていた。

「そのまま聞いて。実南はここまでね。今から現実世界に戻すから」
「えっ!」
 驚きのあまりつい大きく息を吸ってしまう。
 その瞬間、喉が焼けるような感覚に襲われた。まるで喉に鋭いナイフの刃が突き刺さったようだ。
「カハッ……! げほっげほっ!!」
 苦しい。息が上手く吸えない。吸おうとしても、入ってくるのは苦く痛い瘴気のみ。
 あまりの苦しさに、蹲って咳き込むことしか出来なかった。実南の目には薄く生理的な涙が浮かび、汗も止まらない。
 その痛々しい姿にグラースもつい顔を歪める。
「ごめん。ごめんね。思ったよりも状況が悪いみたい。本当はもっと安全なところで、ちゃんとお別れしたかった……。こんなところまで連れて来てごめん」
 申し訳なさそうに、彼女の背中をさすりながらグラースは言う。
 出会ったときよりも随分と表情が変化するようになった。
 つらい状態にも関わらず、そんなことを実南は考える。咳は止まらないままだ。
「本当にごめん……っ! 今戻すからね」
 悲痛な表情を浮かべ、謝り続ける彼の姿に胸が痛くなる。
 このままお別れなんて嫌だ。けれど彼女の体はつらくなるばかり。喋ることは許されなかった。

 実南の背中を撫でつつ、現実世界をイメージするグラース。
 次第に彼女の体が白い光に包まれる。
「楽しかったよ実南。雲を好きだと言ってくれてありがとう。……元気でね」
「まっ……!」
 瞼が重い。水面都市から戻るときも同じ感覚だった。
 ダメだ。今自分だけ戻るなんて出来ない。けれど感情と体は比例しない。
(何も、伝えられていないのに……)
 完全に光に包まれた実南は、そのまま意識を失った。
 最後に見たのは、禍々しい瘴気の中黒い龍が何頭も暴れまわっているのを背景に、グラースが穏やかに笑っている姿だった————。